第四十三章 安貞二年(1228年)秋 長門国 阿弥陀寺
阿弥陀の芳一は、先に伽藍の闇の中に身を没し、そのなかでなにやら、がさごそと音を立てていた。
鬼哭啾々たる外の有様を、敢えて見ないようにしてあとに続いた狩音と四郎が段を上って中に入るやいなや、ぽっ、と小さな明かりが灯った。芳一が、闇の中でどうやったのか火を熾し、須弥壇のたもとの燭台に立てた蝋燭を点けたのであった。
かすかな明かりに照らしあげられて、黒い金属で粗く鋳られた本尊のざらざらの膚が片側だけ見えた。焔がかすかに揺れ、仏の貌に浮かんだ微笑が歪み、一瞬間だけ、壇下に座る人間どもを憫笑しているかのように思えた。
芳一は、内陣のなかに高く立てられた燭台のたもとに座り、昼間とは打って変わったしっかりとした低い声で、二人にこう言った。
「私には、闇も光も関係ございませんが、あなた方には、多少の光は必要でしょう。いつもは灯しませんが、今日は点けさせていただきます・・・そちらに、お座りください。」
そして、外陣の板間に八重畳の置いてある一角を指し示した。目は見えない筈なのに、その指は正確に、畳のあるほうを指さした。
言うと芳一は、また背後の闇へと身を没し、やがてなにか大きくて平たい木の板のようなものを抱えて、膝を擦りながら明かりの中に現れた。抱えている丸く薄い板のようなものには、大きな竿がくっつき、頂部で真後ろへ矩に折れている。
法師琵琶であった。竿と胴の接合部付近には、中央に寄った半月の模様がふたつ描かれ、弦は四つ通されていたが、よく見ると、いちばん外側の弦だけふたつの弦が重なり合うように同時に張られ、これが特殊な構造の五弦琵琶であることがわかった。
芳一は、膝立ちになるとその琵琶を縦に構え、上の糸巻のほうをきこきこ音を立てながら廻して調弦し、たまに指で弦を弾いて太い音なぞ立てながら、二人に向かって挨拶した。
「ようこそおいでくださいました、霜降の厚東様。いや、今は別陣を任されておられると聞き及んでおりまする。そして、そちらは従者の方ですな。ほう、これはまた、お珍しや・・・女子の陰部の香りが致します。」
「無礼な!」
僧侶らしからぬあけすけな悪ふざけを、狩音が思わず嗜めたが、芳一はその声を全く無視して、話を続けた。
「いずれお二方が来られることは、薄々察してございました。あのような窖に居って、自分でも不思議ではございますが、闇のなかでは、却ってさまざまに物事が見えるものなのでございます。」
「お主に尋ねたきことが、多々ある。まずは・・・」
四郎が呼びかけたが、芳一には全く聞こえておらぬようだった。彼は全く四郎の言葉を無視し、ただ自分の思うがままに話を続けた。
「されど、着到されるのがいささか遅うございました・・・外にいる民草ども、いまごろは残らず補陀落渡海し、西方浄土へと去ってしまった筈。まあ、皆々あれほど熱望し、みすから希うての成仏ですから、何をか言わんや。よって、当寺へ残されしは、ただ拙者ひとりと、あなた方お二人だけでございます。」
さらになにか四郎が言いかけようとしたが、もちろん黙殺されるのは明らかである。先につと狩音が立ち上がり、調弦する芳一の腕を掴んで、その掌に指先でなにか文字を描いた。
「ほう。これなる女子は、なかなかに機転の効く、よき従者にございますな。如何にも。拙者は、ご覧のとおり全く眼が見えず、もう幾歳も前、誰かに耳朶をちぎり取られて以来、耳も聞こえ申さぬ。お手前がたがお二方なのは気配でわかるし、先ほどそちらのほうでなにか言われておったことも、気の揺れでわかります。しかし、なにを言われても、内容まではわかり申さぬ。」
狩音は、さらに指でさらさらと文字を描いた。
「ふむ。なるほど・・・はて、そのことは、わかり申さぬ。」
芳一は、不思議そうな声を出した。すると狩音は、続けざまに何度か文字を描き、いくつかの質問をしたようであった。
