第四十八章 昭和三年(1928年)晩秋 米国 ボストン
浅野は、ふと首輪のことを思い出した。
いま浅野が居るのは、ライムストリート10番地、クランドン邸の大食堂である。眼前には、大きくて豪奢なディナー・テーブルの前に、立会人としてマージナリーの心霊実験第二夜に招かれた紳士淑女の面々が集合していた。
テーブルの上には、向こうの端からびっしりと銀器やナプキンや薔薇籠などが並べられ、席についた立会人たちの間を、二人の日本人が忙しく給仕して廻っていた。もちろんワインもウイスキーもなく、食前も食後も、出されるのはソーダか紅茶か珈琲だけである。
実験におけるメイン・ゲストとして、もっとも上席といえるクランドン夫妻の真横の席を与えられた浅野は、自分を挟んで交わされている、夫妻とかねてから旧知のゲスト達との尽きせぬおしゃべりの聞き役となっていた。特に、ミナとキャノン婦人、そして霊媒仲間のヴァリアンタインに、昨日はケンブリッジの自宅からの遠隔参加であった新進の霊媒リッツェルマン夫人までもが加わり、もう数十分もひっきりなしの井戸端会議である。
ただ、その内容はそこらの井戸端の世間話とは違い、いかにも米国東海岸の上流階級特有のものであるといえた。大西洋を挟んだ欧州の政情について、紐育の有名人のゴシップ、政治家の噂、さらには身近な名家の子女同士の結婚話など。有閑階級特有のどこか縁のある知人を遠くから眺めているだけのような当事者感のない噂話が、ただ延々と続いた。
彼女たちの発音は、いわゆるボストン訛りであり、単語の「R」を一切発音しない。発音に重層感を欠くぶん、異国人の浅野にとって聞き取り易い一面はあったが、それだけ会話が速く流暢に流れるようになるので、会話の半分くらいをよく理解できない点では同じであった。
そうしたなか、浅野が首輪のことを急に思い浮かべたのは、眼の前に座る数名の貴婦人がたが、その身にさまざまな宝飾品をつけていたからである。
それらは、実は冥界からやって来た心霊が実体化させたといういわくつきのもので、たとえばリッツェルマン夫人の細い中指には、例のインド人の心霊から貰ったという大きな緑玉が嵌められ、別の老婦人の太い腕には、古代ローマの心霊が実体化させたという当時の銅貨が、きらきら光る金鎖で留められていた。
そして、主役のマージナリーの襟ぐりには、さほど華美ではないが、銀鎖に加工し、パヴェセットで固定した瑪瑙石のネックレスが下がっていた。浅野には、それが冥界由来のものかどうかはわからない。しかし、とにかくなぜかミナの顎の下でぶらぶらと揺れるそれを見ると、意識がどうしても、あの夢の中へと戻って行ってしまうのである。
あの夢・・・つい先ほど、自室のベッドでうつらうつらしたとき見ていたあの凄まじい悪夢のなかで、自分が最後に眼にしたのが狩音の首輪だった。見ていただけでなく、四郎に同化していた浅野は、狩音の肩を抱き、柔らかな唇を吸い、そして首輪をじゃらじゃらと指で弄ったりもしたのである。そのときの感触は、まだはっきりと自分の掌の上に残っている。
翡翠の勾玉、銀製の薄い菱飾り、きらきらと輝く丸い川原石・・・それらの小さな装飾品が、狩音の、あの愛しい細首の廻りに垂れ下がっていた。浅野は、四郎の手を用いて、それらの小さなきらきらしたものに、順繰りに触れて、そしてそっと離した。それらはちゃらちゃらと可憐に心地よい音を立てて狩音の首の柔らかな膚に当たり、鳴りやんだ。
そしてあとひとつ、懐かしい、とても馴染み深いものが手に触れたような気がしたが、記憶はそこで途絶え、夢のその後のことは、なにも覚えていない。当然、二人がその後どうなったのかもわからない。最後に我が手になにが触れたのか、そのかすかなぬくもりのようなものが残ってはいるが、何なのかについては、思い出せなかった。
夢のなかでの四郎の冒険は劇的に進展し、阿弥陀寺に仕掛けられた絶体絶命の死の罠を無事に突破し、次はいよいよ、宕の懐へと殴り込むような形勢である。不敗の神剣も手に入れ、あの不思議な中世の一連の夢には、いよいよ最後の結末がやって来るように思われる。だが、夢はその寸前で、いったん途切れた。
