表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海峡奇譚  作者: 早川隆
55/71

第四十六章   昭和三年(1928年)晩秋   米国 ボストン

ひとしきり、かりかりかりと引っ掻く音のあと、小さくノックがあり、やがてドアがゆっくりと開いた。




その隙間の低い位置から、真黒な何者かが素早く侵入して来た。それはそのまま床の上を影となって疾走(はし)り、さっきまで浅野が寝ていたベッドの下に駆け行って、闇に隠れた。


続いてドアが、外から開け放たれた。幅の広い風圧が浅野の顔を撫で、彼は、ドアの外に立つ二人の人間を認めた。ひとりは、この家の使用人ハジメである。彼は、挨拶よりも先に、腰を屈めてこう呼んだ。

「斎木!こら斎木、逃げちゃだめだよ。こっちへお戻り!」

そう言いながら室内に入ってきて、直接、さっきの影が疾走ったほうを探った。


もうひとりは見知らぬ顔であったが、やはり日本人のようだった。彼は黒縁の丸眼鏡をかけた中年配で、いがぐりの頭に、丸首のシャツを着ているだけの軽装である。よく見ると、ハジメの格好も同様であった。


はじめて見る男は、浅野の顔をしげしげと眺めると、にっこり笑い、やにわに直立不動の姿勢を取った。そして、腰をそのまま45度くらいに折り、背をまっすぐにして挨拶した。

「浅野教官!お久しぶりです。濱谷(はまたに)です。海軍機関学校でかつてお教えを受けました濱谷久次郎です。ご記憶は無いかも知れませんが、私はよく覚えております。まさか、こんなところでお会いするとは!」




浅野も驚いた。名前を言われて、その顔の面影と見合わせ、すぐと思い出した。何回生であったかまでは思い出せなかったが、たしか浅野が横須賀の機関学校に着任して数年目に入ってきた生徒である。もう25年以上も昔のことだ。


しかし濱谷は、浅野の記憶にある濱谷とは、ひどく違っていた。いがぐり頭は似ているが、当時の彼は、こんなに肉付きがよくなく、細身で筋肉質で、色がとにかく黒かった。真夏の横須賀の陽光に炙られ、浜辺の持久走や遠泳などの野外今日教習で鍛えられ続けた結果である。


彼はまた模範的な生徒でもあり、はきはきとして素直であった。頭脳明晰というほどではなかったが、非常に勤勉に勉強をする性質(たち)であり、教官としてはとても教えやすい生徒だった。


あの頃は、着任からさほど日が経っておらず、浅野も若く必死であった。結婚し、子どもを成し、日々赤子の夜泣きに追われながら毎日寝不足で頑張っていた頃である。その頃の記憶は、不思議と常に鮮明であった。


若き濱谷は、たしかどこかの漁師町生まれで、遠泳が大の得意だった。まだ三十になる前の浅野も、ときどき生徒たちに混じって機関学校の敷地内にある浜辺から海を泳いだが、濱谷の驚異的な体力とスピードには、到底追いつけなかった。


また彼は、さして大柄な訳ではないが柔術の名手でもあった。身体が柔らかく、受け流しが巧みで、常に相手の意図の裏をかき、先手、先手と攻めまくる流儀で、同期の中でも戦績は一等だった。浅野も、戯れにへっぴり腰でなんどか向かい合ったことがあるが、いつも数秒後には地面にごろりと転がされていた。濱谷は、日焼けした真黒な顔で教官を見下ろし、白い歯を見せて朗らかに笑ったものだ。


その濱谷はしばらく、浅野を見つめながらぎこちなくその場に立っていた。肉がつき、膚はかさつき白くなっている。浅野は気づき、彼を部屋の中へと招じ入れた。彼は嬉しそうにまた一礼し、駆け込むように中へ入ってきた。




先に部屋に入り込んだハジメのほうは、すでに目的のものを捕獲し終えていた。それは真黒な猫で、今はすっかり大人しくハジメの両腕に抱えられている。彼は猫の頭のうしろを撫でながら、言い訳した。

