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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第三十八章   昭和三年(1928年)晩秋  米国 紐育〜ボストン間

アゾレス諸島を過ぎたあたりから数日間、大西洋の荒波に揉まれ続けたベレンガリア号は、一日延着して、十一月十七日の朝にニューヨークへ到着した。五万(トン)の船体は朝日を背に、エリス島と自由の女神像とを見ながら静々とアッパー湾に入り、大勢の小さな小舟やタグボートなどを引き連れつつゆっくりと小刻みに転舵し、やがてニューヨーク港の大桟橋に横付けした。


一等から三等までの先客が、数箇所からぞろぞろと船を降り、出迎えの家族や知人たちと声を挙げながら抱き合った。浅野に出迎えは居ないはずであったが、「Mr. WASABURO ASANO」と二段に大書されたスケッチ帳を持つ、一人の白人の中年男が待ち受けていた。


既に倫敦(ロンドン)の世界心霊主義者大会にて面識のある、米国心霊協会のキヤノン夫人が派した使者である。彼は、口重そうだったが、まず丁寧な物腰で挨拶し、続いて少し気の毒そうにこう言った。

「船が延着したのは誠に残念ですが、マージナリーの実験を、予定通りに行いたいとのキャノン夫妻の意向です。なにぶん準備に時間を掛け、参加者多数に亘る関係で、今さら時間を変更することが難しく・・・お疲れのところ申し訳ありませんが、どうかご了承いただきたい。」


「もちろん、問題ありません。遅れたのはこちらの都合ですし。逆にそれだけの準備をしていただいていることにお礼を申し上げます。ただ、お聞きしていた予定ですと、私は今夜までにボストンまで行っていないといけないことになりますね。」

浅野は、少し慌てて言った。


なにしろ丸一日の延着である。その後の予定も、一日ずらしにさせてもらえると自然に考えてしまっていた。そもそもが米国にいま着いたばかりで、ボストンまでどう向かったら良いかすらわからない。


しかし、キャノン夫妻ならびに米国心霊協会が、それほど自分の来訪を重んじ、万全の用意をして、数多くいる米国霊媒のなかでも最高の至宝と言われるマージナリーの驚異を間近に視察させてくれるのは、もちろん日本の心霊研究界の代表として願ってもない幸運であった。こうなっては、もはや自分一人の旅の疲れなど問題ではない。


しかも米国心霊協会は、浅野の想像を越えた周到な団体であった。この東洋の同志が必ず実験に間に合うよう、きちんと鉄道の便まで調べてくれていた。

「とりあえず、紐育にてすでに宿を確保されているのであれば、まずは大きな荷物だけでもそこに置いて行って下さい。タクシーを使えば、おそらく、すぐに着きます。列車は午後一時発の急行にて。それに乗れば、午後六時過ぎにはボストン駅に着きます。実験は八時を予定しておりますので、おそらく余裕をもって間に合いますよ。」




浅野は彼と分かれると、取るものも取りあえず、英国から予約を入れていた八十六番街のホテルにタクシーを走らせた。タクシーを拾ったとき、浅野は少しぎょっとした。ハンドルを握っているのが、巴里で彼をあちこち案内してくれたイヴァンとは似ても似つかぬ、でっぷりと太った巨躯の黒人運転手だったからである。


浅野が長年月過ごした横須賀の近辺、あるいは横浜のあたりでは、たまに米国海軍の士官や水兵たちが観光などしているのに行き合うことはあったが、記憶する限り、黒人は全く居なかった。もちろん、今回の旅で通り過ぎたシベリア、ソヴィエト・ロシア、そして英国や欧州でも全く見かけることはなく、浅野は今更ながら、自分が地球を半周以上して、全くの異郷にたどり着いたことを、彼の姿を見て実感したのである。


運転手は、ひどい(なま)りがあって聞き取り辛い英語を喋ったが、もちろん浅野の英語も同じようなものである。八十六番街までさして遠い距離ではなかったが、二人はぎこちなく多少の会話を交わし、彼の故郷のルイジアナのこと、紐育港の波止場や倉庫で働く数多くの支那人のこと、そしてこの街には今や黒人が七〜八十万も居り、彼らなしには物流や経済が廻らないであろうことなどについて話した。


