第四十章 昭和三年(1928年)晩秋 米国 紐育〜ボストン間
その後エスターは、彼女の専門研究分野である「甦った屍体」、すなわちバンパイアの歴史について、浅野に様々なことを教えた。その内容は、それまで浅野が聞いたこともない、まったく驚くべきものであった。
1725年7月、セルビア地方。当時のハプスブルグ帝国とオスマン・トルコ帝国との国境近くの緩衝地帯にある小村キソロヴァで、8日間のあいだに村人9人が謎の死を遂げるという事件が起きた。
そして全員が、死の間際、ほぼ同じ証言をした。そのさらに十週間ほど前死んだはずの男に、首を絞められた、と。
死んだはずの男とは、ペタル・ブラゴイェヴィッチという名の地元の農民で、村きっての乱暴者として通っていた男であった。さらにその後、ブラゴイェヴィッチの妻までもが、亡き夫が真夜中に彼女を訪ねて来て、なぜか自分の靴の在り処を尋ねたと言い残し、そのまま逃げ去るように他の地へと遁れていった。
疑心暗鬼にかられた村人たちは、ブラゴイェヴィッチの墓を暴き、その身体の現状を検分しようとした。しかし当時、このセルビア地域はハプスブルグ帝国の軍事管轄下にあり、埋葬はもちろん、その逆の行為にももちろんオーストリア当局の許可が必要であった。
小さな僻村とはいえ、ドナウ河屈曲部の喉元に位置するこの村は、やがて来るオスマン・トルコ軍の北上に際し、南岸に残る最後の橋頭堡として確保さるべき枢要の地でもある。当局は、現地のほど近くに、フロムボルドという名の優秀な執政官を派遣していた。キソロヴァの村人たちは、村の司祭を伴い、まず屍体発掘の許可を彼に求めた。
フロムボルドは当初、軍事境界地域における厳正な規則を盾にして、当局の許可を待つことを村人たちに説いた。
その七年前、すぐ近くのパッサロヴィッツにて締結された条約により、この地域一帯は墺土戦争に勝利したオーストリア軍の占領地域となっていたが、その前は長年月にわたりずっとオスマン・トルコの支配領域であり、オーストリア軍にとっては、いわば潜在的な敵性地域である。
そのような場所で、民心の動揺を安易に煽りかねない行為を独断で行うことは、執政官としての厳禁事項であった。
しかし、事は急を要していた。西欧の啓蒙主義などとは全く縁遠い、いまだ心を中世の闇に閉ざされているかのように頑迷な地元住民たちは、今夜にも吸血鬼が蘇り、村人を根絶やしにしてしまうかもしれないと言って譲らず、庁舎前に座り込み、いつ下りるかもわからぬ当局の許可を待つ暇はないと涙ながらに訴え続けた。
結果、根負けしたフロムボルドは、遂に独断で発掘許可を出した。これは、オーストリア側の面倒な軍事手続きの仕組みを熟知した、民心を撹乱するためのトルコ側の巧みな謀略かもしれない。だとすれば、早めに発掘させて死者の屍を視認させるのが、小火のうちに火を消す最上の策となるだろう。フロムボルドは、勇を鼓して軍事官僚としての禁忌を冒した。
結果は、意外なものだった。
発掘作業に同行したフロムボルドが見たものは、死後10週間経過してもなお腐敗せず、ただ眠っているかのように横たわるペタル・ブラゴイェヴィッチの遺骸であった。
腐臭がなく、膚は崩れておらず、蝋を塗ったように白く滑らかで、死後に伸びたと思われる髪とひげが顔面を覆い、爪はきっちりと10週間ぶんほど伸びていた。口のなかには血の塊が見え、心臓のあたりを押させると、耳と口から大量の新鮮な血液がこぼれ出てきた。また、火を近づけると、その膚は生きている人間と全く同様に、ちりちりと火傷した。
ペタル・ブラゴイェヴィッチは、確かに、生きてはいなかった。しかし、死んでいるようにも見えなかった。