「申し訳ありません。こちらはサイキという名の、ミナさんの愛猫なのです。僕らに懐いていまして、僕らが今晩この部屋に向かうと、とことことくっついて来て・・・。」


「斎木、という名なのかね?」

浅野は、濱谷にまずなんといって良いかわからず、先にハジメに聞いた。

「はい。変わった名前ですよね。ご主人の趣味でつけたのです。」

「ギリシア神話の女神プシュケ、英語読みではサイキ、から来た言葉ですよ。我々は、発音が面倒くさいんで、斎木と日本人の姓で呼んでいます。こら太田、こちらの浅野先生は、もとから英文学の偉い教授なんだぞ!お前さんなんかより、よほど英語をご存知だよ!」


「教官ですよ。教授じゃありません。」

浅野は苦笑いしながら、言った。

「それにしても久しぶりだ。ええ、もちろん君のことはよく覚えていますよ。(かお)かたちが変わって、すぐには思い出せなかったけれど。元気でしたか?」

「覚えていてくだすった!はい、おかげさまで。なんとか元気にやっています。」

濱谷は相好を崩し、眼を一本の皺のようにして笑った。そして、ちょっとだけいたずら坊主のような顔をすると、背中に隠していたものを、浅野の目の高さに差し上げて見せた。


一升瓶と、ガラスのコップが3つ。


「教官は故国(くに)を離れて、どれくらいです?そろそろ、コイツが懐かしいでしょう。この家の地下に秘蔵されてる日本酒ですよ。まあ、持ち込んだのは僕らですけれどもね。なにせ今は表向き全面禁酒の国ですから・・・あまり浴びるように飲む訳にはいきませんが。なに、この建物は壁が厚くて音なんか聞かれやしませんから、どうです、こっそり一杯やりませんか?」




深夜の臨時非合法酒場(スピーク・イージー)にて始まった日本人同士の静かな酒盛りで、濱谷久次郎は、機関学校卒業後の自分の人生を語った。


機関学校を三年間で卒業し、有望な技術士官としてまず少機関士に任じた彼は、その謹直さを買われ、横須賀を皮切りに、新編なった佐世保や舞鶴などの海軍工廠の造機(ぞうき)部を転々として経験を積んだ。


時あたかも日露戦役戦捷(せんしょう)の直後。海軍は空前の大拡張ブームに沸いており、さらに日露戦前は国外から買い付けていた大艦の国産化も始まっていた。


それまでまるで森の栗鼠(りす)のように極東の片隅で大国ロシアの南進にびくびくしていた弱小海軍が、わずか数年のうちに世界一等の大海軍国となり、欧米列強に伍してアジア、西太平洋に覇権を打ち立てていくことを決意していた。技術士官濱谷久次郎は、そんな急成長組織のなかにいきなり放り込まれたのである。




仕事は、楽しかった。フル稼働で爆発的に増大する需要に応えようとしていた各地の海軍工廠では、日々あらたな未知の問題が起こる。この解決のために頭を捻り、英文資料を漁り、そこでの知見やヒントをもとに仮説を立て、実験する。こうした毎日が、彼の技術と見識を短期間のうちに飛躍的に伸ばした。


機械は素直で、起こることには必ず原因と理由がある。問題解決のためには、正確な状況判断と原因分析、さらに複雑に絡み合った原因要素を分解し、解法を編み出すことだ。これで、大抵のことはなんとかなる。一足す一は、常に二だ。


しかし、人の集まりである海軍の組織は、そういう訳にはいかなかった。当時、大拡張を続ける日本海軍の組織には、生え抜きの兵科士官や技術士官だけでなく、事務方にさまざまな背景を持つ、一癖も二癖もある人間が入り込んできていた。また、士官たちの中でも上から現場を見下す官僚主義者が徐々に増えていった。


そうした人間の集まりの中では、一足す一は、ときに三になり、またあるときは零にもなった。まだ若く、あくまで現場で得た身体感覚を純粋に信奉する職人肌の濱谷は、ときに激しくこの不合理に(あらが)った。




やがて、無能な上官の保身や過干渉に飽き飽きした彼は、海軍組織を出ることを決意する。民間の造船企業や船会社など、当時は海運に関わるすべてに豊富な仕事の口があった。しかし、いささか自信過剰で、性格的なつぶしの効かぬ濱谷は、やがてこれら民間企業も所詮は人の集まりであることを知る。


