第三十九章 安貞二年(1228年)秋 長門国 阿弥陀寺
伊輪部落を出た四郎と狩音は、長府へは戻らず、そのまままっすぐ西へ下った。そして、且山の麓に繋いでおいた駄馬の口を取ると、山あいの谷間を抜け、火の山の北麓に沿って歩き、ぐるりとこれを迂回して、陽が傾き始める頃合いには、ふたたび海が見える場所に来た。
眼の前を小川が流れており、そのか細い流れは、すぐと壇ノ浦へと流れ込むに違いない。そしてそのたもとに御裳裾の宿があり、右へ折れれば阿弥陀寺は間近である。
空は蒼く、抜けるように晴れ渡り、かなたには片側に吹き寄せられたような綿雲が空の上に寝転がっている。柔らかく吹き寄せる潮風が二人の頬を撫で、この招かれざる客に、一応の礼儀を示しているように思えた。樹間にちらちらと見える海岸線のどこにも、人の気配はない。たまに、打ち捨てられた家屋や家畜小屋がある様子だったが、そのどこからも炊煙は上がっていない。
「さて。霜降の土牢で輝血なる童女が、空蝉が袖をひく、と詠んだ御裳裾にやって来たぞ。」
四郎が、気軽な調子でそう言った。
「ところがどうだ。此処には、空蝉 (死者)も生者も、誰一人として居らない様子ではないか。」
「即断するはまだ早うございます。」
狩音が言った。
「御裳裾の宿は、小さきといえど海陸の通交の要衝。誰も居らぬとは思えませぬ。」
「もしかすると、既にみな水底に引きずり込まれてしもうたのかも知れぬの。そして、宕の餌となり、今ごろは平家の首領どもと同じに、芳一に取り憑いて恨み言でも言わせておるのやもしれぬ。」
「これ、四郎様!戯言が過ぎまするぞ。ここはいわば、敵地でございます。」
狩音は、自分の愛する男を叱ったが、その眼も少し笑っていた。
やがて到達した御裳裾の宿は、かつて数日前まで宿であったものの残骸であった。海に届いた先ほどの小川の流れに渡した木橋の両脇に築地塀が伸び、幾条かの細い街路をかたちづくっていた。そしてそのあちこちに建屋があったが、本当に誰一人として人が居ず、烏の一羽すら啼いていない。生きているものといえば、ただ数匹の犬猫が、四郎たちを避けて遠くを駆けて行く姿を認めただけである。
見た目は同じ様な惨状を呈していた長府の街にも、まだ辛うじて人の姿はあった。また、行き倒れた人間や牛馬の骸が仆れていたり、糞尿や汚水の臭いなど、少なくともその数日前までは生きた人間たちが生活をしっかりと営んでいた痕くらいは残っていたが、ここにはただ、完全なる静寂と、止まった刻と、本当に伽藍堂となった街の痕が残るばかりである。
「まさに、死んでしまった邑、じゃの。皆は本当に、何処へ行ったのじゃ。」
さすがに異様さを感じた四郎が言った。狩音は無言でうなずいた。
やがて水際に達し、二人は打ち寄せる白い波を見ながら仕方なく方向転換した。駄馬の口を曳きつつ、砂浜をそのまま西へ向かって歩いた。しかし、おとなしかったその馬が、なぜかそれを嫌がり、後ろ脚を懸命に踏ん張って抵抗した。
ふたりは力づくで曳いていこうとしたが、この小さな駄馬は、どこにそのような力があるのかと疑いたくなるような勢いでそれに抗いつづけ、とうとう根負けした二人は、いったん誰もいない御裳裾に引き返し、そこに馬を繋いだ。彼は、その頃にはすっかりおとなしくなっていた。
背負う荷は重くなったとはいえ、完全に身軽な徒士となった四郎と狩音は、歩けばすぐに着くはずの阿弥陀寺へと向かって進んだが、すぐにその歩速は鈍ることになった。
風向きが変わり、これまで海の彼方から甘やかな汐の香りを運んでいた風が、向かい風となって、なんとも言いようのない臭いを運んでくるようになったのである。
それはこれまでさんざん嗅いできた屍臭ではなく、ある種の便臭のようなものだった。あの、胸の奥を掴んでひっくり返してくるような、吐き気を伴う腐敗した屍体の臭みではなく、鼻腔に直接作用し、そのまま眼窩の底を痛めつけてくるようなキンキンとした異臭であった。
