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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第四十四章   昭和三年(1928年)晩秋   米国 ボストン

浅野は、ミナのあとについてクランドン邸のあちこちを廻ったが、四階建の広壮なビルディングは、ひととおり案内されるだけでも足腰に多少の疲れを覚えるほどの大きさであった。


その途中、奇妙なことがあった。


幾つかある地上階から二階へと向かう階段が屈曲する部分に置かれている蓄音機が、浅野が通り過ぎるごとに勝手に作動を始め、置かれていたレコード盤に針が落ちて、行進曲が鳴り出した。その後も、ここを通るたびなぜか不思議に同じ現象が起こり、まるでこの家の守護霊が浅野を歓迎しているようにも思えた。


このような仕掛けは、日本では見たことがない。もしかすると、近在のハーヴァードや工科大学(M I T)などの器用な学生に作らせた、来客を驚かせるための仕掛けである可能性も残されていたが、不思議なことに、他の人間が通るときには、なにも起こらないのである。


その現象が起こるとき、なぜかいつも浅野一人きりだったため、ミナやハジメに原因を質問しそびれた。その場で聞くのでなければ、彼らの返してくる答えは、もちろん同じであろう。


先進の電気工学による尖端技術か、それとも心霊現象か。いずれにせよ並外れた出来事であるには違いなかった。




もう一人の日本人の使用人は、昼間は学業で出掛けているとのことだった。彼は、ハジメよりも年上の、年季の入った留学生だという。今日は泊まり込みで、ちょうど実験が終わる頃には戻ってくるだろう。そのとき、あらためてご紹介しますよ、とハジメは日本語で言った。


広い応接間では、すでに先客が大勢到着し、クランドン家の豪勢な茶菓の饗応に預かっていた。男たちは皆々正装し女たちはいずれも豪華なドレス姿で、東洋の心霊研究家を迎えて行われる今夜のイベントを、彼らがいかに重視しているかが伝わってきた。


男たちの半分は長身で、鷲のように鼻が高く、すらりとした体型だった。ひたすら長い両の脚をもてあまし気味に腰の上に組み、ソファやビロード張りの椅子に深く座って談笑している。生まれながらの金持ちで、幼い頃から身についたゆったりとした所作で寛ぐ典型的な上流階級であることが、ここに始めてやって来た異邦人でもひとめ見ただけでわかる。


女性たちは、比較的高齢者が多かったせいか、さほど痩身長躯というわけではない。それでも、目鼻立ちがくっきりしているところは男たち同様で、しかも、みな一様に非の打ち所のない社交的な笑顔を浮かべていた。そして、その胸元や手首には、一人の例外もなくキラキラと煌くネックレスやブレスレットが巻かれ、指にはあちこちに指輪が輝きを放っていた。




先客たちに較べれば、メイン・ゲストの浅野の格好は、いかにも長旅の塵にまみれた東洋人そのものであり、決して貧相というほどではないにしろ、いくぶん見劣りのするものであった。浅野は、エスターがボストン駅頭で言っていた警句を、今更ながらに反芻した。まずはおそらく、見てくれでマイナス一点というところだろう。


やがてル・ロイ・クランドン博士が立ち上がり、彼らに浅野を紹介した。彼にも浅野の情報はあまり詳しく伝わっていなかった様子で、簡単に姓名と素性だけを紹介したあと、自己紹介を求められた。これまでのやり取りで、まずまず問題なく来客たちとコミュニケートできることは、先ほど玄関先で確認済というわけである。浅野は、彼特有の物怖じしない諧謔で、ボストンの上流人士たちを湧かせ、挨拶だけですっかり彼らの中に溶け込むことができた。


ミナは浅野の横に立ち、うれしそうにニコニコと笑っていた。




そのまま夕食となり、相棒のいないハジメは、あと二人居る他国の使用人たちと一緒になって、汗をかきかき一生懸命に給仕した。同じ国の人間であるにも関わらず、他の人士とともにテーブルに着席し、ナプキンを首から提げた浅野は、この状況をいささか奇異に感じたが、ハジメのほうでは慣れているらしく、全く変わらぬ笑顔で肉の載った皿や飲物をサーブしてくる。


いったんテーブルに着座すると、一座の主役は、まさしくミナ・クランドンであった。彼女は、自分が長口舌を振るうというよりも、ひたすら笑顔で相手の話のよき聞き手になり、無口な出席者へタイミングよく話を振って会話に参加させ、その座持ちの良さを遺憾なく発揮した。