以降、彼は海外を転々としたが、そうしているうち徐々にその知識や経験は()びついてゆき、こなせる仕事の量も質も減った。四十の坂を越え、いま彼は技術屋としてではなく、浅野に習い覚えた英語のみをよすがに、クランドン家の使用人として身を立てている。たまに出かけるのは、周辺の港に大きな船が入ってくるとき。それを眺めに行くのが好きなのである。今日は、あの世界屈指の巨船、ベレンガリアが紐育に到着するのを見に行っていたのだ。


「なんと・・・私はそのベレンガリアで来たのですよ!では君と、ボストン=マサチューセッツ鉄道で反対方向にすれ違っていたのかもしれないね。」

「まあ、私は朝から行っていたので、すれ違ったのは紐育かもしれません。なにせ、いつもあの人だかりですからね、あれじゃ自分の親がいたってわかりゃしませんよ。」


濱谷はそう言って、少し淋しそうに笑った。郷里のことや親のこと、彼がいま結婚しているのかなどを聞こうと思ったが、その微笑みを見て、浅野は控えるべきだと思った。




ここで、ずっと猫をあやしながら水など飲ませていた太田(ハジメ)が、こう割り込んできた。

「ところで、浅野先生。先生のような偉い学者さんが、この家になんのご用事なのですか?お医者様では、ないのでしょう。」


自分のことばかり話していた濱谷も、はっとしてそれに乗っかった。

「そうでした!教官のその後のことを、なにも聞いていない。私は、改元してから以降はずっと故国(くに)に帰っていないし、その後のことは、まるで知らんのです。」

「でも改元後ということは、つい数年前だね?」

「いやいや、その前の改元ですよ。だからもう、最近の事情にはとんと疎くて。」


浅野は、自分が当時とは似ても似つかぬ心霊主義者になっていることを、昔の教え子に言うかどうか迷った。あの、近代合理の総本山のような海軍機関学校でともに三年を過ごした、教え子というより若い仲間のような彼に、その当時の自分が奉じ教えていたことを、全部捨てた、などと、今さらどうして言うことができようか。


また、どうもその後の人生で辛酸を()めた彼は、そうなる前の機関学校時代の昔をひどく懐かしんでいるようでもある。もしかすると現在、異郷の寒空のもと使用人としてただ黙々と働く日々を、燦々(さんさん)と降り注ぐ陽光のなか、走り廻り泳ぎ廻ったその昔の美しい記憶が支えているのかもしれない。そんな彼に、浅野の転向という事実は、どう響くであろうか。




浅野は迷ったが、けっきょく全てを話した。大本のこと。弾圧のこと。心霊研究のこと。そしてこの旅の目的。クランドン家に来たのも、クランドン博士ではなく、実はマージナリーに会うことが目的だということも。




「なるほど・・・そういうことでしたか!なら納得だ。なにしろ、夜はずっと皆さんで実験室にお()もりでしたからね。奥さんを使った降霊会には、毎週のようにお客様が来られるから。」

まだ若い太田は、すんなりとその説明を受け入れたが、濱谷はそうではなかった。


彼は、言った。

「まさか・・・浅野教官。まさか、あの手品を本物の霊現象だと信じておられるわけではないでしょうね?」

「その、まさかですよ。私は心霊主義者です。もちろん、実証的に研究し、証明することが必須のことだけれど。今晩見た奥さんの能力は、たしかに真正のものだ。あれを否定し去ることは、誰であっても難しい。」


「奇術王フーディニであっても!」

太田が、呑気な合いの手を入れた。浅野は笑った。

しかし、濱谷は笑わなかった。悲しそうに首をふり、浅野を憐れむように言った。

「教官!どうか目を覚ましてください。あんなものは、ただのトリックです。手品です。たぶん何年か前に、フーディニさんが暴いたとおりの仕掛けですよ・・・僕らは、あるていど裏側の事情を知っている。ここの家は払いがいいから、外部には漏らしていませんけれどね。でも、日本海軍の機関学校のもと教官が、あんな詐術に騙されちゃいけません。」


