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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第五十章(前)   昭和三年(1928年)晩秋   米国 場所知れず

かなたで、ピイイ、という音が鳴り響いていた。




どこかで聞いた、懐かしい音。(みぎわ)にたたずみ、打ち寄せる(なみ)のかなたに、大海原のかなたに、そして、過ぎ去った時を超え、過去に居たはずの人たちの耳にも届けよとばかり、わが親友(とも)が一心不乱に吹き鳴らしていた、あの石笛の音。


甲高く耳障りなのに、それを聞くとなぜか心が安らぐ。そして不安におののく気持ちの(ひだ)が、やさしく、ただそっと押し包まれる。まるで母親の胎内に抱かれて、頭の先まで羊水に浸かりもぞもぞと動いていた胎児の頃を思わせるような、心の底からの安堵に包まれる音。


そして浅野は、いま自分がその石笛の音を聞きながら、なにか柔らかいものの上に横たわっているのを感じた。下半身は斜めに折れ、その柔らかいものからはみ出して、下の深淵の奈落に落ち込んでいる。


そして大地が、かすかに揺れていた。自分はおそらく、どこか昏い深海の海溝のふちに腰掛けて、そのまま寝入っているのに違いない。そう思った。深く、どこまでも深く落ち込むその(くら)く細長い闇は、まるでそれ自体が海峡であるかのように眼下に広がり、今にも浅野を、足の先から呑み込もうとしている。


危機が迫っているのだが、なぜか浅野は心からの安らぎを感じている。なぜなら、あの音が鳴っているから。ずっと、ずっと、ただピーッと鳴り渡り、自分を庇護してくれているから・・・自分を押し包んで、外からやってくる、何か恐ろしいものから、いつまでも護ってくれているから。


だから、自分はまだゆっくりと、眠っていられる・・・その笛の音はやがて遠く、遠く、かすかに消えてゆき・・・。




とつじょ、ガタンという衝撃が走って、浅野は飛び起きた。


それまでゆったりと揺れていた大地に、稲妻が走ったかのような白い輝線が走り、(まぶた)が開き、周囲の様子が見えた。


そこは、自動車の中、後席の(うね)がついたフェルト張りのシートの上だった。隣にはだれも居らず、浅野一人である。そのまま、腰を折って横倒しになり寝入っていたのだ。なにか夢を見ていたと思うが、眼が覚めたばかりで、なにがなにやらわからない。




前のほうから、女の声がした。

「あら。起こしてしまったわね。そろそろ田舎道なの。舗装の状態が悪くて、ときどき凸凹(でこぼこ)があるわ。だから、もう起き上がっていただいたほうが好さそうね。」


女は前席の左側に座り、ハンドルを握って自動車を運転していた。こちらのほうを見ず、声だけでそう語った。美しい曲線を描く白いうなじが見え、その上から、アップに巻き上げられた淡い黒栗色の髪が覗いていた。そしてその声は上品に透き通り、口調には鈴を転がすような独特のリズムがあった。


エスター・ロスだった。




彼女は続けた。

「ちょっと前に拾い上げてから、ずっと眠ってらしたのよ。あの家で、なにがあったの?あなた、ひどい状態で、路上をフラフラと歩いていたわ。」

「エスター・・・。ここは、どこですか?」

「大丈夫よ!安心して。すでにボストンからずいぶんと離れたわ。いま、北のほうに向かっているの。そこにフィルが居るわ。」


「フィル?」

「あなたが会いたがっていた、フーディニの代筆家(ゴースト・ライター)よ。この先の街で、あなたが来るのを待っているわ。」

「あ、ああ・・・そのことは覚えている。でもなぜ、いま?」


「あなたは、何かわからぬ不気味な存在に、ずっとつきまとわれているのでしょう?」

エスターは、こちらのほうへ少し首を傾げながら、ずばりと言った。

「きょうの昼間にも、警告したわよね。でも貴方は聞き入れなかった。その結果が、これよ。」




浅野はとまどい、まだ半分寝ぼけ眼のまま、エスターにとんちんかんなことを言った。

「いま、寺のなかで、彼が・・・。」


思い出したのだ。石笛の音が鳴りわたるまえ、つい先ほどまで自らが見ていた夢のことを。阿弥陀寺の金堂で、芳一を(かた)大臣(おとど)と対峙した二人が、無数の生き返った屍体に襲われ、大立ち回りをした夢のことを。


