第五十一章 安貞二年(1228年)秋 長門国西端
壮絶な戦闘と大量死の夜が明け、四郎と狩音は、この凄惨な妖気漂う阿弥陀寺の境内をあとにした。芳一の遺骸は、その遺言どおり、愛用していた琵琶に撥とともに穴を掘って埋めたが、屍鬼と化し、そしてまたただの屍体へと還った幾百もの民草らを葬ることまではできず、止む無くその場に放置せねばならなかった。
屍臭があたりにただよい、妖気がたちこめ、烏が啼き、蝿が山となってぶんぶん嫌な羽音を立てた。やがてそこに、日中であるにもかかわらず犬や、犲までもがやってきて、人間の死屍をついばむ者たちの列に加わった。おそらく、死屍は数日を経ずして骨だけになり、そのあと、ゆっくりと時間をかけて土へと還っていくことであろう。
芳一いわく、すべて今回の陰謀の裏には、霜降城の父、厚東武光が関わっていたらしい。そう考えると、現在は既に長府のあたりまで進軍しているという父の軍は、その場を封鎖してしばらく様子を見ていることであろう。が、おそらくなにが起こったのかを訝しみ、やがて勇敢な物見などを派し、そしてこの恐るべき事態を知ることになるであろう。
お主の所為だ。
お主の所為で、彼らはみな死んだのだ!
いや、死してなお蘇らせられ、そして、前以上に無慙な、二度目の死までをも強いられたのだ!女も、子供も、あの場に救いを求めて集ってきた全ての者が。
大した国主だな!お主の慄れと、お主の小心、そしてそれ故の残忍さが、かかる事態を惹起せしめたのじゃ・・・あとで、あとで報いを知れや!
四郎は、東の方に向け、そう叫びたい衝動にかられた。宕と結び、過剰に宕を慄れた父は、我が子を自ら粢島へと赴く贄とすることを決め、あちこちに無用な根回しをし、最後にはこのような悲劇を引き起こした。宕を討ち取ったあと、儂は、自らの父と対峙し、もしかすると面と向かって剣を振るい、これを討ち取らなければならぬかもしれぬ。
だがそこに至るまで、四郎の行く手には、まだまだ多くの障壁が峻険な連山のごとくに連なり、彼が到着するのを手ぐすね引いて待っている。しかし、大臣という憑物が落ちて我に返った芳一から、その死の間際、宕に関わるすべての秘密を聞き、この陰謀のすべてを知った四郎の歩みに、今やまったく迷いは無かった。
行く、討つ。
また行く、そして討つ。
その繰り返しである。討つべきもののもとへ近づき、意表を衝いて喉笛に刃を突きつけ、そして討つ。なすべきことは、ただそれだけのことだ。自分がこれから行く先には、おそらくは最大の強敵、宕が潜んでいるが、今の儂は、腰に亡き幼帝から託された神剣を帯びている。この剣さえあれば、どんな敵でも討ち取れる。現にいま、既に死んだ屍者たちですら、続々と討ち取ったではないか。
だから、宕も討ち取れる。
宕を殺し、古の素盞嗚命のように、儂は生き残る。
四郎は強く、そう思った。
そして・・・かすかに微笑みながら、傍らを歩く、愛する女の小さな身体を見遣った。
狩音がおる。儂には狩音がおる。多々良の間者で、儂の守り神。戦えば素早く勇猛果敢で、敵に対しては容赦がない。そして、常に異変をいち早く察知する鋭敏な勘と嗅覚とを持ち、咄嗟の機転で童女の声音を使うような知恵者でもある。
そして、この儂にだけは、どこまでも心を開き、どこまでも付いて来てくれる。儂が守り、儂が信じなければならぬ、いまや唯一の同志。そして、愛する女。
長門国西端付近の、人っ子ひとり居ない田舎道を歩いていくこの二人のちっぽけな連合軍は、いまや意気軒昂。行く手に立ちふさがる宕を恐れる気配など微塵もなく、声を合わせて周防の農村で歌われている謡など唄いながら、まるで物見遊山にでも出かける最中の若い夫婦者のように見えた。
