第五十二章(前) 昭和三年(1928年)晩秋 米国 場所知れず
まるで戦艦の主砲から発射された不発弾のように、浅野は派手に飛沫を上げながら着水し、そのまま、まっすぐ黒い海のなかに沈降していった。ごぼごぼと音がし、まわりが泡だらけとなり、なにも見えなくなった。やがて、そっと水底に足がつき、浅野の靴底に踏まれた柔らかな泥が、水に溶け出しながら白い膜のようになって湧き上がった。
底から見上げると、月の光を受け、水面の様子がわずかに窺える。ゆらゆらと揺れる世界のなかで、ところどころに浮かぶ黒い塊が、鈍い動きで向きを変え、沖のほうへと向かって漂い出した。飛び込むときに思い切り息を吸い込んでいた浅野は、もうしばらく、このまま身を潜め、それら水面のゾンビ共をいったんやり過ごそうと考えた。
横須賀時代に、まがりなりにも水練に励んでいたことが、この異国の不気味な港の水底で活きることになるとは、全く思ってもみないことであった。浅野は、濱谷の顔を思い浮かべ、その屈託のない笑顔に感謝した。
インスマウスの港の水温は、冬が近いにも関わらず、さほど冷たくはない。その代り、その水は淀み、どことなく身に重くまとわりついてくるような粘性があった。いずれにせよ、ここは、地上の人間が長く居るべき場所ではない。
水中で息を止めおそらく1分近く。やがて、水上を移動する影が見えなくなり、浅野は頃合いとみて、手で水を掻き密かに移動を始めた。そのまま、斜めに岸辺の方向へと移動し、先ほどの港湾区域から離れた桟橋のほうへ向かおうと思ったのである。
だが、その考えは甘かった。
突如、左足の先に強い抵抗を感じた。泥土に嵌まり込んだかと思い、懸命に力を入れて蹴り出したが、その抵抗は今度は足首にかかり、ぬるりとした感触を残して、その廻りにまとわりついてきた。さらに右の太腿付近になにかが触れ、またぬるりとまとわりついて、浅野を締め上げようとした。
水底にも、ゾンビが潜んでいたのだ。彼らの眼が見えているのかはわからないが、どこかの感覚器官で、浅野の存在を察知したのであろう。その動きは緩慢だったが、水底ではそれ以上に動きの鈍い浅野は、なかなかそこから逃げ切れなかった。重い粘り気のある水の抵抗を受けながら、浅野は必死に脚を動かして、その、まとわりついてくる藻のようなゾンビの腕を引き剥がそうとした。
上方と違い、水底では視界がなく、しかも巻き上がる泥やあぶくのせいで廻りはなにも見えない。まるで夢の中に出てきた芳一の窖のなかと同じである。浅野は、真暗な港の底を、芳一同様に盲状態でもがき、のたうち、苦悶しながらただ這い廻った。その時は十万年でも続かのように思えた。
やがてみぞおちのあたりに痛みを生じ、さらに気道が圧迫されて息が苦しくなってきた。ぶくり、と鼻のあたりから大きなあぶくが立ち、脳髄の後ろのほうからじんわりと麻痺が始まった。
もはや、我慢は限界であった。浅野は必死で藻掻き、身を捩り、激しく腰を回転させて水中をのたうち廻った。身体じゅうに残る力を総動員し、脚を蹴り出し、水面へ水面へと向かった。上方の月のあかりのほうに近づいたように思ったが、激しいあぶくと真黒な海の水のせいではっきりとはわからない。
もうすぐ力が尽き、浅野の身体は水死寸前の仮死状態となって動きを止め、そのまま水底に引っ張り込まれていくことであろう。そしてゆっくりと、静かな凱歌を上げた生命なき屍体に引き摺られ、沖合の岩礁の底に棲むダゴンのもとへと捧げられるのだ。
それは・・・死だが、同時に新しく始まる生でもあった。生命なき、水底の泥人形のような第二の生。そのまま千年でも、萬年でも。ただダゴンやエスターの意のままに動く、機械仕掛けの傀儡としての生涯だ。永遠に続く、痛覚なき苦痛だ。まるで、芳一が数十年ものあいだ、味わい続けたような。
いや、芳一には少なくとも、無限の苦痛があった。痛みを感じ続けていたということは、彼は生きていたということだ。これからの浅野には、それすら無いのだ。責め苦から解放された芳一は、笑みを浮かべながら、感謝して眠りについた。だがこれからの浅野は・・・。
眠ることすら、できないではないか!