「残念ながら今の君とは、考え方がどうやらまるで違ってしまったようだね。先ほどの実験には、私だけでない、数多(あまた)の一流科学者たちも列席したし、その我々の目の前で、霊を媒介とした驚くべき成果が得られた。君と論争する気はないのだが、詐術と言い切るのには、それなりの理由があるのだろうね?」

浅野は、穏やかにそう反論し、かつての教え子に質問した。




濱谷は、ひるまずに言った。

「私は奇術師じゃないし、降霊会(セアンス)に列席したこともないから、個別の具体的なところまではわかりません。でも、奥さんがああした能力とやらを発揮するようになった前後の事情は、全部覚えていますよ。それをお教えしましょう。聞くと納得ですよ。でもどうか、ここだけの話しに願います。」

「承知した。それはまことに興味深い。喜んでお聞きしよう。」


「教官は、その道に入るきっかけが、息子さんのご病気だったとおっしゃいましたね。」

まず濱谷は言った。浅野が頷くと、

「実は私の身の廻りにも、降霊術にはまってしまった人や、インチキ祈祷師に大金を貢いでいる者が何人か居ます。大抵は、医学では治せない自分の体調不良や近親者の病気などをなんとかしたい、という想いがきっかけなのです。」


少し、ためいきをつきながら浅野を見た。彼は続けた。

「もちろん、戦争で亡くした身内と話がしたいなんてのも、その立派な理由になります。それは、国の内外問わず、人類普遍の自然な人情のようですな。ただ、ミナさんの場合は・・・ちょっと変わっていて、これから失いそうな旦那さんの愛を、なんとかつなぎとめるためなんですよ。」


濱谷はそう言い、自分の雇い主たちの人となりや、これまでの経緯を浅野にざっと説明した。




ル・ロイ・ゴダード・クランドンは、全国的に名を知られた北米医学界有数の名医であり、ボストン社交界きっての名士でもある。ハーバード・メディカル・スクールで教鞭をとる傍ら、いくつかの専門書をものし、さらに腕のいい現役外科医師としても幾多の貢献を医学界に対して為した。中でも、患者の(へそ)のまわりを切開し、傷痕を残さずに虫垂を切除する手法を確立したことで、あくまで非公式にだが、「おへその(ベリーボタン)クランドン」という異名を取っている。


しかしその「おへそ」は同時に、「世界の中心」という意味も込められており、ル・ロイの優雅で自己中心的、そしていささか傲岸不遜(ごうがんふそん)な性格を揶揄(やゆ)する目的でも使われていた。すなわち、生まれついての上流階級で、人と容易に打ち解けない彼の狷介(けんかい)さを指し示しているのである。


彼はまた、徹頭徹尾の合理主義者であり、宗教や迷信を嫌い、医学も科学も、きちんと数値と根拠で証明できるもの以外の説には耳も貸さない。その峻厳で妥協を許さぬ性格は、医師というよりも軍人に向いていた。事実、第一次世界大戦に米国が参戦したあと、彼はニューイングランド海軍病院のチーフスタッフとして、前線から海を越えて後送されてくる負傷兵たちの手術や看護に当たった。


そしてそこで・・・偶然にか意図的にか・・・以前、近隣のドーチェスター病院で虫垂手術をしたことのある元患者が、同じ海軍病院に志願看護婦として勤務していることを知った。彼女はカナダ生まれの既婚者でひとりの子持ちだったが、離婚調停中の身の上であった。戦後まもなく、ル・ロイはこの看護婦を妻とし、ライムストリート10番地に彼女の連れ子と共に迎えた。連れ子はのちに、自分の正式な養子にした。




すでに勤勉な使用人としてあちこちの名家で重宝されていた濱谷久太郎が、人から紹介を受けてこの家に入ったのは、つい、その直前のことであった。




「奥さんはですね、ああした気配りのできる、可愛げのある人で。」

濱谷は言った。

「この家に来られた最初から、使用人のすべてが彼女に魅せられてしまいました。旦那さんのほうが、割と峻厳な、情け容赦のない理詰めの人だから。我々が、なにかやらかして旦那さんにこっぴどく怒られたりしてるときも、それとなく奥さんが笑顔で間に入ってくださって・・・そうすると、ピタリと旦那さんの癇癪(かんしゃく)は収まってしまうのです。」