浅野は、クランドン夫妻がなぜ、またたく間にボストン社交界の、ひいては心霊界の名物夫婦になったのか、その理由を悟った。そして、ミナに促されるまま、日本における自分の来歴や、大本入りしたこと、そして有為転変の末に心霊研究の専門家となり、先日の英国での講演が大反響を呼んだことなどについて語った。


日頃は聞けないこの新鮮な異邦人の話に、一座は興味深げに聞き入っていた。




やがて食事が終わり、テーブルから離れた一座は、ぞろぞろ連れ立って階段を上がり、屋根裏を改装した四階の実験室に向かった。屋根裏、といっても、そこは長く連なるビルディングの屋根の下の空間をほぼまるごと刳り抜いたような大部屋で、建物の躯体が煉瓦造りで頑丈なことから、あいだに柱が一本も入っていないという、大人数を集めるのには理想的な作りになっていた。


ここであらためて、浅野は参集した皆の簡単な紹介を受けた。あまりに大人数だったため、顔と姓を一致させるくらいのことしかできなかったが、それでも彼らが、このボストンきっての名士の集まりであることは一目瞭然であった。


紐育から来た米国心霊協会のキャノン判事夫妻、名門スミス・カレッジの心理学者ロジャース博士とその助教授二名、その他ハーヴァードやボストン周辺のいわゆるアイビー・リーグの学者数名。さらに「ヴァリアンタイン」と名乗る、デトロイト在住の有名な霊媒老女がこの実験のためにやって来ていた。




円形に並んだ椅子の中央に着座した「マージナリー」ことミナ・クランドンの脇に「ヴァリアンタイン」が座り、浅野はその横に座った。合計8名が円になり、その他の参集者は列外に座って見物人となった。


英国での降霊会とは違い、降霊前の賛美歌の斉唱などの勿体振った儀式は一切なかった。午後8時30分きっかりに灯火が落とされ、橙がかった赤色灯だけの光に代わり、すぐにマージナリーの守護霊、ウォルターがその姿を現した。


現した、とはいってもその姿はどこにも見えず、彼が立てるどこか淋しげな口笛の音だけである。真正の闇でないだけ、少し眼を凝らせば同じようにきょろきょろとしている円の向こう側の参加者の顔貌が茫っと見えなくもないが、ウォルターらしき姿は、どこにもない。ただ、マージナリーの前か後ろか、おそらく1メートルかそこらの距離で、彼女を護るかのように声が沸き起こってきた。


「ハロー・・・みなさん、お揃いだね。」


ウォルターは、少し無遠慮な口調でそう挨拶した。すでに彼を知る参加者たちが、気安い口調で順々に挨拶を交わし、最後に浅野がこう呼びかけた。

「私は、あなたとは始めてです。日本から来ました。マージナリーと貴方の噂は、私の国にまで聞こえていますよ。今日は出てきて下すって、本当にありがとう。」


ウォルターは、少し威儀を改めた様子で、比較的丁寧に、こう答えた。

「これはこれは。神秘と礼節の国から、わざわざこんな遠いところまで。マージナリーから聞いてましたよ。今日はですね、何人か日本人の霊魂にも声がけしておいたから、あとでやって来るかもしれない。」


「なんと!それは楽しみだ。たぶん、私とは日本語で会話ができそうですね。」

「たぶん、そうでしょうな。日本語は霊界で学ぶのもやはり難しくて、私もさっぱり、チンプンカンプンだ。」

ウォルターは言い、一座は橙色の闇の中で、なんら緊張感のない、明るい笑いに包まれた。




英国で出てきたジョンはいくぶん人見知りの霊魂だったが、ウォルターはかなり気さくで、おしゃべりだった。以前はかなり無遠慮かつ不機嫌だという噂を聞いていたが、どうやら、霊魂も社交術をあとから学ぶことができるようであった。


これではまるで、生きたアメリカの青年と問答するのと、少しも変らない。彼女の兄が、死んだ時の年齢の声のまま浅野と問答しているあいだ、マージナリーは入神状態に陥り、軽くいびきをかいて寝入ってしまっている。彼女の、ボブにした金髪が、となりのヴァリアンタインの肩の上に載っているのが、気配でわかった。