そのことに気づき、停止しかけた浅野の脳髄にまた激しく血流が流れ、彼は一層激しく身を捩った。いきなりであったため、はずみで彼を縛めていたゾンビの締め付けが外れ、浅野の身体はふわりと水中で少し浮かんだようになった。はっとして、渾身の力を込めて水を掻き、水を蹴った。
やがて、顔にヌルリとまとわりついていた水が無くなり、インスマウスの月が目の前に現れた。浅野は、激しく鯨のように飛沫を噴きあげ、そのまま水上へと躍り出た。水底のゾンビはどうやら追跡を諦めたようである。波間を上下に激しく揺られながら、浅野は岸辺にチラと目をやった。だらだら流れ落ちてくる海水に邪魔されはっきりしないが、遠くに立ちつくし、こちらを睨みつけるエスターの影を、彼は確かに見た。
嫌悪と怒りが猛然と湧いてきて、全身に力が満ちた。浅野はそのまま、まっすぐ水面をクロールしてエスターから遠ざかり、そのまま、大きな砂嘴に抱かれた港の奥へと進んでいった。横須賀での日々からすでに幾星霜、浅野の身も心も老いて、技量も錆びついてはいるが、そこで習い鍛えた泳法は、いまだその身体の芯にしっかりと染み付いていた。
浅野は、敏活な泳ぎでインスマウスの丸い港の奥に向かっていった。遠目にも幾つかの古い桟橋が伸び、そこに寄せる船もないまま半壊し朽ちているのが見えた。あそこに辿り着けば、ごちゃごちゃと海に突き出た柱や鉄骨などの影に紛れながら陸地へ揚がることができそうだ。そのあとは、体力の続く限り走り、丘を登り、向こう側へと逃げて、この死の港から遁れ出るのだ!
浅野はさらに前途に希望を得て、より一層力強く、黒く重い水を掻き、蹴った。徐々にではあるが、確実に彼の身体は前へと進み、かなたに見える湾奥の桟橋群が、わずかに近づいたように見えた。だがやがて、前への推進力がそのまま効かず、どこか横合いに傾いで、浅野の身体は沖合のほうへ引っ張られているように感じ始めてきた。その眼にみえぬ力は勢いを増し、いまや、桟橋群の残像は視界の左のはしに消え、浅野の身体は半回転して、沖合にその黒々とした姿を横たえる、悪魔の岩礁の影が、眼のなかに飛び込んできた。
黒い海は、いまやひとつの生きものと化し、その底流のほうから浅野の身体を、表面の水ごと押して、沖へ沖へと流そうとしていた。懸命に水を掻いていた浅野は、やがて気づいた。この引き潮はおそらく、昏い海の深淵に潜むなにものかが、ゆっくりと泳いでこちらへ向かい、そのあおりで水が引かれて生じた俄な海流なのである。そして、やがてその主が、姿を現した。
浅野のほんの20メートルかそこら。突如、海面に水飛沫があがり、ついで黒い突起のようなものが下から突き立った。それはまず水面遥か高くに聳えたが、やがてその先端が柔らかく曲がり、あたりの様子を探るようにくねり出した。続いて数本の同じような巨大な触手があちこちから突き出してきて、浅野の周囲は、それらのものに包囲されてしまう格好になった。
宕だ!