ル・ロイはたしかに、ミナにぞっこんだった。日頃が堅物で通っているだけ、ミナの持つ自然な優しさや可愛らしさは、彼の人生に、それまでなかった彩りと潤いをもたらした。しぜんとル・ロイが笑顔を浮かべる回数は多くなり、廻りの人間に対する当たりの厳しさも徐々に和らいだ。


しかし同時に、彼はある不安に(さいな)まれていた。外科医として多くの患者の生死に接し、戦争中は四肢がバラバラに千切れ飛ぶほどの悲惨な重傷者の治療などにも関わっていた彼は、心が疲れ、さらに続く自身の体調不良が、なにか死の予兆なのではないかと恐れ始めた。


いっぽう、ミナのほうにも悩みがあった。今は、この上ないほど良好な夫との関係であるが、これがいつまで続くものか、不安で夜も眠れないのである。我儘(わがまま)なル・ロイの気は移ろいやすく、過去二人いた妻とも、それぞれ三年で離婚してしまっている。


なにか、ちょっとしたきっかけで他の女に心が奪われてしまうのではないか。自分に飽きて、せっかく(つか)んだこの幸せが壊れてしまうのではないか。やや歳かさとはいえ、背の高いハンサムな社交界きっての名士には、当然のこと日々さまざまな誘惑も多かろう。彼が講義や往診と称して外出するたび、ミナの不安は募っていった。




そうした、両者の抱える不安を一挙に解決する方法があった。


1924年、あの四角四面の堅物ル・ロイが、突然へんなものを持って帰ってきた。合理と学術ばかりの人生を送ってきた彼にとって、それはなにやら妖しげな魅力を放つものだったのであろう。また、日々感じる死への不安が、彼にそうさせたのかもしれない。


ともかく、「テーブル・ティッピング」という、その文字盤を用いた最初の降霊会(セアンス)で、ミナは、驚くべき異能を発揮した。


座の空気が読める繊細なミナは、ひとつの冴えたやりかたを発見した。大昔に亡くした弟を守護霊と称して呼び寄せ、夫の健康状態に対する不安の相談相手とする。そうすると、夫の気持ちは落ち着き、他の女に心が移ろうこともなくなる。また、こうした降霊会の催しを通じて、他とあまり交わることのなかった夫の性格が、多少なりとも社交的になってきた。さらに言うと、彼は、実はこうして人の輪の中にいて、ちやほやされるのが好きである。


だから・・・自分は今後とも、ずっと「マージナリー」で居続ける。冥界(めいかい)の弟の協力を得て、ル・ロイの心をつなぎ止めつづけ、かけがえのない自分の連れ子に相応の教育を受けさせ、その輝かしい未来を保証してやるのだ。


以降数年を経ずして、「マージナリー」の令名は世界にとどろき、ここライムストリート10番地は、アメリカ東海岸における降霊会(セアンス)の聖地として多くの訪問客を集めている。そして濱谷と太田は、その客のあいだを忙しく駆け回って給仕を続け、もう何年も外国人の使用人としては破格の高給を貰って、そこそこ余裕を持って生活しているのである。




「そういうことなんですよ・・・つまり、人並み以上に身が軽く曲芸師のように身体の柔らかい妻が、夫の心の不安を癒やし、さらに夫に頼られ喜ばれることで自らの地位を失わないよう念じて(せん)じ始めた、いわば夫婦でともに呑む向精神薬みたいなものなのです。」


「なるほど。それが君の見聞きしてきた事柄から導き出せる、唯一の合理的な推論というわけですね。」

浅野は、かつての教え子に、かすかな皮肉を込めながら言った。

「ええ。これは、明らかなる詐術です。でも、いじらしいじゃありませんか。なぜって、奥さんは、誰も傷つけていない。むしろ、たとえインチキであっても、この家に集まってくる多くのお客にマージナリーの驚異を見せつけて愉しませ、死の影に怯える夫の気を散らして、自分のお子さんの未来を築こうとしているのです。誰も、損害を被ったものはない。敢えて言えば、騙されているのは旦那さんだが、ありゃ、自業自得ですよ。それどころか、たぶん闇の中で、旦那さんは奥さんの詐術の片棒を担いでいます。」