そして、最後に意識の戻った芳一は、思念波を飛ばし、彼につきまとってきたすべての闇のことを語り、自らの行いを懺悔し、にっこりと笑いながら、四郎と狩音の前で、永遠にその苦しみから解放されたのだ。


しかし、エスターには通じていなかった。彼女は言った。

「サブ、あなた何を言っているの?連中になにか、妙なものでも()がされたの?」


彼女はスピードを落とし、半身を(よじ)って振り返り、その翡翠(ひすい)色の瞳で浅野のほうを見つめた。心から、心配そうな顔つきだった。




エスターは前席から、ポットに入れた温い紅茶を渡してくれた。浅野は後席から身を起こしてそれを受け取り、内蓋を茶碗にし、両手で捧げて飲んだ。身体が少し暖まってきた。


一息ついて周囲を見渡したが、車窓の外にはただ真暗な夜空が広がっており、外の様子はうかがい知ることができなかった。たまに手入れのされていない樹々や、だらりと垂れ下がった電線などが眼に飛び込んでくるが、それでわかることは、いま走っているのが、幹線道路から外れたどこかの田舎道であるということぐらいのものである。


浅野は、これまでのことを思い出し、そしていま起こっていることを理解しようと、後席でまずは黙って頭を巡らせた。




そうだ。


まず、阿弥陀寺での一連の凄まじい出来事は、いま、エスターのシェヴィの後席で寝入りながら、おそらく目覚める前、僅かのあいだに見ていた夢だ。夢にすぎないから、そこで起きていたことをエスターが知らないのは当たり前だ。


次に、エスターはいまこう言った。この自分が、ひどい状態で路上をふらふら歩いていたと。そしてこうも言った。奴らになにか嗅がされたのか、と。


奴ら・・・ああ、なるほど。


浅野は、思い出した。エスターは昼間、わざわざル・ロイの訪問先の病院までこのシェヴィを飛ばしてやって来て、浅野にさまざまな警告をした。それによると、ル・ロイやマージナリー、そしてクランドン家にて使われている二人の日本人、さらに降霊会に参加した上流人士のほぼすべてが、ダゴン秘密教団という邪宗徒だと言い、彼らは浅野に罠をかけ、(かどわ)かそうとしている、などと、よく意味のわからないことを言った。




待てよ。


ダゴン・・・どこかで聞いた。宕、そして「だごん」。そうだ、夢のなかで、事切れる寸前の芳一が、遥かな昔に星空から降り、その後仲間割れをして海底に封印された邪神を指して、「だごん」とはっきり発音した。もちろん、実際に口にしたわけではなく、思念波なる、夢の中ならではの不思議な精神感応(テレパシー)のようなものだけれど。そういえば、昨日の実験で、マージナリーも他の霊媒たちとともに、ウォルターを媒介としてそのような思念波めいたものを飛ばしていたっけ・・・。


とにかく、昼にエスターの言った「ダゴン」とは、夢のなかに出てきた「だごん」と同じだ。もしかするとこれは、現実の世界で耳にしたことを、浅野が無意識のうちに勝手に夢のなかに持ち込んで、あの奇妙な中世の旅に当て()めているだけなのだろうか?いや違う。浅野は思った。「ダゴン」「宕」「団子(だご)」そして「詑粉(だっこ)」。おそらくは同一の始源から派生した各種の言葉のうち、「ダゴン」以外はすべて、その名を耳にする以前より夢の中で出てきていた言葉である。だから、聞いたことをあとから夢に変換したということはない。むしろそれは、夢の中から、「ダゴン」という言葉になって、現実のなかに(あふ)れ出てきたとさえ言えるのである。


スイスの山中で接続された夢と現実は、大西洋を隔てたここ新大陸でも、相変わらず相互に、そして奇妙に繋がっているのであった。




「ここまで来れば、安全よ。」

前席から、エスターが言った。

「サブ・・・少しは、元気になったようね。さっき、ここはどこかと聞いたでしょ?教えるわ。ここはボストンの北、イプスィッチという港町のすぐ近くよ。先ほどセーラムの脇を通ったけど、そのまま通り過ぎたわ・・・前に話したでしょう?あの魔女裁判が行われていた場所よ。」


「なるほど・・・もちろんその話はよく覚えている。フィルが居る、と言ったね?ということは、この車は、彼が住んでいるというプロビデンスのほうに向かっているのですね?」

「さすがの記憶力ね。たしかに、彼はプロビデンスの人だけれど、いま向かっている先は違うの。まるで逆方向よ。そこは、私たちの、いわば隠れ家みたいなところね。」


「隠れ家?」

浅野は、(いぶか)しんだ。彼女たちはいったい、何から隠れないといけないのだろう?

