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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第四十一章   安貞二年(1228年)秋   長門国 阿弥陀寺

真赤な鬼面蟹(きめんがに)は、その憤怒の形相を(あらわ)した甲羅の突起と大きな四肢、そしてまだぱちぱちと開閉する鉗脚(かんきゃく)とで、四郎の(かいな)のあちこちを刺し、挟み、そして痛めつけた。が、四郎は全く意に介さず、その捧げ物を(うやうや)しく懐に抱え込み、やや傾斜のついた境内の奥側を運んで行った。


すぐ後ろに狩音が続き、しきりと振り返っては背後の群衆たちを警戒したが、なかば呆けた彼らが追い討ちをかけてくる気配は皆無であった。


ふたりが去るや否や、皆にわかに関心を喪い、またもとのように茫然としながら、大鍋に満たした酒の煮汁のなかに、実のありそうな武者蟹(むしゃがに)を捕らえて、ただ放りこむのである。先ほどの、帯来入道と四郎たちとのやり取りは、もはや彼らの意識からも、記憶からも消え去ってしまったようであった。彼らはまた、淡々と、眼の前の単純な作業だけに没頭し始めた。


見ると、そうした僅かな動きをしている者すらごく一部である。残りの大半は、大人も子どもも老人も、ただ茫然と突っ立っており、また寝そべっていたり、物憂げに座り込んで、空を見上げたりしていた。彼らには、全く生気というものが無いのであった。




背から下ろした大きな荷は門扉の近くに置いたまま、四郎は腰に木刀と、例の美々しい太刀袋だけを差し、狩音は右手に小刀だけを携えて、やがて現れた丸木の階段を登り始めた。杉林に覆われた傾斜は、みるみるうちに急となり、ほどなく伽藍(がらん)の大屋根を外から見下ろすほどの高度に達した。


やがて、段のようになった小さな平地に出た。そのいちばん奥の斜面に接して、大杉の根のあいだを縫うようにして幾つかの巨岩が転がっており、周辺にはバラバラになった砕石があちこち転がっていた。そのなかにひとつだけ、規則的に積み上げた石垣が盛り上がっており、人の腰の高さほどの穴が穿(うが)たれていた。その前はちょうど、供え物をする段のようなものが(しつら)えられ、野草か骨片のようなものが転がり、なんらかの人為の痕を残していた。


四郎は、周辺の様子を(うかが)ったあと、抱えた大蟹を、甲羅を下側にしたまま、その段の上に置いた。


そして穴の中を覗き込もうとしたが、穴は大きな石で塞がれており、外からは開けなかった。よく見ると、蓋となっている石の横には溝が切ってあり、これが、横に滑らせて開閉させる仕組みの扉であることがわかった。ただし、何らかの細工がしてあって、その石の扉は、中からしか開閉することができない。




四郎は、狩音のほうを見ると、ため息をついて、肩をすくめた。このままじっと、中に居ると思われる阿弥陀の芳一が姿を現すのを待つしかない。


眼下に見える阿弥陀寺の境内では、まだ二箇所の大釜から濛々(もうもう)と湯気が立ち、人びとが蟹を引き揚げて配り、そのままむしゃむしゃと食べている様子だった。かすかにしか見えないが、茹であげた以外、なんらの加工も料理もする気配がない。おそらく彼らは、受け取った小蟹を冷まし、そのまま手づかみで口に入れているのだ。


たしかにここ数日、周辺は外部との通交を絶たれ、物資の供給は最小限の筈である。しかし、内に多くの寺領を有する阿弥陀寺で、糧食がすぐ枯渇するとは考え難く、集まってきた人びともおそらくはそれを当てにしていたに違いない。


境内に物資がまだ豊富にあることは、あの大釜にぐらぐら大量に煮立っている酒が雄弁に物語っている。あれはおそらく、海岸中に立ち込めていた蟹の臓腑(ぞうふ)の便臭を消し、甲羅の裏側へこびり着いた僅かな肉の部位を柔らかくするためだけに利用されている。