「もうすでに地位も名誉も、うなるほどの財産もある、ル・ロイ・クランドン博士ほどの人が、ひとつ間違えば自分の地位を脅かしかねない、そんな危険な賭けに出るとはとても思えないのだが・・・いや、だが、君の話は興味深かった。もしかしたら、マージナリーがその異能を発揮するきっかけは、家庭内のさしせまった事情があった・・・それは、確かにそうなのかもしれない。」




「でもまだ、かつての教え子による種明かしには、完全に同意していただけていない。」

濱谷は、浅野の渋い表情を読み取り、苦笑いしながら言った。

「あの浅野教官が、まさか霊界の実在を信じ、説いて廻る方になっておられるとはね・・・時の流れというのは、恐ろしいものだ。」


浅野も苦笑いしながら、

「お互い当時とは似ても似つかぬ姿で、まるで考えもしなかったような日々を送っているね。まあ、それが人生の玄妙なところですよ。」

「それは、確かに仰るとおりですね。」

濱谷も師に同意し、これまでの自分の長い長い人生航路を思い、そして納得して深く頷いた。




翌朝7時に目覚めた浅野は、眠い目をこすりこすり食堂に降りてミナと挨拶を交わし、昨日は会えなかったミナの連れ子で、今はこの家の養子であるジョン・クランドンと握手した。ル・ロイは往診に出かける寸前まで執筆中の医学書に取り掛かっているということで、朝食には降りてこなかった。


浅野は、これまで飲んだこともないようなこの家の美味な珈琲にびっくりし、それをサーヴした太田は脇でニヤリと笑いかけた。他でもない、彼と浅野は、つい数時間前まで、禁制の酒を出し車座に座って昔話に(ふけ)っていた共犯者同士なのである。


ミナは、そんな二人の様子に何事か感づいたようではあったが、笑顔を崩さず、息子と学校のことなどを話していた。




予定では、今晩もミナ、すなわち「マージナリー」を中心とした降霊実験が行われることになっている。それまでは全く暇なため、浅野はル・ロイ・クランドン博士の運転する車に同乗して彼の往診に同道し、ボストン周辺のあちこちを廻ることになっているのだ。


やがて出発の時間となり、身の回り品だけを持った軽装の浅野は、ライム・ストリート10番地のクランドン邸の前で、ガレージからフォードを廻して来たル・ロイに拾われ車上の人となった。




ボストン市内では二三の大病院に立ち寄り、豪勢な数軒の私宅を見舞った。車中のル・ロイは上機嫌で、昨夜の実験の上首尾を喜び、遠く極東から妻の驚異を見に来た浅野を、彼なりに一生懸命にもてなそうとしてくれた。


昨夜の濱谷に言わせれば、その歓待はあくまで外交的な必要性から来るもので、決して本心からのものではない。つまり、異様なまでに執着心と名誉心の強い偏執狂ル・ロイにとって、遠く離れた東洋の島国からわざわざ彼と妻の名声を聞いてやってきた浅野は、フーディニをはじめとする霊能力否定派に対する一種の間接的な示威行動になるというのである。


浅野は、それは深読みだと思った。隣でハンドルを握る、鷲鼻の、身なりのよい老紳士は、純粋に浅野の来訪と実験の成功を喜び、そして妻の器量と異能と、春風のような優しさに接することに、日々幸福を感じているように思えたからである。




それから市外数十マイルの距離まで遠乗りして、さらに数軒の豪邸に車を付けた。途中、ハーヴァード大学の構内を通り抜けながら、ル・ロイはそこの学生だった頃のイタズラとか、恋の鞘当てとか、およそ彼らしくない馬鹿話などまでしはじめた。どうやら彼にとって、学生の頃は、とても良い時代だったらしい。濱谷と同じだな、ふと浅野はそう思った。