浅野は、さらに思い出した。あの何とも奇妙で不自然な再会のことを。すなわち、つい数時間まえ、ル・ロイ・クランドン博士とともに近在の患者廻りをしていた際、博士の居ない隙に、とつぜんエスター・ロスが車を寄せてきて、いろいろ奇妙なことを言ったのだった。
その中には、夢に出てくる宕と共通する、ダゴンという名が含まれていた。その音は、宕にも、他に出てきた団子や詑粉といった、無力な地上の人間が宕の暴威に対処するための様々な供え物に共通する音で、浅野にはそれが、ただの夢と現実の偶然の一致には思えなかった。
さらにエスターは、真剣なおももちで、そのダゴンを信奉する秘密教団がこのボストン周辺に数百年も蔓延っており、クランドン夫妻をはじめとする、いままさに浅野がともにテーブルを囲む人士たちのすべてがその一味だと警告した。そして、今すぐ逃れないと、浅野に、命の危険が迫るとも。
そして、すぐに自分のシェヴィに乗って脱出するよう強く勧めたのだが、あまりに唐突な話に浅野が逡巡するうち、見込みよりも早くル・ロイが病院の玄関口から出てきたため、遠目にそれを認めたエスターは、ちっ、と舌を鳴らして、慌てて去っていってしまったのである。
去り際、エスターは運転席から身を乗り出して、こう言った。
「今夜よ。危ないのは今夜よ。いいこと?本当に逃げなさい。行けるようなら、私も迎えに行くわ!」
徒歩で近づいてくるル・ロイが、エスターの存在と、浅野と会話を交わしていたのに気づいたかどうかは、わからない。彼はにこやかに近づいてきて、馴染みの医者が不在だったため、患者二名に声をかけてくるだけで済んだ、と言った。そして当たり前に車に乗り、二人はそのまま患者廻りを続けた。
クランドン邸に戻ってきたのが午後2時半すぎ。3時には別の来客があり、やや疲れを覚えた浅野は自室に引き取ってそのまま寝入ってしまい、先ほどの夢を見ていたのであった。
「ミスター・アサノ?いったい、どうなさいました?」
ミナ・クランドンが、笑顔のまま浅野に声をかけてきた。
はっと気づくと、浅野は、先ほど狩音の首筋を弄っていたままの手付きで、自分の右手の指先が何も持たずに宙をなぞっていることに気づいた。
「カップを持たずに、珈琲を飲もうとしてらっしゃるのね?それって、もしかしたら東洋の秘儀かなにかかしら?もしかして、今夜の実験を行うのは私でなく、貴方?」
こう言うと、可愛らしく、目尻を小皺だらけにして笑った。周囲の御婦人方の上品な笑いが、それに続いた。
「いや、失礼!つい、皆さんの英語の発音が流麗で、まるで音楽を聴いているようだったから、自然と指揮者になったような気分になってタクトを振っていたのですよ。」
浅野は焦って、出来の悪いその場限りの適当な嘘で誤魔化した。
しかしこの諧謔は、あまりにも意外すぎて、却ってご婦人方の好意的な笑いをさそった。
「私たちのボストン訛りが、音楽のようですって?これは嬉しい褒め言葉よね。日本人の耳には、そう聞こえるのかしら・・・紐育っ子たちは、私たちのことを、冬の寒さで舌の凍った田舎者、などと陰で罵ったりしているのに!」
ヴァリアンタインが、すぐにそう突っ込んできた。
「あら?貴女だって今じゃすっかり紐育っ子じゃないの!この古き佳きニューイングランドの田舎を脱出して、大いに稼げる大都会へと出ていってしまったのだわ!」
ミナが浅野に代わってやり返すと、一座が笑いに包まれた。
太田が、浅野の手元に置かれたカップに珈琲をサーヴした。彼は、「頑張れよ。」とでも言いたげな顔で浅野に微笑みかけた。浅野は礼を言い、無意識のうちにカップを取って湯気の立つ珈琲を口に運んだが、その湯気の向こうに見えたミナの首筋を眺めて、はっと気付き、口を付ける前にカップをがちゃりと受け皿に置いた。
太田は何事かと訝って浅野を振り返ったが、他の者はそれに気づかなかった。浅野は、驚きのあまり椅子から腰が浮き、なかば立ち上がりかかるような格好になっていた。その時点で浅野も我に返り、慌てて伸びをしたような仕草を装って再び椅子に座り直したが、顔は衝撃を受けたまま、唖然としていた。
石笛だ。石笛じゃないか!