そしてそのヴァリアンタインが、マージナリーに代わって、異変を感知した。

「あら?浅野さん、どうやら日本の客人が、こちらに近づいてきている様子ですよ!」

引き続き、まるで違った男の野太い声が、こう続けた。

「そのとおりだ!ヴァリアンタインの言うとおりだ。いま、日本人の霊魂が、この降霊部屋(セアンス・ルーム)にゆっくりと、降りてきている。」


さいしょ、浅野は円の向こう側から誰かがそう呼びかけてきたのかと思ったが、その声はどうやら、ヴァリアンタインに憑いたインド人の守護霊、ブラック・フォークから発せられた声のようだった。




やがて、降霊部屋(セアンス・ルーム)にある種の気配が満ちて、そこに新たな参加者が到着したことが察せられた。ウォルターが言った。

「日本人が来たよ。」


続いてブラック・フォークが、

「奴ら、霊界でもまじめなんだ。たぶん俺たちインド人の次くらいに頭が良くて、勤勉で、よく働く。でもちょいとばかり人見知りで英語が下手なのが玉に(きず)、だな。」

と偉そうに被せ、一座はまた笑いに包まれた。




実は、実験初日の本日のメイン・イベントは、日本人の霊魂招来ではない。それは、ウォルターが気を利かせて浅野にサービスしてみせた、いわばおまけのようなものである。本日もっとも重要だったのは、マージナリー、ヴァリアンタイン、そして15マイル遠隔のケンブリッジの自宅に控える新進の霊媒、リッツェルマン夫人による三者の対照通信実験であった。


実験内容は、以下のようなものであった。


まず浅野が、あらかじめ14枚の厚紙に、日本語の漢数字を順番に書く。そしてそれをごちゃごちゃにかき混ぜ、自分でもわからないようにしてから、まとめて大きなポケットの中に入れておく。


さらに本日の実験の公式立会人でもある、スミス大学のロジャース教授が、助手に手伝わせて、まだ開いてもいない買ってきたばかりの雑誌と、日めくりのカレンダーとを大判封筒のなかに入れて封をし、携帯しておく。


そしてそれを闇の中でウォルターに託して、なんらかの方法で三者に伝えさせるのである。もちろん、三者のうち二名は、いままさに浅野らと一緒に座っている。残りの一者は、遠く離れた場所に居り、この家にある唯一の電話器の前には、ロジャースの助手が一人、張番をしている。


なんらかの超自然的な能力を以てしか、伝達する方法は無いはずであった。




まず浅野がウォルターの求めに応じ、ポケットのなかの厚紙から、任意に一枚を取り出しウォルターに渡す。闇の中で手応えを感じ、厚紙はしっかと彼に受け渡された。そしてきっかり十秒後、その厚紙は浅野の掌の上に戻された。これを四回繰り返し、続いてロジャース教授が手に持った封筒から、暗闇の中で手当たり次第に雑誌の表紙や広告などを四枚ほど引き破った。そして、日めくりのカレンダーのなかから三枚を千切って、順々にウォルターに渡した。


このやり取りが終わったあと、いったん明かりが点けられ、一同は目を慣らしながら階下の応接室へと移動し、驚くべき実験結果を目の当たりにしたのである。




応接で別々に座ったマージナリーとヴァリアンタインは、それぞれ、言葉を交わすことなく黙々と紙の上に、脳裏に伝わった内容を筆記した。


マージナリーの書き取った答えは、

浅野の数字:4、10、13、3

日めくりの数字:16、4、5

雑誌の文字:Outdoor Life/Detective/Learn Electricity/Earn……Pay

と書かれ、最後だけやや自信なさげに、25 years……と付け加えられていた。


いっぽう、 ヴァリアンタインのそれは、

浅野の数字:四、十、十三、三

日めくりの数字:16、4、5

雑誌の文字:Learn Electricity/Earn your pay/Twenty five years


続いて、ロジャース博士自らが電話確認した遠隔地のリッツェルマン夫人からは、浅野の文字だけが見えたとして、こう説明されたという。

「四角のなかに、髭のような二本の歪んだ線が上辺に接続された文字。続いて、十字にクロスしたシンプルな文字。そして、そのクロスの横に三本の横線が並ぶ文字。さいごに、その文字の右側のみ。」




見え方は僅かに違ってはいるが、いずれも再現度の高い、正しい答えであった。


もっとも正答率が高いのはマージナリーであったが、惜しいかな浅野の書いた漢数字がアラビア文字で表記されていた。これはおそらく、彼女が過去にも日本人や中国人の霊魂に接し、自動書記で漢字を書いた経験があることから起こった潜在意識下の自動変換で、ウォルターから伝えられたイメージは、他の二人と一緒で、浅野の書いた日本文字そのものであった。


