第四十九章 安貞二年(1228年)秋 長門国 阿弥陀寺
阿弥陀寺の境内には、そこらじゅうに死者の骸が崩折れ、灰色の小山のように盛り上がっており、ときにはふたつみっつが折り重なって、少し体積の大きな小丘のようになっていた。
無数に転がるそれらは、そよとも動かず、まるで数億年も昔からこの地表に転がっていた岩の塊であるかのように、無言のままただ西南の方向に長い影を落としている。すでに夜は更け、月もそろそろ沈む支度を始めているのだ。
彼方には、高床に廻廊を巡らした本堂の伽藍が見えた。それは、まるで肋骨だけになった迷い鯨のように、大屋根を支える柱がすべて剥き出しになっており、そのあいだを埋めていたはずの鎧戸は、いずれもみなふっ飛ばされ、二枚に折られ、あるいは傾いたまま柱に引っ掛かって大きな隙間を開けていた。
先ほどまでの壮絶な戦闘が嘘のように、あたりは静まり返り、本当に深海の底のように昏く、たぶん動くもののないまま、いつまでもこのままで在り続けるように思えた。
だが、そこではすでに、地表の骸をみるみるうちに朽ちさせてしまう、天地の無慈悲で活発な事後処理が始まっていた。ひとつひとつの骸に、早くも蝿どもが集りはじめ、この極上の餌を集団でついばみ始めた。死と腐敗の香りがあたりを覆い尽くし、血と臓物の匂いが境内一面にぷうんと立ちこめた。地面にはあちこち、死者の体内から流れ出た血や体液の痕が残り、骸に飽いた蝿どもの黒い塊がそこにまで尾を曳いて群がり、地に染み込む前に余さず舐め取ろうと忙しく前脚と頭を動かしていた。
あの流れ出る血の河のどこかに、死者の涙はいくらかでも含まれているだろうか。四郎は、狩音の肩を抱きながら立ちつくし、ふとそんなことを考えた。
先ほどまでの、文字通り百死零生の状況から命を拾い、まだ生きているという実感を確かめようと、しばらく互いの唇と肉体のぬくもりを貪り合っていた二人は、いま、眼前に広がる否応のない死の現実に直面して、言葉をうしない、ただ凝然と立ち尽くしていた。
四郎は、命を救ってくれた神剣をふたたび拾い、右手でしっかりと握り直した。そして、大臣の肩越しにこの剣の存在を指で指し示してくれた、あの角髪を結った童子の面影を思い返していた。
おそらく、あれは亡き安徳帝の亡霊だったのであろう。大臣は、安徳帝も他の平家の亡者同様に、物言わぬ骸となって水底を剣を探して彷徨っているかのように言っていたが、どうやら、そうではなかったようだ。
そして帝は・・・この儂を救ってくれた。いや、地上の人間どもに、徹底して宕に抗いこれを打ち倒すよう、霊界から勅命を下されたのだ。それはおそらく、齢五歳にして壇ノ浦に没した幼帝の、自らの意思による最初で最後の勅命であろう。
四郎は、狩音に言った。
「儂は、粢島に参る。」
狩音も頷いて、こう答えた。
「お止めしたところで、お聞き入れになりますまい・・・わかっておりまする。」
「この先、もう助力は不要じゃ。宕には儂ひとりで見え、これを討つ。だからお主は、このまままっすぐ、周防へと戻るのじゃ。」
四郎は言ったが、もちろん狩音が首を縦に振ることなど期待していなかった。狩音は、その予想の通り、無言のまま四郎の申し出を拒否し、
「せめて粢の対岸までは、必ずお供つかまつります。」
とだけ言った。
そのとき、二人は同時に、気配を感じた。
この、死の影に覆われた阿弥陀寺の境内に、まだ生きているなにかが居る。音でも、空気のそよぎでもなく、ただその気配を二人は同時に全身の毛穴で感じ取った。
その刹那に、二人は背中合わせに前後に構え、そのなにかが襲いかかってくるのを待った。だが、そうした殺気は無かった。ほどなく狩音が、そのなにかに気づき、四郎の袖を引いて、目配せした。
つい先ほどまで、剣闘の舞台となった持仏堂の入口付近に倒れ伏した、黒い墨染姿の塊が、まるで大きな蛞蝓のように、細かく震えながら、もぞもぞとした動きを始めていた。
それはしばらく、両腕を使って前に這おうと試みたがかなわず、遂にがくりと力尽きて、腹を上にしてまたひっくり返った。肩口から胸、そして腹にかけて斜めに大きな裂け目が見え、中からは、いくらかの白い臓物や真赤な心の臓、黄色い脂と、すでに口から吐き出した臓腑がかつて在った部分の黒い空虚が見える。