貴重な酒を、ただ臭い消しと煮沸用だけに利用するとは、ある意味で大変な贅沢だとも言える。とてもではないが、避難民に対し与える当座の救民食としては、大釜に煮えた大量の小蟹の肉は、最適のものであるとはいえない。


それにはなにか特別な意味があるはずだが、まったくわからなかった。なにか、彼らがこれから旅立つという西方浄土(さいほうじょうど)と関連のある献立なのであろうか。




四郎と狩音は、そのまま、石の扉のすぐ脇に座り込んだ。腰に差した太刀類を外し、土中からまっすぐ生えた大杉の根の上に身を横たえ、どちらからともなく手を握り、身を重ねた。思い起こせば、ここ数日、まともに寝ていない。さすがの二人にも、体力に限界が来ていた。


狩音の小さな頭が、四郎の広い胸のなかにはまり込むように寄せられた。四郎は、うっとりとしてその小さな丸いものを腕に抱き、ほつれた束ね髪の甘やかな匂いを嗅いだ。数日分の汗の匂いと垢の匂いがしたが、今の四郎には、それすらも愛しいものだった。やがて、(まぶた)が重くなり、四郎は(ようや)く眠りに落ちようとしていた。しかし。




やがて、脇でごとごと、音が鳴った。


四郎と狩音は、同時に跳ね起き、無言のまま岩室(いわむろ)の入口に忍び寄った。扉石が溝を動いて半分ほど開けられ、中の闇のなかから、細く白い腕が、先ほど四郎が置いた蟹の死骸のほうに伸びた。その手には錆びついた金属の(かぎ)のようなものが握られ、鈎の先が、鬼面蟹の柔らかい下腹をぷすと差して、そのままぐいと扉石のほうへ引張った。


蟹の甲羅がずりずりと音を立てて引き摺られ、闇のなかに引き入れられるその寸前、四郎の太く逞しい腕が差し込まれ、そのか細い手首を掴み、しっかりと握りしめた。鈎が石の上に落ち、からからと音を立てた。




「出て参れ!」

四郎は言い、そのか細い手首を引張った。長門一等の膂力(りょりょく)が、そのまま腕の付根まで外に引き摺り出しそうになったが、肩口が扉石に引っ掛かり、中身はすぐと扉の外には出なかった。手首の主は、ひーっ、と悲鳴を上げ、そのまま闇の中で泣き叫んだ。


「おやめくだされ、おやめくだされ、後生でございます!その手をお放しくだされ!どうか、お放しくだされい!」

声の主は激しく暴れ、その身体が内側で扉石にごつごつと当たるのが、四郎にもわかった。瞬間、(ひる)んで握る力を(ゆる)めた隙に、か細い腕は四郎の大きな手をすり抜け、そのまま闇の中に引っ込んでしまった。そして、扉が溝を動いて閉められようとしたが、今度は四郎が隙間に腕を差し入れて、その意図を(くじ)いた。


防衛線を突破されたことを察した相手は、つとその気配を消した。どうやら、そのまま闇の奥へと逃げ去ってしまったらしい。四郎はすかさず、差し入れた腕の力だけで扉石を押し戻し、もともと空いていたよりも大きな開口部を作って、そこに頭から、全身を(よじ)るように差し入れた。




内部は、外からは想像できないほど広く、開口部の真下は急な段差があり、四郎は頭からそこに落ち込んだ。闇の中で地面にしたたか顔を打ち付けたが、構わず起き上がって、外からの光がわずかに届く範囲で、進路を探した。左のほうに、奥へと続く裂け目が見えた。ここはおそらく、岩稜に土盛がしてある古代の墳墓のようなもので、その裂け目は、自然のものではなく、人為的に掘られた通路のようであった。


四郎は、素早く闇の中を走って、先ほどの白い腕の主を追った。前方かすかに人の気配があり、闇の中で誰かが息を潜めている様子がうかがえたが、外光から完全に遮断された真っ暗闇のなかで、四郎にはなにも見えない。そのまま両手を前方に向け大きく開き、なにか(つか)めるものがないか手探りで探したが、そこにはただ闇の虚空が広がるばかりで、四郎の腕は虚しく宙を()いた。