狩音のはしゃぎぶりは意外なほどで、唄い、軽く足を踏んで踊りながら歩き、そしてしばしば、山風や小田村光兼や、そして先ほどまで死力を尽くして戦った相手の大臣の物真似などまでして、四郎を笑わせた。
もちろんそれは、これから命を賭して宕と勝負しに行く四郎の気を散じさせるためである。そして、阿弥陀寺で目の当たりにした、あまりに多くの理不尽な死の記憶を、どこか遠いところに追いやりたいからこその、御巫山戯でもある。四郎には、狩音のその気持が、痛いほどにわかっていた。
そして狩音にとっては、もうすぐやって来る、避け得ない別れの瞬間のことを、今だけはなるべく考えないようにしておくための、ただひとつの方法でもあるのだ。
二人はそうやって数刻ほど歩き続け、やがて、遠く沖合に粢島の孤影を望む峠に達した。
粢島は、見下ろす青い海原のなかに、いきなり、にょっきりと突き立つ屏風のような岩の集まりだった。浪に洗われ、長年かけて削られてできた景観ではない。それは、まるで天から神が取り落として、そのまま海底にぐさりと突き刺さったような平たい一枚岩が数枚、複雑に向かい合ってそそり立っているだけなのである。
周囲には、ぐるりと濃い色の海流が渦を巻き、周囲の海面とは際立った違いをなしていた。峠から見下ろすと、それは、まるでなにかこの世界から他所の世界へと向かう際に通らねばならぬ関門のようにも見える。
海風が渡り、数羽の鴎が鋭い翼を拡げ、それに乗って島の廻りをぐるぐると滑空していた。
粢島とは、海に露頂した単一の土塊を指すのではなく、正確には数枚に別れた薄い岩盤同士の総称である。それらは互いに向かい合い、内側に小さな細い内海を抱え込むようにくっつき合っている。内海は、この峠からはそのほんの端っこがわずかに視認できるだけで、内側がどうなっているのかまでは、想像もできない。現地に行ったこともない漁夫の無責任な噂では、そこは外海とは打って変わったように静かな、鏡のような水面が広がっているという。
だが、別の誰かは、全く逆のことを語る。すなわち、外海から狭い水路に汐が奔流のように流れ込み、速度が倍加して数倍もの激流となる。ここを通過する船は、その汐の流れにうまく乗ると、まるで弓につがえた矢のようにびゅうと放たれ、その勢いに乗って遠く唐天竺まで、数日を経ずして運ばれてゆくというのだ。
なにが本当で、なにが嘘なのか、誰も知らない。
だが、そんなことは、そこに行けばわかる。それが四郎の抱く、ただひとつの考えだ。問題はそんなことよりも、まず眼下に見える、あの外海の激流をどうやって乗り切るかである。
伊輪の集落で囚えた首なし武者どもの数名は、幽霊に化けた色目人であった。彼らは、もとは国外からやって来た特殊な技能を持つ船乗りで、粢島の対岸に設けられた秘密の船溜まりから、巧みに渡し船を操って島へと渡る。精錬した鉱石や、稀には後ろ手に縛った粢の人間を載せて、漕ぎ寄せて行くのだ。
ということは、彼らを尋問すれば、あるいは脅して連行すれば、島には渡れる。だが、伊輪の集落の皆は、捕えた彼らの即時処刑を欲していた。宕に祟られ、宕や水底の亡霊に戦慄を覚え続けていた彼らにとって、それが詐術であったことを後から知ったことは、二重の屈辱である。そして、日々見慣れぬ彼ら色目人どもの彫りの深い異国の貌を見ることは、これまでの呪われた歴史と、恥辱の記憶を、そのたびごとに思い起こさせることになる。
恥ずべき過去と決別し、新しい部落を創るため、蛇丸もそうすることを強く望んだ。伊輪と、平家の落人部落の差配一切を彼に任せたばかりの四郎が、もはや容喙できることではない。よって、四郎はそれを黙認することにした。その代り、蛇丸が、知っている限りのことを四郎に教えた。