「その・・・イプスィッチという港町に、貴女の隠れ家があるというのですか?」

「残念ながら、イプスィッチではないわ。あそこはかなり(ひら)けた大きな街で人も多く、彼らの監視の目も厳しいの。奴ら、いたる所で見張ってるわ。だから、その先の港に行くの。」


「その先、とは?」

「もう死んでしまった、無人の街。インスマウスというところよ。」

「インスマウス・・・なんだか、かなり古風な響きのする名前だ。」

「昔はセイラム同様、貿易で大いに栄えていたのだけれど。前世紀の半ばに伝染病で大きな被害が出て、そして昨年、前代未聞の大事件があって。今は誰も住まず、無人よ。でもフィルは、その誰もいない廃墟に、一人で隠れているの。」


「そこから、人がいなくなるほどの大事件、ですって・・・?」

浅野は、先ほど夢に見ていた、御裳裾(みもすそ)と阿弥陀寺の凄惨な風景を脳裏に思い浮かべながら聞いた。エスターは答えず、ただ前を向いてこう言った。


「もうすぐ着くわ。あの丘を越えれば、インスマウスの街が見える。なにがあったのか、見ればきっと、あなたにもわかるわ。」




やがて道はゆったりとした上り坂になり、シェヴィのスピードはやや落ちた。道はますます細く、舗装状態は悪くなり、しまいにはただのでこぼこ道になってしまった。タイヤががりがりと砂利を噛む音がし、ところどころ開いた穴に落ち込んで水を跳ね上げ、エンジンは息をついて、ぜえぜえと進んだ。


エスターが無言でハンドルを握り、この手強い坂道と格闘しているあいだ、温かい紅茶で我を取り戻した浅野は、ようやく、ここに来るまでの一連の出来事を思い出した。




実験室で、あのウォルターの心霊らしきものに、ただならぬ内容の警告をされ、浅野は緊張で身を固くし、闇の中でひそかに身構えた。


敵は、すぐそこまで来ている。浅野は、すでに彼らの手の中に落ちている。


ウォルターの言う通りだとすると、この闇の中の降霊会こそ、ダゴン秘密教団による秘儀そのものであると考えるのが妥当であろう。


彼らに包囲され、暗闇のなかで視界をうしなった浅野は、まったくもって格好の獲物というべきである。そして教団の領袖であると聞いたマージナリーと手を握り、その頭が、いままさに自分の肩に載っているという、この上もなく恐ろしい状況だ。浅野は逃げることができないし、身構えたといっても、ほんの少しだけ身を固くした程度のことである。まさに絶体絶命であった。




暗闇の中で、永遠とも思えるくらいの長い長い時間が経過したが、しかし意外なことに、実験ではその後、なにも起こらず終了した。


いや、眼前では、大いに異変が起こっていた。テーブルの上に垂らした熱い(ろう)のうえに、ウォルターが(おやゆび)で押捺し、自分の指紋を採取させるという大いなる秘跡が行われたばかりなのである。これは、心霊研究を進める上での画期的な成果というべきであったが、もちろん今の浅野にとっては、どうでもよいことであった。


実験の立会人たちに大きな土産を残し、そのまま別れの挨拶をして、ウォルターは冥界のかなたへ去った。そのあと部屋の明かりがつき、浅野の肩で入神状態になっていたミナがはっとして眼を覚ました。いきなり頭を跳ね上げ、そのまま、まずじっと浅野の顔を見つめた。彼女のもう片方の手を握っていた夫が、その状態をちらりと見て、軽く咳払いをした。


浅野はひとまず、心の底からほっとした。これまで数百回も行った降霊会で、それが終わって喜びを感じることなど、全く始めてのことである。明るい電灯の下、ハーヴァードのロジャース教授が、真剣なおももちで指紋を鑑定した。蝋の上に捺された指紋は、17年前、ウォルターが鉄道事故死した際、警察に取られた指紋と、まったく同じものであった。




実験内容が盛り沢山であったため、昨日より多くの時間を要し、その時点ですでに夜の10時ちかくになっていた。マージナリーがかなり消耗していたこともあって、実験はそのまま散会となった。大勢の客は互いに別れを告げながら、どやどやと帰って行った。