この状態でまだ生きていられること自体が不思議なことだった。そして、それまで地に伏せていた顔が見え、四郎と狩音は、それが、つい先ほどまで戦っていた大臣の醜い貌であることを視認した。なるほど、たしかに、これは尋常の人間ではない。だからまだ、辛うじて生きていられるのであろう。
しかし今の大臣には、もはや先ほどまでのような流暢な憎まれ口を叩くほどの力は残されていないようだ。汗だくになった彼は、ただ、はあはあと息を切らせながら、言葉にならぬ声をあげて、二人になにかを訴えようとした。
「今さら命乞いか?いくら慈悲深い儂とて、すでに死んでおると称する者の命を救けてやることは、ちと、難しいぞ。」
四郎が、先ほどの大臣のような口調で、そう戯れた。正直な気持ちを言うなら、もう一太刀、この神剣を振るって、今すぐこのしぶとい妖魔の肉体を、二度と災を災さぬよう、今度こそ確実に両断してしまいたい。
背後に物言わぬ数百の骸の視線を感じながら、四郎は憎しみを込めて、剣を握り直した。
しかし墨染の塊は、きれぎれになった声で、辛うじてこう言った。
「大臣では・・・ござらぬ。ほうい、ほう・・・ほ、芳一でございます。」
一瞬、四郎と狩音は、顔を見合わせた。そうか、大臣は死に、この身体のもとの持ち主である芳一が、やっと自らの領分の支配権を取り戻したのか。
しかし、その正当な主権回復は、いかにも遅きに失した感があった。このあまりにも重大な肉体の欠損は、普通なら即死していておかしくないほど致命的なものである。おそらく、大臣が取り憑き、この肉体をさんざん玩具にして弄んでいるうち、通常の人間では抗し得ないような欠損にも堪えうる特別な力を獲得したのであろう。
しかし、そうした異能も、もはやその効力の限界を迎えつつあるようにみえた。彼は、必死になって言葉を続けたが、その内容は、意外なものだった。
「満天の・・・星空ですな。」
芳一は言った。
「えっ?なんと申した?」
思わず、四郎は聞き返した。この状況で、およそ口の端に上るべき言葉ではない。しかし芳一は、構わず続けた。
「この星空ですよ・・・貴方様が、子どもの頃、慄れていたと仰った。」
そう言って、ほっとしたような顔で真上を見上げて、笑顔を浮かべた。眼は、見えない筈なのに!
四郎も狩音も、芳一につられて夜空を見上げた。地上にはこんなにも醜く無残な光景が広がっているのに、そこには在るのはただ、美しい満天の星空である。地上の人間どもや、水底の宕による殺し合いなどに全く頓着せず、星々が宝玉のように、いまにも零れ落ちて来そうなくらい一杯に瞬き、天球を一面に埋め尽くしている。
芳一は、言った。
「この星空です。いまでは貴方様は、この星々を慄れていないと仰った。それはまことに・・・まことに、めでたいことです。しかし、貴方がたは、実は慄れなければいけない。戦慄しなければならない。あの星空に。なぜなら・・・宕やその他の邪神どもは皆、もとはあの星空からこの大地に向け、ぼろぼろと、まさに零れ落ちてきたのでございますから。」
死を目前にした譫妄状態なのであろうか、芳一は、わけのわからないことを言った。
だが、満天の星空のもと遂に力尽きた芳一は、それ以降は口を閉じ、星空のほうを見えぬ眼で眺めながら、四郎と狩音の心に、なんと直接言葉を投げかけてきた。
最初、二人は驚いたが、すぐそれに慣れた。芳一は無言のまま、こう説明したのだ。
「驚きめさるな。驚きめさるな・・・これは思念波と称し、水底の宕が、地上の大臣ら邪なる僕どもに念を送る方法でございます。彼奴らに取り憑かれて早や数十年、すっかり儂も、妖魔の用いるこの技を体得し申した。拙者の身体はずたずたに引き裂かれ、もはや言葉を発しご両所に我が意をお伝えするには足り申さぬ。よって、この邪神どもの手法を使うのでござる。我が露命が保つはあと僅かな間のみ。そして、思念波で互いの会話はでき申さぬ。拙者が語るを、ただお聞きいただくのみでござる。しかしどうかそのまま、そのまま、お座りになって、心静かに、お聞きありたい。」