四郎は、立ち止まり、息を整えて、次に取るべき一手を考えた。闇の中で、相手がこちらを攻撃してくる危険性は無さそうであった。だが、この暗闇では、こちらから相手を探し出すことは、到底できそうにない。




かき乱された地下の冷気が、やがてもとの(しん)とした落ち着きを取り戻してきた。遥か彼方に地上から開いた開口部があるにも関わらず、ずっと奥に入ったこの場所までは、外の光も匂いも全く伝わってこない。そよとも動かぬ地底の、なにも見えぬ闇があるばかりである。


しかし、四郎は、気づいた。


足元を、そろそろとなにかが()っている。それは、音を立てずにただ静々と闇の中を動き、大きな百足(むかで)のように地を這い、自分からそっと離れて行こうとしている。音はせずとも、四郎はその気配を(はだ)で感じた。視覚でも聴覚でも嗅覚でもない、毛穴を通じてごく僅かな空気の動きを捉えた。


四郎は呼吸を整え、大きく息を吐くと、えいやと気合をかけて、上からそれをむんずと掴んだ。




獲物は、がさがさとした、なにか粗い繊維の着物を着ていた。四郎の手はその帯を掴み、着物の中身がその重みで大きく垂れ下がったが、おそらくは締めた帯に引っ掛かって、空中に留まった。


ふたたび、ひいい、と泣き声がして、なにかがばたばたと脚を振り回すような激しい振動が、掌を通じて伝わってきた。むなしく藻掻(もが)くその脚か腕のようなものが、地下の暗闇の空気を引っ掻きまわし、たまに壁面に当たって、土がぱらぱらと落ちる気配がした。


しかし、あたりは真暗闇のままで、四郎の眼は、いつまで経ってもそれに慣れない。外光から完全に遮断されたここでは、人の眼はいつまで経っても(めしい)のままなのだ。四郎は、しっかりと標的を捕まえはしたものの、まずは地上にこれを引っ張り出さなければならない。


しかし、その藻掻くものは、ここではじめて、はっきりとした声を出した。

「お、お許しくだされい!(わし)は、儂は、光のあるところに出ることができないのです!」

そう哀願した。弱々しいが、かなり年老いた老人の声である。四郎は、聞いた。

「お主、阿弥陀の芳一か?」


「いかにも、いかにも!そうでございます!儂は阿弥陀の芳一でございます!しかし、儂は、外に出ることはできないのでございます。病でございます。何卒、お許しを!お許しを!」

最後のほうは、ただの悲鳴になっていた。




ちょうどそのとき、背後で、別の人の気配がした。冷えびえとした地下の冷気が暖められ、そして周囲がぽっと明るくなり、真暗な闇の中が赤々と照らし出された。瞬間、却って四郎は視力を喪ったが、すぐに回復して、この地下の(あなぐら)の中の様子を視認することができた。


四郎はいま、四角く掘り抜かれた地下室のようなところに居る。四郎の腕の先には、ぶらりと下がった小柄な男の身体が痙攣(けいれん)しているようにもぞもぞ動いており、さらに目を移すと、ちょうどこの一角の入口に当たるところに、狩音が火を持って立っていた。


「遅れました。松明(たいまつ)を作っておりまして。」

狩音は言った。四郎が、岩室のなかの闇に身を没すのを見て、咄嗟の判断で取って返し、おそらく手近な太枝を拾い、いつも首に下げている幾つかの石を打ち当てて火を(おこ)し、即製の松明にして持ってきたのであろう。見事な判断であった。




四郎は、彼女に向かって大きく頷き、その松明を空いた左手に受け取って、右手の先にぶら下がる男の顔のほうに向けた。男は、ひときわ大きな悲鳴を上げ、その場で絶命しそうなくらいに宙で反り返った。突然、あまりに大きな力の歪みが四郎の掌を襲い、思わず取り落とした。