しかし、その後のことは、よく覚えていない。浅野もひどく疲れを覚えて、たしか早々に自室に引き揚げ、そのままベッドに横になった記憶は残っているが・・・。




しかし浅野は、またも思い出した。


笛だ。石笛の音だ。あの石笛の音が、どこからともなく響き渡ってきて、ベッドの中で枕に顔を埋める浅野の耳に届いてきたのだ。その音はすでに大いに馴染みのあるものであったため、却って最初は気づかなかった。しかし、故国から遠く離れたこのボストンの街路を、石笛の音が鳴り渡っている筈はない。


浅野は不思議に思い、とりあえず自らの懐中を探ってみた。そして、自分がお守り替りにしている、あの龍の頭の形をした石笛を取り出し枕元に置いてみた。しかしそれでもなお、外でずっと、笛の音は続いているのである。


誰があの音を鳴らしているのであろう?誰が、どのような石笛を吹いているのであろう?不思議に思い、浅野は厚手の綿入ガウンだけを引っ掛けて、ライム街の街路へと出てみたのだった。


赤煉瓦で統一されたライム街の建物の壁は、ずっと、ずっと、いつ果てるともなく続いていた。それらの上部は三角の破風になっており、ところどころに窓や煙突が出っ張って、空の月をめがけてなにかを語りかけているように見えた。


街路はまっすぐだった筈だが、しばらく進むと、もうそこが何処なのか、浅野にはわからなくなってしまった。


街路のあちこちに樹木が植えられ、まばらに街灯もついて、黄色い明かりが、煉瓦壁と舗装路のあちこちに濃密な影を形作っていた。そこは、全くもって故郷とは違う異国の街の姿である。浅野はひとり、その勝手のわからぬ異郷を、シャツに、ガウンだけをつっかけた姿でとぼとぼと歩いているのだ。


ピイイ、という石笛の音は、遠くのほうでなおも続いている。それは、浅野が歩いて近づいていくと、徐々に遠のいていくような気がする。なんだか、心の底から寂しくなって、浅野はただひたすら、その音を追った。


追って、追って、追って・・・幾本かの角を曲がり、幾つかの知らぬ街を通り過ぎて、そして目の前が闇となり、そのまま記憶が無くなってしまっていたのだ。




「サブ。やはりあなた、どこかおかしいわ。奴らに、きっとなにか盛られたに違いないわ。本当に、すんでのところで貴方を拾ったのね・・・よかったわ、本当によかった。」

前席からのエスターの声に、浅野はふたたび我に返った。


「さあ、着いたわ。正確にはちょっと手前、街の全景を見晴らせる丘の上だけれど。ちょっとした見ものよ。さあ、降りて、いっしょに外の空気を吸ってみましょうよ。」

エスターはそう言って車を停め、ドアを開いて外に出た。浅野もそのあとに続いた。




冷たい夜気と、海のほうから吹いてくる微風が(はだ)を打ち、あたりには潮の香りが満ちていた。そして眼下一面に、暗闇の大パノラマが広がっている。いや、正確には、闇に落ちた谷間の真黒なキャンバスの上に、ごちゃごちゃとした家々が立ち並び、それらの屋根が月や、無数の星々の光に照らされてあちこちに影を作り、無言のまま、ただきらきらと光を反射しているのだ。


びっしりと蝟集(いしゅう)した建物群の屋根の間からは、数本の尖塔や時計台が見えた。街の中央には大きな河が流れ、その流れだけはどこか(あお)く、鏡面のように街のさまをうっすらと逆さまに映している。そしてその河が流れ込む先には港が見え、幾つかの桟橋が突き出て、丸く突き出た大きな砂嘴(さし)が、港を抱え込むようにして丸い、ちいさな湾を形成していた。


平たい浜と、大きな船着き場が見え、こちらに近い南側は絶壁になっているようだった。港に、船影はほとんどなかった。いや、この港じたいに、まったく明かりが()いていなかった。建物群の屋根も僅かに月光や星の光にだけ反射し、谷間の河口域の闇のなかにひっそりと息を潜め、まるで街全体が灯火管制を敷いて、なにかからこっそり隠れているかのように思えた。




「さあ・・・私たちの隠れ家、インスマウスへ、ようこそ!」

エスターが、眼下のパノラマを両腕で指し示すかのようなポーズをとって、言った。

「ここなら、安全なの。なぜならここは、すでに死んだ街だから・・・だから、彼らもやって来ない。監視の眼もない。まさかこの廃墟に、私たちが居るだなんて、誰も考えないわ。」