浅野は、心のうちで叫んだ。湯気の向こうでミナが首に提げている瑪瑙の石。他のご婦人方が身につけている金属製の装身具と違い、それはあくまで自然の産物であり、手に触れれば金属にない、滑らかさとぬくもりがある。
そしてあの、今でも掌に残る夢の中でのぬくもり、手触りは、自分が現在でも常に懐中に携帯している石笛のそれと、全く同じものだ。浅野は夢のなかで、狩音の首筋に、いま実際に所持しているのと全く変わらぬ同じ石笛を見つけ、これを握り、弄っていたのである。
それは、龍の頭のような形のちょっと変わった石で、ちょうど眼の部分にあたるところに具合良くふたつの穴が開いている。狩音は、この穴のうちのひとつに首輪の紐を通し、他の装身具といっしょにぶら下げていたのだ。
浅野は、おそるおそる、自分の懐中に手を入れてみた。そして、取り出した。
夢の中で弄っていたのと、全く同じ実物が、眼の前に現れた。それは、ことり、と小さな音を立てて純白のテーブルクロスの上に置かれ、そのふたつの眼が、なにかを訴えかけるかのように、無言のまま浅野を見上げている。
横須賀の南、走水神社の境内で浅野が見つけ、出口王仁三郎が吹き鳴らしたその笛。それまで平々凡々としていた自分の人生を、文字通りに百八十度大転回させ、今日に至る激動の大海原へと誘った、罪つくりなその笛。大本きっての審神者として、その後わずか五年ほどの間にもう千回も万回も吹き鳴らし、数十の人に憑いた死霊や生霊や、さまざまな動物霊などと対峙してきた、特別な霊験を持ったその石笛。
浅野とこの石笛との出会いは、つい十年ちょっと前のことなどではなかった。それからさらに六百年もの時を遡って、はるかな古、すでに出会っていたのである。それはまさに、そのとき彼が心から愛した女の首にぶら下がっていたものなのだ!
そしてさらに、思い出した。
いま見ていた夢のことだ。阿弥陀寺で彼と、彼の愛する女を襲ってきた数百もの物言わぬ亡者の集団。それは、まさに、昨日列車のなかでエスターに聞いた、「スォンビ」そのものではないか!いや、北米では「ゾンビ」と言い習わされているのだったか・・・とにかくそれらは、命も意思も持たず、ただ唯々諾々と大臣の指令に従って進み、そして指令者の大臣がこと切れると同時に、次々と崩折れただの屍に戻った。
さらに・・・その前、伊輪の部落を恐怖に陥れていた首なし武者の集団のことだ。浅野はその異形を、前にもどこかで見たことのあるような気がしていた。そしていま、はっきりとそれを思い出した。彼はなんと、その首なし武者の話を、以前みずからの手で翻訳し、刊行したことがあるのである。
ワシントン・アーヴィングが1820年に書いた『スリーピー・ホロウの伝説』。短篇集『スケッチ・ブック』に収められたその短編は、首のない騎士に襲われ姿を消す男の話で、もとは欧州や北米の各地で伝わっていた怪談噺をもとにしたものである。
いや・・・浅野は考えた・・・そもそも、四郎の旅の目的であった阿弥陀の芳一にしてからが、浅野の師であるラフカディオ・ハーン、あの隻眼のヘルン先生のまとめた『怪談』の冒頭に収められた話の登場人物ではないか!