どさり、と大きな音がして男が下に落ちた。男はまるで獣のように吼え、身を(よじ)り、激しく両手両足をくねらせてそのまま地を這いはじめた。おそろしい勢いで岩室の片隅へ逃げ、そのまま勢いこんで、壁に頭をぶっつけた。先ほどの男の吼え声が、小さな岩室の壁に反響して、あちこちから四郎と狩音の耳に襲いかかった。


しばらく、顔をしかめたまま耳を塞いだ四郎だったが、やがてゆっくりと松明を振って男の姿を探した。先ほど、周囲を照らし出して状況を確認したとき、そこがこの地下の(あなぐら)のどん底にあたり、逃げる先がないことがわかっていたのである。男は、四角い岩室の、別の角に居た。角に背を寄せ、両手で顔を覆って、しくしくと泣いていた。




「やめて下され、やめて下され・・・後生ですじゃ、どうか、儂を(たす)けてくだされ・・・。」

男は、か細い声でそう哀願した。

「儂は、儂は・・・()の光に当たると(はだ)(ただ)れ、呼吸(いき)ができなくなります。昼間は、ずっとここに居ねばならぬのです。夜なら・・・出られます。月の光や、星の光ならば耐えられます。あとで、出ます。ですから、ですから、今はただ、ほっといてくだされ!お願いでございます。後生でございます・・・。」


「儂らは、お主と話しをしに来た。話すだけでもできぬのか。」

四郎は、傲然として言った。しかし阿弥陀の芳一は、まるで聞く耳を持たず、ただ泣きながら、恨み言をぶつぶつと呟くだけだった。

「なぜじゃ、なぜじゃ・・・なぜこんな、酷いことをなさるのじゃ。儂をいじめて、儂を苦しめて、みんな好きなようにして儂をいたぶるのじゃ。玩具(おもちゃ)にするのじゃ。(たご)も、人も、どいつもこいつも同じじゃ・・・もう、いやじゃ、もう、いやじゃ。」


「いま、宕と申したな。」

四郎が言い、思わず、手にした松明の火を芳一の顔に向けた。芳一は、また「ひっ」と悲鳴を上げると、身を捩らせてその明かりの外に逃れた。そして、すぐ脇の闇の中から、絶叫した。


「いやじゃ!いやじゃ!いやじゃ!いやじゃ!いやじゃ!もういやじゃ!死にたい、じゃが、死なせてくれぬ。儂を解き放ってくれぬ!御前もおなじじゃ、みんなおなじじゃ!いつか、いつか必ず子々孫々まで祟って、一人残らず呪い殺してくれる!もう行け、もう帰れ!この(あな)の外へ()でよ!光など要らぬ、光など・・・ただの毒じゃ!儂の(はだ)()く地獄の業火(ごうか)じゃ!鬼が、悪魔が、宕が・・・廻りで踊っておる!儂には見える・・・儂には見える。おぬしらも、奴らの使いじゃ!儂を苦しめ、儂をいたぶる為にやってきたのじゃ!」


そう一気に叫んで、両の手で壁を掴み、そのまま自分の頭をごちごちと激しい勢いでぶつけ始めた。壁は石ではなく固められた土であったため、致命傷とはならなかったが、それでもその自傷行為は明らかに本気のもので、半ば反射的に四郎は芳一の襟首を掴まえて、それを止めなければならなかった。




自暴自棄になってただひたすら荒ぶる、この奇妙な地底の行者との接し方を、この短い時間のあいだに学んだ四郎と狩音は、そのあと決して松明の焔を直接、芳一に向けないようにした。


やがて落ち着きを少し取り戻した芳一は、喚き騒ぐことを止め、そのかわり、脱力したように座り込み、その場でただしくしくと泣き出した。とてもではないが、桜梅こと平維盛や蛇丸に聞いたような、超人的な移動力で突如現れ、信じがたい憑依能力で水底に沈んだ平氏の亡霊の数々を呼び出したという、あの怪物の片鱗もうかがえない。そこに在るのはただひたすらに無力で哀れな、老いた大きな土竜(もぐら)のような姿である。


四郎と狩音は、途方に暮れつつ、闇の中で互いの顔を見合わせた。さて、次に打てる手は、なんだ?




