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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第四十五章   安貞二年(1228年)秋   長門国 阿弥陀寺

二本足でまっすぐ突っ立ち、四郎を指差す芳一の姿は、つい先ほどまでの哀れをとどめる不具者のそれではなかった。堂々と、そしてしっかと足を踏みしめて立ち、背筋をピンと伸ばして、まっこうから四郎のほうを向いていた。


その眼は、もちろん開いてはいなかった。以前と同じく、半分垂れ下がった(まぶた)の下に半眼のみが見え、そこに光はない。しかし、見えているのかいないのか、その指先は、まごうかたなく四郎の頭の方角をぴたりと指している。


そして指先は、微塵も揺れていなかった。まるで芳一の身体だけ時を止めて動かぬ塑像(そぞう)にでもなってしまったかのように、四郎を指弾したまま微塵も動かないのである。不思議なもので、そうされると、その指の先にいる四郎の身体も、がんじがらめに縛られたように、微動だにできなくなってしまう。


間に立った狩音も、この想像を超えた事態にどう対処したらよいかわからず、不安そうにきょろきょろと芳一と四郎を交互に見た。まるで、動かぬふたりの男の間には、見えない蜘蛛の糸が伸び、片方が片方を絡め取っているかのようである。




しかし・・・動いた。


やがて芳一のほうが、動いた。差していた指をたたんで下ろし、別の腕でさすってから、ぽんぽんと腰のあたりで埃を払い、そして笑いだした。

「はっはっはっは・・・!」


先ほどまで琵琶を構えて唸っていた芳一の声でも、甲高い童子の声でもない、まったく違う第三の声である。しかし、はじめて聞く声ではない。どこかで、つい先ごろ聞いた声だ。淀みなく爽やかで、滑らかな響きのするその声。ついで芳一は言葉を発し、四郎はそれが誰の声なのかを悟った。


「さすがの剛勇無双、厚東忠光どのも、この度は、いささか度を失っておられるようでございますな。」

霜降城の土牢で、母の身体を借りて(あらわ)れ出ていた、あの男の声であった。




大臣(おとど)・・・大臣か?」

「いかにも。大臣で御座る。二日ぶりの再会、誠に嬉しゅう御座る。」

「そちは・・・。」

そのあとは、言葉にならなかった。向こうでは、狩音もぽかんと口をあけて、この成り行きをただ見ている。


言葉を喪った四郎に代わって、大臣がそのあとを勝手に引き取った。

「いや、いや・・・拙者も、斯様に驚かせる積りは御座らなんだ。なんとも間が悪く。お詫び申し上げる。お察しのとおり拙者、ただ母君の内に()りて皆をまとめる任につくのみならず、たまにこうして宙を飛び、他の身体に降り立ち、こうして言葉を発することなどもできるので御座る。ただしこれは、よほどの場合のことに限られ申す。」


悪巫山戯(わるふざけ)もいい加減にせよ!いまお主は、帝に成りすまして、我等を(あざけ)ったのだぞ。木通丸(あけびまる)と違い、品も格も在ると自称するお主らしくないではないか!」

「あ、いや。それは四郎殿の誤解で御座る。」

芳一、いや大臣は、慌てて手を振って弁解した。


「本来、阿弥陀の芳一の中には居らぬ拙者が、芳一の身体に降りるには、もとより芳一に()きし者共が、いたか休んでおるか、とにかく居ない時に限られ申す。すなわち、今の琵琶の弾き語り、その後の帝と二位の尼とのやり取りなど、他の誰かが()せしことが済み、誰もいなくなるまでは(はい)り込めませぬ。すなわちあれらは皆、我の仕業にあらず。」




「それでは、母は?母は、どうなったのじゃ!」

「ご案じめさるな!(やく)(たが)えぬ。母君はいまだご健在で御座います。今頃は、輝血(かがち)が降り立ち、牢の中に生えた(きのこ)の頭など撫でながら、稚気豊かなる歌でも詠んでおる頃。」