粢島対岸の隠し泊の位置。そこにおそらく、今でも数艘の渡し船が置かれていること。色目人たちが操る特殊な櫂のこと。その操作方法。そして、島の廻りを巡る激流のだいたいの流路と、それを通り抜ける順路のこと。
櫂の操作と、外海の通り抜け方法は、蛇丸が色目人たちの船を漕ぐさまを遠目に見ながら覚えたことを、具体性を欠く曖昧な言葉で説明したに過ぎない。だが、蛇丸は曖昧なことを身体感覚で伝える名人であり、繰り返しの擬音による表現や、身振り手振りでその動作や作業の本質だけを四郎に伝えた。
四郎もそれで、なんとなくわかった気になった。下手に言葉で伝えられるより、そこには多くの知恵が込められているに違いない。
とりあえず、島に渡るための準備は、この程度で充分だ。あとは、なぜか海を怖れ、海を嫌うこの長門一等の剛勇無双が、己の内心の恐怖心を克服することができるかどうかだけが、渡海の成否を占う要素となる。
いま、高い峠から大海原を見下ろして、四郎はあらためて確信した。あそこが、以前、夢にも見た宕の居場所だ。かつて夢に出てきた、はるかに広がる灰色の大地こそ無いが、その裏側で天高く突き出していた岩稜や絶壁、あの姿はまさしく、いま眼下に見下ろしているあの島の遠景に、そっくりだから。
たぶん、あの衝立のような岩のなかに抱え込まれた内海のどこかに、宕の潜む場所がある。それは、確か水底に縛められていると芳一は言ったが、おそらく、限られた領域のなかだけは、その身体を移動させることが可能なのであろう。何らかの理由でそこから外へは出られないが、思念波を飛ばし、その邪念が入り込む余地のある人間の心の隙間に紛れ込み、これを思うがままに操るのであろう。
ということは、海に浮かんでそのままあてどもなく流されて行く夢とか、そのどん詰まりで宕と向き合う夢などを見た自分も、宕の思念波を受け、それに誘導されているとも思えるが・・・しかしそれはおそらく、最上の餌である自分をおびき寄せるために、宕が幾つか打った手のなかのひとつなのであろう。
「おそらく、島には渡れる。問題は、そのあとだ。」
四郎は粢島の姿を見下ろしながら、そうひとりごちた。前に立つ狩音が振り返り、ちらと、四郎のほうを見た。
蛇丸の言うとおりの位置に、隠し泊があった。
そこは、粢島に向かってそそり立っている赤茶けた岩の絶壁の下方に空いた洞穴で、入口は入り組んだ入江になっており、洞穴の中の様子は、外からは一切見ることができない。しかも、洞穴はそのまま、内陸に入り込んだ丘の麓へと伸びており、遥か周防や且山、伊輪のあたりから通じた間道と直接接続していた。
つまり、蛇丸らがこっそり山中から運んできた荷駄は、全く郷の人目に触れることなく、そのまま隠し泊の洞穴に通じる仕組みになっているのである。この秘密の交易路が、長い間、人目につかず密やかに稼働していた理由を、四郎はいまやっと理解することができた。
泊は無人で、数艘あると言われた舟は大半が遺棄され、半ば毀たれていた。一艘だけ航走可能なものがあり、その脇には、独自の形をした異国の櫂が転がされていた。木の片側を平たく削った通常の櫂ではなく、それよりも遥かに長い。そして、その両側に平たい部分があり、中央に握りやすくするよう窪みがふたつ付けられていた。
これは、明らかにその中央を両手で持ち、舟の両舷をくるくると廻して交互に漕艇する仕組みの櫂である。それを操るのに問題は無さそうであった。なぜなら海の嫌いな四郎は、そもそもが、片側で漕ぐだけの扶桑国の櫂に慣れていない。この異国の長い竿のような櫂は、見ればすぐと操作の仕方が想像できるものであった。だから、かつて習い知ったやり方に固執することなく、新しい櫂を使うことができる。あとは、波静かなこちら岸のあたりをしばらく遊弋して、それに慣れれば、なんとか島まで渡っていけそうであった。