そして話はいつしか、この界隈に多数散らばる、他の大学のことへ移っていった。浅野はふと思い出して、こう聞いた。

「ボストンへ来る途中、ミスカトニック大学でなんとも奇妙な研究をしているという、女性の歴史学者と話したのです。」


「ミスカトニック?なんですか、それは?」

ル・ロイは、ハンドルを握りながら、不思議そうに聞き返した。

「え、先生がご存知ないのですか。たしかにこの界隈に大学や研究機関は多いけれど、広い意味ではご同業ですから、大学名くらいはご存知かと思っておりました。」


「うーむ。知らぬ筈はないのだが。もしかしたら、つい最近、新設された大学なのかな?場所は、どこなのです?」

「たしか・・・ボストンからちょっと離れた、アーカムという街だということでした。」

「アーカム?はて・・・。」


ル・ロイは、さらに不思議そうに言う。

「新設の大学名をまだ知らぬ可能性はあるが、このあたりの街の名を、わたしが知らぬ筈がない。この近辺に、そのような街は、ありませんよ。」

「えっ・・・では、私の聞き違いかしら?」

「おそらくそうでしょう・・・慣れない土地の名前は、間違えやすいから。」


そう言うとル・ロイは、見えてきた四階建ての大きな病院の門に入り、病院前の駐車スペースにつけて、浅野にこう言った。

「さて。こちらでは二名の患者の様子を見て、あと一名、知り合いの医師と話をしてきます。たぶん15分から30分程度だと思いますが、少しお待ち下さいね。」

そう言って、往診鞄を手に表階段を駆け上っていった。




浅野は、先ほどのやり取りが気になって、外に出ずそのまま車中に座って考えた。


ミスカトニック、アーカム・・・どちらも存在しないとル・ロイは言う。彼の性格と、この土地で長年開業しているという事実を考えあわせると、その言葉に間違いはなかろう。


すると、あの美しい奇妙な女、エスター・ロスが、ありもしない嘘を自分に対してついたことになる。ちょっと変わった性格の女が、不慣れな異国の旅人を、暇つぶしにちょっとからかってみただけなのであろうか。もちろん、あり得そうなことではある。


しかし・・・浅野は思った。あの吸血鬼文献に対する異常なまでの知識と、各方面の事象に対する見識の広さ。そして頭脳の明晰さを明らかに物語る、論理的で明快な話し方。どれも、彼女が只者でないことを示している。浅野の脳裏に彼女が強烈に印象されたのは、ただその美しさや可愛げのある仕草の数々だけではない、その無二の個性と、強い存在感のせいだ。


彼女の言葉に、嘘は全くないように思えた。


「はて・・・いったいぜんたい、これはどういうことだろう?」

浅野は、誰もいないフォードの車中で、こうひとりごちた。




そして、さらに不思議なことが起こった。




正確には、なにか不思議な胸騒ぎがし、浅野はその次に起こることをなんとなく予期した。そしてまさに、その通りのことが起こった。


病院の駐車スペースに、一台の車がすーっと入ってきた。レモン・イエロー色の洒落たシェヴィ (シボレー)である。そして、砂利を噛むタイヤの音をさせながら浅野の乗った黒いフォードの横につけると、ハンドルを握ったドライバーが、横を向いて浅野に微笑みかけた。


浅野がいま、ずっと考え続けていた、エスター・ロス本人であった。




浅野は驚いて、よろよろとフォードを降りシェヴィに近づいた。エスターも、車を降りて浅野に向かい合った。彼女はオレンジ色のクローシェを被り、襟にファーのついたラップオーバーを着ていた。そして、浅野に何も言わせず、まず自分からこう言った。