大臣はそう言うと、にやりと笑って四郎の顔を眺めた。

「それにしてもこの二日間、素晴らしきご活躍でござる。さすが、長門国第一等の勇武の主。われらずっとこの(さま)を見て御座った。わずか二日ばかりの間に、守護代と結んだ平家残党の謀略を暴き、その蜂起を未然に防ぎ、そしてまた今、その背後に居る、(たご)なる首魁(しゅかい)のもとへひたひたと迫りつつあり。そこなる狩音殿のお働きも天晴至極(あっぱれしごく)。吾が想像の、遥か上を行く大成果で御座います。」


「人ごとのように申すな!お主は、御裳裾(みもすそ)や阿弥陀寺あたりに出る妖魔どもを討てば、母が治ると請け合うたのだぞ。いまやっとその妖魔が出たかと思えば、お主ではないか!伊輪の砦で、我等を(にえ)に成そうと襲い来たりた(くび)なし武者どもは、五体揃うた異国の人間であった。この怪異の原因を作った郷人どもは、ただの平氏の残党であったわ!すべて人の為せしことじゃ。わかったか?妖魔などどこにも居らぬ!さあ、お主は、如何(いかが)するのじゃ?母をもとに戻して返すのか?」


「残念ながら、そうは参りませぬな。」

大臣は、少しにやつきながら言った。

「たしかに、怪異と思われた事どもの、あるところまでは人の為せしことであった。しかし、すべての背後にあるものを見極めてこそ、事態の解決となり申す・・・もうおわかりであろう、四郎殿。貴殿の果たすべき役目は、その宕なるものを、みごと討ち取ることで御座る。」




「気軽に申してくれるの・・・しかも、かなり高いところから見下されておるような気がする。不快じゃ。」

四郎は、吐き捨てた。

「そもそも、土牢(つちろう)でお主を信用したのがわが過ちであったかも知れぬ。あちこちの人間にとり憑き、これを思うがままに動かすほどの異能を持ちながら、その人間に頼らねばならぬのか?お主自身では宕を討てぬのか?」


「然り。我、自らは現世(うつしよ)()でるための肉体を持ち申さず。これが定めなのでござる。故に、我に代わりて貴殿に宕の成敗をお願いしたまで。」


「大臣、貴様はさきほど、宕を討つが儂の役割と申した。役割とは、目上の者が配下に対して使う言葉じゃ。貴様がそれこそ、役割として母にとり憑く者どもを取りまとめておることは聞いた。だが、それで宿主の母より上に立っておるつもりか?この儂を、思うがままに操ることができると思うておるのか!」


ぎろりと大臣を、いや大臣の降りた芳一を(にら)み、さらに言った。

「おまえは、いったい何者だ!」




四郎のたたみかけるような一連の鋭い詰問に、さすがの大臣も、いささか答えに窮した様子であった。そして、いきなり、まるで意味のわからないことを言い出した。


輝血(かがち)とは、鬼灯(ほおづき)のことでござる。」

「なに?」

「いや・・・母君にとり憑く者らのうちで、いちばん降りる回数が多く、時間の長いのが、あの知恵の足らぬ童女(わらべ)でござる。」

「それが、どうした?」


「母君は、鬼灯を食すのがお好きであった。そうでござろう?」

「そのことは、既に話した。だからどうしたと聞いておる!」

「それでござるよ、それ。」

大臣は・・・盲人の(かお)を借りて、ふたたびニヤニヤしだした。

「実は拙者、母君にとり憑くすべての者共を支配下に置いてござるが、ただひとり、あの輝血だけは思うがままに操れぬ・・・あの知恵足らずの小娘は、わが意図せぬ拍子に、意図せぬ降り方をして、いつも話をひっかき廻すのでござる。」


「それとこれと、なんの関係がある!」

横に来ていた狩音が、厳しい口調で問いただした。大臣は彼女を無視して、続けた。

「すなわち、あの輝血こそ曲者でござる!なにもできぬ愚かな童女の素振りをして、実はいつでも好きなときに母君にとり憑き、思うがままに操る・・・」


しばらく、ぶつぶつと呟くように言っていたが、大臣はとつぜん態度を豹変させた。いきなり甲高く声を張り上げた。

「この儂の命にも従わぬ!いや、一切、この儂が居ることすら無視する。許せるか?四郎!これが許しておけようか!」




そして、その(おぞ)ましい本性をあらわにし出した。

「その輝血が、曲者なのじゃ!その輝血こそが、お主の討つべき妖かしなのじゃ!四郎!我に従え!わが命ずるとおりに、輝血を討ち取れ!」


わけのわからない、そんな戯言(たわごと)を何度も唱えながら、大臣は動かぬはずの足を自在に動かして内陣のあちこちをせかせか動き回りはじめた。もはや、四郎のほうを見てすらいない。独り言をぶつぶつと続けながら、遂には須弥壇(しゅみだん)に登って、三体並ぶ仏像の間の闇を見え隠れしつつ、なお言葉にもならぬ言葉をわめき始めた。