けっきょく二人は、なおも哀願し続ける芳一の言うことを聞き入れ、いったん地上へ退却することにした。地底の岩室は、そこが行き止まりになっており、先へと逃れる道はない。すなわち、芳一はいつか必ず、いま二人の座る岩室の出口まで、やって来なければならない。芳一は、夜になれば出る、と確約した。その言葉に嘘はなさそうだった。だから今はただ、待つしかない。


幸い、先ほど地底での大捕物をしているうちに、短い晩秋の陽はすでに西の空へと傾き、あと少しで波間の真上にたなびく雲の後ろに隠れてしまいそうであった。ここに着いたときにはまだ抜けるような青空であったが、今は全体が鉛色になり、太陽の廻りだけが茜色に染まっている。


その彩度の落ちた世界を茶色の瞳のなかに映して、狩音は四郎を見上げ、腕を掴んで頭をもたせかけた。四郎は、狩音の小さな手の甲をそっと撫でて、二人は、(あなぐら)の入口のたもとに座り込み、彼方の空の色をただ眺めていた。脇には、先ほど芳一が地中に引き入れ損ねた、蝤蛑(がざみ)の死骸が裏返り、腹を見せて転がっていた。その立派な四対(しつい)の脚と大きな鉗脚(かんきゃく)は、冷え切り、動きを止め、胴体から突き出た単なる大きな棘のように、柔らかな下腹を抱え込みながら固まっていた。




眼下に見える阿弥陀寺の境内では、あれほど派手に立っていた白い湯気の量がうんと減り、煮えた酒の量も半分ほどになっていた。そこから蟹を揚げ、食す者の数は少なくなり、あとはみな満腹したのか、そこらに寝そべり、そのまま夢の世界に入っているかのように見えた。


世界がゆっくりとその営為の速度を落とし、やがてやってくる夜にただ身を任せようとしているように思えた。四郎は窖の出口を構成する大石に寄りかかり、眼を瞑り、狩音を抱き寄せて、しばしの休息をとった。




やがて、夜の冷気が身体の芯を這い上がってきて、四郎は目を覚ました。あたりはすっかり暗くなり、彼方に、少しだけ欠けた月が、弱々しい光をこの世界に投げかけている。海の上に遠く火影が見えたが、それが漁火(いさりび)であるわけはない。このような状況で、忌まわしき妖異どもの(うごめ)く沖へ船出する漁師が居るようには思えなかったからだ。しかし、先ほど西方浄土へ行くと言っていた帯来入道のことを思い出し、四郎は眼下に広がる阿弥陀寺の境内を見下ろした。


夜闇ではっきりとは見えなかったが、すでに大釜の火は消え、湯気も上がらず、その廻りには数十名もの、寝転がっている人影が白く浮き上がって見えた。さて、皆々、寝につくほどの遅くになってしまったかと思い、四郎は慌てて腰を浮かしかけたが、月はまださほど高くまでは登っていないのだ。


「はて。なんとも面妖な。」


四郎は呟き、はっと気づいた。もしかすると、自分は寝入ってしまって、肝心要の芳一を、地中の(あなぐら)から取り逃してしまったのではないか?そう思って出口を見たが、そこは昼間と変わらず、大きな扉石がぴっちりと閉まり、それが動いた気配はない。四郎はほっとして、眠っている間も放し続けることのなかった狩音の小さな手のひらを、ふたたび握り直した。狩音は、疲れているのであろう、四郎のその動きにも反応しない。なにか、むにゃむにゃと言ったが、ふたたびその頭は四郎の肩に落ちた。




ちょうどそのとき、背後の山の斜面のほうから、ひときわ冷たい木枯のような風が吹き下ろしてきた。枯葉が舞い、足元の柴が飛んだ。そして、その風に載って、あの聞き慣れた声が、四郎の耳に聞こえてきた。