フロムボルドは、この状況を詳細に報告としてまとめ、自分の越権行為の必要性ならびに正当性を主張すると共に、村人たちの不安にも一定の理解を示した。そして、地元の伝承に残る、「蘇る死者」あるいは「生ける屍体」のことを指す言葉として、「Vampyri」と書き残している。これが、のちにバンパイアとして全世界に流布する言葉の源となった。
死者による連続殺人の真相については、結局、解明されなかった。またその後、ブラゴイェヴィッチの屍体がどうなったかについても、はっきりしていない。
検分の最中、屍体に、ある「凶暴な兆候」が顕れたともいわれ、これは、なにかの反射で陰茎部分に血が満ち勃起の症状を呈したとも解釈されているが、確かなことはわからない。
一説には、口内に血が満ちていたことから、村人達はその場でブラゴイェヴィッチを吸血鬼と認定し、民間伝承にある吸血鬼殺害方法を採ったという。すなわち、まず杭で屍体の心臓を貫き、そのあと火葬して徹底的に灰にし、この地上からブラゴイェヴィッチの肉体を完全に消滅させたのである。
1731年の末、そこから百キロ以上南にある、モラヴァ河北岸に面したメドヴェージャ村で、同じような怪事件が起こった。
人口わずか240名ほどのこの村で、6週間の間に、全人口のなんと5%にあたる住民13名が連続して原因不明の死を遂げた。そしてそのうち4名が、死の直前、このように訴えたという。
「アルノー・パウルに襲われた。」
アルノー・パウルは、もうその何年も前、ちょうどキソロヴァ村で騒動が持ち上がっていた直後あたりに死んだ、地元雇用のハイドゥク (民兵)の名であった。
ハプスブルグ帝国は、長らくオスマン・トルコに属していた、この全く異質の文化の残滓が蔓延る異郷を支配するのに、自国軍の長期駐留により文化的な摩擦が起こってしまうことを慎重に避けた。
その代わり、いつ敵に寝返るかもわからぬ潜在的敵地の民心を刺戟しないよう、帝国のいわば傀儡として、その現地住民たちの中から民兵を高給で雇い入れ、治安維持と警戒のため各村に配し住まわせていたのだ。
パウルは、そうした地元雇用の民兵のうちの一人だった。しかしあるとき、干し草をいっぱいに積んだ馬車から転落し、首の骨を折る事故で死んだ。生前の彼は変わり者で、セルビアの民間伝承に残る吸血鬼に自分がしじゅう追われていると思い込み、魔除けと称して墓の土を食べたり、自分で手を切り、その血をあちこちに擦りつけたりした。
そんな具合だったから、彼は常に孤独で、廻りに友人もあまり居ない。彼が死後に復活したと聞いたとき、その名を覚えている者は稀だった。それだけに、なんら真実味のない流言飛語が尾鰭をつけてあちこち乱れ飛び、狭い村は、みるみるうちにパニック状態となった。
このときのオーストリア軍の対応は、素早かった。すでに聞こえていた、キソロヴァ村での怪事件のこともあったのであろう。現地司令官シュネツァー大佐は、報告を聞くや即座に、伝染病の専門医グレイザーを現地に派遣した。
当時のセルビアは、オスマン・トルコとの軍事的な緩衝地帯であるばかりでなく、過去何度も欧州を覆った、アジア発の伝染病の北上に対する防波堤の役割を期待されていた。当時のオスマン・トルコ帝国では、時折、西欧の医学では理解し難い奇妙な病が報告されることがあったため、メドヴェージャ村からの混乱した報告についても、まずは一種の伝染病であることが疑われたのである。
12月12日、現地に到着したグレイザーが眼にしたものは、最前線の村によく見られる、破壊された生活基盤と荒れ果てた村の姿だった。ここは、キソロヴァよりもさらに敵地に近い。人びとは、彼ら自身が墓場から蘇った屍体だと言われてもすぐと反論できないような見すぼらしい姿でふらふらと歩き回り、村のあちこちに、木の根や鼠の死骸を齧る栄養失調の子どもが居た。