「輝血じゃ!輝血じゃ!輝血じゃ!輝血じゃ・・・輝血がすべてじゃ!」




そう叫ぶや、その背がまるで海老のように背後へ反り返った。そのまま、げぼりと音をさせて、真上になにか黒い飛沫(しぶき)を吐き出し、そして大臣は虚空に向かって、獣のように咆哮(ほうこう)した。


大臣が噴き上げた黒い飛沫は、さらに細かく砕け散り、細かい霧のようになって須弥壇のそちこちに落下した。三体ある仏像に、その霧と飛沫が同時にかかり、黒光りする仏になにか粘性のあるものがべちゃりと付着した。飛沫のなかには、なんらかの固形物を含んだ部分があり、それらが仏像の肩に、頭に引っ掛かって、すぐとは落ちず、ずるりと糸を引いて垂れ下がった。


それは明らかに大臣の・・・いや、阿弥陀の芳一の肉体に備わっていた臓物の欠片(かけら)だった。それらが、どろどろと渾然一体となって吐き出され、血の飛沫とともに周囲に撒き散らされたのである。


飛沫は、須弥壇の上にいる、大臣自身にも降り注いだ。彼は、みずからの借りた肉体そのものから発した内蔵の雨を浴びながら、血だるまになったまま、にやりと笑い、四郎を見た。不思議なことに・・・眼球をつねに半分覆っていたあの瘡蓋(かさぶた)のような固い(まぶた)はどこかに消え失せ、眼がぎろりと見開かれ、黄色く生々しい光を放っていた。




同時に、四郎の背後、どこか遠くの方で、なにかがむくりと起き上がる気配がした。それはまだ気配だけであったが、ひとつだけではなく、次々と起こった。そして、そのひとつひとつの気配に表情があり、区別があり、大小の、あるいはそれぞれの禍々しさの濃淡に差があった。四郎はまずそれを、(はだ)で感じた。


少し離れたところに居る狩音も、四郎と同じく、背後のただならぬ気配に気づいているようだった。二人は、わずかな月の光だけが差す金堂の伽藍(がらん)のなかで、瞬間、眼を合わせた。どうしたらよいのか?いや、わからない。まだ振り返らずに、前方の大臣(おとど)の動きを注視し、少しのあいだだけ様子を見よう。彼らは心のなかで、こう会話を交わした。




がさり、がさり、がさり・・・。


四郎と狩音の背後で次々と起こるその気配は、やがて伽藍の両脇に伝染し、左右のあちこちからも立ち(のぼ)りだした。だがやはり、背後の気配がもっとも濃厚である。意を決して四郎は足裏を板の上で回転させ、一気に後ろを向いた。そのときには、自然な反射で、腰につけた愛用の木刀を抜き、後ろへと向くときには、すでに上段に構え終わっていた。


なにも、なかった。


そこにはただ、なにもない伽藍の虚ろな空間が、ひとつの大きな闇となって広がっているだけである。誰もいない。なにもない。しかし、気配だけは次々と立ち上ってくるのである。




そして、なにかが、締め切られた鎧戸を引っ掻いているような音がした。


かりかりかり・・・

がりがりがり・・・


音は(かす)かであったが、はじめはひとつだったものが、ふたつになり、みっつになり、この広い伽藍を取り囲む数十枚の鎧戸のあちこちに、木の板を引っ掻くような音が鳴った。音は徐々に大きな合成音になり、そのうち数枚の鎧戸が、かたかたかたと小さく震え、鳴り出した。


それでも、伽藍の中には誰も居ない。外には、先ほど見た通りただ数百の屍体が転がっているだけである。もしかすると、須弥壇の上で血に(まみ)れ、恐ろしい本性を(あらわ)した大臣のなにか眼に見えぬ力が作用しているのかもしれない。四郎はふたたび、木刀を構えて大臣に向き直った。大臣は壇の上で、傍らの本尊の首根に手をかけ、にやりと笑って四郎を見下ろした。その歪んだ口の端から、ぼとりと小さな固形物が下に落ちた。