歩むにつれ、その臭いはますますきつくなった。二人は顔をしかめ、なんとかそれに慣れようと努力しつつ、一里もない道をゆっくりと進んだ。
やがて、臭気の原因が解った。
足元に、黒ぐろとした小石のような異物が多数、転がるようになってきたのだ。最初はまばらに転がっている程度であったが、歩を進めるうちその数はみるみるうちに増した。やがて異物が数個集まった黒い塊が斑になってあちこちに散らばるようになり、しかもその半分くらいは、もぞもぞと動いていた。
それらはいずれも堅そうに見えたが、誤って踏むと、ぐしゃりと音を立てて潰れた。四郎は、顔をしかめたまま、そのうちの一個を手で拾って眺めた。
小さな、蟹であった。
ぬらぬらと濡れて、なにかの粘液に塗れたそれは、ぷくぷくと小さな泡を立てながら、細く突き出た眼をぐりぐりと動かした。そして、こちらを脅すように右の鉗脚を振り回したが、肝心のその鋏が極めて小さく、威嚇効果は極めて薄かった。
だいたい、この蟹は風体からして異様であった。色はやや灰色がかった黒。胴体は不格好な台形をなして、その一番下に節足部分があり、左右二対の大きな主脚が真横に堂々と張り出している。そのあいまに、何の役にたつのかわからぬほど小さな脚が、さらに二対ほど伸びて、ただわなわなと震えている。鉗脚はいちばん上についているが、その下二対の主脚に較べあまりに貧弱で、おそらくは口腔に餌を運ぶための、箸代わりとしてしか役には立たぬ代物である。
そしてなにより、その蟹を特徴づけるものは、台形の甲羅いっぱいにくっきりと浮かび上がった模様であった。
口を「へ」の字に結び、歯を食いしばって苦痛に耐える、斬首される間際の武者の貌・・・さいしょ、四郎はそれを連想した。その大して堅牢そうにも思えぬ黒い甲羅には様々な皺が寄り、主に上下方向から甲皮を圧迫して、太い紋様を浮彫りにしているのである。
別のものを拾い上げてみると、先ほどの紋様とはまた違っていた。が、それも見ようによっては、明らかに人の貌に見える。ほとんどが厳つい武者か、もっと恐ろしげな鬼面だが、まれに公達のような柔和な表情をしていたり、すべてを悟った高僧のように穏やかなものもあった。
「まるで、人と同じでございますな。もしかしたら、これら一匹一匹が、かつて生きていた人と同じ貌をしているのかもしれませぬ。」
狩音が、横から覗き込んで、言った。
四郎は、鼻で笑って、その蟹をぽいと脇へ捨てた。
「そちらしくもない、つまらぬことを申すな。これは、このあたりでよく獲れる武者蟹じゃ。」
「武者蟹、でございますか?」
「うむ。水底をただ這いまわるだけのつまらぬ蟹で、我身を護るため日頃は貝殻を背おうて砂のうちに潜み居るそうじゃ。人の顔にも見ゆる甲羅のこの皺は、おそらく重いものを日々背負うておるが故に、長いあいだに仕方なく寄ってしまうもの。網底によく引っ掛かって藻掻いておるそうじゃが、獲れても、どこにも喰える実がないゆえ、漁夫はこれをその場で棄てる。」
「山育ちの妾が、見たことがない訳でございます。」
「まるで売り物にならんからの。聞いた話では、臭みが強くて出汁にもならんそうじゃ。」
「なんと・・・どこまでも、つまらぬ。」
「そうじゃ、ただそれだけの生き物じゃ。陽の光のささぬ昏い水底で、眼も見えず、耳も聴こえず、ただかさこそと砂の上を這い、小魚の骸を啄んではこの醜い鋏で口に入れ、そのまま延々と時を過ごし、やがてひっそりと死ぬるだけの生涯じゃ。つまらぬ、誠につまらぬ生き物じゃのう。」
「しかし、それが、こんなに・・・。」
言って狩音は、左手を前方のほうへかざしてみせた。