さらにある。
カール・グスタフ・ユングが、はじめて世に問うた医学所見で詳細に観察した、彼の従妹ヘレーネ・プライスヴェルクの示す症状の数々。それは、すでにコナン・ドイルが気づいたように、夢の中に出てきた四郎の母の呈した症状とそっくりだ。そしてそれはそのまま、芳一が示した異能にも通じる。
ユングに関していえばもちろん、孤絶したスイスの山中の湖で、なぜかいきなり現れた宕の影がある。あのとき、ユングは気づき、浅野にこう警告した。夢と現実の世界が接続され、そこに在るなにか禍々しきものが、浅野をずっとつけ狙っていると。
夢と現実が接続され、相互に影響を及ぼし合っている。
浅野は、いま一度そのことの意味を考え直してみた。
まず、現実の1928年秋における浅野の欧米旅行で身の回りに起こる数々のことが、そのあと見る中世の夢の隅々にあとから影響を及ぼすという現象は、問題なく理解できることだ。
石笛も、ゾンビも、首なし武者も阿弥陀の芳一も、みなそれだ。みな、夢に見る以前に現実世界で接したさまざまな情報が、世界の構成要素として悪夢のなかに溶け込み、さまざまな象徴や形象物となって、夢の風景の中に顕れる。
そして、夢と現実とが結合されたことで、今度は逆に夢の中の宕が、現実のチューリッヒ湖の片隅にその悍ましい姿を顕した。これも、既知の科学の範疇を越えた超自然的な現象ではあるが、世界の結合の結果としては必然的なことと、納得はできる。
だが、四郎の母が呈したあの症状についてだけは、説明がつかない。自分はあの夢ではじめて、同一人の肉体の中に何人もの人格が宿る症状に接した。そして、夢が覚めたあと、始めてそれが現実に在る症状だということを知った。そのような病気について、浅野はその夢を見る以前には、本当に全く一切知らなかった。それなのに、自分はそれを、まず夢に見たのである。
これは、単なる偶然の一致なのだろうか?それとも、知っていたのに知らなかったとあとから思い違いをしているだけなのだろうか。
いや。
・・・どちらも、違っている。
浅野は、気づいた。そうだ、そのどちらも違っている!
自分はそのことを、夢に見る以前には決して知らなかったし、またそれは偶然の一致などでもない。必然だ。
必然だ・・・それは必然だ!
必然に違いない。
なぜならそれら様々な夢と現実を織りなす構成要素は、いずれも、誰かが書いた台本どおりに、すべて、あらかじめ意図的に用意されたものであるから!
なにかとても大切な、壮大な真相に到達しかけていた浅野の思考は、しかし、ここでぶつりと中断されてしまった。
予定時刻の午後8時が近づき、それまで談笑していた皆が大きな音をたてて一斉にテーブルを立ち、屋根裏の実験室へと移動を始めたのである。浅野の想念から、いまやっとその全貌を現しかけていた真理が遠ざかり、その姿をさっと隠してしまった。
立会人一同は、十名を越える塊となりながら、わいわいがやがやとかしましいおしゃべりに身をやつしながら階段を登った。そして実験室の扉を開き、うすぐらい部屋の中に輪になった椅子へ、まず八名ほどが座った。それ以外の者は、円の背後に並べられた別の椅子へと座った。
主賓の浅野はもちろん、特等席のマージナリーの横である。しかしそれはある意味では、手をつないだ状態で浅野を闇の奥へ拘束し、二度と再び外へは出さぬと、この邪宗を信じる秘密教団が決意したかのように思えなくもなかった。
今夜の実験の準備として、まずマージナリーには、ガラス製の口枷が嵌められた。これは特別誂えの厳重な仕掛けの口枷で、ゴム管で試験管に連絡し、少しでも発声すれば、直ちに試験管に音が漏れ出し、増幅されて皆に聞こえる装置である。もちろん、事前に浅野とロジャース博士とで具合を確かめ、詐術の余地がないことを立証済みのものであった。
やがて時間が来ると、またも前置きなしにいきなり灯火が落ち、周囲は闇となった。これからマージナリーの実験第二夜のプログラムが始まる。
やがて浅野の右どなりに座ったマージナリーは入神状態となって、浅野と手を繋いだまま眠りに落ち、軽い鼾を立て始めた。ボブにした金髪が、向こう側のル・ロイではなく浅野のほうへと倒れかかってきて、どこかしっとりと濡れたような感触の小さな頭が、浅野の肩にそっと載った。