しかし、グレイザーがいくら調査しても、既知の伝染病が蔓延したという証拠は見つからなかった。村人たちは口々に、「Vampyri」が村人たちに死を運んできたのだと言い募った。さらに彼らは、すでに埋葬された13名の遺体が、その吸血鬼となって祟りを為すと信じていたため、うち数体をつぶさに調べた。
状況は、キソロヴァ村におけるペタル・ブラゴイェヴィッチの屍体とよく似ていた。どう見ても腐敗しておらず、体内にまだ新鮮な血を保持する死骸を幾つか確認したグレイザーは、村人たちの求めに応じ、彼らが屍体をあらためて「処刑」することを黙認した。
そうしなければ、屍体の蘇りに心底から慄く村人たちは、たとえ流民となろうが他所の地に行くといって聞かなかったからである。村落の無人化は、守備警戒兵力の抽出を現地雇用のハイドゥクに頼るオーストリア軍にとって、絶対に避けなければならないものだった。
このグレイザーの一次報告を受け、事態の尋常ならざることを察した当局は、より本格的な調査に乗り出すことにした。報告は現地からベオグラードの駐留連隊司令部にまで達し、連隊付軍医ヨハン・フルッキンガーが一隊を率いて1月7日にメドヴェージャ村へ到着した。
彼は、豊富な人員を手分けして、まず村人たちに詳細な聞き取り調査を行った。その途上で、もう何年も前に死んだアルノー・パウルの名が出てきたのである。
フルッキンガーは結局、グレイザーがやったのと、同じことをした。彼らは村の共同墓地に行き、17体の死体を掘り起こし、徹底的に調査した。それらの大部分は、部分的に腐敗しつつも、体内にまだ新鮮な血液を残した状態で、いまにも蘇りそうな外観のままだった。
遺体の検分後、完全に腐敗した数体は墓に戻されたが、比較的原型をとどめていた残りの屍体は、村人たちの冷たい視線を感じたフルッキンガーの命令により、完全に処理することが改めて認められた。すなわち、なかば儀式的に地元のジプシーが使い慣れた鎌でこれをいちいち斬首し、河原に組んだ丸太の上で全身を焼却処理した。焼かれたあとの灰は、そのままモラヴァ河の流れの中に投棄され、死者の蘇りという事態は完全に防止されたことを、現地の村人たちに視覚的に納得させた。
フルッキンガーに託された、戦地の治安維持と民心の安定という、軍事的必要性から来る鎮撫の任務はまずまず完全に果たされたといってよかった。だが、同時に期待された原因の究明については、やや不徹底の観を免れ得なかった。
フルッキンガーの手になる報告は、「Visum et repertum」(検分報告書)と簡潔に題され、通常の手続きを経て上級司令部に提出された。その、あくまで軍事報告としてまとめられた書類には、フロムボルドの記した「Vampyri」という曖昧な表現は、もちろん使われていない。
時はまさに新世紀の始まり。啓蒙思想に彩られた合理主義と自由な気風とに浮き立つようだった華の都ウィーンに届いたこれら腥い報告は、意外にも、大きな関心を持たれて人びとのあいだに広く流布した。
さまざまなルートから流出したフロムボルドやフルッキンガーの報告書は、あちこちに転載され、引用され、時に切り刻まれ、そして一部は捻じ曲げられ、都合よく改変された。もとは誠実に取りまとめられた厳正で冷静な現地報告だったものが、いつの間にやら、未知の闇に蠢く、常ならぬ魔物の実在を語る証拠として、人のこころの灰色の辺縁あたりを、ぽつぽつ独り歩きするようになり始めた。
以降数十年。じわじわと、衰えることなく囁かれ続けたバンパイアの概念は、いつの間にか欧州全土に知れ渡ることとなり、数多くの論客が、さまざまな立場からこの問題を論じ合った。医学者はもとより、哲学者、科学者、神学者・・・そして心霊研究者まで。