また、遺された舟そのものが独特の形状をしていた。それは舟というよりも、水面を進む細長い槍のような形をしている。一本の丸木を刳貫いた細長い艇体で、それだけならばこの国の何処にもあるが、その舟は、湾曲した横木でもう一本のさらに細い丸木に接続され、双胴の形態となっている。漕者は、その片側、刳貫きのあるほうの木に身を没し、そこで両翼のある櫂を廻すのだ。
なにからなにまでが、異形であった。
そろそろ陽が没する頃合いであり、空気がひんやり冷えてきた。狩音は、隠し泊の洞穴の陰で小さな火を熾し、泊の穏やかな水路のうえで櫂に慣れようと必死に練習する四郎の姿を照らした。
四郎は、双胴の艇体にゆらゆら揺られながら、一生懸命に櫂で空を切りつつ、その廻し方を会得した。たしかに、細く鋭いその艇首と相まって、これなら速度が出せそうである。また、無駄に喫水が深くないので、たとえ激流が打ち寄せて来ても、この艇はその浪のうえに載り、これをいなすように乗り越えて、そのまますいすいと前進することができそうだ。
しかしそのためには、櫂を水に漬け、漕ぐ回数をとにかく多くしなければならない。両翼構造のこの櫂は、そうした用途に特化したものであることを、四郎は自らの身体を使いながら、無言のうちに会得していった。そのためには、片側だけの櫂を使うよりも遥かに力と耐久力が要る。漕ぐことに不慣れとはいえ、抜群の膂力を持つ自らの肉体は、おそらくこの艇を操るのには、大いに適している。そう思った。
四郎は、練習の上首尾に満足し、水面から焚火のもとに座る狩音を見上げた。
しかし彼女は、泣いていた。
瞳が潤み、涙が二本の白い輝跡となって頬を流れ落ちていた。小さな肩を震わせ、なにか寒さを覚えているかのように腕を抱え込んで、しゃくりあげていた。四郎はいったん地上に揚がり、櫂を置いて狩音の横に座った。
大きな掌で狩音の背中を押さえ、もう片方の手の指で頭を撫ぜ、額の生え際のあたりを、そっとなぞった。狩音は泣き止まなかった。
「おぬしは、ここまでだ。」
それでも四郎は、言った。言わねばならなかった。
「ここまでだ。ここから先には、儂一人で進む。必ず島には渡れるが故、心配は要らぬ。そして、この神剣あらば、宕とて手もなく討ち取れるであろう。」
そう言って、狩音の後ろの岩壁に立てかけてある、美麗な蝶模様の入った太刀袋を指さした。
「だから・・・案ずるな。儂はまた、必ず還って参る。夜明けまでにはな。それまで、しばしここで待て。」
そしてまた小さな頭を撫ぜ、こう続けた。
「もし還らぬ場合・・・朝までに戻らぬ場合は、いちはやくここを引き払い、間道伝いに伊輪へ参れ。そしてもし、厚東の軍が御裳裾方向へ進軍を開始したら、それと入れ違いに霜降まで疾走り、我が母を救い出してくれ。」
うつむいて泣いていた狩音は、ここではじめて、顔を上げた。その潤んだ瞳を覗き込みながら、四郎はかき口説くように言った。
「山風が加勢してくれよう。なるべく救い出し、どこかへ連れて逃げてくれ。だが、それが叶わぬ場合・・・見捨てても構わぬ。そちだけは、どんなことがあっても必ず生き残るのだ。これが儂の遺言だ。さいごの頼みじゃ。」
掌で、狩音の頬を撫でた。
流れ落ちた涙が少し、四郎の膚を濡らした。
「それにしても・・・我が実の父が、陰謀の張本人であったとはな。」
四郎は、ため息をつきながら言った。
「心が離れているとはいえ、実の息子を贄に差し出すのじゃ。そして、その贄を宕にとってより美味なる餌とすべく、斯様な罠をあちこちに張って、この肉を引き締めたのじゃ。」
