第四十七章 安貞二年(1228年)秋 長門国 阿弥陀寺
金堂の伽藍を取り囲み、三方から寄せてくる亡者の大軍勢は、亀が歩むのよりも遅い速度でふらふら狩音と四郎に近づいてきた。逃れる間はいくらもあったが、どこもかしこもびっしりと寄せ来る屍鬼どもの壁に覆われており、遁れ出でる隙間が全くない。背後には赤黒い血を浴びた異様な姿でニヤニヤ笑いながら大臣が立ち、須弥壇に立つ本尊と並ぶようにして眼下の地獄絵図を見下ろしている。
木刀を構えた四郎は、少しづつ、少しづつ後退りした。これは、通常の敵ではない。長門国最強の剛勇が、要所に鉄を打った殺傷力のある固い樫の木刀を完璧な挙措で上段に構えているのに、寄せ来る敵には、その様にまるで怯む様子が見えないのである。
まず対面した瞬間に気を発して相手の勢を削ぐ、のが剣術の要諦であるが、寄せ来る彼らには、まずその勢というものがない。ぽかんとした顔の、泥でできた塑像のような連中が、なんらの得物を持たずに丸腰のままふらふらと近づいてくるだけなのである。感情を持たぬ虚ろな泥人形どもに対し、長年かけて磨いた熟練の技はまるで無力であった。
これは、そもそもが、戦いではなかった。目下の状況は、四郎にとっても経験が全くない。戦おうにも、魂の抜けた屍体は、戦う意思を持つ相手ではないのだ。それはただ、無言のままこちらを圧し潰すだけの泥の壁だ・・・泥の壁に戦いを挑むことなど、ただ無駄なだけである。そしてそこから逃れることもできない以上、これから生起する戦いは、その壁の圧力に自分がどれほど耐えられるかというだけのものになる。
しかし、そんなみじめな最期を遂げるのだけは、御免だった。四郎は狩音と眼を見合わせ、木刀を振りかぶって、大声で気合を掛けた。狩音も自らの忍刀を構え、泥人形どもに飛びかかる構えを見せた。
四郎の気合は、まったく効果を及ぼさなかった。その前もその後も、なんら代わることのない速度で、泥人形たちの壁は進軍を続けた。四郎の気合も、まるで納屋の藁山に卵を投げつけたほどの効果しかない。割れることも、弾けることもなく、投げた卵の衝力が相手の手応えのなさに緩和され、そのままころりと下に転げ落ちたような感触であった。
焦れた四郎は、まず大股に一歩踏み出し、ぶんと音を立てて木刀を横に払うと、尖端に打った鉄に触れ、隊列の先頭に居たひとりの屍鬼の身体が吹っ飛んだ。彼は、無言のまま宙を飛び、数間離れた内陣の段のところでどさりと木の床に落ちた。
叫び声もなく、苦痛の呻きもなかった。
続いて四郎は、その少し後ろを進んでいた男女二体の屍鬼に、左右の斜め上から木刀を撃ち降ろした。それぞれ肩口に大きな打撃を加えられた彼らは、その場でがくりと膝をつき、前のめりになって仆れた。またも、声は上がらなかった。
脇では狩音が、忍刀を右手に持ち、左手で屍鬼のひとつの頭を押さえ、首を傾げて容赦なく頸動脈の当たりを掻き切った。手練の草者による見事な一撃だったが、傷口から鮮血は噴き上がらず、そのかわりに黒い、半ば固まったような血の塊が飛び出して、重そうにボタリとその場に落ちた。
斬られた屍鬼は、しばしの間だけ足を止め、なにが起こったのか訝しむように首筋に手を当て押さえていたが、やがて、なにも動揺を見せずふたたびゆっくりと動き出した。
「死んでおる・・・だから、死なない!」
狩音の声が聞こえた。動揺していたのは、明らかに感情を持つ生者である彼女のほうであった。
気づくと、先ほど四郎にふっ飛ばされた最初の屍鬼は、致命的な打撲傷を全身に負ったと思われるのに、またむくりと起き上がり、自分に起こったことがなにかわからないように両手を広げ、その場できょろきょろしていた。左右の肩に打撃を喰らった次の二体も、いったんは崩折れたが、またしばらくすると立ち上がって、ふらふらとした進撃を再び続けた。
四郎は、砂浜に打ち寄せる波のように近づく不揃いな横隊との間に開いているわずかな空間を利用し、巧みな足捌きで複雑に進退しながら、一体でも相手の戦力を減殺しようと、突出してくるあちこちの屍鬼に木刀を振るっていたが、いくら打撃を加えても、すでに死んだこの亡者の列は、死ぬことも傷つくこともなく、なんどでも立ち上がって、また無言の進軍を続けてくるのだ。