1755年、こうした状況を憂慮したハプスブルグ帝国の最高権力者マリア・テレジアは、自らが全幅の信頼を寄せる侍医ゲラルト・ファン・スウィーテンに命じ、同じような吸血鬼騒動の持ち上がったモラビア地方へ急派した調査団を指揮させた。
スウィーテンはおそらく、科学合理主義に則った当時の欧州医学界において、その最高峰の知性であるといってよかった。彼は、なんら予断を持たずに現地に赴くと、地元民の協力を得て実際に墓を掘り起こし、吸血鬼の疑いのある屍体を19体ばかり、村の中心に運んだ。
そしてひとつひとつ丁寧に棺を開けさせ、腐敗の状況を、衆人環視のなか注意深く観察した。一連の検死行為は、そのすべてがぶっつけ本番で公開され、またスウィーテンはわざと屍体の状態をいちいち声に上げて書記に記載させたので、その内容が周囲の群衆にも漏れなく伝わった。
そして、改めて認識した。屍体は必ずしも蛆虫の餌食になるとは限らない。地中に封印された人間の屍体は、しばしば、そのまま腐らずに何年も原型を保ち続ける。すでにその意識はなく、脳髄の活動も心臓の動きもすべて止まった状態で、体内に血液が残り、ただ純粋な生物的反応として髪が伸び、爪も伸びる。
おそらく体内に充満したなんらかのガス質のものが外へと漏出し、なにかのはずみで多少の音を発したりすることがある。過去の事例で、村人が聞いた死者の吼え声なるものが、これであろう。
(アルノー・パウルの一件で、村人たちが彼の墓を暴き、胸に鉄の杭を打とうとしたところいきなり叫び声を上げたという伝承があるが、グレイザーやフルッキンガーの報告書にその記載はない。パウルは、両名が現地に到着する何年も前に死んでおり、実際に墓を暴いたという当事者が直接証言することもなかった。)
スウィーテンは、確信した。地中に埋められた人間の屍体は、おそらく、一般に信じられているよりも遥かにゆっくりと劣化して行くのである。地上に晒されたままの骸の劣化は速いが、それは、おそらく土中の環境とは比較にならない。条件さえ揃えば、人間の屍体は、そのまま何年でもその姿を保ち続ける。しかしそれは、何らの超自然的な現象ではなく、あくまで生命を喪った人間の、必然的な終焉の姿なのだ。
さらにスウィーテンは、幾多のバンパイア証言のなかで共通している要素として、
・寝ているときに故人に頸を締められる幻想
・何らかの病気の蔓延への恐怖との類似
という二点に着目した。
まず前者については、その原因として、肺などの呼吸器をめぐる胸部疾患が疑われた。
入眠中、とつぜん襲う甚だしい息切れが、闇の中で際限もない恐怖と不安を呼び起こし、日頃、それとなく意識している顔見知りのバンパイアに頸を締められる幻想をもたらすのである。
それが証拠に、幾つかの症例においては、そのあと家人などが手を貸し、ベッドの上に起き上がる格好になれば、症状は憑物が落ちたように穏やかになる。
これはすべて、胸部疾患に共通した典型的な症状である。
後者については、もうわざわざ説明するまでもない。
バンパイアに関わる記録には、頸を締めたという幾つかの証言以外、直接的にそれらが村人を害そうとした形跡が見当たらない。それは、ただ在るだけで災いを齎す、実際には眼には見えぬ脅威なのである。
それが、ただそこに在るだけで、やがて人が次々に死ぬ。
結核、黒死病、コレラ・・・かつて欧州全土で何度も猖獗を極め、幾多の死と災いをもたらした悍ましい伝染病の記憶が、得体の知れぬ吸血鬼に姿を変えて、まだ中世の迷妄抜けやらぬこれら後進地域の住民たちの想念のなかを、大鎌を抱えて徘徊しているのである。
吸血鬼とは、まさにそうした悪疫、病気、病巣そのものを指し示しているのだ。
ゲラルト・ファン・スウィーテンは、この明快な結論を、
「吸血鬼に関する医学的報告書」