入神状態から我に返ったミナ・クランドンは、

「やっちゃった。」

とでも言いたげにぺろりと舌を出し、いたずらっ子のように笑った。




ともかくも、このボストン界隈でも前例のない野心的な、霊魂を媒介とした三者対照通信クロス・コレスポンデンスは、世界の心霊実験史にも特筆すべき、じつに破天荒ともいえる大成功をおさめたのである。




この対照通信の成功で、初日のプログラムはほぼ終了というような雰囲気になった。霊媒の二者はほっと胸を撫で下ろして微笑み合い、ル・ロイは重責を果たした妻の手を握って、やや強張ってはいるが愛情に満ちた眼でその横顔を眺めていた。


脇ではロジャース博士が助手たちとなにごとか囁きあい、今後のことを相談している。他の参加者たちは一様に深い溜め息をついて、この大いなる実験の成功に立ち会えた栄誉を噛み締めていた。




とつぜん、ミナが自分の膝をたたき、大きな声を出した。

「いけない!上でウィルターが待ちかねているわ!」

すると、ヴァリアンタインも同時に腰を浮かせた。どうやら、彼女のインド人の守護霊もウォルター同様の思念波のようなものを送ってきたらしい。


一行はそのまま、どやどやと階段を急ぎ足で駆け上り、屋根裏の実験室に戻った。そして、あかりの消えた実験室の暗闇の中で、テーブルに置かれていたはずのラッパが、ふわふわと空中に彷徨っているのを発見した。


皆が到着し、開いた扉から光が差し込むと、ぱたりとラッパは床に落ち、人の気配はかき消すようになくなったが、やがて一同着座し、明かりが完全に落とされると、またウォルターが戻ってきた。

「どうでした、皆さん?実験の首尾のほうは。」


「素晴らしい!上首尾でしたよ。いや、破格の大成功というべきだ。ここまでやって来て、本当に良かったです。ウォルター、どうもありがとう。そちらのブラック・フォークさんも。」

浅野が、いの一番にウォルターに礼を言った。それに続いて、みな口々に実験の大成功を祝い、ウォルターの能力を褒めそやした。


闇の中ですっかり気を良くしたウォルターは、上機嫌な口ぶりで、こう言った。

「すべては、現世に残るわが可愛い妹、ミナのお陰ですよ。それからヴァリアンタインの。ロイも、ミナを(いつく)しんでくれて、いつもどうもありがとう。さて、それでは、浅野さんに、わが友人をご紹介しましょう!」




続いて、ウォルターがおまけとして呼んだ、日本人の霊魂との交霊が始まった。


こちらは、残念ながらウォルターの顕す鮮やかな奇跡に較べれば、驚きの薄い、いささか冴えないやり取りに終止した。なにしろ彼らは、日本語をはっきりと発音することができず、先ほど浮遊していたラッパを鳴らし、その強弱で声らしきものを発することができるだけなのである。


ラッパは空中浮遊し、そのまま暗闇の中で正確に浅野の位置を探り当て、肩に二度三度と触れて挨拶した。


「どなたですか?」

浅野が日本語で質問すると、ラッパがぶーぶーと低い音で鳴った。頗る不明瞭で聞き取り辛かったが、『オサナミ』『オホサカ』の二語だけを、なんとか聞き取ることができた。


浅野はこれを、おそらくかつて大阪に在住していた霊能力者、長南(おさなみ)雄吉の霊魂がやってきたものだと思う、と列席者に説明した。ウォルターが闇のなかから割って入り、彼はまだ霊界から地上に降りた経験が少なく、うまく発話することができないのだと説明した。


浅野は頷き、闇に向かって謝意と別れの言葉を日本語で伝えた。

『アリガトウ・・・サヨナラ。』

闇のなかから、誰の耳にもそうと聞き取れるラッパの音が鳴り、長南の霊魂は去った。


初日の実験は、これですべて終了である。皆々、満足した声でウォルターとブラック・フォークに別れを告げ、明日の再訪を約して散会となった。




皆が帰り、部屋の中にはクランドン夫婦と、今晩はこの家に泊まる浅野だけになった。高級な安楽椅子に凭れた浅野は、先ほど目撃した驚異的なミナの霊能力を絶賛したが、同時にこう依頼することも忘れなかった。