やがて、不揃いでばらばらだった彼らの横隊は、隙間のないびっしりした塁壁のようになり、後ろからの月の光も通さぬほどに密度濃くなってきた。彼らは、一斉にゆっくりと両腕を前に差し出し、ずさり、ずさり、ずさりと二人の生者めがけて進んでくる。それは、敵に向かって突撃するというよりも、彼らが全体で成す黒い影のなかに、生者をそのまま呑み込もうとする意図によるもののように思えた。
もはや生者に、勝つ可能性は絶無となった。既に死んだ者と戦おうにも、戦うすべがないのである。伽藍の奥に追い詰められた二人の前に、背後を月の光に照らされた言葉なき死者の壁が、言葉なきまま、長い影を落とした。
しかし、ここで再び大臣が動いた。彼は、機敏な動きで芳一の躯を操って須弥壇に飛び乗り、本尊の両肩の上に乗って、そのまますっくと立ち上がった。そして宙高く、再びあの印を切るようなしぐさをした。
亡者の隊列が、音を立てて一斉に動きを止めた。
正確にはぴたりと止まったわけではなく、ただ前に進むことを止め、その場でかすかに足踏みを始めた。両腕を前に差し上げ、はんぶん口を開け、うつろな目つきであらぬほうを見ながら、幾百もの亡者の集団が三方の分厚い壁となって、ただその場でゆらゆらと揺れているのだ。
鈍い月の光が、蒼白く、彼らとその前に開いたわずかな空間の床を照らし、金堂の床はまるで海底の砂地のようになっていた。四郎と狩音は、今やその一角に追い込められた二匹の小蟹のような存在である。そして、徐々に自分のほうに近づき後退りしてくる二匹を呑み込むように待ち受けた大臣は、しかし、亡者たちの隊列の動きをいったん停めた。
「どうじゃ?四郎、もはや抗うことのできぬ武者蟹になった気分は?」
大臣は、愉しそうに上から言葉をかけた。
「その小さな、役にも立たぬ鋏をいくらぱちぱちと鳴らしても、なんの役にも立たんのう。」
そう言って、喉の奥から漏れてくるような、嫌な笑い声を上げた。
「このまま、我らを討ち取るが良かろう。でなければ、儂がお主を殺す。」
四郎は静かに言った。
すると大臣は、興味津々といった表情で四郎に問うた。
「ほう、どのようにしてじゃ?先ほど、狩音が漏らしたな。既に死んだ者は殺せぬと。この儂も同じじゃぞ。斯様な木刀ごときで、儂は殺せぬ。薙刀や剣でも同じことじゃ。なぜなら儂は・・・すでに死んでおるからの!」
またあの喉から漏れるような、ヒイヒイという隙間風のような笑い声を上げた。
「なぜ、民草どもに停止を命じた?悪鬼でも少しは良心が咎めたか?」
四郎が問うと、大臣は鼻で笑ってこう答えた。
「悪鬼に、心なぞ無いわ・・・お主らを殺すことは簡単じゃが、実は儂にはそれができぬ。このまま亡者どもに進軍を命じたら、間違いなくお主ら二人とそのまま踏み潰してしまう・・・ただ真面目に命じたことだけ行うのだけが取り柄の、使えぬ奴らじゃ。だから、儂がわざわざ停止を命じてやったのじゃ。別にお主等のためではないが、もし感謝したければ、しても良いぞ。」
「なぜに我らを殺せぬ?殺せば良かろうに。」
狩音が、声を励まして問うた。
「宕が、お主らを望まれておる。」
大臣は言った。そして、血でぬらぬらとした自分の頭のあたりを人差し指でつついて、続けた。
「儂のここに、ぴんぴんと来るのじゃ。宕からの指令がな。いまこうして交わしておる言葉も、この風景も、宕はいっつも聞いてなさる。見てなさる。しかし自らは海の底深くに封印されておられてな、動けぬのじゃ。だから、儂のここに来る。儂は、ただ宕に変わって事を為しておるのじゃ・・・すなわち、神のしもべじゃ。」
「ずいぶんと、慈悲深いことじゃのう。そのついでに、我らをここから逃してはどうか?」
四郎が提案した。大臣は、まんざらでもないという風に頷き、
「そうせよと、宕はおおせじゃ。だが、それは儂が肯えぬ。」
「神に刃向かうのか?」
「そのくらいは、好きにやらせてもらうぞ。そうでなくては、儂がなにも手柄を立てられんではないか?維盛を通じ地上を押さえる儂の計画は、お主に潰されてしもうた。ならばせめて、お主らを生きたまま捕縛して宕に差し出し、なにか別の恩賞にでも預からないと、割が合わんわい。」