「拙僧がその・・・いわ、なる地に忍んで行き、なにごとか怪異を為したる由。またこの地域一帯で、なにごとかよからぬ企みを為したる由。まさか!拙僧自身、いまはじめて聞いたことでございます。」
「そちが企みしことと、多くの者が証言しておるぞ!斯様に伝えよ、狩音。」
狩音が、掌の上からそれを伝えた。
芳一は笑いだし、こう答えた。
「はてさて、それは面妖な。拙僧、ご覧のとおりの有様にて。眼も耳も使えず、脚はこのとおり動かず・・・まるっきりの不具でございます。眼は生まれつきのことゆえ仕方がございませんが、耳は亡霊を名乗る何者かに、そして脚は霜降におわすこの世の悪鬼に奪われ、まこと口惜しきことにございます。」
こう言って、見えない眼で四郎の居るほうを正確に睨んだ。瞼は半分ほどしか開けられておらず、なかの眼球の動きまではわからないが、やや黄色く濁った瞳が輝いたようにも見えた。しかし、隣に揺れる焔のかすかなあかりが、ただそのように彼の眼窩を照らしただけかもしれない。
狩音の筆談を挟んだ、ぎこちない尋問はしばらく続いた。都度、芳一は自らにかかる怪説流布や叛乱使嗾や平家残党との連絡などの嫌疑をいちいち否定し、まったく身に覚えがないことを強調した。
「数里も先の落人部落に夜ごと忍んで参るなど、仮に他の誰かにはできたとしても、拙僧にだけは、でき申さぬ。そうでございましょう?わが脚は、あなた様のお父上に痛めつけられ、それ以降はこうして、この寺の境内と窖の中を、がさごそがさごそ、ただ這いずり廻るだけの生涯でございます。とにかく、全く身に覚えのないことで。斯様なこと、言を要せずとも、あなた様にはきっとよくおわかりでございましょう。」
堂々と、そう申し開きをした。文句のつけようのない、合理的な説明である。彼が無力で、気の毒な不具者であることは、誰の眼にも明らかであったからだ。
四郎は質問を変えた。
「お主は先ほど、境内に倒れた民草どものことを、見ることもできぬのによく知っておったな?なぜじゃ?お主が彼らの自決を扇動したのではないのか?」
狩音が掌の上にそれを書き取ると、芳一はふたたび笑いだした。
「水底の怪異がどうのと、最初に言いつのったのはこの寺の和尚でございます。それ以降、民草を煽り、霜降から検使がやって来ると聞くや、皆で補陀落渡海して成仏しようなどと言い出し、決行の日付まで予告してござった。それが今日のことでございます。なんだか変わった人で、はるか昔には、若き拙僧の全身に経文を書いて亡霊から身を護ったなどと。」
「それも虚事と申すか?」
四郎が狩音を通じて問うと、芳一は即座に答えた。
「拙者には、わかり申さぬ。誰かに頭を押さえられ、そのまま無理やり耳を千切り取られたは確かでございますが、それが誰なのか、この眼では見え申さず。また、ずいぶんと昔の話にて、記憶もいまでは判然と致しません・・・なにせあの窖の闇に居ると、ふつうの十年が、十万年にも思えるのでございます。」
「では、耳を千切ったのは、もしかすると和尚だと?」
「如何にも。こうして、幾百もの命を道づれにして逝ってしまうような極道坊主でございます。その程度のことは、致しかねませんな。」
「それを止めることは、できなかったのか?」
「拙僧が、でございますか?まさか!日頃から和尚に虐げられ、日中は闇行と称しあの昏き窖へと追い込まれ、与えられるものは多少の残飯に、禽獣の死骸や干からびた魚や、蟹の甲羅の裏側にこびりついた腐肉や、あるいはそこらの野草だけ。このような、虫けら以下の扱いを受け尚それに唯々諾々と従わねば生きては行けぬ者に、あの和尚の企みを阻止することなど、できるわけがござりませぬ。」
「しかしお主には、死んだ民草どものために祈ろうとする気配すら見えぬ。」
「はっはっは!つい昨日まで、和尚と一緒になって拙僧をいたぶっていた奴原でございます。いくら仏に仕える身とはいえ、斯様に慈悲も情けもない奴原のために祈るなど、今更まったく、そうした気にはなれませぬな。いや、もっとありていに申せば・・・いい気味でございます。」
