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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第五十章(後)   昭和三年(1928年)晩秋   米国 場所知れず

月と星空のあかりに照らされたインスマウスの街路は、周囲の背の低い建物の屋根や破風の影をその上に映し出し、半分は闇となり、もう半分だけが蒼く輝いていた。


遠目に見下ろしている時には、ただごちゃごちゃと谷間の闇に蝟集(いしゅう)しているだけに見えた家々も、近づいてみると、その形や状態はまちまちであった。あるものはまだ原型をそのままとどめ、堂々と建っている。あるものは窓が割られ、ドアが半開きとなり、風に揺られてぶらぶらと揺れている。しかしそのほとんどは打ち(こぼ)たれ、大いに損壊していた。火を放たれて焼かれ、壁一面に黒い(すす)がついていたり、屋根ごと内側に落ち、それを組んでいた柱材だけが剥き出しになっていたりしている。そしてどの建物も、さほど古びてはいないのに、その中には人の居る気配が、全くなかった。




その焼け焦げ、荒れ果てた街の目抜き通りを、エスターのカラフルな黄色いシェヴィが、ゆっくりと進んでいく。


道はやがて広場に突きあたり、そこを起点に、いま来た道を含めて数本の街路が放射状に広がっていた。大きな時計台が夜空に向かって突き立っていたが、肝心の時計が落ちて、あとには丸い大穴が開いていた。その他、幾本かの尖塔が高く伸び、丸く煉瓦を積んで五階建ての物見台のように(そび)えていた石塔もあったが、半分崩されて、まえの街路一面にそれを構成していた煉瓦や漆喰のかけらが散乱していた。


そして円形の広場の向こう側には、マニューゼットという名の川が静かに流れ、その向こう岸はこちら以上の森閑(しんかん)たる闇のなかに落ちていた。シェヴィは静々とその流れに差し渡された石造りの橋を渡り、その闇の中に分け入って行った。しばらく進むと、通り過ぎた広場同様に円形となった大きな四つ辻があり、エスターは右折して、そのまま潮風の吹いてくる海のほうへ向け進んでいった。




「たしかに、ここの人たちは、よその人間どもとは、違っていたわ。」

エスターは、ハンドルを握りながら、言った。

「外形に、すこし特徴があったの。それを、インスマウス(づら)、などと言われて差別され、(わら)われたの。よそに行っても、ただ冷ややかに迫害されるだけだから、やがて住民は、この街から出ていくことはなくなったわ。」


「どんな特徴だったのだね?」

浅野は聞いた。

「つまり・・・癩病や結核などの重大な病気でなくとも、周囲の人間たちから差別される、なにか顕著な特徴があったのかね?たとえば、(はだ)の色が黒いとか、あるいは私のように赤銅色(しゃくどういろ)だとか。」

紐育で少しだけ見かけた、あの黒人のタクシー運転手の面影を思い返しながら、そう尋ねた。


「そうした、民族差別ではないの。」

エスターは答えた。

「それはむしろ、長年この地の住民たちが(はぐく)んできた、独自の豊かな文化や生活慣習に対する恐怖に近いわ。来たときに気づいたかもしれないけど、この街は、他とは絶壁や沼沢でほぼ完全に隔絶されている。陸地との行き来は、ごく数本の道路と、マニューゼットの水運だけ。だから、住民はおのずと孤立したの。同族同士で交わり、子を作ったから、すこし独自の外見をした子どもたちが生まれたの。そして・・・彼らは全体で、独自の宗教を持っていた。」


「宗教・・・それは、どんな。」

浅野は、なんとなく次に返ってくる答えを予想しながら、そう聞いた。


エスターは、前席から振り返り、浅野の眼をみつめて、答えた。

「それが、ダゴン秘密教団よ。」




浅野の背筋に、なにか冷たいものが走り、ふかふかとしたシェヴィのフェルト製のクッションが、身体を柔らかく(とら)えて、なかにゆっくりと沈みこませようとしているような錯覚が起きた。