という報告にまとめ、彼の唯一の上長である女帝マリア・テレジアに提出した。
女帝はこの内容を認定し、即座に、あらかじめ用意していた以下の法令を発布した。
「バンパイア/魔法/魔女など、迷信に基づく行為をすべて禁止する法律」
以降、ハプスブルグ帝国の領域内で、公然とバンパイアについて口にし、議論する者の姿は皆無となった。そしてそれとともに、蘇る屍体をめぐる噂は、年月とともに徐々に消えていった。
光輝に満ちた近世欧羅巴の合理主義と啓蒙主義は、こうしていったん、裏口のバルカン半島からじわじわと攻め寄せてきていた、底知れぬ中世の闇に打ち勝った。
バンパイア達の侵攻は阻止され、人間の世にはいったん、啓蒙と合理と進歩の華が咲いた。医学、生物学、科学の飛躍的発展は目を瞠るばかり、人びとはその成果を享受し、未来につながるひたすらに楽観的で明るい日々は百年以上に渡って続いた。そして18世紀の半ば頃には、この地球上から、すべての闇と恐怖が取り払われたように思えた。
「未来に、光あれ・・・そして人類の歴史は今に至る。そういうわけね。」
長い話をそう結んで、エスターは、またあの魅力的な瞳をうるませながら、ころころと子どものように笑った。
「でも、欧州がそうやって中世の闇を脱しつつあったまさにその頃、この新大陸では、闇のなかに堕ちた私のご先祖様たちが、罪のない人びとを魔女呼ばわりして、せっせと絞首台に送っていたわけよ・・・大した、合理主義の国でしょ?」
やや自虐的とも取れるアメリカ人のその言葉を、慌てて打ち消すように浅野は言った。
「そんなことを言ったら・・・当時の私の国など、とてもマリア・テレジアに向かって足を向けて眠れやしませんよ。なにしろ、地球上のすべての科学の進歩に逆行して、国を閉ざしてしまったのですからね。」
「いえ、もしかしたら、それはそれで賢明な政治的選択だったのかも・・・まあ、暗い過去の話は、このくらいにしましょう。貴方が素晴らしい聞き役だから、あちこち寄り道して、私、自分の研究内容について、すっかり全部お話してしまったわ。まだ学会で発表する前のものすらあったのに。」
エスターは、浅野の肘をちょっと小突くようにして言った。
「もとは、何の話でしたっけ・・・ああそうだ、セイラムでの魔女裁判と、バンパイアとの関係についてだった。その南米出身の使用人が、ブードゥーの秘儀とやらで、屍体を蘇らせたとか。その先を、お伺いしていない。」
浅野は笑って言ったが、実は、一刻も早くその先が聞きたくてたまらない。何しろ自分は、「蘇る屍体」についての顛末を、つい昨夜、船室の中で夢に見たばかりなのである。
夢の中で狩音は、屍体の蘇りの謎を、多々良の知恵と称し、たった今エスターから聞いたゲラルト・ファン・スウィーテンばりの快刀乱麻で解いてみせた。少なくともそれは夢の中の登場人物のすべてに大きな感銘を与え、一連の怪異の理由がすべて解明されてしまったかのように強く印象されている。
夢の中では四郎と同一化している浅野も、そのときは全く疑問を持たなかった。だが、目を覚ましたあとには、ほんの僅かな不満を感じた。なぜなら、その狩音の説明には、起こった現象のすべてが網羅されていない。
当初、霜降城に伝わってきた話では、死者たちは、ある日を境にいきなり地上に姿を現したということではなかったか。また、アルノー・パウルのように特定の一個体が村人を襲ったわけではなく、ある時期に死んだ複数名が、地上をただあてどもなくふらふら歩いているというだけであったはずだ。
だが、浅野が感じたそのちょっとした違和感も、次のエスターの一言で、すべて氷解した。