浅野の全身を、恐怖が突き抜けた。もしそれが、始めて見る光景だったら!彼は戦慄のあまりに硬直し、泳ぐことを止め、そのままその触手に絡め取られて、海の底へと引き摺りこまれていったことであろう。しかし、浅野はすでに、二度もこの悍ましい怪物の姿を見ていた。
いちどは、スイス山中の湖のかなたで。もう一度は、壠を越えて全面侵攻してきた、あの恐ろしい、厚東四郎の見た夢の中で。
すでに三度目であった。浅野は、それが次に動く方向や、動き方を、ほぼそのまま正確に予測することができた。彼の身体は、自然に対応し、次々と振り下ろされてくる触手の動きを躱し、機敏に身を捩りながら泳いで、なんとかこの死の罠から遁れ出ることに成功した。あたり一面に次々と水柱がたち、空高く舞い上がった飛沫が、細かく砕けてあたり一面を白い泡で覆い尽くし、さすがの宕も瞬間、視界を喪ったようであった。
浅野は、逃げた。浅野は、逃げた。
必死で水を掻き、足で黒い海の壁を蹴り、全身を魚類のようにくねらせ、ただ前へ前へと進んだ。かなたに離れていた湾奥の桟橋群が、じょじょに近くなった。
全身の、残されたすべての力を使い果たして、浅野はやっと桟橋の一本に取り付いた。浪に洗われた古い丸木の一本に腕を掛け、我が身をそれにつけて、一息ついた。懐かしい陸地の香りが、鼻腔をくすぐった。
浅野は、すぐ桟橋ぞいに泳ぎ、海水が尽き、脇へ木の階段がつけられたところで、よろよろと上に上がった。
そこで、頭上高く、なにかが彼を待ち受けていることを知った。
それは、突然、びゅうと空を切って浅野のすぐ近くで桟橋に鉄槌を打ち込み、前世紀に組まれたと思われる古い木の桟橋が一瞬で破断し、数知れぬ木屑とささくれだった材木と古釘とが、宙に飛び散った。浅野は、なんとか顔を腕で覆ってそれを避けたが、傾いた桟橋の上で平衡を失い、慌ててなにかにしがみついた。桟橋は、今や地震に揺られるように垂直に傾き、浅野の身体はふわりと宙高くに持ち上げられた。ダゴンの触手による第二撃が、こんどは水平に打ちつけられ、浅野のすぐ真下で命中し、彼の身体は空中に投げ出された。
幸運だったのは、落ちたのがちょうど波打際の砂浜だったことだ。じっとりと浪に濡れた黒い砂が、落下した衝撃を緩和してくれた。じょりじょりとした感触を頬に感じ、浅野は、たまたま眼のまえに居た白い小さな蟹が怒って、不釣り合いなほど大きな鉗脚を振り上げるのを見た。彼は立ち上がり、足を取られながらも懸命に起き上がって、なんどか転びながら、そこを離れようとした。
浅野は、這うように砂浜を逃れ、丸石で舗装されている街路にとりついて、ここを疾走った。走っているのか、それとも四つ足で芳一のように這っているのか、まるでわからなかった。背後を振り返る余裕もなく、ダゴンが迫ってきているのかもわからなかった。ただ逃げながら、浅野は、この数語のみを、胸のうちで繰り返し念じていた。
俺は、逃げる。俺は・・・生きる。
そして、おれは。
家に、帰る!
命からがら桟橋を遁れた浅野は、闇に落ちた街路をこけつまろびつ、急峻な上り坂につけられた歪な狭い階段を駆け登った。階段は、斜面沿いに立てられた古い屋敷や廃屋の間をうねうねとくねりながら上へ上へと伸び、不揃いな建物群の廻りをぐるぐると巻き、あるところでは二股に別れ、行き止まり、戻るとまた行き止まり、しかしどこかで必ず先に続いて浅野を闇の奥へ、奥へと差し招いた。
力の続く限り駆け続けてはや数分、ようやく息の切れてきた浅野が、はあはあと大きな息をつきながら両膝に手を当てて立ち止まると、かなたに、ひとつだけぽつねんと明かりが点いているのに気づいた。よく見ると、少し傾いたように見える、斜面に貼り付くようにして建っている廃屋の二階の窓から、ほのかな明かりが漏れているのだ。
さらにその建物の前には、かすかだがうっすらとした街灯までが点いている様子であった。すでに電力源を喪失している筈のこの港街で、どのようにして光源となるエネルギーを供給しているのか不思議であったが、ともかくも浅野は、その明かりの方角へ向け、よろめきながら進んだ。
他のすべてが闇に落ちている中、近づくとその窓の明かりはとても大きく、明るく見えた。明滅を繰り返している街灯ごしに表札を確認したが、もうずいぶんと前のものらしく、何も読み取れない。仕方なしに浅野は、脇につけられた小階段を登り、街路から少し高いところに設けられた扉をノックした。