「悪鬼の貪欲さよ・・・まあ、らしくて良いわ。それで、なぜに宕はそれほど、生きたままの我らにこだわるのじゃ?」
「宕はの、活きの良い贄にこだわるのじゃ。ただ従容と運命に殉ずる、諦めきった贄は、肉身にまるで張りや締りがなく、味が良うないらしくての。」
「なんだと?」
四郎は、眼をむいた。だが大臣は手を打ってよろこび、
「それじゃ、それじゃ!」
と言った。
「それじゃ・・・まさにそれじゃ。宕はお主の、そうした気質に惚れ込んでおる。怪力乱神を信ぜず、己の命運をすべて己の力で切り開けると信ずる、そのお主の勘違いよ。そして、ただ勘違いするだけでなく、実際に道を切り開いて、ここまで来てしまう。儂に言わせれば、まさに水底の小蟹の抗いのごとくに無意味なことじゃが・・・しかしそうした、気骨のある贄の肉身は最高に引き締まって、歯応えがあり、実に旨いそうじゃ。」
「儂と狩音は、宕の朝餉か。くそっ!」
ここで始めて、四郎がわずかな動揺を面に顕し、吐き捨てた。
しかし横の狩音は、そんな四郎を励ますように言った。
「落ち着かれませ四郎様。逃れる道は・・・道は、必ずございます!」
亡者の壁は、その場に立ち止まったまま、全員が、ただゆらゆらと揺れている。大臣の号令がふたたび下れば、一斉に二人へ殺到し、たちまちのうちにその重みで圧死させることができるであろう。これまでは常に彼ら自身の身を護ってきてくれた狩音の忍刀も四郎の木刀も、この人智を超えた敵に対しては、もはや用をなさない。
そして大臣は、絶体絶命の二人を、楽しげにニヤニヤと見下ろしている。
「さて、どうしようかの・・・どうしようかの?」
こう言って、しばらく迷うふりをした。しかし四郎は気づいていた。大臣は、決して彼らを生きたままこの伽藍から出すことはしない。おそらく、宕に差し出すことすらしないだろう。ひとまず攻撃を止めたのは、いまわの際のふたりの様子を眺め、舌なめずりしたいからだ。ただ、それだけだ。
絶望のなか、渾身の憎しみをこめて、四郎は大臣を見上げた。血だるまの、もとは阿弥陀の芳一だった黒い坊主の姿を睨んだ。それは、悍ましい笑顔を浮かべて、四郎をぎろりと見返し、愉快そうに口の端をゆがめた。さあ、そろそろ遊びは終わりだ。ここらで最期の合図を出し、亡者どもに仕上げをさせようか!
しかしそのとき、四郎の眼は違うものを見ていた。
芳一の頭の後ろ、暗闇となった宙空に、ほんの少しの間だけ、人影が見えたのだ。それはとても小さな子どもの影で、つい先ほども見かけたような格好をしていた。
それは、芳一の頭越しに、まっすぐ四郎のほうを指さしていた。先ほどすっくと立ち上がって同じ格好をしていた芳一、すなわち大臣がとっていたのと、全く同じ格好だった。しかし今は、そうする主の姿が違っていた。いま見えているのは、小さな童子の姿である。角髪のような髪型で、絹の豪奢な水干を着て、童子に似合わぬ冷厳な眼でまっすぐ四郎を見つめていた。そして、その差す指の先には・・・。
剣があった。
童子の影はただ一瞬間だけで消えたが、はっとした四郎は木刀を脇に棄て、腰につけた揚羽蝶模様の太刀袋を外し、その袋だけをとって亡者どもの列のほうへと投げ出した。そして、海獣の革でできた鞘から、無音のまま、神代より伝わる草薙剣を引き抜いた。
それは、碧く美しい緑青が浮いた粢鍔と、緑青の全く浮かぬ不思議な金質の刀身から成る古代の神刀であった。肉厚で両刃のついた直刀であり、太く重いが、なぜか四郎の樫の木刀と同じ重さ、釣り合いを感じさせるものであった。
神刀は、その表面に施された海獣や人間の彫刻や、要所に象嵌されている種類のわからぬ宝玉などを月の光に反射させながら、なぜか、内からぎらぎらとした輝きを放っているように見えた。それだけではない。それはどこか・・・熱を帯び、ひりひりと細かく震えて、これから加わることになる斬撃への期待に、自ら武者震いをしているようにすら見えた。
「これは・・・魔剣じゃ。降魔の剣じゃ!」
四郎は小さく呟くと、振りかぶり・・・そして、斬りかかった。
神剣を、斬りおろした。