しかしやがて、狩音が気づいた。彼女は気を励まして、鋭く叫んだ。

「四郎様!外でございます!この伽藍の外に、なにか異変が起きておりまする!」

こう言うとやにわに脇へ駆け出し、唯一、細く開いている鎧戸の隙間に手を差し入れ、戸板を浮かして一気にそれを倒した。


(おぼろ)な月の光に、蒼白(あおじろ)く染め上げられた境内が広がり、そこにいくつかの人影が見えた。全員、髪の毛のほつれた民草(たみくさ)の姿で、男もいれば、女もいた。老人も、若い者も混じっており、その腰のあたり高さには、ところどころ小さな子どもの姿が見えた。


それら数十名の民草の一団が、ただそこに茫然と立ち尽くしていた。それぞれの顔にはなんらの表情もなく、どこか精の抜けた木像のようである。彼らは、狩音を見ていなかった。四郎も見ていなかった。ただ茫然と、自分の目の前の一点だけを眺めていた。


彼らは、青白い月の光に照らされて、まるで陽光がわずかばかり届く水底でたゆたう海藻のように、その場で立ち止まり、地面に影を落としながら、ただ、ゆらゆらと微動していた。


何人か、小さな子どもが縁の上に上がり、かりかりと鎧戸を外から引っ掻いていた。彼らは突然、眼の前の板が狩音に引き倒され、自分たちの上に(かぶ)さるように倒れ込んできても逃げようとせず、ただぽかんとした顔で引っ掻く動作を宙で続けた。




「これは・・・これは如何なることか!そしてお主は何者か!正々堂々、名乗れや大臣(おとど)。」


四郎は、苛立ったように大臣に命じた。もうあまり、猶予があるようには思えない。今は鎧戸のひとつが引き倒されただけだが、まだ締め立てられているこの伽藍のすべての鎧戸の外で、同じような光景が広がっているのであろう。


すなわち、先ほど倒れ伏していた数百の屍体がすべて蘇り、この境内と、伽藍のすべてを取り囲んで、ただ茫然と立ち尽くしているのだ。




大臣はただ黙り、眼下の人間二人が戸惑うさまを、楽しんで見下ろしているように見えた。が、やがてため息をつき、血みどろの顔のまま四郎に言った。


「如何なることか、だと?馬鹿な・・・お主はやはり、ただの猪武者だのう。」

「なんだと!」

「見てわからぬか!これが霜降に聞こえた、歩く屍体の姿じゃ。人は死に、そして、もと居たところに(かえ)るのじゃ。ふらふらと、なにも考えず、なにも感じず、ただ還るのじゃ。これぞ、皆の夢に見た補陀落渡海(ふだらくとかい)じゃ。皆で還るのじゃ、もと居たところ・・・あの水底(みなそこ)へな!」


「お主、何者じゃ。人か・・・それとも、(あや)かしか?」

「厚東四郎が、怪力乱神をようやく認めたのう。そうよ、儂は妖かしよ。お主ら地上の下らぬ人間どもが使う名で呼ぶならば、な。」

「一体、なにが望みじゃ!なんのために、かくも多くの民草の命を犠牲にした?」

四郎は、吐き捨てた。それをただ吐き捨てる以外に、今の自分の気持の持っていく先がない。


「犠牲、じゃと?」

大臣は、嘲笑(わら)うと、続けた。

「なぜ犠牲と称す?人間はいつか、みな死ぬのであろう。死ねば皆、ああなるのじゃ。彼奴らについては、それがちと早かった。それだけのことじゃ。」


「このあさましき・・・心の亡き鬼めが!」

狩音が罵った。だが、大臣は相手にしなった。一言、こう言った。

「まこと元気の良い娘子(むすめご)よ。だがお主もさして、我らと変わらぬ。」


「楽しそうだの・・・大臣。もしやお主、霜降の土牢からずっと我らを欺き、ここへ誘導して、待ち受けていたのだな?」

「見事!ご明察よ。猪武者にも、考える頭が少しはあったか。それに免じて少しだけ褒めておいてやる。途中、お主に伊輪が潰されたのは誤算であった。長府がわれらの支配下に落ちていることも気づかれた。それらは既に霜降に報ぜられておろう。霜降に聞こえるということは、そのまま多々良の知るところともなる、ということじゃ。今頃はおそらく両者手を携え、長府の近くまで一軍を寄せておるに違いない。すなわち、水底(みなそこ)(たご)と、地上の人間どもとの全面対決じゃ。これは、面白いことになったわい。」