「欧州のバンパイアと、ブードゥの呪いで甦った屍者とは、似ているようで、実はまったくの別ものなのです。バンパイアは、あくまで屍体に生命がまた宿り、甦った状態。いっぽう、ブードゥーでいうそれは、生命のないただの屍体が、呪いをかけた誰かに操られて、言われるがまま機械のように動くだけという点ね。表面的には似ているけど、両者には、血の通ったかわいい猫ちゃんと、からくり仕掛けのお人形くらいの違いがあるわ。」
・・・ああ、そうか。
浅野は納得した。
すべてが腹に落ち、すっきり理解することができた。
おそらく、あの中世の夢における屍者たちは、生きている者でもあり、そして死んでいるものでもあるのだ。彼らを動かす力学や自然法則は、この現実世界とは違い、決してひとつだけとは限らない。
厚東四郎は、現代人ばりの合理思想の信奉者である。怪力乱神を信じず、眼に見えぬ祟や呪いを認めず、ただ常に物事には合理的な理由があるとする。その考えに即せば、屍者たちは、狩音が解いてみせたように、欧州のバンパイアよろしく、生きているように見えるだけの、ただの屍体だ。
しかしこの夢の世界は、ただ厚東四郎ひとりの視点だけで進むものとは限らない。いつもは四郎と完全に同一化している浅野の意識も、たまに、ふいと四郎を離れ、客観的に夢の中の風景を眺めてしまっているような瞬間がある。
これから夢の中では、なにか全く別の視点、別の世界観に則った新たな法則がいきなりその姿を現し、それに従い、まったく違った展開が始まる可能性があるのだ。
だから・・・いったんは狩音に否定された屍体の蘇りという現象が、別の根拠によって再現する事が、あり得るのではないか。
もしかすると、ブードゥの呪いをかけられた、ただ自動人形のように動く生命なき屍体どもの群れがぞろぞろと打ち揃い、夢の最後に四郎と狩音、そして四郎に同化した浅野の意識を待ちうけていたりするのではないだろうか?
浅野は少し、背筋が寒くなってきた。
急行列車は、いまでは海を離れ、小さな丘と森林が交互に現れるニューイングランド地方の内陸部を走っていた。窓外を次々と走り去っていく森の樹々、脇を流れる小川に沼沢、そのあいまに、小さな牧場でのんびりと牛が草を食んでいるのや、あるいは出来かけの小さく中途半端な町並みが、思い出したようにちらちらとその姿を見せてはすぐに消えた。
話し疲れたエスターは、しばらく黙り、眼を瞑って少し下の方を向いた。窓から入ってくる、西に傾いだ陽の残光が、彼女の黒髪をふちどりながら照らし出し、端だけが燃えるような金色になった。
夕陽に照らされた彼女は、とても神々しく見えた。自分があれほど信奉している神道の神々には見えない。昔の宗教画で見たマリアか、あるいはギリシア神話のアフロディナか・・・いずれにせよ、西洋に居る美しい女神や聖母の姿に他ならない。
しかし浅野は以前にも、これによく似た美しい姿、愛らしい仕草、美しく潤む瞳を、見たことがあった。たしか西洋に来るずっと前のことだ。いや、見たのはつい最近のような気もする。しばし考えて、やがて思い出した。
そうだ、狩音だ。
エスターの翡翠色の瞳は、毎夜のように夢に出てくる、あの狩音が四郎を見つめるときの、茶色の瞳になぜかそっくりだ。
カール・ユングは狩音のことを、中世の夢の世界のなかで、常に厚東四郎を救ける存在と表現した。すると、四郎と同様、得体の知れない脅威に追いかけられつつ、同じく何処かの海峡目指して旅を続ける浅野にとって、エスターは、狩音のような救世主になるのではないのだろうか。
特に根拠もないが、浅野はそのように考えた。
「ブードゥーでいう、その生命のない動く屍体のことですけれど。」
浅野の思考を打ち切るように、エスターが眼をひらき、彼のほうをまっすぐに見て、言った。