そしてほぼ壱刻ばかりをかけて、芳一が思念波を用い二人の心に伝え聞かせた話は、それまでにこの地上で発せられた人間の言葉のうち、もっとも重要で、深遠で、幽玄で、そして悍ましく・・・この宇宙の始源に迫る、おそらくは神の領域にいちばん近づいた内容であったろう。
芳一は、大臣に取り憑かれ、そのいわば物言わぬ僕として追い使われ続けた数十年のあいだに知り得たこの世のなりたちと、宕と人間たちの関係について、すべてを明かした。まるで石碑に銘文を刻むかのような、壮絶で、ひたすらに昏い、この世界の年代記を。
それは、このような内容だった。
「遥かな、遥かな・・・遥かな昔。千年や万年の話ではございませぬ。それこそ億年や、兆年もの桁でしか語れぬほどの大昔のこと・・・まだこの地上に、人も獣も草も樹も魚も、神や仏すらおわさなかった頃。遥かあの星々の彼方から、数種の邪神が降りて参りました。邪神はまさにその名の通りの邪神で、この大地に、闇と災のみをもたらす存在でございます。彼らはその後、永きに亘って世界を支配しましたが、邪なる者の悲しさ、なんどか仲違いをなして共倒れし、ある者は星空へと還り、ある者は追放され、そしてある者は・・・海の底へと封印されてしまったのでございます。邪神どもの共倒れで、それまでただ彼らに喰われるだけだった、いわば山の猪や海の魚と一緒だったわれら人間が、自らの奉ずる神とともに起ち、この世を支配したのでございます。その後、せいぜいが万年単位の、ほんの一刹那ではございますが、人はこの地上を統べ、思うがままにその上を闊歩したのでございます。そしていつしか、かつてこの世の支配者であった邪神どもの記憶は薄れていき、人は、自らの奉ずる神とともに、この世はもとから自らのものであったかのような錯覚をし、思い上がるようになってしまいました。しかし未だ、ほの昏き地底や海底に封じられた邪神どもは健在なのでございます。それらのほとんどは、今は長い長い眠りについております。しかしある種の邪神は、たまに目を覚まし、思うがままに動けぬ自らの縛めをほどこうと暴れ、吼え、そうした時には必ず海が荒れ、大浪を発し、そして大地では天変地異が起こります。古よりその邪神の名を、「だごん」または「宕」と称し、地上の無力な人間どもは、そんなときには必ず贄として生きた人間を差し出し、邪神に捧げてその怒りが解けるのを待つのでございます。宕は、ただ贄となる運命を受け入れ、静かに餌となる人間を好まず、運命に抗い、贄となるを潔しとしない者を好みます。そして今回、その活きのいい贄として目をつけられたのが、四郎様、あなた様でございます。」
「なんだと!」
四郎は、会話はできぬと注意されていたにも関わらず、思わず声に出して聞き返した。
地に伏した芳一は、死に直面したその顔貌をわずかに歪めながら、一生懸命に微笑もうとした。そして、思念波を通じて、言った。
「もうあまり、時がございませぬ。拙者の命は、あとほんの僅か。しかしこれだけは、お伝えしておかねば。そうです、宕の狙いは、貴方様でございます。剛く、猛く、そして真っ直ぐなその気質。怪力乱神を信ぜず、もちろん宕のことなど、知ったところでおそらく歯牙にもかけませぬ。恐れを知らぬ、無知で無邪気な・・・この長門で一等の、活きの良い贄。これは、宕にとって最高の美味なのでございます。ここ数年のうちに粢島にて捧げられた数多くの贄では、宕は全く満足しませんでした。宕は人間どもの不実に怒り、水底から悪い気を送って、この長門国はさまざまな災厄に見舞われました。ひどくお困りになられた、貴方様のお父上は・・・。」
「待て!いま、わが父と申したな。」
またも四郎が、声を上げた。
「さようでございます。四郎様、お気持ちはわかりますが、もうそれ以上、お声をお上げあるな。もはや朽ち果てる寸前の拙者にとって、ぼろぼろになった躯の側で激しい気を送られることが、もっとも残る力を損耗させるのです。わが知るところを、余さずにお伝えし、その上で静かに逝きたい。それが、いま我が唯一の望みでございます。どうか、いましばらく。いましばらく。」
狩音がそっと四郎の肩に手をやって、その気を落ち着かせた。
芳一は安堵したように、また思念波を送ってきた。