「お主が、宕ではないのか?」

「儂は違う。ただ、宕に雇われただけのことよ。うまくすれば平家の奴原を操って地上を押さえられると思うたがの。それはお主のおかげで失敗じゃ。でもまあ、よい。これから、お主たち人間どもが、水底から揚がり来たりた宕に追われ、泣き叫び、気狂いとなりながらばりばり喰い殺されていくのを、高見の見物じゃ。ははは、こりゃ、地上を支配するより面白い!つくづく、四郎、お主は最高の仕事をしてくれたの。この大臣(おとど)、あらためて礼をば申し上ぐる!」

大臣はふざけて、語尾だけもとの慇懃(いんぎん)な口調に変えた。




「お主を斬りたい・・・いますぐ、(なぐ)り殺したい。」

四郎は、ゆっくりと言った。

「儂はいま、この世に妖かしが実在すると知った。そして、人間以上に醜く陋劣(ろうれつ)な、性悪(しょうわろ)(おぞ)ましきものであると知った・・・儂は、お主を許さぬ。これだけの民草の命を、ただ(たわむ)れのために(あや)め、操るお主を、決して許さぬ。お主がそこで笑っておられるのも、あとわずかの間だけだ・・・まずは、其処なる御仏(みほとけ)(そば)より退()け。」


決然と、そう命じた。大臣は意外な成り行きに少し戸惑ったようだったが、笑顔でその求めに応じた。彼は須弥壇から降り、血みどろの姿のまま、内陣から四郎を眺めてこう言った。


「さすがは厚東の御曹司。まことに()き気勢じゃ。しかも、民を想うその優しさ。泣けてくるのう・・・だが。」

「だが、なんだ?」

「お主は、お主の愛す、その民草どもにいまから蹂躙(じゅうりん)されるのじゃ。踏み砕かれ、喰い千切られて、ばらばらにされるのじゃ。そして最後は、奴らと同じところへ行く。まこと、現世(うつしよ)とは因果な場所よ。人とは、哀しき生きものよ・・・儂は、ときどきこの人の世が、恐ろしゅうなる。」


大臣はなおもそう言って()れ、そして手を上げ、なにか宙で印を切るような仕草をした。




わずかな間があって、やがて、不揃いな音が響きだした。


ずり、ずり、ずり・・・。


なんの音であるかは、外の様子を見ないでもわかった。もはや、魂を抜かれ歩くだけの(しかばね)と化した民草ども数百名が、いまの大臣の合図で、一斉に伽藍の中の二人に向かって進撃を始めたのだ。


ゆっくりと。不揃いな足取りで。

ずり、ずり、ずり・・・。


さして広いわけでもない境内を、彼らは、ひどく長い時間をかけてのろのろ進んでくるように思えた。しかし、やがてその先陣の数名が縁の上に達し、もともとそこに居た子どもたちを構わず蹴飛ばし、踏みつけて、鎧戸に殺到し出した。


踏まれた子どもたちは、泣きも、叫びもしない。ただ表情を変えず、死屍の物理法則に従って、上にのし上がった大人の屍の重みを受け止め、そのまま背骨を折られた。ぼきり、と幾つか音がしたが、その子どもたちの死屍が動きをとめたのかどうかは、わからない。


なぜならその頃には、数十名もの屍鬼(しき)が縁上に上がり、あとからあとから折り重なるその体重で鎧戸を押し、数枚が既にばりばりと音を立てて内側に倒れていたのだ。一斉に埃が中に吹き込み、やわらかで蒼白い月の光とともに、そこで待ち受ける四郎と狩音の姿を照らし出した。




ゆっくりと歩む亡者の群れが、ものも言わず、前をも見ずに、うつろな進撃を続けて伽藍の聖域に侵入して来たのである。

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