「実は名前があるのです。これも各地によりまちまちですが、アフリカのほうでは、主に『スォンビ』、またはこれに近い発音が多いわ。カリブ海を経由してこのアメリカに流入してきた人たちのあいだでは、もっと縮めて『ゾンビ』と呼ばれています。」
「ゾンビ?なんとも、禍々しくて、恐ろしい名だ。」
浅野は、心の底から慄然とするものを感じて、言った。
「大して恐れる必要はないわ。彼らの伝承によれば、ゾンビは、まじない師が人に呪いをかけるときの、ちょっとした威しのようなものよ。単体では、なにもできない。ただ、ふらふらと動くだけ。」
「なるほど。それでは、これから行くボストンの夜闇でいきなりゾンビに襲われたとしても、懸命に走れば、なんとか逃げ切れそうですな。」
浅野は、恐怖を振り払うかのように冗談めかして、言った。
「ただし、お気をつけて。」
エスターも負けじと言った。
「もしかしたら、あらゆる方向から何百と押し寄せてくるかもしれないわ・・・そして、もし彼らに噛まれるか、なにか呪いをかけられてしまったら、貴方も晴れてゾンビの仲間入りよ。それが彼らの伝承なの。」
「そいつは、困りましたな・・・なにしろ、国には妻や子を残してきているから。」
二人は、声を合わせて笑った。同時に浅野は、言って少しばかり安心した。妻子持ちだということだけは、伝えておかなければ。
エスターは笑いながら、さりげなく話題を変えた。
「とにかく私は、こういう妙な歴史ばかり研究しているのです。あなたのような外国人がミスカトニックを知らないのは、当然といえば当然よ。まともな権威の相手にしない、学会のはみ出し者の教授たちの吹き溜まりで、そのまわりに、負けじと変わり者の生徒ばかりが集って成立したような大学なの。社会の本流とは、まあ、ちょっとかけ離れたところにある存在ね。ただ、一国の科学・文化の厚みというものは、こうした、一見まともでない研究をもその辺縁部に多数含みながら成立するものです・・・わかるでしょう?」
「なるほど。それは、けだし名言だと思います。実は白状するが、私も、そうしたはみ出し者のうちの一人なのですよ。説明が面倒だし、誤解を受けがちなので黙っていたが・・・私は、心霊主義者でしてね。さきほど話に出た、魔女狩りのきっかけになったという降霊会の専門家です。」
「あら・・・奇遇だわ。ある意味ではお仲間ね。ただ、貴方の独特の雰囲気から、わたし、先ほどからなんとなく気づいてましてよ。勘はとっても良いほうなの。」
そう言ってエスターは、ちょっと片目を瞑ってみせた。
「なるほど、これは参った。まさに類は友を呼ぶ、同胞愛憐れむというやつですな。」
浅野は言い、ふたりはまた声を合わせて笑った。
「そうだ、ちょっと待ってね、サブ・・・そうだわ、貴方の目的地も、わかったような気がする。」
エスターは、また唐突に言い出した。
「まさか!ボストンに行くというだけで、私の最終目的地までお察しなのですか?エスター、貴女はもしかしたら・・・魔女では?」
浅野は言った。
「告訴だけは、告訴だけはおやめ下さいまし・・・サブ・ホーソーン判事さま!」
エスターは、そう哀願しながら大笑いした。そして、ずばりと言った。
「マージナリーのところね?貴方は、きっとマージナリーの家に行くのだわ。」
大当たりだった。
浅野は、眼を丸くして驚き、思わず、ぱちぱちと拍手した。
「その通りです。エスター、あなたは実に凄い女性だ。なんでもお見通しですな。」
「別に大したことじゃないわ。ボストンで、心霊主義者が目指す聖地といえば、あそこしかないもの・・・ライム街の十番地。」
「住所まで!」
「たいていのボストン市民は、知っていてよ。なにしろ・・・あそこで、あのフーディニと一騎打ちした有名人ですから。ボストン・ヘラルドとか、あちこちの新聞や雑誌で、何度も何度も記事になっていたわ。」