前方は、一面がこの黒い蟹で覆いつくされ、大地も道も、砂浜も、まるで一枚の大きな敷物を敷き詰めたかのように真黒になっている。もうここから先は、一歩ごと数匹の蟹を踏み砕き、殺生をし続けないことには先に進めない。
いつの間に、これだけ夥しい武者蟹が、海から揚がってきたのであろうか。むろん、そのひとつひとつは、つまらぬ海棲の虫けらのようなものに過ぎない。しかし、各々背にそれぞれ違った人の貌を背負い、数万のそれらが泡を吹きつつ鉗脚を振りかざして、鋏をぱちぱちと閉じ、開き、視界いっぱいにゆらゆらと揺れているさまは、四郎の眼にも、ひとつの地獄の姿のように見えた。
二人は、がしゃり、がしゃりと音を立てて蟹どもの甲羅を破砕し、そこに描かれたひとつひとつの人の貌を踏み潰した。蟹どもは、無言のうちにただ泡を吹いてその運命に殉じ、天から下ってきたこのふたつの異形の降魔の姿を、なんらなすところなく、ただ恨めしげに見上げた。
そして、その巨大な黒い敷布は、えもいわれぬ異様な臭気をあたりに放ち続けていた。先ほどから風に乗って襲いかかってきた、鼻の奥を衝くたちの悪い便臭である。その異臭はいまもなお濃厚に立ち込め、吹きつける海風の具合によって汐の香りと混じり、あたりを包み込む逃げ場のない臭気となって二人に襲いかかった。
四郎は、鼻を押さえながら言った。声が、くぐもっている。
「わかったぞ。陸に揚がった蟹の半分は、おそらくすでに死んでおる。よう見よ。まだ生きておる蟹が、餌に困って、仲間の骸を鋏でつついておるであろう。あれは、共食いじゃ。同じ蟹に腹をつつかれて、腸が引きずり出されておる・・・これは、その匂いじゃ。」
「幾千、幾万・・・いや、それではきかぬくらいの、夥しい共食いでございますな・・・なんと、なんと悍ましや。」
狩音は目を瞠り、額にじっとりとした汗を浮かべながら言った。いまこの場でかがみ込み、蟹どもの甲羅の上に吐いてしまいそうだった。
「みな、生きるのに必死なのじゃ。それがたとえ束の間の生なのだとしても、ただ生きていたいのじゃ、それだけじゃ・・・これほどいじらしい努力なのに、それが幾百も連なると、かくも悍ましき光景になる。つくづく、生きるとは、因果なものよのう。」
「まるで、生悟りの仏僧のような物言いで御座いますな。」
狩音が、喉の奥のむかつきを唾といっしょに吐き捨てるついでに、言った。
四郎は、逆にそのむかつきを呑み込んで、口を歪めつつ答えた。
「いくら不信心な儂でも、この光景を目の当たりにすれば、悟りのひとつも開きたくなるわい・・・おお、良かった!見えてきたぞ、あれが阿弥陀寺じゃ。」
驚くべきことに、阿弥陀寺の境内は、人でいっぱいだった。
それまでの、無人の野とはうって変わった大盛況ぶりである。先ほどまで地を埋めていた蟹どもの代わりに、ここでは人間どもが寺の敷地じゅうをぎゅうぎゅうに埋め、あちこちに座り込んだり、寝そべっていたりしていた。
蟹どもの黒い敷布は、もちろん境内にも容赦なく侵攻していた。しかし、蝟集した人間どもは、手分けしてそれらをまとめて駆除し、境内のほうぼうに抛っていたため、あちこちに蟹の死骸の山ができていた。それどころか、二箇所に大釜がしつらえられ、大量の湯が焚かれ、死骸の山から比較的、実のありそうな個体を択んで、人びとは嬉々として次々それらを放り込んでいた。
白い湯気が濛々と立ちこめ、熱気と人いきれとが、この限られた境内だけに限っては、蟹の共食いによる便臭を覆い隠しているように思えた。人びとはみな痩せ細ってはいたが、その目はぎらぎらと輝き、生気が全身に漲っているのがわかった。
ほっとした四郎と狩音が、彼ら、おそらくは近在の民どもに混じって荷を解き、門の内側に寄りかかりながら腰を下ろすと、墨染の粗末な袈裟を着、尻をからげた入道姿の男がやってきた。そして、二人を上から見下ろし、ぞんざいな物言いで来意を問うた。