亡者の列に。殺しても殺せない不死身の死者の塁壁に。上段から袈裟懸けにまず一撃。今度はたしかな手応えがあった。一体の亡者の冷たい躯に喰い込んだ青銅の刃が、月の光をかつんと跳ね返しながら、その肉体の組織を破砕した。亡者は、なお叫ばなかった。しかし、激痛にのたうつ仕草をして床に倒れ伏し、そのまま身体を激しく震わせて痙攣した。
それを踏み砕きながら、次なる亡者の群れが襲いかかった。四郎は草薙剣を、その名のとおり草を薙ぐように低い位置で真横に一閃させた。すぱ、すぱ、すぱ、と抵抗なく滑らかな手応えだけを残して、亡者の脚が踝の上で次々と切断された。自らの体重を支える方法を失った亡者の躯が五つ、がくりと一斉に沈下し、闇に消えた。
四郎は斜め後ろに飛び退き、複雑な足捌きで進退しつつ、背後から迫ってきていた別の壁を今度は高い位置で薙ぎ払い、幾つかの頸と、腕と、それまで誰かの肉体の一部であった部位を空中に跳ね飛ばした。
驚くべきことに、先ほどの狩音の忍刀では、凝固した状態で重たげに傷口から飛び出し、すぐと真下に落ちるだけだった亡者の血液が、今度は生きている人間から迸るように、液体のままびゅうとあちこちに飛んだ。おそらく、独自の熱を帯びた魔剣の威力が、死者の血液をも瞬時に沸き立たせ、凝結を溶いて液体に戻す役を果たしているようであった。
そして、感情も痛覚も持たぬはずの亡者が、無言のままひどく苦悶しながら次々と斬り伏せられていった。
今や、亡者と生者の形勢は完全に逆転し、亡者の壁の進撃は完全に止まった。彼らは、相変わらず恐怖を覚えているようには見えなかったが、その歩みに迷いが生じ、混乱し、あちこち右往左往を始めた。一体が進路を外れて方角を変えると、そこに直進してきた別の亡者と交錯し、両者は縺れあってさらに巨大な障害物となり、より多くの亡者たちの進撃を邪魔した。
そうした混乱はますますあちこちに波及し、伽藍のなかでは、よろよろと右往左往する泥人形たちが互いにぶつかり、倒れ、無言のまま苦悶に顔を歪めた。そしてその間を四郎が影のように駆け、すり抜け、鋭利な神刀で次々とまだ立っている亡者の群に斬りかかっていった。
四郎の振るう神刀は、一振りごとに確かな手応えを残しては死屍の群れを斬撃し、斬られた群れはまとめてどうと斃れ、次に寄せてくる仲間たちの障害物になった。間近に迫った脅威は残らず斬りふせられ、みじめな格好でのたうち、痙攣し、やがて次々とこと切れていった。
そうして、亡者たちの前線と二人の生者との間に、おおむね二間半ほどの間が空いた。ゆっくりとしか動けない後続の亡者たちが、眼前に土盛のように横たわる仲間たちの身体を乗り越え、この間を埋めるのには、まだしばしの時間がかかる。汗だくになってひたすら神刀を振るい続けた四郎が、大きく肩で息をしながら一休みしたとき、狩音が横からこう言った。
「四郎殿。大臣です!大臣をお斬りなされ。さすれば残りの亡者ども、まとめて倒れ、われらここを逃れることできましょうぞ!」
たしかに、既知の人間の武器ではまるで刃が立たなかった死者の肉体を、なぜか確実に撃攘したこの神刀は、もしかしたらあの妖異が宿る芳一の身体にも効くものかもしれぬ。狩音の言葉に従い、四郎は振り返り、なおも本尊の両肩で眼下の凄まじい戦闘の様子を見下ろしている大臣を鋭い眼差しで睨んだ。
大臣の顔に、もはや先ほどのような余裕の笑顔は無かった。急展開した戦闘の様相に戸惑い、次にとるべき手を思いつかず、その場でまごまごしていた。
四郎は身を翻し、内陣を駆け抜け、須弥壇を一気に上って大臣と向かい合った。
「いざ神妙に覚悟せい!死なぬはずのお主を、いま殺してやる!」
そう言うと、やにわに振りかぶり、息もつかせず斜めに振り下ろした。
大臣は間一髪でそれをよけ、後ろに身を反らせながら、本尊の肩からどさりと落下した。神刀は空をきり、そのまま本尊の胴体にあたって火花が散り、がつん、という鈍い金属音が響いた。驚くべきことに、神刀は黒光りする鋳銅をも斬っており、本尊の頸と肩が、その刻まれた衣装ごとざっくり裂けてめくれ上がった。本尊の頸は、変わらぬ微笑を浮かべながらなかば折れて矩に曲がり、切断面から中身の闇が覗いていた。
ところどころ緑青を浮かせたこの銅剣は、なぜか同じ銅をも裁ち斬る!