その言葉だけではない。なにか、振り返ったエスターの表情に顕著な変化が起きていたのだ。あの美しい、ちんまりした小さな顔が、やや、その(かさ)を増したように見え、眼と眼のあいだが少しだけ離れているような気がした。そして、その顔には一切の表情がなかった。


それはもちろんまだ美しい女の顔なのだが、浅野はその顔にどこか、強烈な違和感を感じた。そもそもがこの顔は、さっきまでのエスターとは、なにかが、決定的に違う。


いつの間に、こんなことになったのだろうか?浅野は、全身が冷え切り、心臓のあたりが凍えたような気がした。彼は、やっとのことで言った。

「その・・・ダゴンとは、マージナリーを中心とした、ボストンの秘密結社だと君は言った。君が、そう言った。」


声が、震えていた。




振り返ってこちらを見ていたエスターは、にっこりと笑って、ふたたび前を向いた。そしてハンドルを握りながら、こう言った。

「ごめんなさい。」


「えっ?」

「ごめんなさい、サブ・・・あたし、あなたに嘘をついたの。ダゴン秘密教団を構成するメンバーの中には、ミナ・クランドンは入っていないわ。夫のル・ロイも、二人の日本人も。さっきあなたが、ライム街10番地で一緒だったすべての人たちは、ダゴンとは無関係よ。」


「ということは・・・もしや。」

「そのとおりよ。あたしが、ダゴンのメンバーなの・・・ここの出身者なのよ。ミスカトニックの教授だというのも、嘘。あたし、ただ貴方に近づきたかったの。」




四つ辻を曲がってから、ほんのわずか4区画ほど。シェヴィは、くろぐろと身を横たえる海を背景に、いくつか建つ石造りの倉庫や小屋、岸壁の(あと)などがひとまとまりになった港湾区画のあたりを進んでいた。やがて道は尽き、明かりの消えた建物に挟まれて、そのさきは緩やかなスロープになり、海のなかへと没していた。


エスターは、シェヴィをそのスロープのたもとで停めた。エンジンを切り、ヘッドライトを消して、ドアを開けて外へ出た。つられて、浅野も、後席から這うように抜け出した。斜めに降りるスロープの脇には、一艘の小舟がもやってあり、主のないままゆらゆらと波に揺られていた。しかし、()るものはそれだけ。あとはぴちゃぴちゃと、打ち寄せる波の音が小さく岸壁を叩く音だけである。




「本当に、(だま)して悪かったわ・・・サブ。わたし、あなたが好きなの。列車の中で出会ってから・・・いえ、正直に言うわね、あの出会いも偶然のものではないのだけれど・・・あの数時間をともに過ごして、わたし、すっかりあなたの人柄と、見識と、公平さと・・・そしてこれまでのあなたの破天荒な人生とに、すっかり魅せられてしまったの。このことだけは、なにがあろうと本当のことよ。」


エスターは、海を背景にしてすっくと立ち、浅野に向かってそう言った。浅野は、喉がからからに乾き、舌の根がひりひりと震えるような感じがしていたが、なんとか辛うじて、次の言葉をひねり出した。

「なにが、あろうと・・・だって?これから、何かが起こるということなのだね?」


「ええ、そうよ。察しのいい貴方なら、きっと想像できるわよね。廃墟となったこの港には、私と、フィルと、そして数十名の同志たちが()み着いているのよ。私とフィルは、様々な外部との交渉があるから、他所(よそ)と行ったりきたりだけれど。でも、残りの同志たちは、この港の中でひっそりと身を潜め、時が来るのを待っているの。」

「時が来る、だって?逆にここでは、時が永遠に止まってしまっているかのようだ。」


浅野は、エスターに噛み付くように言った。


先ほどから、全身の毛穴が総毛立ち、背筋に冷たいものが走っていたが、しかし同時に、自分の深奥からなにか烈々と発するものを感じていた。いま、この熱い塊のような力を、眼前にいる、この正体のわからない美しい女にぶつけてみなければならない。浅野は、心のなかで密かに戦闘態勢をとった。