「そうだ・・・まさにそれも奇遇でね、あなたはフーディニの代筆家の友人。そして私は、これからマージナリーと会いに行くのです。そしてその二人はかつての仇敵同志。なんというか、とても複雑な関係だ。」
「すべてが絡み合い、縺れあって、相互にこんがらがっているわね。まさに、この世界、歴史、そして私たちの人生そのもの。」
「貴女は、ときどきさりげなく深いことを言う。しかしまさに、そのとおりだ。マージナリーとも知り合いなのですか?」
「まさか!私のような一介の無名歴史学者が、とても気軽にお知り合いになれるような御方ではなくてよ。ご主人のクランドン教授はボストンきっての名士だし、奥様は、いわば全米の霊能力者の代表といっても良いような象徴的存在。そのふたりに会いに行けるなんて、サブ、あなたはきっと、日本の誇りね。」
「滅相もない。私は、この老骨に鞭打ちつつ、なんとか国を出て、ゾンビのようにふらふらと地球を半周し、流れ流れてなんとかここまで辿り着いたのですよ。」
浅野が講談調の英語で返すと、エスターは、口に手を当て、弾けるように大笑いした。
汽車はやがて、ボストン駅に到着した。浅野はエスターと共に降車し、そのまま駅舎の外まで一緒に歩いた。
すでに陽は落ち、あたりはとっぷりと夕闇に包まれていた。しかし紐育に次ぐ規模の、北米東海岸きっての巨大な街には、さまざまな高度で遠近にたくさんの灯火がともり、街路を歩く二人の姿をありとあらゆる方向から照らし上げていた。脇を数台の車が通り過ぎ、路肩に嵌めてある換気口から蒸気があがり、白い靄となって暗闇の中に溶けていった。
「フィルに会わせるわ。」
エスターが、とつぜん言った。
「えっ?」
「貴方がさっき褒めていた名文家よ。名文家で、変わり者で、生活に困った無名作家で、代筆家で・・・そして、私のお友達。」
「フィリップさんですな・・・それは楽しみだ。ところで、彼の姓は、何というのです?」
「ラブクラフト。」
エスターは答えた。
「ハワード・フィリップス・ラブクラフト。仲間内では、フィルで通っているわ。実力の割に運のない小説家で、人ぎらいなのに、なぜか不思議と彼の周りには人が集まるの。とっつきにくいし、いささか偏屈なところもあるわ。でも根っこは、とてもいい人。」
「なるほど。それはぜひ、お会いしてみたいものだが。しかし彼は、プロビデンスに住んでいるのでしょう?」
「ええ、そうよ。でも、きっと会えるわ。いまにわかる。」
エスターは謎のようなことを言い、にっこりと笑って、続けた。
「ひょっとして、まだ泊まるところが決まっていないのでしょう?それなら、ぜひリッツ・カールトンにしなさいな。去年オープンしたてのお城のようなランドマークで、内装もとっても素晴らしいところだわ。どのタクシーの運転手も知っています。もしかしたら後日、私もなにかでお伺いするかも知れませんし。あそこは、女性が一人で食事してはいけない決まりがあるのです。」
「なるほど・・・そういう慣習があるのですか!格式が高そうだ。」
「ええ。なにしろクランドン博士のお客様ですから。まずはそれなりのところにお泊りにならないとね。ボストンの社交界では、こういうの、とても大切なことよ。」
「ええ、ぜひ、そうします。ご忠告ありがとう。道中、たいへん楽しかったです。御機嫌よう。」
「ええ、ご機嫌よう。」
エスターは、少し淋しそうに言った。
そのまま後ろを向き、歩き去ろうとした。その嫋やかな背中の曲線に浅野が見とれていると、数歩歩いた彼女はとつぜん、くるりと振り返り、こう言った。
「ヘイ、ミスター・アサノ!」
「はい?」
浅野が思わず聞くと、エスターは、シャンパングラスを掲げるかのような仕草を宙でしてみせて、大きな声でこう言った。
「新世界へ、ようこそ!」