尋問は続いたが、両者の会話は、いつまで経ってもまったく噛み合わない。四郎も疲れ、狩音も疲れ、彼女は遂に芳一の手首を離した。芳一は、何食わぬ顔でその腕を琵琶の竿の先へと戻し、海老尾の上を掴んで揺するなどして、さいぜんからの荒っぽい調弦をつづけた。
彼が指で弦を弾く、べん、べん、べん、という太い音だけが、闇に落ちた本堂の大伽藍に響き渡った。
やがて、芳一は手に黄楊の木でできた大きな撥を持って、その端で五本の弦の上を愉しそうに、こすり出した。かりり、かりり・・・という幽かな摩擦音が鳴り、盲人はうっとりとした顔でその音に聞き入った。
ひとしきりそれを鳴らし終わったあと、芳一は座り直して琵琶を腿の上に立てて、今度はしっかりと内側から弦を外側へ向かって弾いた。べん、べん、べん・・・。そして、返し撥で一番外側の弦を弾くと、そこだけ二重になっている弦は、深みと柔らかみのある玄妙な漣のような音を立てた。
そして、準備が整ったといわんばかりに、芳一は二人に向かって、言った。
「さて、お待たせ致しました。拙僧、琵琶をいささか能くし、言葉では言い尽くせぬことなど、この琵琶の音にてお伝えすること、でき申す。一曲、お聞きいただければ、ご両所ともにご満足の上、当寺を辞さるることと相成りましょう。まずはなにとぞ、なにとぞ其処にて御謹聴あれ。」
死人の骸に囲まれた、この虚しき金堂の伽藍のなかで、盲目の琵琶法師が古の物語を唄い出した。四郎と狩音は、思わぬ成り行きに顔を見合わせたが、芳一は二人の様子などになんら頓着する様子もなく、やがて集中した顔で撥を持ち、五弦をまとめて叩き出した。
でん、でん、でん、しゃん。
でん、でん、でん、しゃん。
芳一は、内側の三弦を押し撥で弾き、二本同時に張られた外側の弦だけを返し撥で弾く。そこではっきりとした変化が生じ、野太く、闇のなかへ引きずり込むように暴力的な音が、しゃりん、と、まるで鈴が鳴るような優しい音に代わる。
拍子は一定だが、そこで拾われる音は様々に変化し、四郎に先の展開を読ませなかった。そのうち、単一の弦による発音が幾つか重なるような和音になり、竿の先のほうを押弦すると、音はやんわりと歪み、そのまま切れ目なく別の音へと変化して、絶えず移ろいゆく現世の流れのように、闇の虚空へ、なにか新しい世界を構築していった。
曲は、激しいものだった。まだ前奏と思われたが、この段階から芳一は、押弦する左手をせわしなく竿のあちこちに上下させ、右手に持った撥を激しく弦と、胴の撥面とに打ち付けた。
やがて芳一は、琵琶をかき鳴らしながら、なにごとか唸り出した。それは最初、意味をなさないうめき声のようなものであったが、そのうち、なにかの意味を為す言語のように聞こえるようになってきた。ただし、ここ扶桑の国の言葉であるようには、聞こえない。おそらく宋や韓の言葉でもない。
闇のなかで、ほのかな灯明の明かりだけに照らされて、盲目の琵琶法師はただ一心不乱に意味のわからぬ言葉を唸り続けた。彼はそれを声明のように大きな節をつけて唄い、語尾をどこまでも引きずっては口腔内でこねくりまわし、喉の奥で唸った。
その音は、音であることはわかる。なにかの言葉であることもわかる。しかし中身まではわからない。やがてその唄は激しい琵琶の伴奏と一体化し、四郎と狩音の胸に、いや腹の底に直接、ただならぬ思いのようなものを伝えてきた。それは、思いというよりも、なにか禍々しい、抱えていてはいけない熱い塊のようなものである。
なにものか、説明はできない。しかしそれは・・・とにかく禍々しい。ぐらぐらと煮え、だらだらと爛れた、忌むべきなにか。四郎は、その何かの重みを受け止めかね、胡座をかいた腰が浮き、その尻が、少しだけ後ろに下がった。
すると、突然、芳一の唄が、意味を成す明瞭な言語に変じた。
時こそ来たれ、
元暦二年三月二十四日 卯の刻に
源平両軍 船出して
壇之浦にて
矢、あわせとぞ定めける。
ここでいったん唄を切り、
ダン!ダン!ダン!ダン!ダン!