「・・・さよう。貴方様のお父上こそが、今回の罠を張った張本人でございます。だがそれはおそらく、宕に強く求められ、逃れようが無かったものと推察いたします。宕の恐ろしさを知り尽くしたお父上にとって、おそらくは国主としての、断腸の想いによるご決断でございましょう。わかります・・・お気持ちはわかります。また、いま疑問に思われていることも。ならばなぜ、霜降の城で我身を拘束して宕に差し出さなかったのか、そうお思いなのでございましょう?しかし、それが宕の贄となるための条件なのでございます。途中、いかなる障害にもめげずに道を切り開き、宕のもとへとやってくる、最高の人間。それこそが、宕の求める最高の贄なのでございます・・・そして、四郎様。貴方様は、皆の期待したとおりの、最高の人間でございました。よっていま貴方様の身は、もっとも恐ろしい危険に晒されています。宕が、舌なめずりしながら、極上の贄が粢島までやって来るのを、待ち構えておるのです。水底にじっと身を潜めて、極上の贄・・・すなわち貴方様がやって来るのを!」
ここで、狩音がそっと芳一の手をとり、その掌の上に指先で文字を描き出した。
「なにをなせばよひ」
芳一は、にっこりと笑って、こう答えた。
「生き残りたくば、行かぬが吉でございます。母上は、まだ霜降の土牢のなかで生きて居られますから。しかし・・・四郎様は行かれるでしょう。宕を討ちに、行かれるでしょう。拙者には、それがわかります。ならばせめて、その巫剣を用いよ、としか言いようがございませぬ。」
「このみつるぎのゆらいは」
狩音は、続けて掌に文字を描いて質問した。
芳一は思念波で答えた。
「その巫剣は、実は宕の一部でございます。上古、高天原に降ってこられた、この扶桑国の神々のうちの御一方、素盞嗚命が、出雲で祟りを為す九頭竜を、一計を案じてみごとお討ちになりました。実はそれが、宕の仲間だったのでございます。九頭竜の両目は鬼灯のように赤く、その性は酷薄で、たびたび川を氾濫せしめては民に粢を要求しておりました。そしてこの悪龍を斃したあと、命は、その尾からこの巫剣を取り出され、それはのちに倭健命の手に渡り、この国の統一に大いに寄与しました。以降、もとは宕の尾であった巫剣は、草薙剣と呼び習わされ、この国の皇室を護る神器として伝わって来ております・・・いや、実のところ、この剣の正体を、能く識るものは居りませぬ。しかしおそらくこれは、遥かな古にこの国に産したと伝わる、火廣金を用いた剣なのでございます。それは、地上に在るすべての物を斬れるほどに硬く、そして水に浮くほどに軽く、なにか妖力を帯びた、ただならぬものなのでございます。そしてこの剣は、その火廣金を溶かして混ぜたか、あるいは銅でまわりを包んで美麗なる剣に仕立て上げたものです。ゆえにこれは降魔の剣であり、おそらく宕や、大臣のごとき、この世のものでない死人どもをも斬れる、地上で唯一の剣でございます。」
すでに月は地平線の真上にまで落ち、東の空がほのかに明るくなってきていた。物言わぬ幾百の骸どもは、その甘味のある肉をただ蝿や蟻どもに齧られ続け、蝿はそこに卵を産みつけ、蟻は喰いきれぬぶんを細かく千切り取ってはせっせと列をなして自分たちの巣穴に運んだ。
いま眼前に横たわる、かつて阿弥陀の芳一だった墨染の粗衣をまとった惨めな肉の塊は、もはや自力で口をきくことも能わず、無言のまま、思念波という邪法を用いて四郎や狩音に意思を伝えてきている。
彼は、しかしこの状況を心から悦んでいた。
「やっと・・・やっと解放されるのです。この、真の意味での生き地獄から。眼が見えず、耳も聞こえず、ただひたすらな闇に堕ちたこの私は、日頃はあの窖に閉じ込められ、夜、人目をはばかりながら這い出ても、ただできることと言えば、あの伽藍でひとり琵琶を鳴らすことのみ。しかも、慣らしているうち、次々といろいろなものが降りてきて、この私の身体に取り憑き、苛みます。大臣が来た時には、私はたいてい、蜘蛛のように尋常ならざる体勢で野山を移動し、粢島や、長府や、平家どもの落人部落などを這い巡らねばなりません。私は、私であって、私ではないのです。別のなにかに身体を乗っ取られ、声を発してもそれは彼奴らの声であり、私のものではありません。彼奴らは、私の喉と舌を使って、好き勝手なことを言い、多くの人の運命を狂わせ、皆を奈落の底に落とし・・・そして私は、彼奴らが為すその悪行三昧を、ただじっと、見ているだけなのでございます。」