「あなたがたご夫婦は、心霊界と心霊の実在を広く世界に知らしめるため、このような素晴らしい実験施設を自費で作り上げるだけでなく、全米各地や欧州を幾度も廻っておられます。その努力には誠に頭が下がる思いです。そこでお願いしたい。いつか、太平洋をわたり、遠く極東の私の国まで、お出で願いたいと思っているのです。」


ミナは、その美しい笑顔を輝かせながら、大喜びで浅野の申し出を受け入れた。そして、夫を振り返って、言った。

「ぜひ!ぜひ参りましょうよ日本に。わたし、あの美しい桜の花が見たくてよ。ロイ、あなたも、一緒に行きましょう。」


ル・ロイは、苦笑いしながら言った。

「そりゃ、私も日本にはぜひ一度行ってみたい。だが、とても遠いよ。いますぐにという訳にはいくまい。私も医師として患者を多数、抱えているからね。」

しかし彼もいつか来る気は満々のようだった。浅野のほうを見て、こう尋ねた。

「季節は、春が良いのでしょうか?桜は春の花なのですよね。」


浅野は、ちょっと考えて、答えた。

「そうですね・・・春も好いのですが、桜の盛りはとても短くて。雨でも降れば、その年はそれで終わりです。お勧めしたいのは、秋ですね。日本の秋は、好いですよ。10月頃にお出でいただければ、あちこちの山野が真赤に色づいて、きっと風情がありますよ。お国自慢のようで恐縮ですが、自然の美しさでは、我が国はきっとスイスに劣りません。」




「まあ、それはなおのこと行くのが楽しみだわ・・・あ、それはそうと。」

ミナは、とつぜん思い出したように言った。

「浅野さんも、ボストンまで来られた以上、少しは付近をご案内して差し上げたほうが好いかもしれませんね。ボストンも、アメリカの中ではなかなか美しい都会ですのよ。ロイ、あなた明日の回診のときに、浅野さんを連れていったらいかが?」


「ふむ。それは好い考えかもしれないね。」

ル・ロイは答えた。たしかに、明日は夜の実験まで、浅野にはまるですることがない。紐育に上陸してからここまでずっと、ただ止まらずに駆けてきたようなものだから、予定を組む暇などまったくなかったのだ。


「浅野さん、私は自動車を運転して、このボストン周辺を廻ります。朝の9時くらいから、そうだな、おそらく午後の2時か3時まで。あちこち、5〜60マイルは動き廻りますから、自然と観光タクシーのようになりますよ。診察のあいだは、あなたを抛っておかなければならないけれど。それでよければ、如何ですか?」


「もちろん!喜んで。私は巴里でも、常に行動を共にしてくれる最高の運転手に恵まれましてね。彼とはすっかり打ち解けた友人になりました。巴里を離れる際には、お土産に彼の描いた故郷の画まで頂いたのです。しかし・・・あの名高きクランドン先生を運転手にして市内観光だなんて、私は相当に運の良い男ですな。」


浅野得意の諧謔に、ミナはもちろん、ル・ロイまでもが相好を崩し、大笑いした。





こうして、慌ただしく浅野の北米大陸上陸第一日が終わった。


早朝にはまだ洋上に揺られていた浅野は、紐育から急ぎボストンにやって来て、列車の中では不思議な吸血鬼研究家と出会い、続いてマージナリーの驚異的な能力を目の当たりにした。北米の心霊人士たちとも大いに交流を深め、遂にはマージナリーを日本へ招聘することまで行い、これ以上はないほどの好感触を得た。


欧州からずっと浅野を追いかけてきている、例の不気味ななにかのことなど、考える暇もなかった。なにかを恐れないでいることが、これほど心に安らぎをもたらすものなのか・・・浅野は、なんだかとても久しぶりに、開放感を味わい、充てがわれた豪華な一室のベッドに身を横たえた。


時間は、夜の11時である。今夜はゆっくりと眠れそうであった。しかしまた、あの中世の夢を見ることになるのだろうか?いや、それまでにはとりあえず深い眠りに落ちることになるだろう。人は夢の多くを、目覚め際にまとめて見るのだそうだ、だから・・・とりあえずはゆっくりと身体を休めて・・・。




寝室のドアを、外から、かりかりかりと引っ掻くような、かすかな音がした。


浅野は眼を覚ました。そのまま音を立てず時計を確認すると、まだ30分も経過していない。ベッドのスプリングを軋ませないよう、ゆっくりと起き上がると、スリッパをつっかけてドアのほうへ寄った。


続いて、とんとんとん、と軽くノックの音がした。

そして静かに、ドアが開いた。

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