と、相互に間を取り、内側の三弦をまとめて叩いた。
そうしておいて、撥の端で全弦をこすり上げ、あの幽かな、かりかりとした音を立てた。そして、こう続けた。
金剛童子の旗押し樹てて
紀伊国の住人 熊野の湛増 先陣とし
攻め鼓を打って鼕々と
続くは伊予の国の住人 河野通信
四国の海部を率い
何れも平家 重恩の身なりしが
忽ちに心変わりして 源氏につくや
白地に黒の笹龍胆
打ったる旆を樹て連ね・・・
四郎にも、覚えがあった。
これは、長門国一円を弾き語りして廻る漂白の琵琶法師どもが、あちこちの辻で売り物にしている平家物語の山場、「壇ノ浦」だ。
かつてまだ四郎が幼き頃、霜降城に、こうした琵琶法師のなかで一等の腕を持つという者が招かれ、城主の厚東武光や参集した厚東一族の前で一曲披露したことがあった。あとから聞いた話では、当初、城内の年寄どもに申し含められ、その法師は一の谷から壇ノ浦あたりのくだりを省くことになっていた。
なぜなら、そのくだりは、嘗てこの厚東一族が、落ち行く平家を見捨て、裏切ったという闇の歴史を思い起こさせるものだから。
だから、その琵琶法師は、冒頭の「祇園精舎の鐘の声」からはじまり、中途を抜いて最後、建礼門院と後白河法皇が茅屋で昔語りする終幕までを、あくまで世の移ろいや盛者必衰の哀感のみを強調して弾き語るよう申し含められていたのだ。
だがその法師は、年寄達の考えも及ばぬ、気骨ある男だったらしい。
彼は堂々と、裏切者たちが先陣きって平家に襲いかかる壇ノ浦の情景を描写し、あろうことか、陸地でそのさまをそっと見ていた厚東氏のあさましさを愚弄するかのようなくだりまでつけて、それを他ならぬ厚東の当主のまえで披露した。
みごとな、身体の芯までをも震わす一世一代の名演奏であった。幼き四郎にも、ただならぬその奏曲の迫力と素晴らしさとがわかったが、それを奏で、唄った琵琶法師は、曲が終わるまで生きてはいなかった。激怒した父が、刀を抜き、一刀のもとにその無礼な盲人を手討ちにしたからである。
勇敢な彼の首は、宙を飛び、そのままごろりと転がって、瞬間、見えないはずの眼で四郎のほうを見た。一生、忘れることのできぬ光景である。以降、暴虐厚東の噂は国内外を駆け巡り、いっぽうで武断派の英雄としての厚東武光の盛名が、いささかの畏怖の念を以てあちこちで語られるようになったのであった。
そうした四郎の過去を知ってか知らずか、芳一は裏切者どもの先陣きっての活躍をそのまま省くことなく唄い、そして、あろうことか、あの一節をもつけ加えた。
陸の上には厚東の輪違 多々良菱
盛者に附きて 亡者を見捨て
このあさましき世の理とは申すべけれど
天にはいかに映るならむや
このくだりは、まさにあの時、父に頸を打たれる寸前に、あの法師が唄った一節である!輪違は厚東の旗印、菱は、韓より海を渡ってきた頃からの多々良の伝統的な聖紋であった。
そして四郎はその一言一句までを、正確に記憶していた。彼の目の前で、彼を見つめながら死んだ男が、この世で最後に吐いた死の詩である。それがたとえ自らの家を愚弄する言葉であっても、その詩に籠もる迫力だけは、忘れようとしても忘れられるものではなかった。
四郎は成人してのち、父には知られぬよう、ひそかに平家物語の「壇ノ浦」のくだりを調べた。内容には幾つもの派生形があり、奏する法師ごとに僅かな違いはあるが、あの一節は、明らかにあのとき死んだ男が、自らの考えで節ごと付け足したものである。