「ここが、あなたの旅の終点よ。」

とつぜん、エスターが言った。


「地球を半周以上して、半年もの時をかけて、あなたはここにやって来た。すべて、私たちの計画通り。途中、いくつか寄り道したのは予想外だったけれど、あなたは、優れた人間特有の、実に驚嘆すべき知的好奇心と探究心を発揮して、最後には、きちんと私たちの敷いたレールへと戻ってきた。」


「君が何を言っているのか、私にはまるでわからない・・・。」

浅野は、少し苛立ちを感じながら、言った。


ふざけるな!


この欧州への回覧旅行は、長い人生航路のすえ、(つい)棲家(すみか)としてやっと心霊協会を設立した自分が、協会の未来をかけて、世界スピリチュアリスト大会に参加し日本の心霊研究の現在と未来をアピールするために企画した、あくまで自分の能動的な事業だ。


コナン・ドイルやアンドレ・リペールら世界の心霊研究者達との交流ルートを確立し、活きた(ヴィヴィッドな)情報を交換し合うことで、物質主義と合理主義の垢に(まみ)れた現代社会に一石を投じるためのものだ。


それはいずれ、「より大きいもの」の存在を人類が等しく認め合うことで互いの傲慢さを戒め、世界大戦(ワールド・ウォー)のような虐殺行為、文化破壊行為を止める為に、是非とも必要なものだ。自分が残りの人生をかけて取り組み、進め、後進に託すべき事業の、第一歩を示すためのものだ。


それをエスターは、すべて彼女たちが敷いたレールの上を走っただけという。浅野は、いわばこれまでの自分の半生を否定し、(わら)った彼女に対し、はじめて冷え冷えとした怒りを感じた。だから、こう言ってやった。


「まだ、私の旅は終わっていない。海峡に行け、というのが君らの要求だ。その海峡にすら、辿(たど)り着いていない。ここは、ただの港街じゃないか!そして、フィルにもまだ会っていない。嘘をつくのはいいが、君はまだ、私に対する約束を何ひとつ果たしていない。」




エスターは、とても悲しそうに笑った。嘲笑(わら)ったのではなく、まるで、むずかる子供をあやす母親のような、情けなさげでやるせない表情を浮かべ、ただ、困ってしまったように笑った。


「海峡に連れて行くことは、できないわ。」

彼女は言った。

「海峡は、だめよ。ここは、その終着駅からひとつ前の駅。あなたが来られるのは、ここまで。ここで下車しなくてはならないの。海峡は、すべてが始まり、そしてすべてが終わる場所。あなたが行くべき場所ではないのよ。」


「意味のわかるように、言ってくれ!」

浅野は、大きな声で要求した。そして、烈々とした感情のおもむくまま、さらにこう言った。


「フィルは、どこなんだね?あのフーディニの代筆家(ゴースト・ライター)は?彼は文筆家としては、たいへん優れている。書いているものは、実にくだらないけれど。私は、もと文筆家として、彼の文章力だけはひとこと褒めてやりたいと思っているんだ。彼はこの街に居るのだろう?だったら、いますぐに連れて来たまえ・・・褒めてやりたいんだ。そして、なにかもっと別のものを書くように(さと)してやりたいんだ。せめてそれからにしてくれ給え、君が、私の身に危害を加えるのは!」




「フィルには、会わせられないわ。おあいにくさまね。彼は、私たちにとって、とっても重要な人なの。あなたなんかより、ずっと・・・ずっと、ね。」

黒い海を背にしたエスターも、やや(とげ)を含んだ口調で応酬してきた。


「彼は、この街に居るわ。でも、ここには来ない。これから、あなたの最期を見届けるのは、このわたしと、そして・・・。」

「そして、何だね!」

浅野ははっきりと怒りを表に出し、叫んだ。




「かれらよ!」


笑みを含んだエスターは、そう言って、浅野の背後のほうに手をやった。ぎょっとして浅野が振り返ると、港湾区域の入口の、崩れかけた塀のあたりに、何人かの人影が固まっているのが見えた。