返事はない。浅野は、背後を気にしながら何回かノックした。それでも返事がないので、扉を押してみると、それはギイと音を立てて、そのまま内側に開いた。中に見えるのは、ひたすら闇。しかし外光が少し入ったことで、すぐに眼が慣れてきた。
目の前には、ひとつだけ二階に上がる階段が設えられていた。驚いたことに、屋内であるにも関わらず重厚で時代がかった煉瓦作りである。煉瓦は剥き出して、階段のどの段にも、なんの敷物も滑り止めも置かれていない。浅野は、扉を後ろ手に閉め、手でさぐって簡易な閂があったので、それを掛けてから上に上がった。
二階に上がると、すぐにまたドアがあり、なかに人の気配がした。誰がいるのかわからなかったが、内側から漏れてくる暖かみのある空気と光が、しばらく海底の妖魔や地獄の屍者としか接しておらぬ浅野にとっては、ひどく懐かしく思えた。不思議なことに警戒心はまったく起こらず、浅野はまたそのドアを叩いて、返事も待たずに内側へ開けた。
中は、質素な居室になっていた。前世紀の半ば頃のような暖炉に火が入り、その前で金属製の容器が掛けられ、白い湯気を立てていた。ほのかな暖気が水に濡れた浅野の全身を温め、炎のゆらめきがベージュ色の壁紙に茶色い影を落とし、ときに少し揺れた。
その温もりのある部屋の奥で、ひとりの男が背の高い椅子に座り、机に向かってなにか一心不乱に書きものをしていた。都会の人間が使うようなペンや万年筆ではなく、水鳥の羽根をあしらった、それこそ前世紀の遺物のような筆が動いているのが、彼の背中越しに見える。浅野が入ってきても、しばらく彼は気づいた風も見せなかったが、ひとつ咳払いをしてみせると、はっと気が付き、こちらを向いた。
背が高く、痩身で細面。その顔はとても長く、眼の色は薄青色、肌はとても・・・そのときの浅野の受けた印象のままに言えば、生っ白かった。自室の中なのにも関わらず、黒づくめの正装をし、北米東海岸の知的上流紳士といったたたずまいではあったが、どことなく病の取り憑きやすそうな脆弱さも感じさせた。
彼は、眼をまるくし、この突然の闖入者に驚いた様子ではあったが、大声は上げなかったし、特に怒りもしなかった。ただ、少し口を開けたまま、
「あなたは・・・?」
と静かに聞いた。
「突然、申し訳ありません。ノックは、したのだが・・・聞こえなかったようだ。」
浅野は言った。
すると白皙の男は、ふっと笑みをこぼし、答えた。
「ああ、そうでしたか。それは私が悪いのです。書きはじめると、つい熱中してしまって・・・なにも聞こえなくなってしまうのですよ。」
「本当に、申し訳ない。お仕事の邪魔をしてしまって。ただ、私は外で襲われ、逃げていたのです。助けを求めているのですよ。」
「助けを?こんな夜中に、しかもこのような、誰も居ない街で?」
男は不思議そうに聞いた。そして、浅野の全身を見回すと、こう言った。
「まあ、訳はゆっくりお聞きしましょう。まずは、服をお脱ぎなさい。全身、びしょ濡れですよ。」
浅野は、言われて気がついた。つい数分前まで、自分は港で海水にたっぷり漬かっていたのだった。着衣はすべて濡れ、ドアからこの部屋の床まで、ぽとぽとと雫が落ち、そこらじゅうを濡らしていた。
「どうも、すいません。慌てておりまして。」
浅野は詫びたが、男はまったく怒らず、鷹揚に手を振って、部屋の左側を指さした。
「あちらにバスルームがあります。タオルと、簡単な着替えがありますから、遠慮なく使ってください。それでは、風邪を引いてしまいますよ。」
数分後、浅野が男の好意に甘えて身体を拭き、着替えて部屋に戻ってみると、男はテーブルを部屋の中央に移し、そこに椅子を二脚据え付け、温かい珈琲を沸かして浅野に渡してくれた。
「さて。落ち着かれたようだから。」
男は言った。
「ご事情を、お伺いしましょう。私は、ハワードです。ハワード・フィリップス・ラブクラフト。」
そう言って、手を差し伸べてきた。
浅野は唖然として、なかば反射的に手を出し、ラブクラフトの手を握った。
「私は、浅野和三郎。日本からの旅行者です。」
「なんと!日本から・・・それはまた遠くからお出でですな。アジア系の方だから、中国系の移民かと思っていましたよ。英語もお上手ですし。」
ラブクラフトは、興味津々といった風で言った。
「ラブクラフトさん・・・。」
「フィル、で結構です。仲間内では、そう呼ばれています。」
ラブクラフトは、即座に言った。柔らかな笑顔である。
「それでは、フィル・・・私のことは、サブとでもお呼びください。そして、びっくりなさるかもしれないが、私は、すでに貴方のことを知っている。」