「四郎、もう、ええじゃろう。そこまでにしておけ。」


四郎は、またはっと目覚めた。そして、背後の闇の中に居る、自分の唯一の親友(とも)の名を呼んだ。

「山風か。ここまでついて参ったのか?」


山風は、四郎の問には答えず、杉の巨木のあいだの闇の中から、こう言った。

「おぬしはこれまで、ようやった。儂が考えていた以上の上首尾じゃ。さすがという他はない。そこの、多々良の娘の力添えあってのことかもしれぬがの。

じゃが、この世には、お主の力も及ばぬものがある。知らぬほうが良いことがある。触らぬほうがよいものがある。それは儂とて同じことじゃ。」


山風は、よくわからないことを言ったが、四郎はひとつだけ気になったことを確かめた。

「狩音が多々良と、おぬし、気づいて居ったのか?」

「儂がこれまでどれだけ、多々良の(しのび)を討ち取ったと思うておるのじゃ?その機敏な動き、足捌(あしさば)き、忍刀の構え、すべてが多々良に伝わる技じゃ。そんなことは、霜降の谷で遠目にこの娘をみたときから、すぐと解った。」


「なのになぜ、儂にそれを告げなかった?」

四郎は、親友(とも)を責めるように、言った。自分は、まったくそれに気づかなかったのだ。

「はは・・・そのあたりは、親子じゃ。お主も、お主の父も、敵には廻しとうないほどの剛の者じゃが、どこか本当にお人好しで、抜けたところが在る。」


「抜けていたは、確かじゃ。」

四郎は、苦々しげに言った。そうだ、そういえば、このまま芳一を問い詰め、宕を討ち取ったあとは、自分と狩音は、いったいどうなってしまうのであろう?




闇の彼方の親友は、しかしそんな四郎の想いを見通していた様子であった。厳しく、こう言い渡した。

「そのようなことを、気に病んでいる暇は今のお主には無い。もっと、差し迫った危機のことへ気を配れ。さもなくば、死ぬぞ。いや、もう半ば死んでいるも同じじゃ。お主は、完全に罠に()まった。今が、引き返す最後の機会じゃ。儂は、山に生きる儂ら一族のすべての掟を曲げ、お主を救けに参ったのじゃ。」




「どういうことじゃ?儂には、よう分からぬ。」

四郎は、親友に素直に問うた。


山風は、なんら抑揚のない声を響かせ、背中から四郎に語りかけた。

「ここから先は、地獄への道じゃ。ただひたすらに、文字通り奈落の底へと通じておる。引き返す道は、無い。まさかお主、宕に勝ったと思っておるのではあるまいな?いや、勝負はまだ始まってもおらぬ。今度ばかりは、相手が悪いぞ・・・お主でも勝てぬ。潮時じゃ。とても、とても恐ろしいことが起こるぞ。儂は、お主を殺しとうないのじゃ。」


「山風、お主の言葉は嬉しいが、儂がどのような男か、よく存じでおろう。儂は、母を救わねばならない。そのために来たのだ。救うまでは、戻らぬ。すなわち、宕を(たお)すまでは、戻れぬ。この話は、もう仕舞(しまい)じゃ。」

四郎はこう言って、議論を打ち切った。




闇のなかで、深い溜め息が聞こえた。山風が、やがてこう言った。

「やはり、のう・・・お主は、いい男だ。そして、救いようのない大馬鹿者じゃ。そうか、地獄への道を、そのまま進むのだな。わかった、もう言わぬ。」


四郎は黙って、頷いた。どうやら、親友(とも)との別れの時のようだ。

四郎は、なにか声に出して、礼を言おうと思った。あの子ども時分のこと。そのあとのこと。今のこと・・・しかし、言葉が出てこなかった。あまりにもちっぽけな時分にとって、この姿の見えぬ親友(とも)の存在は、大きすぎる。ただ大きすぎる。


なにも言わなくて、よいのだと思った。しかし、山風が言った。


「最後にひとつだけ、教える。」


四郎は思わず、背後を振り返った。そこに山風が立っていた。大きな黒い影のようになって。それが四郎の見るはじめての、親友(とも)の姿であった。そして・・・彼を眼にする最後の機会であった。