彼らは、物音ひとつ立てず、話し声もしない。いつからその場に居るのか、ただ立ちつくし、まるで動こうともしない・・・だが、かすかに動いていた。その場で立ちつくしたまま、まるで(ふる)えているかのように、その場で(かす)かに上下動しているのだ。月に照らされた彼らの影が、ゆらゆらとたゆたうように動くさまは、まるで海底に植わった藻類を思わせた。




そしてそれは、浅野にとっては、すでに見覚えのある光景である。

「スォンビ・・・いや、ゾンビか。」

思わずそう、口をついて出た。


「ご明察!あなた、本当に人間にしとくには勿体ないくらいに、勘がいいわ。見ただけでわかるのね。外見は、普通の人間と変わらない筈なのだけれど。そうよ、彼らはすでに死んでいるの。死んでしまった屍体なの。でもこの私の指示ひとつで、どのようにでも動く。彼らが、あそこに居るだけだと思う?」


そして、今度は別のほうの腕で、別の方角を指した。その腕の先に目をやると、そちらにも数名のゾンビ達がゆらゆら立ちつくしているのが見えた。さらに見ると、あっちにも、こっちにも・・・この港湾区域全体が、彼らのいわば、巣窟のようになっていたのである。浅野はいま、この死の罠のいちばん奥、すなわちスロープで繋がった海のへりに立ち、退路はすべて完全に彼ら屍鬼どもに絶たれてしまっているのだ。




浅野は思わず、自分の両の手を確かめた・・・しかし、そこにあの神剣など、あるわけがない!


絶望的な気分で、エスターのほうを見た。すると彼女は、いったん損ねた機嫌を直し、ふたたび、あの心から心配するような顔をして、言った。

「サブ・・・言ったでしょ?あたし、あなたが好きだって。その気持に嘘いつわりは無いわ。これから、あなたを海の底へとお連れしないといけないけれど、それはいわば、私の背負った宿命、(ごう)のようなものよ。確かに、あなたは死ぬ・・・この地上で、偏狭な人類の呼ぶところの、死ね。だけれどそれは、決して魂の消滅を意味しないわ。心霊主義者の貴方なら、きっとわかってくれるわよね?貴方は、別のすがたをして、生き続けるの。ずっと、ずっと、私と一緒。だから貴方は、死ぬのではないのよ・・・新世界(ニュー・ワールド)で、私と一緒に生き続けるのよ!」




浅野は、思った。不思議なことに、口に出す気はしなかった。だが、こう思った。自分は・・・自分は四郎と化して、ついさっきまで、ゾンビたちと、そして未来の私と、戦っていたのだ!


しかし浅野の手元に、神剣はない。あの木刀すら、ない。絶望的な状況だった。


浅野は、じりじりとエスターに近づき、彼女を追い越して、スロープのへりに立った。そして再度、心の底からの絶望に打ちひしがれた。


よく見ると、ちゃぷちゃぷと打ち寄せる波音のなか、黒い海の表面に、幾つか(いわ)のようなものが浮いていた。それは海の色以上に真黒く、表面をびっしりと藻類や苔類で覆われていて、まるで大きな船を港に係止しておく際に(つな)いでおく浮きのように、波間をぷかぷかと上下していた。


だが、それはひとつではなかった。ひとつ、ふたつ、みっつ・・・いや、十個以上の、数えきれないほどのまん丸い(いわ)が、ぷかぷかと浮いている。そして、表面を覆った黒い藻のあいだから、ときおり人間の眼が開いて、(ぼう)っと浅野とエスターのほうを眺めていた。


ゾンビ共は、海をも制圧し、浅野の行く手を絶っているのだ!