ラブクラフトは、浅野を見つめたまま、黙った。そして、何事か考えているようだったが、特に驚きもせずに聞いた。
「それはまた、どうして?」
「あなたの本を、読んだことがある。」
浅野は言った。しかし、その次の言葉を呑み込んだ。まさか、くだらない、読むに耐えない代物だ、などと説教できるような状況ではない。
ラブクラフトは、今度はおおいに驚いた。そして、言った。
「この私の本を?私はまだ一冊も自分名義の本を出していませんよ・・・それとも、雑誌で短編を読まれたのかな?『イカれた小話集』などで?」
「ああ、そのとおりです。『ウィアード・テールス』の1927年の合併号の冒頭。」
「『|ファラオとともに幽閉されて《Imprisoned with the Pharaohs》』!」
ラブクラフトは笑いながら、そのタイトルを口にする浅野と同時に声を揃えた。
そして笑い、続けて言った。
「あれは・・・私が書いたんじゃありません。フーディニ名義になっていたでしょう?だからあれは、彼が書いたんですよ。私じゃありません。」
「しかし、フーディニには代筆家が居た。私は知っているのです。」
「どうも・・・弱ったな。」
ラブクラフトは、すっかり打ち解けた様子で、頭をかいた。
「いろいろとこの業界の裏の事情をご存知のようで。それでは、私の立場ではますますそのことを認めるわけにはいかないことも、ご理解いただけるでしょう?」
「ええ・・・そうですね。それにたぶん貴方は、もし名前が出せるということになっても、あの作品に関してはご自分の名前を出したくない。そうではありませんか?」
浅野は、ずばりと言った。
ラブクラフトは驚き、ちょっと眼を瞠って、かろうじてこう答えた。
「ご明察です・・・あれは、私が書きたくて書いたものではないから。内容も粗々とではあるが、彼に指示されたアイデアに、適当に肉づけしただけのものだから。」
浅野は、たたみかけてこう言った。
「文章を読めばわかる。貴方は、実力のある真の小説家だ。だから本来、あなたの書きたいものを書くべきだ。だが現実には、そうできていない。」
ラブクラフトは俯き、淋しそうに笑った。そして言った。
「エスターですね?エスター・ロスが、貴方をここに連れて来たのですね?」
「そのとおりです。私は、先ほど彼女に襲われた。いや、彼女ではない。彼女を装った、なにか人間以外の恐ろしいものに。そして海の底に引き摺り込まれようとした。私は、彼女から必死に逃げてきたのです!」
浅野が勢い込んでそう言うと、ラブクラフトはふっと頭を上げた。
そして言った。
「それで、どうしてほしいのです?この僕に。」
「助けてほしい!私は、なぜ彼女に追われるのか、まったく理由がわからない・・私はずっと彼女に、いや、彼女を装ったなにかわけのわからないものに、追われ続けているのです!」
浅野は、煮え切らない相手の態度に、だんだん苛々してきた。
しかしラブクラフトは、かすかに笑みを湛えながら、まるでこの噛み合わない会話を楽しむかのように、こう返してきた。
「なぜこの僕が、あなたを救えると思うのです?」
「彼女は、フィルに会わせると言って私をここまで連れてきた。だから、貴方なら、きっと私の助かる方法を知っている!訳が分からないのだ!なぜ私が狙われる?なぜ私が・・・君らにずっと、つきまとわれる?」
浅野は、ついに怒りを爆発させた。
「私が、なにをした?ダゴンなど知らん!宕など知らん!私は、ただの心霊研究者だ。お前たちの教団のことなど、知ったことではない。私は、この港から出たいんだ!ボストンに戻りたいのだ!さあ、警察を呼んでくれ!どこかに電話があるだろう!私にその場所を教えたまえ・・・エスターは殺人鬼だ。君もその同類なのか?いい加減にしろ、このクソ野郎ども!」
「クソ野郎ども・・・先ほど、私の高雅な文章を褒めた貴方が、そのような品のない言葉を使ってはいけないでしょう?」
ラブクラフトは、浅野の無礼をたしなめるように、穏やかに諭した。
「そうではありませんか?貴方は、優れた英文学者なのでしょう?」
「やはり・・・君は、私のことを知っているな?エスターとグルなのか?」
浅野は、うめいた。
ラブクラフトは、浅野の絶望になどとんと無関心な様子で、先ほどの質問に対し、冷然とこう答えた。
「電話は通じていないし、ここには警察も、軍もいない。いるのはエスターとその仲間たち。そして、貴方と私だけだ。」
「ちくしょうめ!」
浅野は、憎しみを込めて言った。まだだ、まだ終わっていない。俺は、こいつら狂ったダゴン教徒どもの魔手を遁れて、必ず国の家族のもとに還る!