四郎は、驚いた。そして急ぎ剣を本尊から引き抜こうとしたが、めくれた金属の粗い端に引っ掛かって、腕の力だけでは抜けなくなった。四郎はやむなく、本尊に足をかけ、一言だけ念仏を唱え、これを引っ倒してその勢いで刀を抜いた。
この間に、須弥壇裏に落下した大臣はその姿を消し、あちこちの闇の中をかさこそ這い廻って四郎の剣先から遁れた。今さら言うまでもないが、不具の老人の身体を借りたとは思えぬ素早さである。四郎は大股でこれを追い、剣を振りかぶって、必殺の一撃を打ち下ろそうと間を測った。
やがて大臣は、蟹か蜘蛛のように猛足で亡者の群れの塊に向かって這い寄り、その足の間に隠れて護ってもらおうとしたが、その意に反して亡者たちは、揺れながらすかさず両脇に寄り、道を開いて、自らに指令を下すこの絶対者をそのまま通してしまった。
彼らが作った間隙が塞がるよりも先に、そのまま四郎が奔り抜け大臣を追った。距離を詰められた大臣は遂に這うことを止め、そのまま身体ごとぴょんぴょんと跳ね出した。腹で接地し、そのまま真上に跳ね上がるのである。この地上に在るすべての動物以外の、禍々しいまさに妖魔の動きであった。そして空中で自在に方向を変え、四郎の意表をついて亡者たちの内側に戻ろうとしたが、そこには狩音が仁王立ちになって待ち受けていた。
やむなく再度方角を変えた大臣は、すんでのところで四郎の一撃を躱し、倒された鎧戸のあいだから金堂の外へと遁れ出ていった。四郎も大股で続き、伽藍の中には、命令者を失って、ただおろおろとその場で右往左往する、哀れな泥人形たちの群れが残された。
境内に折り重なって斃れていた民草どもは、いまや全員が立ち上がって金堂の床に上がっている。その、まっさらになった薄暗い境内を、右に左にぴょんぴょんと跳ねながら大臣が逃げた。四郎は、砂を踏む音を立てながら追いかけた。
そして考えた。この動きを長いあいだ続けられるなら、夜のうちに伊輪に達することも可能であろう。そこで、ありもしない平家の将など巧みに真似て維盛を信じさせ、彼を通じ平家残党を精神的に支配して、その軍事力を核にこの地上を制覇しようと謀った計画は、確かに見事なものだ。そして宕の求めに応じ、霜降の土牢で四郎を煽り、阿弥陀寺にこの死者の罠を張って、到着を待ち受けていたのだ。
その忌まわしき謀魔は、今はただ不様に飛び跳ねながら境内を逃げる、ただの醜い肉の塊になっている。粗末な墨染を引っ掛けた痩せぎすの姿で、後尾にはまるで役に立たぬ丸太のような足を二本、くっつけている。這う時には大いに働いた腕二本も、いまはただ、どしん、どしんと腹で接地するときだけびりびりと痙攣する、まるで意味のない突起物になってしまっていた。
大臣は、やがて境内の一角にある細長い持仏堂の入口に取り付き、何度か空中で体当りして扉を破り、中の暗闇へと姿を没した。
続いて持仏堂の中に駆け入った四郎は、すぐその場に立ち止まった。
堂内は、ずっとまっすぐ奥に続く細長い構造で、その片側に段が設えられ、ずらりと数十にものぼる仏像が並べられている。入口の付近だけは、わずかに月光に照らされて、なかにあるものの輪郭程度は視認できるが、奥へと進むとそこはもう全くの暗闇の中である。
そして暗闇は、大臣と芳一の縄張りであった。