彼はおそらく平家にゆかりのある者か、あるいは深い恩義を感じていた者だったのであろう。あるいは単に、厚東に良からぬ思いを持っていただけなのかもしれない。
いずれにせよ、あのとき彼が死を賭して、ただ厚東武光に向かって言い放つためだけに付け足した詩を、なぜかこの芳一は、数十年ぶりかに四郎の耳へと吹き込んだのだ!
時を越えたあまりの衝撃に、四郎は、闇のなかでくらくらと崩折れそうになった。横にいた狩音が、慌てて彼の肩を押さえて、広い背中を一生懸命に支えた。
芳一の「壇ノ浦」は、まだまだ続いた。
兵船もろとも三千余艘
平家の軍を囲まんと 焦り競いて突き進む
この一団ぞ 義経の麾下なりと知られける
ここで芳一は、ばちんと音を切り、しばらく唄うことを止め、ただひたすらに琵琶の弦を弾くことに徹した。まるで、本当に三千艘の兵船が、敵の待ち受ける狭い海峡めがけて、波を切り突き進むかのような、疾い演奏である。
そして、ふたたび唄が入った。
平家の先陣は九国一の剛の者
山鹿の兵藤次秀遠の精兵五百余艘
二陣は松浦党三百余艘
平家の公達二百余艘で三陣に続きたり
ここで一呼吸おいて、芳一は左手で柱のあたりのあちこちを押弦しながら、せわしなく撥を上下させて弦を響かせた。
速潮にのる源氏の軍船
またたくうちに平家方の真只中をつき破れば
敵も味方も入り乱れ
さしもの瀬戸も舟に覆われ
落ち葉浮ぶる川波の 網代に寄する如くなり
そして・・・一気に撥の端を擦らせ、すべての弦の上を滑らせた。きりりりり・・・と、なにか耳障りな音が響いて、波の上で肉弾相撃つ戦闘が開始されたことを示した。
斯かりける時
新中納言平の知盛卿は
舟の船首に突立ち上がり
味方の兵ども承れ
一門の運命この一戦にあり
何のためにか命をば惜しむべき
軍ようせよ者どもと
二度三度び呼ばわったり
先陣はすでに戦闘状態に入っているにも関わらず、呑気な総大将は、この段階でやっと後陣の主力部隊の各船に檄を飛ばしていた。本来は、この次に平家一門の教経の勇戦が挟まれる筈だが、はじめから意図したのか、あるいは失念したのか、芳一はそのくだりをまるまる省いた。
そして、ただひたすらに弦をかき鳴らし、撥を叩きつけ、しまいには琵琶の水滴型の胴を、自分の肘でごつごつと叩き始めた。
勢いで、手に握った撥が弾け飛び、前方はるかかなたの闇の中へ消えた。しかし、芳一は構わず、そのまま直接、指で弦を弾き、まるで破綻なく音を繋いで、長く激しい独奏部分を終えた。
しかし、曲はまだまだ終わらない。そのあと、やや静かに指で外側の弦をつまびき、芳一はまた唄いだした。
かの岸に逃れんとすれば 浪高くしてかないがたく
この汀に上がらんとすれば源氏
矢先を揃えて待ち受けたり
船手漕手も討ち果され
行方も知らず平家の船
あるいは沈みあるいは漂い
源平の国争い
今日を限りと見えたりける
そして・・・演奏を止め、しばらくうつむき、なにやら洟をかんでいるかのように鼻頭を押さえた。しかしそのあとふたたび、きっと顔を上げて演奏に戻った。次の部分は、いよいよこの段の山場である。芳一は、さりげなく静かに唄い出し、唄い終えた。
二位殿は 幼き帝を抱き奉り