四郎は立ち上がり、威をあらため、長府の国府で申し述べたように堂々と名乗りを上げた。しかし、境内の民は誰もそれに反応せず、入道も、
「へえ、そうかよ。」
と一言、いっただけである。
「無礼者!曲がりなりにも国主の御曹司を出迎えるにその言い草、許しがたし!」
狩音が男を叱りつけた。自分が多々良の草の者であることを、完全に忘れた反応だった。しかし四郎は、小刀を抜きかけた狩音の素早い動きをその太い腕で押し留め、入道にむかってなるべく穏やかな声音で、言った。
「いま、儂が申し述べた口上、聞こえておったな?それでは、儂が誰で、どのような目的で当地に至ったか、お主にもわかったであろう。」
「うむ。儂も、ばかじゃねえや。そのうえで言ってるんだ、馬鹿野郎。」
入道は、にやにやしながら答えた。
再び抜きかけた狩音の肩を、四郎はぐっと押さえた。
「なるほど、そうまで言うには、仔細がありそうだな。儂にはわからぬ故、教えてはくれぬかの。」
丁寧な口調で、頼んだ。
ふっ、と鼻で笑った入道は、まあ、しょうがないと言いたげな風情で、こう四郎に答えた。
「儂は、帯来入道じゃ。変わった名であろう?実は、一昨日この名にした。もうすぐ、宕が揚がって来られるでのう。」
「宕が・・・お主、その名を存じおるのか。」
「おう、今じゃ、この境内に居る民草みなみな、宕の民じゃで。もう厚東のもんでは、ねえ。おさらばじゃ。だからよ、今さら厚東のお坊ちゃまでもねえんだ。簡単だろ?これで、わかったかい?」
「なにを戯けたことを申すか!宕など、この世にはおらぬ。宕を装うどこぞの人間が、お主らを謀って居るのじゃ!わからぬのか?」
狩音が、つっかかった。
「わからねぇ、なあ・・・宕にけちをつける、お前らが、わからねえ。」
帯来入道は、狩音をからかった。
「あんな、素晴らしい浄土におれたちを連れてってくれる、ってのによ・・・まあ、厚東さんが残りたけりゃあ、勝手にしな。このあたりの民草はよ、もうこんな現世になんか、だあれも残らねえよ。だあれも居ねえ長門で、ふんぞり返って威張ってりゃいいや。おれたちゃ、西方浄土から、それを見下ろして大笑いだあ。」
「住持はいずこにやある?」
相手にならぬと見切った四郎が、帯来に尋ねた。
「仮にお主らが旅立つなら旅立つで、きちんと、あとのことを整えねばなるまい。まさか、これほどの格式ある寺を、無住にするわけにも参らぬであろう。そのことは、まず、住持のつとめじゃ。」
「居ないよ・・・おっ死んだ。」
「なんだと!」
この言い草に、またも狩音が激昂した。
「仮にも、お主の師であろうが!何様のつもりじゃ!」
「言ったろ?俺は一昨日、名前を変えた。すべて変えた。和尚は死んじまった。そして俺たちゃ、明日の朝には、みなみな打ち揃って西方浄土じゃ。あとのことは、おめえらで勝手にしな。」
「では、住持に代わる者は?芳一は何処に居る?」
その名を出した瞬間、帯来の顔色がさっと変わった。そして、どこか投げやりだった態度が豹変し、眦を決して、四郎にこう叫んだ。
「やい、芳一さまになんかしようって肚か?だとしたらおめえら、こっから生きては出られねえぞ!」
丸腰だったが、おそらく格闘や戦闘にはそれなりに心得のある者なのであろう、もしかしたら僧兵出身かもしれない。中腰になり、いつでも飛びかかれるように身構えた。
四郎は、目線を動かさず、視界のはじに、このやり取りを眺める大釜のまわりの群衆を捉えた。みな、ただ茫然と突っ立っている。特に帯来に加勢しようという風でもなく、かといって勿論、四郎ら厚東の側につこうとする気配もない。彼らはただ、そこにぼうっと突っ立っていた。
異様な空気を察知し、四郎は、ひたすらに帯来の気を鎮め、これ以上事態を悪化させないことに努めた。最初は過敏だった狩音も、四郎の意思を察し、それ以上はもう、なにも言わなかった。