敵地に踏み入った四郎は、戦闘者としての本能で、神刀を下に構え、擦り足で前へと進んだ。奥へと続く闇は、ひたすらとっぷりと暗く、光の素がなにもないため、人の眼ではそこにある何物をも識別することができない。それでも四郎は、全身の膚を研ぎ澄ませながら、横合いからの奇襲に備えつつ、じりじりと、奥へと進んだ。
敵の妖魔も、なかなかの手練であった。彼は、一切の自分の痕跡を消し、息遣い (それが息をすればの話だが)をせず、瞼の開閉音すらさせないほどの徹底ぶりで、闇の中に没し、じっとしていた。その存在が放つ禍々しい雰囲気は、妖気となって立ち上ってくると思ったが、四郎がどんなに奥に進んでも、その気配すら感じ取ることができなかった。
すでに四郎は、暗闇の中を数間も進み入り、その身体は完全に四周を闇に包まれていた。振り返れば、いま入ってきた戸口が、蒼白い四角の嵌絵となって、かなたに美しく見えることであろう。しかし、進む先にあるのは、ただの真暗闇であった。
右脇には、さまざまな高さの形象物が、雑多な形を描きながら二段に並び、四郎の歩みを見つめている。
背後を火炎光に包まれ、三鈷剣と羂索を提げた不動明王の像、綺羅びやかな二重の放射光に照らされた薬師如来、なにものをも背負わず、軽く足を組んで柔らかな頬笑をただ浮かべる弥勒菩薩、そして大きな宝珠光とともに、陰と陽のすべてを見下ろす阿弥陀如来・・・それら、人の世を守護してくれる筈の数多の形象物が、暗闇の中でただ盲のような四郎を見つめているのだ。
そして・・・その背後の闇のどこかに、奴が潜んでいる。
四郎は、突発的な怒りにかられ、脇に居並ぶ、この役にも立たぬ仏像どもを全部この降魔の剣で薙ぎ払ってしまおうかと考えた。この膂力に任せて手前から奥まで、すべての仏像を薙いでしまえば、そのなかに、忌まわしき大臣を宿した芳一の頸が、きっと含まれておるに相違ない。この状況では、おそらくそれがもっとも手早いやり方だ。
だが、寸前で思い止まった。おそらく、そうすることで、四郎は、大臣同然の闇に落ち込むことになるのであろう。もとは自分の母の身を救うためにやって来たが、今は大いに意味が変じて、水底の宕から、この地上の人間界すべてを救うための戦いになって来ている。
これら物言わぬ菩薩やら如来やらが、具体的に自分の戦いに力を添えてくれているわけではないが、おそらく、この聖戦を戦う四郎にとって、してはならぬ一線があるのに違いなかった。四郎は地上の人間であり、そして、人として越えてはいけない一線を越える気は、無かった。
そこで四郎は、ふと歩みを止め、闇の中に呼びかけた。
「のう、大臣。お主にとって、怖いものはあるか?」
答えは、無かった。そこにはただ、森閑とした闇が広がっているばかりである。
四郎は構わず、こう続けた。
「宕か?それとも別の何か、か?儂はの・・・この長門国一番の剛勇無双と言われ、自分でもそうと自惚れておったこの儂はの、子どものころ、実は星空が、とても怖かった。」
闇。そして沈黙。
四郎は続けた。
「霜降の城のてっぺんで、よく星空を見上げた。父に疎んぜられ、主だった家臣どもからも見下され、城内の何処にも居場所が無くての。風のそよぐ夜、ひとりで座って、ただじっと夜空を見上げた。真黒な天球いっぱいに、無数に散らばる星々。あれはいったい何なんだろう、とよく考えた。数限りなく、遠近にきらきらと輝いていて、そのひとつひとつが宝玉のようだ。しかしそれらはまるで生きもののようにも見え、何か今にも、一斉に零れ落ちて来てしまいそうな気がした。儂は、不思議で不思議での。あれらは月や太陽と、なにが違うのだろう?そして・・・あそこにも、人は居るのかなどと、いろいろなことを考えた。」