君は万乗の主と生まれさえ給えども
御運既に尽きさせ給いぬ
西方浄土の来迎に与らんと思し召し
はやはや御念仏唱え給え
浪の下にも都の候ぞと
幼き帝もろともに
千尋の海へぞ入り給う
ここに至り、あれほど疾かった芳一の演奏は、その速度を極度に落としていた。ただ、まるで病の者が辛うじて琵琶をつまびいているだけ、といった風情で、その手には撥もなく、ただ弱々しげな指弾きで、弦をつまみ、そっと離して、幽かな音を響かせた。
哀れ無情の春の風
今は主なき戦船
いづくともなく
漂い行くこそ悲しけれ
平曲「壇ノ浦」の、その最後の一節を唄い終えた芳一は、ふたたびうつむき、指が竿を離れ、琵琶はそのまま前にパタンと倒れた。はずみで、ぷちりと音がして脆弱な外側のふたつの弦が切れ、竿の外側に弾け飛んだ。
芳一はそれを拾い直すこともせず、ただ座ったまま、ゆらり、ゆらりと海藻のように前後にたゆたい始めた。しばらくその状態を続けたが、やがて、いったん海の上に浮き上がった藻が、やがてその自重でゆっくりと波間に沈み水底まで沈下していくかのように、顎が下がり、腰から折れて、そのまま内陣の床の上に顔を伏せてしまった。
完全に音がやみ、芳一は意識を喪ってしまった。だが彼は、まだ呼吸をしていた。闇の中で耳を澄ますと、彼が軽く鼾を立てているのがわかる。先ほどまでの激しい動作で、床に溜まっていた埃が舞い上がり、やがてまたゆっくりと沈降しているのが、灯明の明かりに照らされて、わずかに視認できた。
四郎と狩音は、まるで想像もしていなかった事の成り行きに、困惑しながら互いの顔を見合わせた。
死人ばかりの境内。誰も居ない伽藍。そしてひとしきり唄い、琵琶を爪弾き、そのまま寝入ってしまった窖の盲人。彼は、すべてのことを説明すると約束したが、こちらの質問には何一つまともに答えず、しかも勝手に平曲のみを奏して、そのまますやすやと寝入ってしまった。
これでは、なんのためにここまでやって来たのか、まるでわからない・・・しかしその懸念は、まもなく跡形もなく払拭されることになった。
「ばばさま、ばばさま!」
闇の中から、とつぜん、幼い童子の声が響いた。狩音と四郎は、ぎょっとして声がしたほうに眼を遣ったが、そこにはなにもない、ただ漆黒の闇が広がるばかりである。
「みかど・・・みかど。お待ちくだされや。」
伽藍の別の方角から、今度はまったく違った声が響いてきた。先ほどの童子のかん高い声とは似ても似つかぬ、落ち着いた年増の女の声であった。そしてその声に答えるように、先ほどの童子の声が、
「見つからぬ、見つからぬ・・・どこじゃ、いったいどこじゃ?」
そう言って、泣きそうな鼻声になりながら、伽藍のあちこちを移動し始めた。
やがて、ぱたぱたと小さな足で駆け廻る音がし、金堂の屋根の端のほうで、なにかがとん、と着地するような音がした。そしてそのあとを、静々と足を擦らせる大人の女の足音が追った。
「ない・・・ない・・・ない・・・ない!」
童子は、いまでははっきり泣いているとわかる声で、途方に暮れた様子のまま周囲を駆け回る。老女の足音が追いかける。しばらく、どたどたと追いかけっこの音が響き、やがてその音が止まった。
老女は、どうやら童子を掴まえ、腕に抱いてあやしている最中のようであった。