そう言って自分の尻をばしりと叩き、にっと笑った。
「おそらく、それで満足せば、宕はしばらく大人しくなり、さらなる贄を捧げる必要がなくなります・・・ほんの、しばらくの間でしょうが。父君は、そうお考えなのです。」
狩音が、まだわずかにしゃくり上げながら、なんとかそう言った。
「そうじゃのう。子の命よりも、国の民こそ大事じゃ・・・まこと、見上げた国主じゃ。これは皮肉ではないぞ。だが、儂はむざむざ餌とはならぬ。必ず面と向かって宕を討ち、その頸でも尾の先でも、たたっ斬って持ち帰って参るぞ。そしてそれを提げ、堂々と父のもとへ行く。そして・・・。」
「どうなさいます?」
狩音がふと顔を上げ、四郎を見た。
「お父君を問い詰め、ご自害させまするか?そんなことよりも、二人で周防へ逃げましょうぞ。いや、母上もお連れして三人で。多々良はきっと、厚東の王子を快く迎えまする。さすれば。」
「我らの間に成せし子が、近い将来、厚東を滅ぼしたあと長門を統治するのに使える。そういうことになろうの。」
四郎は、笑った。
「それも良いかも知れぬ・・・だが今はとにかく、宕を討つことじゃ。討たねば、多々良も厚東もない。人間の負けじゃ。」
言うと四郎は立ち上がり、沖合かなたに聳える粢島の絶壁を見遣り、その彼方の水平線に没しつつある太陽の赤い姿を眺めた。そして、狩音を振り返って、言った。
「さあ、汐が満ちてきた。そろそろ頃合いじゃ。」
狩音も立ち上がり、そのまま無言で干飯の入った袋を拾い、四郎に渡した。四郎はそれを懐中に入れ、また双胴の刳貫舟の穴に身を没した。狩音は上から両手で捧げ持った太刀袋を手渡し、こう言った。
「四郎様、お約束くださいまし。宕と向き合い、赤く輝くその眼とまっすぐ睨み合うことになっても。そして我が身が、どれほど儚く、小さく、虚しいものだと思い知ったとしても・・・それでも、あなた様は、前を向いて、戦わねばならぬのです。どのようなことになっても、戦うのです。戦い続けるのです。さすれば、あなた様は、恐怖に負けませぬ。」
四郎は太刀を受け取り、笑いながらこう答えた。
「わかった。約束する。儂は戦う。猪武者にふさわしく、ただ前を向き、宕と睨みあってこれと戦い、必ず討ち取る。そしてまた、必ずここに還って参る。狩音、これだけは伝えおくぞ。この世で、儂が心の底から信頼する味方は、ただの三人だけじゃ。母と、山風と・・・そして狩音じゃ。たとえ世界が滅び、儂が死に、宕が人を打ち負かす日がくるとしても、おぬしさえ生きておれば、儂は、それで良い。だが、決してそうはならぬ。なぜなら儂は、宕に勝って、ここに戻って来るからの。」
そう言って中央を掴んだ太刀袋をぶんと空中で振った。重さ、釣り合い、すべてが完璧だ。まるで自分のために誂えてあるかのように、振りやすく、勁い力のある剣だ。そう、今は水除けのために太刀袋と鞘を被せてあるが、宕の姿が遠目に見えたら、紐を解き、中身を出そう。ぎろりと月の光に輝き、それはそのまま、宕の赤い眼を射るであろう・・・そしてそのときこそ宕は、自らの長い、呪われた生涯の終わりを悟るに違いない。
最後に狩音は、櫂を渡してくれた。太刀袋を刳貫孔の底に収めた四郎は、それを両手で受け取り大きく息をつくと、水に漬けてひと漕ぎ大きく動かし、ぐいと艇体を前に進めながら、言った。
「さあ、行って参るぞ。」
狩音は、もう泣いていなかった。こくりと、その言葉に頷くと、右手を上げて別れを告げた。
四郎を載せた刳貫舟は、ぱしゃぱしゃと両側に水を跳ね飛ばしながら、月の手前に聳え立つ、粢島の黒い影へ向け漕ぎ出して行った。