沈黙。
そして闇。
「だが、今にして思えば。」
四郎は、暗闇のあちこちを見渡して、言った。
「そこに誰が居ようと、なにが在ろうと、なにもない暗闇よりは、ましじゃ。そう思うようになった。ともかくも星々は、夜空を彩り、明るく照らし続けてくれている。なにもない暗闇の奥底でただじっと潜み、宕か、それとも他のなにかにずっと脅えて生き続けるよりは、たとえこの身を危険に晒すとしても、前を向いて立ち向かうほうが、儂の性には合っている。だから・・・儂は今では、星空が好きじゃ。」
暗闇のかなたで、かすかに、「ふっ」と嗤う声が聞こえた。
大臣が、四郎の長口舌に思わず漏らした反応であった。だが彼は、思い直したように再び固く沈黙を守り、闇の中にただじっと潜み続けた。
四郎は、その闇に向かって、まるで友に語りかけるかのような口調で、話しかけた。
「お主は、わが母の身の安全を請合ったが、どうやらそれは空約束であったようだのう・・・残念至極ではあるが、それはもはや、どうにも仕方がない。お主も恨まぬ。おそらくは、母の運命だったのじゃ。だが儂は、それでもまだこの旅を続けるぞ。お主を討ち、外の亡者どもを残らず討ち平らげて、そして・・・宕に見えに参る。そして、面と向かって勝負し、これを討ち取る。」
はっきりと、そう言い切った。
「いま、この降魔の剣を手にしておるしのう。もしやお主の目的は、儂ではなく、この剣だったのではないか?維盛は、これを片時も手放そうとしなかったからの。どうだ、図星であろう?」
闇の彼方には、また死の沈黙が戻っていた。四郎は構わず続けた。
「儂は、思うのじゃ。闇の中にただ潜み居るだけでは、しょせん、できることには限りがある、とな。それよりは、星空のあかりに、照らされておったほうがいい。無数の星々に照らされ、その助けで、わが征く道を指し示してもらうのじゃ。かつて儂は、星空が怖かった。だが今では、もう怖くはない。星々は、儂の友なのじゃ。そして儂には、狩音がおる。山風がおる。星の明かりが、そして友が居る限り、儂はお主なぞに決して負けはせぬぞ。そして・・・宕にもな。」
ここまで言って、息をつき、そして大声を張り上げて、闇の奥に潜む大臣を怒鳴り上げた。
「さあ、申せ!お主にとって、もっとも怖きものは、何じゃ!」
「それは、輝血だよ!」
とつぜん、暗闇のなかに、幼い童女の声が響いた。
四郎はぎょっとして、暗闇のなかで身構えた。そのとき四郎は気づかなかったが、持仏堂の奥の暗がりで一瞬間だけ、黄色いふたつの明かりがまたたき、またすぐ消えた。
「輝血だよ!輝血だよ!輝血だよ!」
その童女の声は、はしゃぎまわるようにケタケタと笑いながら、まるで闇の奥の大臣を馬鹿にするようにその名前を連呼した。
四郎は、思い出した。それはあの土牢のなかで聞いた、輝血の声だ。あの、訳のわからぬ不気味な歌を詠み、言葉にもならぬようなたわ言を並べ立てては、牢の外に居る大の大人たちを童の飯事に誘った、あの輝血だ。
だが、母の身体にとり憑いていた輝血が、どうやってこの暗闇にまでやって来たのであろう?もしかすると彼女にも、大臣同様の遠隔憑依のちからがあるのであろうか?