「サブ。いま多くを説明している時間はないわ。お願いだから、いますぐ私の車に乗って!」


「え?なにを言っているのかね!私のほうでも、君に聞きたいことがある。」

浅野は言った。

「あなたに・・・あなたに、とんでもない危険が迫っているの。あなた、昨日はリッツ・カールトンじゃなくて、マージナリーの家に泊まったでしょ?」

「たしかに、そうした。でもなぜそのことを貴女が知っているのだね?」

「行ったもの!あのあと。貴方に会いに行ったの!そしたら、貴方はリッツに泊まらず、クランドン邸に向かった、って・・・。」


「クランドン博士の強い勧めでね。あなたの言うとおりにしようと思ったのだけれど。でも、なぜまた私に会いになど来たのだね?」

「言ったでしょう?あなた、いま、とんでもなく危険な状態なの!あなた、奴らに狙われているのよ!」

「なんの話だか、まったくわからない。奴らとは、誰のことだね。わかるように説明してくれないか?」




「ええ、いいわ!このわからず屋!」

エスターは怒ったように言うと、直接こう斬り込んできた。

「あなた・・・欧州からずっと、なにかに追われていたでしょう?得体の知れない何者かに。」

「なぜそのことを知っている?私は、列車の中でもそのことは話さなかった。」

浅野が、不思議のあまりどこか責めるような口調で、エスターに聞いた。


「ダゴンよ!ダゴンよ!このばか!あなた、ダゴンに付きまとわれているの!」

とつぜん、わけのわからないことを言った。

「ダゴン・・・知らない。何なんだ、それは。」

「深い海の中にいる怪物よ!それが、思念波(ソウト・ウェイブ)を飛ばして、あなたの意識の中にがっちり入り込んでいるの!そしてときに周囲の人びとにも。あなた、ときどき廻りの人が突然説明のつかない行動をとったりしなかった?」

「あ、ああ・・・そういえば、何度かあったようだ。」

「それよ!やはり貴方、とてもまずい状況にあるわ。いますぐ逃げないと。」

「逃げないと、って、何から逃げるのだね?その、ダゴンとやらから逃げるのかね?」




言いながら浅野は、気づいた。

ダゴン・・・(たご)


そうだ、宕だ。夢のなかの宕が、この現世でも自分を追いかけて来ているのだ。スイスの湖で、ユングの吹いた石笛の音がきっかけで接続された現世と夢の世界が、この新大陸にまでその影響力を及ぼしてきているのだ。でもなぜ、エスターはそのことを知っているのだろう?


「それはひょっとして、タゴのことかね?私の国にも、そうした名の化物が居たようなのだが。だがもちろん、伝説に過ぎないはずだ。」

「たぶん、まさにそれよ。西洋ではダゴンと言われているの。いえ、正確には、知っているのはごく一握りの人間だけ。ミスカトニックでその研究をしている数名のグループと、フィルだけよ。私は、そのグループの一員なの。」


「ミスカトニック大学は・・・存在しないといま聞いた。アーカムという街も。」 

「ル・ロイ・クランドンがそう言ったのでしょ?彼なら、絶対にそう言うわ。なぜなら、彼は、ダゴン秘密教団の最有力の一員だから!」

「ダゴン秘密教団?なにかの宗教団体のことかね。全く知らないのだが。」


「その名のとおりの秘密結社よ。結社が狂信的に信奉しているのは、ボストンやセイラム、アーカム、そしてインスマウスといった、この周辺の古い港湾都市にもう数百年も蔓延(はびこ)っている邪宗なの。セイラムの魔女裁判の話をしたでしょう?あれも実は、ダゴン宗徒たちが起こした事件なのよ。私はその研究をしているうち、その邪宗が、社会の裏側でいまでも連綿と続いていることに気づいた。続いているどころか、ボストンをはじめ、このニューイングランドの海岸地方で、社会の上層人士たちを多数巻き込む一大勢力になっていることを突き止めたの。」


「そして、いま私と車に同乗しているクランドン博士が、その邪宗徒たちの頭目だと言うのかね?」

「いえ、違うわ。」

エスターは言った。そして、浅野をじっと見上げて、言った。


「マージナリーよ。彼女がその教団の首領。ル・ロイ・クランドンは、彼女の妖力と魅力とに取り憑かれた、単なる使用人に過ぎないわ。そしてあの家に居るふたりの日本人。残念だけど、彼らもグルだわ。いいこと、サブ。あなた、いま、人を火炙(ひあぶ)りにし、生贄(いけにえ)にすることすら(いと)わない、忌まわしい敵の巣窟で寝起きをしているのよ!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