ラブクラフトは、浅野の怒りに対しては全く何の反応も示さず、まるで関係のないことを言い出した。
「サブ。貴方は、セイラムという港のことを知っているかね?」
「知っているとも!忌まわしい魔女裁判のあった街だ。君たちアメリカの歴史の暗部であり、人類史の恥部だ!」
「なんとまあ・・・なんで、物事の昏い面ばかり強調するのかな?私が言っているのは、長年、外に開かれた貿易港としてのセイラムのことだよ。」
ラブクラフトは言った。そして、こう説明を加えた。
「セイラムは、建国前後まさにアメリカが世界に向けて開いた窓口のような港だった。ちょうど、あなたの国の長崎と同じだ。セイラムには、だから、世界のあちこちから、実にさまざまな文物が流入した。中にはいろいろ珍しいものがあってね。その多くは、地元出身の資産家の支援で買い取られ、現在でも博物館に収められているが、中には、その価値が正当に評価されず、二束三文で地元の好事家どもの手に渡ったようなものもあるのだ。」
そう言って、後ろの棚をがさごそ探り、太い頑丈そうな革袋を引張り出した。それは、長身のラブクラフトの胸の高さまである長いゴルフバッグだったが、中にはクラブやアイアンではなく、代わりに雑多なものがごちゃごちゃ束ねられ、乱雑に括られているのが見えた。
そしてラブクラフトは、そのひとつひとつを指差しながら、自慢げに説明し出した。
「この丸めてあるものは、中国の高価な織物だ。これは、シャムかどこかの王族のドレスの見本。これは・・・あ、中東の宝剣だな。あとこちらは日本の・・・。」
「そんなことは、どうでもいい!君はいったい、なんの話をしているんだ!」
浅野は、大喝した。
ラブクラフトは、吃驚したようにその革袋を放り出した。長い袋はそのまま倒れ、かたわらのベッドの脇に寄りかかって止まった。
「いや、貴方の今生の思い出に、故国の文物などをお見せしておきたくてね・・・だが不要だと言うのなら、まあいいだろう。」
浅野は立ち上がり、こう言って部屋を去ろうとした。
「外部に連絡できないというのなら、もうここに居る必要はない!私は去らせてもらう。濡れた衣類は、どうぞ好きに処分してくれ給え。君にお借りした衣類はこのまま着ていくが、もし必要ならボストンのライム街10番地まで、あとで請求書を寄越してくれ給え!」
「ライム街10番地・・・あの、淫売女の住所だな。」
ラブクラフトは、冷静な口調のまま、聞くに堪えない酷い言葉を言った。
「あんなところに、貴方を帰すわけにはいかない。貴方は、ここに留まらなければならない。」
「なんだって?」
浅野は、なおも怒りを覚えながら言ったが、家主を無視して部屋を出ていこうとした。だが、ラブクラフトはその長い腕を伸ばして、その場でなにか印を切るような仕草をした。
すると、浅野の脚が止まり、いくら進もうとしても、その場を一歩も動けなくなった。まるで足裏全体が、靴ごと床に接着されてしまったようである。上体も動かないので、靴を脱ぐことすらできず、浅野にできることは、ただ頸を廻してラブクラフトのほうを振り返ることだけだった。
「こんなことは、したくないんだがね。」
彼は、仕方なさそうに言った。
「貴方の、諦めが悪すぎる・・・生きるための執念が、強すぎるんだ。だが、ダゴンは、そういう人間こそを、もっとも欲しがるのだ。我々にとって、悩みの種だよ、毎度のこと。」
「なにを言っているのだ・・・君も、やはり奴らなのか?」
「奴ら、とは何だね?」
ラブクラフトは、浅野の愚問を嘲笑った。
「地獄の扉を開きたければ、ときに自分も鬼になるしかなくてね。貴方に恨みはない。悪く思わないでほしい。だが・・・。」
「だが、なんだ!」
浅野が、泣きそうになりながら声を振り絞った。
ラブクラフトは俯き、自分は見ないようにして、窓の外のほうを指さした。
「そこまで、ダゴンが来ているのでね。」
浅野は、その指の先にあるものを見た。窓の外いちめんに、ぬらぬらと濡れた言いようのない膚色が拡がり、赤く輝く眼球が、ぎろりと浅野を見つめていた。その口らしき裂け目が開き、あちこちから涎のようなものが流れ、喉の奥が見えた。
身体を縛めていた重力のようなものが突然なくなり、浅野は、そのはずみで傍らのベッドの上に投げ出された。意識が薄れ、遠くなり、そして・・・目の前がすうっと暗くなっていった。