エスターは、にこりと笑って、浅野に言った。

「最期のさいごまで、よく頑張るわね・・・でもこちらだって、準備は万端よ。あなたが好きだし、あなたを認めても、いるけれど・・・でも、所詮、あなたはただの人間よ。(あきら)めなさいな。」


浅野は、海を背にして立ちつくし、口に出してエスターに言った。

「なるほど。水底(みなそこ)に引きずりこまれて、そして私は、永遠に生き続けるのだね・・・だがせめて、その理由が知りたいものだね。私は、そのダゴンとやらの生贄(いけにえ)に捧げられるということなのかね?」


「おおむね正解。だけど、ちょっと違うわ。たしかに貴方はこれから、ダゴンの餌になる。あの、悪魔の岩礁のたもとに・・・。」

ここでちょっと言葉を切って、黒い大海原のかなた、港を抱え込むように伸びた長い砂嘴(さし)の向こう側に(あご)をしゃくった。


「あの岩礁に連れて行かれるの。そして・・・むしゃむしゃと喰われるわ。でも安心して!貴方は、決して滅んだりしない。そのあと、永遠に生き続けるの。私と一緒にね!」




不思議なことに、恐怖は感じなかった。


それはおそらく、既にダゴンの影をスイスの湖で見かけていたからでもあったし、何度も夢のなかで、ゾンビたちの姿を見飽きるほど見たからでもあった。ダゴンはまだだが、その有力な手下と、群がり来るゾンビ達は、四郎と化して残らず討ち果たしもした。


だから、その光景は、まったくはじめてのものではなかった。




しかし今が、絶望的な状況であることには変わりない。浅野の脳裏に、これまでの人生が、走馬灯のように現れては、消えた。故郷の利根川のこと、横須賀のこと、妻のこと、子供のこと、家族のこと・・・。


大本に出会い、弾圧を受け、さまざまな人との出会いと訣別を強いられた。そして、この旅に出かけた。そういえば、大陸に揚がった大連では、現地に居る息子と一緒に、旅順港の様子を見に行ったな・・・見渡すかぎりの不毛な黒い大地の上に、まるで嵌め絵のように美しく、港が輝いていた。それを眺めながら、息子と一緒に心の底から笑い、はしゃぎ、そして・・・そういえば、この話をしたイヴァンは、今でも元気でいるだろうか?


浅野の想念は、あっちこっちに行っては、消えた。そして、ゆっくりと覚悟を決めた。カール・ユングに言われたではないか。私は、決して一人ではない。そして、前を向いて戦わなければならない。いま自分は、この世のものでない異形の者どもに取り囲まれ、どことも知れぬ不気味な街の波止場に追い込まれてしまっているけれど。


しかし、しかし・・・決して逃げはしない。


そう浅野は思った。これまでの辛い人生、それが何のために()ったのか、私はまだ証明しなければならないのだ。だから・・・だから。




ここで突然、全く意外な人物の顔が、彼の脳裏の全面を占めた。


濱谷久次郎。あの、横須賀海軍機関学校で彼の教え子だった濱谷の、真黒に日焼けした若い頃の顔である。


若き濱谷は、遠泳が大の得意だった。当時30歳くらいで、まだまだ元気だった浅野もときどき生徒たちに混じって海を泳いだのだが、ある時、とつぜん脚がつって彼らから落伍し、海水をしこたま呑み込んで声を上げることもできず、そのまま溺れそうになったことがあった。


海には細かな波が立ち、誰も浅野の落伍に気づいていない様子だった。力の強い冷たい布団のような海水の力に抗しきれず、思うように動けない浅野は、ぷかぷか上下動しながら、波にのまれてそのまま、ぐいと海底に引き摺り込まれた。


我ながら不注意だった。まだ若いという油断と思い上がりで、来てはならないところに来てしまった。そして、そのまま海の藻屑となるのに違いない。浅野が(あらが)うことを止め、そのまま静かに海に身を任せてしまおうとしたそのとき、ぐいと上から引っ張られて、浅野は海面に無理やり浮上させられた。