「みかど。なくしたものは、仕方がございませんよ。われら一門、このまま水底の都で、なかよく暮らしてまいりましょう。」
しかし童子は、泣き止まなかった。
「いやじゃ・・・いやじゃ!つるぎがなくば、われら成仏できぬではないか!われも、ばばさまも、いつまでも水底を彷徨うて、いつの間にやら幽魔になってしまうではないか!」
「しかたが、ございませんよ。それもまた、仏の御心。たとえ何に成ろうと、ばばは、いつまでもみかどとご一緒ですよ。」
老女の声は、避けられない運命に怯える童子を慰めるかのように優しく、柔らかく闇の中に響いた。
四郎は、闇のなかで狩音と、互いに見えぬままに目配せした。
すでに芳一の立てた灯明は、先ほどからの屋根の振動で倒れ、消えてしまっている。いまこの伽藍を照らす光といえば、遥か中空かなたで弱々しく輝く、かすかな月の光だけだ。それが、鎧戸の合間からほんのり蒼白く一条の線となって、この本堂の床に入り込んで来ていた。
四郎は、このただならぬ状況に一石を投じるべく、すでに乾ききっていた口蓋を押上げて、腹の底から声を絞り出した。
「其処なる者ども、誰か?名乗れ!儂の名は厚東四郎忠光。お主らに用があって参った!」
その大音声は、伽藍のなかを響き渡り、あちこちに反響して、先ほどの琵琶の和音のようになって分厚い音の壁を作った。やがてその音の壁は屋根のあちこちに吸い込まれてゆき、この伽藍のすべての仏像、彫刻、絵画、衝立、その他のすべてに、厚東四郎の見参を知らしめた。
妖かしなど、居らぬ!
怪力乱神など、まやかしに過ぎぬ!
四郎は、みずからの信じるその真実を、いま一度、言葉にして胸の中で復唱した。
先ほどの、主のわからぬ足音はぱたりと止み、伽藍はふたたび静寂に帰っていた。しかし、どこかに、誰かがこちらの気配をじっと窺っているような雰囲気があった。
誰かが・・・あるいは、何かが。
やがて、それが声を出した。あの童子の声だった。
「あっ・・・あったよ!」
続いて、老女の声がした。
「なんと・・・何処に?何処にあったのでございます?」
「あそこだよ、あそこ!ほら、つるぎがあったよ!」
「何処で・・・何処でございます!」
「あそこだよ!ほら、あそこで、あの知らないおじさんが腰に差しているよ!」
言われて四郎は、はっと気づいた。
自分の腰へ、愛用の木刀と二本同時に、平維盛から受け取った草薙剣が指してある。蛇丸から貰った揚羽蝶模様の豪奢な太刀袋に入れてある。彼はこれを、外から差したままにして、床にも降ろさずずっと芳一の演奏を聴いていたのである。下ろす暇がなかったのだ。そしてそのまま、そのことを忘れてしまっていた。
誰とも知れぬ童子の声は、キンキンと伽藍に響いて、四郎を詰問した。
「なぜ、持っているの?ぬすんだの?それは、みかどのものだよ・・・われのものなんだよ!」
四郎は、背後に、なにやらただならぬ気配を感じた。その童子・・・明らかに安徳帝のはずだ・・・は、どうも自分の後ろに立ち、自分の背中を指さして、その神器の簒奪行為を糾問しようとしているようだ。
「帝に・・・帝に申し開きをしなければ・・・儂は、儂は、これを、盗んだわけではない。」
四郎はなぜか、素直にそう思った。
そして、振り返った。
そこでは、先ほど床に突っ伏して気を喪っていたはずの、阿弥陀の芳一がすっくと立ち上がり、内陣の床から四郎をまっすぐ指さしていた。