輝血は、前後左右もわからぬ暗闇のどこかから、キンキンと響く耳障りな子どもの声で、なおもこう続けた。
「大臣は、輝血が怖いんだよ!いつも偉そうにしてるけど、ほんとは気の小さい、弱いやつなんだ。ほんとはね、木通丸よりも下品で、朧冠者よりも頭が悪くて、どうしようもない、だめな奴なんだ。だけど、口はうまいんだ。だから、こうして口だけでいろんな人を困らせるんだよ・・・でも、大臣は、じぶんでは、なにもできないんだ!そして・・・ちっちゃな輝血が怖いんだ!」
輝血の声は、容赦がなかった。そして遂に、我慢のならなくなった大臣が、闇の奥から、怒号とも咆哮ともつかぬ叫び声を上げ、まるでつむじ風のような勢いで、四郎に向けて飛び掛かって来た。
刹那のことで、四郎もわずかに遅れをとった。構えた剣の刀身にそのまま大臣の身体が打ち当たり、かなたに弾け飛んで、そのまま地に落ちた。傷ついた大臣は、這いながら持仏堂の入口へと向かい、そして、腹から飛んで、外に出ようとした。
その瞬間、蒼白くなった戸口の外から、人の足のかたちが見えて宙に跳ねた大臣の顔を蹴り、闇の中へと押し戻した。仰向けにひっくり返った大臣の胴体を、四郎の振り下ろした神剣の一撃が襲った。
おそらくは錯覚であろうが、神剣は、この得物を逃すまいと、わずかに光を放ってその鋒を少し熱したように見えた。ずばっ、という大きな音がして、骨と筋肉とがまとめて截たれ、血と唾と、そして肉片が四方に飛び散った。この致命的な一撃で胴体へ斜めに大きな裂け目ができ、大臣の、いやすでにぼろぼろになった阿弥陀の芳一の肉体は、最後のとどめを刺された。
その肉体は、斬られた反動でいったんふらりと立ち上がったが、そのままくるくると舞ってふたたび戸口の外へと仆れ伏した。
はあはあと、肩で大きく息をしながら四郎が外へ出ると、戸口の脇には狩音が控えていた。そして、四郎の顔を見ると、にっこり笑い、こう口真似してみせた。
「かがちだよ。またあったね!しろうちゃん、おげんきかな?」
四郎は、彼女が忍術の一環として、会ったばかりの相手の口真似を得意にしていることを思い出した。大臣が唯一恐れていた輝血の口真似をし、その虚栄心を傷つけ、暗闇から見事にいぶし出したのだ。
四郎は、心の底から狩音のその機転に感謝した。
だがまだ、戦闘は終わっていない。四郎はかなたを振り返り、金堂の伽藍からこちらに向かって来ている、多数の亡者たちの壁を見つめた。先ほどこの神剣で、あんなに斬り倒したのに、まだまだ残った数は多く、それらがまとめて伽藍を降り、境内をじりじり進んで、間近に迫ってきていたのだ。
死者たちとの、最後の決戦だ。
四郎は、狩音の顔を見つめ、ここからは儂の仕事だとばかりに、握った神剣へ、ぐっと力を込めた。そして、ひとり進み出でて神剣を構え、壁となって近づく死屍の群に正面から向かい合った。
・・・しかし、その決戦は、生起しなかった。
やがて死屍のうちの一体が、とつぜん力を喪ったかのように、どさり、と音を立てて崩折れた。そして、塁壁の右と左で同時に同じ音がし、境内に大きな土埃が立った。周囲で起こる異変に、人の軍なら互いに首を廻して様子を確かめ合うことであろうが、すでに死んだ彼らには、そうする必然などない。
だが着実に、どさり、どさり、どさりと倒れ伏す個体の数が増え、それらは連鎖し、やがて続けざまにどどどと連続音を立てて、塁壁のあちこちが毀れ始めた。
四郎は、寄せ来る塁壁の一角に、あの帯来入道の顔を見つけた。彼も他の仲間同様、表情を失い、うつろな眼をして、ふらふらと前に向かって歩んでいたが、とつぜんなにかを亡くしたかのように倒れ、そのまま動かなくなった。
どさり、どさり、どさり。
つい先ほどまで、数百の威容を誇っていた屍鬼どもの大群は、その彼らに指令を下していた、傀儡使いの大臣がその生命を喪うとともに、役割を終え、次々ともとの屍体に戻っていったのである。間もなく、阿弥陀寺の境内に、動く屍体は皆無となった。
決戦は、生ける人間二人の不戦勝であった。
ふたたび屍に還った幾百の亡者たちを、月光が柔らかく照らし、そのまえに微風に煽られた雲が掛かって、光をゆらゆらと揺らした。崩折れる屍鬼どもの立てた砂煙はようやくのこと収まり、いったんは高く噴き上がったが、ゆっくりとまた境内の砂地に沈降していった。
動くものはなにもなく、そこに残る、生あるものはただ二人だけ。
まるで水底の武者蟹のように小さな、たった二人の人間だけだった。
「終わったな。終わった・・・我らは、生き残った。」
四郎は、ふとそう呟いた。そして、胸底から突き上げてくる熱い想いのままに、身体を寄せてきた狩音の肩を抱き、唇を寄せて、柔らかな襞を成す狩音のそれを、思い切り吸った。まだ戦闘態勢だった狩音の身体からみるまに力が抜け、たおやかな、娘の身体となって四郎の腕に身を任せた。
四郎は、狩音の口を吸いながら、手に握った神刀を離し、空いた右腕を狩音の首に当て、彼女がいつも提げている首輪についた装飾を、ちゃらちゃらと音を立てて、優しくまさぐり出した。
翡翠の勾玉、銀製の薄い菱飾り、きらきらと輝く丸い川原石。
そして・・・。