まるで鯨のように大量の海水を吐き出した浅野は、伴走していた小艇に引き揚げられ、九死に一生を得た。そのとき、浅野の落伍に気づき、いちはやく大声で警告したのが、濱谷だった。彼は、いまでは昔の面影などまるでない、異国の金持ちの邸宅に仕える一介の雇われ使用人になってしまっているが、実は浅野にとっての命の恩人なのである。




いま、再び訪れた生命の危機に、突然現れた若き濱谷の顔は、浅野に、あることを思い出させた。浅野はその事件のあと、遠泳についていくことは諦めたものの、泳ぎの達人である濱谷と一緒に過ごすことが多くなった。放課後、機関学校の敷地内に設けられていた小さな波止場のスロープから、海に向かって駆け、そのまま跳んで遠くに飛び込む、という他愛もない競技を、二人して飽きずに繰り返したものである。


濱谷は、この競技においても名人級だった。彼は常に、飛翔距離において浅野を圧倒した。そのこつを、出来の悪い教官に彼はこう教えた。

「踏み込んで、上に飛ぶんですよ・・・前にではなく。そして、空中で脚を掻くようにして距離を稼ぐんです。そうすれば、人体は自然な放物線を描いて、けっきょく一番遠くに飛び込むことができます・・・スロープの傾斜も利用してね。」

得意げにそう言って、屈託なく笑った。なかから真っ白い歯が見えた。




あの純粋で、無垢だった横須賀の日々。そういえばその頃、よく走水神社に行って、家族で弁当を開いてピクニックをしたっけ・・・楽しくて、幸せだったな、あの頃は。


浅野の想念は、またあらぬ方向に振れた。そして最後に出てきたのは、そのピクニックのときに、幼い男の三兄弟がはしゃぎあう姿を眺めて、そっと幸せそうに笑う、妻の姿だった。




「そろそろ、お覚悟はできて?」

エスターが、少し低い声で聞いてきた。

「なにごとか、しきりにお考えのようだけれど。なにか良からぬ企みでは、ないわよね?この状況では、なにかしようたって、結局は無駄よ。」


浅野は、それに同意した。

「そのようだね。どうやら私に、逃げ場はないようだ。」

「聞き分けがよくて、素晴らしいわ。私たちも決して、手荒な真似はしない。さあ、私についてきて。私たち、永遠に一緒よ。」




エスターが近づいてきて、浅野の手を握り、もう片方の腕で、そっと背中を押さえた。


・・・ぞっとするほど、冷たい手だった。




エスターは、そのまま静かに浅野の背を押し、スロープに向かって、数歩進んだ。だが浅野は、強引にその歩みを止め、エスターの腕を振りほどいて、静かにこう言った。


「永遠に一緒だ、などと、いま君から素敵なデートの誘いをいただいたが。」

彼は、まだ覚悟できていないのかと言いたげに、そっとため息をつくエスターに向かって、言った。

「あいにく、いま脳裏に妻の顔が出てきてね。私の、このむちゃくちゃな人生に、常に寄り添ってくれた最愛の妻だ。いまさら浮気するわけにはいかない。」




「いい加減にせよ、たかが地上の人間ずれが!」


遂に怒りが頂点に達したエスターが、これまでと全く違った、闇の中に引きずりこむような恐ろしい声で、そう叫んだ。そのあと、まったく意味のわからぬ不気味な言葉でなにごとかぶつぶつと呟き、手であちこちのゾンビ群に合図して、浅野の捕獲を命じた。ゆっくりと、敷地のあちこちに群れているゾンビたちが、進撃を始めた。


海の中にぷかぷか浮いているだけだった丸い頭の数々も、徐々にスロープに近づき始めた。屍鬼の群れは、エスターの号令一下、いま四方から包囲網を縮め、浅野を(から)め取ろうと遂に動き始めたのだ。