浅野は、夜風に冷やされて頭が少し活発に回転してきた。

「まったく、人気(ひとけ)のない街だ。しかし、前世紀の疫病ですでに死んだ街だとあなたは言ったが、どうも、つい最近までは街として機能していたような匂いがする。」


「さすがのお見立てね。サブ。そのとおりよ。この街は、ずいぶんと衰えてはいたけれど、今年の初めまでは、まだ生きて活動していたの。数百の住民が住んで、豊富な海産物を()って、それをボストンや近隣の街に売って生活していたわ。」

「貿易港というより、漁港だったのだね?しかし、あの谷のへりのほうには、なにかの精錬所の跡みたいなものが見える。」

「金の採掘もしていたのよ。街一番の名士が仕切っていた精錬施設ね・・・彼は、なかなか人前に姿を表さないので有名な人だったけれど、あそこに確かに住んでいたわ。でも、もう居ない・・・みんな、居なくなったの。」


「みな居なくなったとは、よほどのことがあったのだね?河川の氾濫か、大津波か。いや、こうして家並(やなみ)を眺めてみると、特に大きな自然災害があったようには思えないが・・・もしかすると、また伝染病が流行ったとか?」

浅野がそう言うと、エスターは、きっとした顔で彼を軽く(にら)み、厳かな口調でこう言った。


「違うわ!もっと、もっとひどい話よ。この街はね、アメリカ合衆国に弾圧され、その忌まわしい軍隊に蹂躙(じゅうりん)されたの。住民はみんな逮捕され、拘束されて・・・生きているのか、死んでいるのか、いまでは誰も、行方すらわからないのよ。」




「なんだって!」

浅野の脳裏に、自らが当事者となった、あの大本への大弾圧の光景が蘇ってきた。

「そんな話は、聞いたことがない。合衆国政府が、そのような酷い人権侵害をするだなんて。」


「そうよね。あなたが知る筈ない。厳重な報道管制が敷かれて、国外にはまったく話が漏れなかったもの。もちろん地元の人間は知っていたけど・・・でも、同情する者は皆無。なぜならこのインスマウス自体が、廻りの街や村からの、鼻つまみものだったの。」

「なにか理由があってのことだったのかね?被差別民が暮らしていたとか、あるいは、癩病(らいびょう)患者たちが隔離されていたとか。」


エスターは、こんどは鼻で笑った。

「港や波止場や、あまたの教会や金の精錬施設まで備え付けの隔離施設って、この世にあるかしら?ここの住民が、他とちょっと違った特徴を備えていたという面は、たしかにあるわ。でもそれは、ほんのちょっとした違いだけだった。住民は、この裏寂(うらさび)れた港街で、彼らのルールに従って、日々おとなしく暮らしていただけなの。廻りに迷惑なんて駆けていなかったし、そもそも弾圧されるいわれなんてなかった。ましてや、街ごと滅ぼされてしまう理由なんて!」


「では、いったい、何が原因だったのだね?いやしくも国家機関が、そこまでの行動を取るのには、何らかの名分が必要だ。そして、必ずその前に、なんらかの予兆や、警告のようなものがある。」

浅野は、大本弾圧の経験を思い起こし、確信を持ってそう言い切った。


「そもそものきっかけは、昨年の夏に、ひとりの旅行者が、この街の住民を告発したこと。」

エスターは言った。

「まだ、たかだか20歳かそこらの、年端もいかないアーカム出身の若者よ。彼は、ちょっとした好奇心と怖いもの見たさでこの街を訪れ、なにかとても、怖い思いをしたようなのね。そして外の世界に(たす)けを求め、それが発火点になって、あの恐ろしい大弾圧に(つな)がったのだわ。」


「まさか!それだけで、そんな・・・。」

「その、まさかなのよ。この世は、狂っているわ。そんな気まぐれな告発ひとつで、ひとつの街が住民ごと殲滅(せんめつ)されたり、魔女狩りに()って無実の人びとが火炙(ひあぶ)りになったり・・・実はそんなこと、この世界では、日々当たり前のように起こっているのよ。」


エスターはそう言って腕組みし、遥か眼下の廃墟を見下ろした。海風がそよぎ、彼女の黒髪をそっと撫でて通り過ぎて行った。浅野はその横顔を、とても美しいと思った。




「さあ、そろそろ行きましょう。あの街の中に行けば、連中がどんなに酷いことをしたか、きっと、あなたにも判るわ。」


エスターは、黄色いシェヴィのドアを開け、なかへ乗り込んだ。

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