やがて闇の中からウォルターが出てきて、周囲のゲスト達に挨拶した。やあ、まあ会ったね、とか何とか。今夜は日本人の霊は連れてきていない。彼ら昨日は不出来で、ゲストの浅野氏にも恥をかかせてしまった。誇り高き日本人の霊は、恥をかかされたと知るといきなりハラキリしかねない、外交儀礼として、その事態だけはなんとしても防がないといけないから・・・闇のなかで心霊の飛ばしたそのジョークに、一同からくぐもった笑いが起こった。
実験そのものは、単純だった。気を喪ったマージナリーには、さっき試した口枷がしてある。その横で浅野が日本語で、イチ、ニ、サン、シ・・・と数を読み上げていくと、闇の中からウォルターの声が、正確に浅野のあとを追っていく。これで、ウォルターの声がマージナリーの口真似などでなく、真正の独立物であることの証明になる。
次に、テーブルの前に置かれた薬品の量り売り用の天秤を使った衡器操縦実験である。こちらもひどく単純なもので、要は誰も居ないはずのその空間で、ウォルターが思うがままに相互の重量を調整し、重いはずの側を上に上げたり、軽い側を下に下げたりした。ウォルターいわく、これは、目に見えないエクトプラズムを生成して、その重量をかけたりのけたりして、見た目にはあり得ない重量調整をしているというのである。
同じような実験が何種類か、闇の中に響くウォルターの司会で、延々と続いた。
しかし浅野は、今夜に関してはそれらの驚異的な現象の数々にまったく注意を払っていなかった。それよりも、昼間にエスターから警告されたことがひどく気になった。もしかするとこの秘密教団は、このまま闇の中で自分を捕らえ、拐かし、あるいは永遠に葬ったりするつもりなのではないだろうか。
そこまででなくとも・・・今度は昨夜、濱谷が明かした舞台裏のことが頭をよぎった・・・もしかしてこれは、遥か昔に亡くなったウォルターという兄弟の名を借りたペテンで、闇の中のどこかにその声音を発する人間が控えているのではないか?あるいは、別室で発している声などを、極小のマイクロフォンなどの仕掛けで、方角がわからないよう部屋に流しているだけなのではないか?
いま眼にした秤のあり得ない上下も、この実験室特有の仕掛けがほどこされていて、極細の糸などを巧みに使用したトリックなのではないか・・・?
心霊主義者にあるまじき、物質主義的な数々の疑念に取り憑かれた浅野は、もはや全く実験に集中していなかった。
一刻も早く、肩にかかるマージナリーの頭を跳ね除け、この闇の中から這い出て行きたかった。そして、外で待っているであろう、エスターのレモン・イエローのシェヴィへ乗り組んで、そのまま、どこかへ走り去って行ってしまいたかった・・・。
浅野が混乱した頭でそんなことを考え、闇のなかで動くに動けずひとり身を揉んでいたとき、とつぜん、耳元で声が聞こえた。
マージナリーの濡れた金髪が肩に載った右側ではなく、左側の耳朶のあたりからごく間近に、ひっそりと発した声だった。
「ジョンに、言われただろ?」
それは、そう囁いた。
「彼が警告したはずだ・・・まっすぐ帰れと。海峡に行ったら、もう戻れないぞと。あんた、そう言われたろ?」
浅野は、闇の中で、文字通り固まってしまった。
さいしょ、マージナリーが寝入ったふりだけして声音を使っているのかと思ったが、その声は、彼女とは反対側の耳に声を吹き込んでくるのだ。声は、さっきまで闇の中で響いていたウォルターのそれだった。
「俺にも時間がない、だからひとつだけ言っておく。もう手遅れだ。逃げるときに逃げておかないから、あんたもう奴らの手中に落ちてしまった。逃れる術はない。だからあんたもう、前を向いて戦うしかないんだよ。覚悟しな。」
これだけ言って、その気配は少し遠ざかった。おそらく、また皆の前へと戻り、先ほど同様、素知らぬ振りで降霊会を取り仕切るのであろう。しかしウォルターは、完全に離れる前、念を押すように浅野へ向かってこう言った。
「わかったか?あんた、もう逃れられない。奴らは、もうすぐそばまで来ている!海峡は、もう、すぐそこだよ。」