たまりかねた狩音が、ふたたび芳一の手を取り、こう伝えた。
「いきるてだてはある われらこれから そを さがす」
芳一は嬉しそうに笑い、そして、穏やかにそれを拒絶した。
「もう、よいのです。よいのです。結構でございます。御二方の、そのお気持ちだけ・・・。かつて、水底より揚がり来たりた妖魔どもに取り憑かれ、耳を奪われ、そして貴方様の御父上に打たれて両の脚の自由をうしない・・・おそらくわが人生は、あそこで終わっていたのでございます。それ以降は、ただ、彼奴らの宿主として、好き放題に使われ、そして終いには、かかる大殺生の当事者となってしまいました。いくら自らの意思でないといえど、この重き罪は免れますまい。いや、たとえ免れたとしても、そのぶん、自分で自分を許すことできましょうや・・・死してのちも私はおそらく、霊界にて自分を責め、自分を呪って、ただひたすらにそうして千年萬年の歳月を送るのでございましょう。しかし・・・しかし。」
ここで、芳一の身体は激しく痙攣した。すでに尋常の人間ではあり得ないくらいの抗堪力を示していたその肉体も、ようやく破断界を迎えつつあるようだった。芳一は、地につけた背を反らせ、片腕をよろよろと上げて、そして大きく息をついて、またもとの態勢に復した。
「これでやっと、眠れます。」
芳一はふたたび、思念波を飛ばした。そして、こう伝えてきた。
「眠れます。これで眠れます。たとえそのあと、永劫に続く責め苦が待っているのだとしても。しかし今はただしばらく、安らかに眠ることができるのです。すべての苦しみを忘れ、すべての痛みを忘れ、すべての恥辱を、怒りを、そして罪を、無力感を・・・すべて忘れて、私は眠ることができるのです。本当に、何十年か振りに!なんと幸せなことでございましょう。だから、救けないでくださいませ。このまま抛って、ただ逝かせてくださいませ。そして御二方の旅路に、幸あらんことを!再度申します。その剣を用い、その剣で戦いなさいませ。さすれば、もしかして、あの忌まわしき宕を、この世界から永遠に放逐することできるかもしれませぬ・・・見込みは薄いが、絶無ではございません。四郎殿、貴方はその道を択び、その道を進んできたのです。だから・・・そのまま、その道を進むのです。」
思念波のなかでも、その声はかすれ、か細くなってきた。終わりは、もうすぐそこまでやって来ていた。芳一は、最後のちからを振り絞って、言った。
「もうだめです、お別れです。どうか、あの琵琶と、撥と・・・一緒に埋めてくださいませ。それでは、これにて・・・。」
阿弥陀の芳一は、そのまま、夜明け前に死んだ。
四郎は黙って立ち上がり、芳一に強く念押しされた巫剣を手に取り、その重みを確かめた。
たしかに、単なる銅剣にしては、重量が軽い。四郎の樫の木刀同様の重量で、手元に重心が寄り、刀身部分の比重が軽く、頭が軽い。だから、四郎のように膂力のある人間は、機敏にその鋒を動かし、思うがままに操って敵に打撃を与えることができる。
そしてこの、かつては素盞嗚命や倭健命も使用したと伝わる神剣には、なにかただならぬ妖力が宿り、降魔の剣として、あの屍鬼の群れをそして大臣を、残らず討ち斃すことができた。おそらくこれが、唯一、地上で宕に通じる武器なのであろう。
狩音は、四郎の脇でうっすらと涙を浮かべ、芳一のこれまでの苦しみに満ちた一生を想った。そして、自分が首に提げていた装身具の中から、石でできた唯一のものを手に取り、紐から外して、口につけた。
それは、龍の頭の形をした石笛であった。ちょうど両の眼にあたる部分に、ふたつの小さな穴が空いており、狩音はこれを指で塞ぎ、また離して、ピイイと甲高い、しかしどこか物哀しい、天地に染みる音を奏でた。
狩音はそのまま、石笛を吹き続けた。
永き苦しみから解放された芳一に。そして理不尽な死と、醜悪な蘇生とを強いられた幾百もの物言わぬ民草たちに。
惜別の石笛は、その後しばらく、他に動くもののない阿弥陀寺の境内から、壇ノ浦の方角に向け、ピイイと響き渡った。