ゆっくりと、彼らは近づいてきた。海中からは、岸に達した第一陣が、ゆっくりと水中から半身を現し、小さな泡を立てながら岸辺に上陸してきた。何体かはコンクリートのスロープの突端に取りつき、その傾斜をそのまま這って、上に上がろうとしている。


浅野は、待った。彼らが近づいてくるのを。近くで、エスターが・・・いや、エスターだった何者かが、彼を燃えるような憎しみの眼で(にら)んでいた。浅野は構わず、脳裏に浮かんだ、厚東四郎が夢の中で言ったこの言葉を反芻していた。




「様子のわからぬ堅き城は、まずは搦手(からめて)から寄せてみるのが吉じゃ。確かに危険はあろう。」


そう、四郎は狩音に言った。彼らが長府の国府を出て、伊輪の部落に向かう前のやり取りである。四郎は、常に相手の思惑の裏を行く行動を取り、直接、その急所を()くやり方で主導権を取ってきた。


いま、この現実世界に現れ()でた亡者どもは、四方から迫り、包囲網を縮めている。この状況を突破するには、エスターから車のキイを奪ってシェヴィのエンジンをかけ、ゾンビどもの群れを車の衝力で突破するのが唯一の解だが、あちらは既にその可能性を完全に織り込んでいるようだ。全く、隙はない。


ならば・・・ならば・・・その搦手だ。その裏を行くのだ。四郎、我に教えよ!いま我が、取るべき道はなにか?どうすれば、相手の意表が衝ける?どうすれば、この苦境を脱することができる?


「四郎、我に教えよ!」

浅野は、つい口に出して言った。かたわらで彼を睨んでいたエスターが、眉を上げて(いぶか)しんだ。




四郎の顔は、脳裏に浮かんでこなかった。その代り、またあの若い、真黒に日焼けした濱谷の笑顔が浮かんできた。彼は、その後の人生の有為転変など全く予期もせずに、ただひたすらに笑って、白い歯を見せている。


・・・彼は、なぜ笑うんだ?

なぜああも、楽しそうなんだ?得意げなんだ?


なぜだ?なぜだ?




浅野は考えた・・・そして、明確に思い出した。


次に取るべき手を。この死地から抜け出るための、ただひとつの解を。




エスターが()れて、浅野の腕をまた掴んだ。おそろしい力だった。彼方から寄せてくるゾンビの動きが、あまりに遅くて我慢ができなかったらしい。彼女は、そのまま浅野の手を引き、なかば引き摺るようにしてスロープのたもとに立たせた。


「さあ、ここだ!」

彼女だったものは、今や、まったく違う声で浅野に命じた。

「ここで、運命を待て。いま奴らが、おまえを海底に連れて行ってくれる。」


エスターのいう彼らとは、いま海中からスロープの下に取りつき、そのまま這うように登りかけている数体のゾンビのことだった。




すっかり心を決めた浅野は、にっこり笑ってエスターを眺め、こう言った。

「翼がなければ、空は飛べない。」


意外な言葉に戸惑ったエスターが、眉根を寄せてその意味を考え、しばらく動きを止めると、浅野はさらにこう続けた。

「翼がないから、空は飛べない。空を飛べなきゃ、この場からは逃れられない・・・だから私は、わたしは・・・。」


もう一回、にっこり笑ってこう言った。

「・・・こうやって、跳ぶ!」




言うや、やにわにエスターを突き飛ばし、スロープのほうへ駆けて数歩大きく踏み込み、夜闇に向かって上空高く、跳んだ。


すでに上陸した、数体の藻だらけの真黒なゾンビが、慌てて浅野を空中で捕まえようと腕を伸ばそうとしたが、その動きは遅かった。高く跳んだ浅野の身体は、そのまま数回、空中で脚を掻いてから、まだ海中に居る数多くのゾンビたちの丸い頭を飛び越して、かなたの海原に大きな飛沫を立てた。

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