いちどは身構えた帯来だったが、その殺気は、あまり長続きしなかった。彼も、その他の大勢と同様、どこか気が抜け、茫然としていることでは同じだったのだ。やがて烈々たる闘志が彼の瞳から喪われ、しっかりと腰の入っていた待機姿勢が崩れ、彼は、またふらふらと眼を泳がせ始めた。四郎と狩音の、どちらに焦点が向いているのか、わからないような視線の揺れ方だった。
武者蟹どもの無数の死骸が異臭を放つなか、阿弥陀寺の境内で、二名の生者と、大勢の、どこか気の抜けた、これから死にゆく者らが、なんとも噛み合わぬ睨み合いを続けた。
しかし、やがて根負けしたように、つと脇へ寄って、帯来入道が言った。すべてが面倒臭そうな様子だった。
「ちぇっ、そんなに会いたきゃ、勝手に行け。奥の山あいの庵に居なさるよ。ただし、会えるのは夜だ。夜だけだ。昼間は、岩室で闇行に入っていなさる。」
「闇行だと?なんの修行じゃ。」
「詳しいことは、俺にもわからねえよ。だが、とにかく、芳一さまは、昼間はいっつも、岩室じゃ。誰も入れねえ。入れてくれねえのよ。だが、夜になれば出てこられる。そして・・・さまざまな奇跡を見せておくんなさる。」
「奇跡、だと?」
狩音がなにか言いたげにしたが、四郎は、目配せして黙らせた。
「そうか。それでは、ご厚意に甘え、このまま通るぞ。」
「おう、好きにしろ・・・あ、待て!」
帯来は呼び止めると、逆方向に数歩駆けて大箸を取り、釜の中で茹だっている蟹のなかから、特段に大きく、唯一真っ赤になっている大蟹を引き揚げた。そして、箸のまま数回振って湯を切ると、そのまま、四郎の胸をめがけてそれを抛った。
胸で受け止めた四郎は、あちこちにある蟹の鋭い突起のうちの幾つかが、自分の腕や胸に刺さったような気がした。その大蟹の塊は、まだあちこちから湯気をたて、灼けた炭のように熱かったが、四郎はなんとかそれに耐えた。蟹からは、ほのかに酒の匂いがした。おそらく、大釜に煮立っているのは、湯ではなく大量の酒だ。
さらにその蟹は、先ほどまで見飽きるほど見てきた武者蟹ではなかった。もっと大きく、形も違う。全体が横倒ししたような菱形で、上向きと下向きに分かれた立派な四対の脚があり、一番上には、大きな鋏を有する鉗脚を有していた。そして何よりも、茹だったそれは、立派な朱と茜に染まっており、広い甲羅には他の武者蟹と同じような顔相が顕れていたが、全体の色と合わさって、どうみても人ではなく、鬼の相であった。
ありとあらゆる面で武者蟹を凌駕する、鬼面蟹である。おそらく中に肉も多く、かつ美味であるに違いない。
「そりゃ、蝤蛑だよ。今日一番の上物だあ。だから、それをよ。」
帯来は面倒臭そうに、言った。
「岩室まで届けてくれや。芳一さまの昼飯だ。なに、室の前に、お供えもんみたいに、置いときゃいい。どっちみち、おまえらが室に入れる訳はねえからな。」
「この寺きっての高僧に届ける食事であろう?もうちょっと、添物とか膳とか塩とか・・・あるいはせめて器は無いのか?」
「別に、いいんだよ。芳一さまは、そういう格式だのしきたりだの、大嫌いな御方だ。ぞんざいに扱われたほうが、宕の御心に叶うっちゅうことで、喜ばれるんだ。ぽいっ、と置いとくんだぞ。でないとおめえ・・・お怒りを買うぞ。」
「そうか、わかった。ところで、お怒りを買うと、どうなるのだ?」
四郎が問うと、帯来は少し鼻で笑って、こう言った。
「芳一さまが怒るんじゃねえ。芳一さまに憑いた、宕が怒るんだ。そうなると、夜はちょっと、おっそろしいことになるぞ。まあ、俺らにゃ関係ねえ。どっちにせよ、俺らは今夜、浄土に行ける。おめえさんがどうなろうと、もう関係ねえよ。」
「そうか。」
四郎は言い、眼で狩音を促して、先へ進んだ。