しかし山風は、別れの言葉も告げず、ただ、いま四郎に必要なことだけを言った。


「眼下を見よ。すでに、始まっておる・・・宕はもう、隙間なくびっしりとお主を包囲しておる。わからぬか?さきほどまで境内にあれだけたくさん居った、この地域の民草(たみくさ)どもじゃ。今はもう、ひとり残らず死んでおる。」


四郎は、ぎょっとした。


そして、闇の彼方を見下ろした。たしかにそこには、全く生気がない。動くものも、声を上げるものもなにもなく、ただ、そよとも動かぬ夜が、黒く、墨染のように広がっているばかりだ。

「そうだ。みな死んでいる。多々良の娘が目覚めたら、聞いておくがよい。遅効性の根毒じゃ。それがあらかじめ、大釜の酒に溶いてあった。」


「なぜ・・・なぜ?」

四郎は親友(とも)に、この世で最後となる問を投げかけた。言葉には、なっていなかった。それは、ひたすら信じ難い災難を眼にした人間が自然に発する、(うめ)きのようなものだった。


山風はしかし、四郎のその最後の問に、とても丁寧に答えた。

「蟹と同じだ。人間は、砂の上を這う蟹と同じなのだ。数多(あまた)の武者蟹どもの、まずくてつまらぬ肉など、もともと宕は喰らう気はない。狙いは、そこに転がっているような上物だ。そこに転がる殻のなかの、真赤で美味な、じゅるじゅると汁のしたたる、身の引き締まった肉が欲しいのじゃ。そう、蝤蛑(がざみ)と同じような・・・そしてそれが、四郎、おぬしじゃ!」


そして、山風の姿は、その気配とともに、一瞬のうちに消えうせた。




同時に、脇でがたごとと音が鳴り、四郎は、びくっとした。はずみで、狩音も目を覚ました。二人は目を見合わせ、そして、なにも言わずに二手に分かれて闇を跳び、(あなぐら)の出口の両脇に音もなく身をかがめた。


頑丈な石の扉がひとしきり揺れ、そして真横に滑って、あとには黒ぐろとした(あな)が空いた。


そしてそこから、ぬっと丸い大きなものが出てきた。その影は、窮屈そうに身を(よじ)り、扉を抜けて、外へと這い出てきた。逃げる気配はなかった。四本脚でのっそりと動く、尻尾を切られた大蜥蜴(とかげ)のようでもあったが、よく見ると、後ろ脚はただ地面を引き摺られるばかりで、脚としての用をなしていない。この生き物は、二本の前脚だけで地を這い、移動しているのだ。


その異様な生き物は、闇の中で(くび)をもたげ、ひとしきり月を見上げると、やがて四郎と狩音のほうを見た。不思議なことだが、その眼になにか内側から黄色い光が宿り、瞳に焔が入ったかのようにぎらぎらと輝いていた。




「お待たせ致しました。それでは、参りましょう。」

芳一の声であった。地底での、ただ泣き叫び、悲鳴をあげて転げ回っていた芳一とは別人のように、落ち着いた深みのある声であった。


彼はやがて、前脚のように見えた両腕で互い違いに地を(つか)み、ずりずりと音をさせながら地を這い始めた。重たげに見えるが、その動きは速かった。四郎と狩音が立ち上がり、歩く速度と全く同等であった。


そのまま丸木段を外れ、急な斜面を這い降りた芳一は、やがて眼前に(そび)え立つ大きな伽藍(がらん)のたもとに達した。周囲には幾つも、こと切れた民草どもの屍体が転がっていた。みな安らかで、そのまま寝入っているかのような顔をしていた。


事情を知らぬ狩音が、この異常に驚いて四郎を見たが、四郎は、ただ頷いてその小さな肩を抱いて前を向かせ、構わないようにせよとの意思を伝えた。そうしつつ、四郎は彼方を見やり、先ほど大釜の廻りに集まっていた群衆の行方を見定めようとした。よくは視認できなかったが、ほぼ全員が地に伏し、仆れているらしいことだけはわかった。


それらの屍体に、芳一も一切構わず、そのまま這い続け、段をするすると上って、伽藍の中に消えた。




四郎と狩音は、そのあとに続いた。

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