やがてホテルの前に着いたが、運転手は、イヴァン提督とは違い、特に大荷物の運び出しを手伝ってはくれなかった。ただ、面白そうに小さな身体の浅野があくせく動くのを眺め、ひととおり運び出し終わっても、その場を立ち去ろうとしなかった。


浅野は、はっと気づいて少額のチップを渡した。

「サンキュー・サー!」

運転手は、眼をむいてとびっきり愛嬌のある笑顔を作り、そのまま車を走らせていった。




ホテルにチェック・インし、大きな荷物だけをいったん置くと、浅野は昼食も摂らずに手荷物だけをまとめ、そのまま慌ただしくグランド・セントラル駅へと向かった。さまざまな騒音と警笛が数秒ずらしで次々と交響楽のように鳴り響く、駅舎の壮大な伽藍(がらん)のなかを急ぎ足で歩き、なんとか午後一時かっきりに、ボストン行きの列車へ滑り込んだ。


時間のせいか、車内は、がらがらだった。


ボストンへの急行は、ニューヘイブンを過ぎるまで、ほぼずっと海沿いを走る。右手はただキラキラと陽光を跳ね返す鉛色の海面が広がり、空は抜けるように高く、大地はどこまでも広い。そのところどころに森や野原が広がり、稀に小さな町村がばら撒かれるが、ひとつひとつの家屋は簡易なバラック風がほとんどである。すべてが大まかで、英国や仏国で見かけたようなちんまりとした人為の整頓味がなく、ただひたすらに野放図な感じのする田園風景であった。




「まさに、作りかけの新大陸(ニュー・ワールド)だな。」

浅野は、他にほとんど人のいない客車の座席で、そうひとりごちた。




窓外を流れる、特に変わり映えのしない風景にも飽きて、浅野は手荷物を入れた鞄の中から、何の気なしに一冊の本を取り出した。巴里でアンドレ・リペールに貰った、あのハリー・フーディニが登場する三文雑誌である。


実のところ、この一人称の実録体裁による奇術師の冒険譚が収録されたパルプ・マガジンを、浅野は一度だけ走り読みして、あとは(ほう)ってしまっていた。リペールの言うとおり、中身は実にくだらない。エジプトのファラオがピラミッドの内部で行う秘儀という、エキゾチシズムに裏打ちされた仕掛けが目を引くだけの、何ということもない通俗物の冒険物語に過ぎない。


ただ、文章は素晴らしい。優れた英文学の翻訳者として、幾多の名作を日本国内に紹介してきた浅野には、そのことだけが強烈に印象された。ストーリーが貧弱なぶん、その格調の高い文体ばかりが、かえって鮮明に浮き上がって見えた。


本当は、こんな三文小説なんかより、深く考えるべきことや、眼を通すべきものが他にあると思ったのだが、なにしろ、つい数時間前まで大西洋の波に揺られていた五十過ぎの老躯である。


急に決まったボストンまでの道中、もうこれ以上あまり精神と身体に負担を掛けることはしたくなかった。着いたら着いたで、おそらく一分たりと気を抜けぬ交霊実験の立会人をしなければならない。浅野はとりあえず、列車内では何も考えずに一休みしたかったのである。


イカれた小話集(ウィアード・テールス)』1924年5〜7月の合併号。巻頭にそのフーディニの伝奇冒険譚、続いて雑多なエッセイや短編が続く。内容はどれも同じ荒唐無稽なものばかりで、とりあえず、頭をからっぽにし、だらだらと字面を追いかけていくのには適している。浅野は、最初から機械的に眼を通し始めた。




ふいに前のほうから、鈴を転がすような、透き通った女の声がした。

「失礼ですが・・・そちらの御本、どちらでお買い求めになって?」


浅野は、顔の前にかざしていた『イカれた小話集(ウィアード・テールス)』を慌てて下げ、伏せたまま膝に置いて、その声の主のほうを見た。狭い通路を挟んで斜めふたつ前の席から、上品ななりをした夫人が顔をのぞかせ、こちらを見ている。


「あ、いや・・・これは、貰いものでして。」

浅野は答えた。

「遠く離れた巴里の友人に貰ったのですよ。実にくだらない読み物ですが、そのまま捨てるわけにもいかず、つい。」


「あら。くだらないなんて、そんなこと御座いませんわ。」

女は、口に手を当て、上品な仕草で笑った。

「なぜなら・・・その号の巻頭に載っている小説は、私の友人が書いたのですもの。」




「えっ!」

浅野は膝の上に置いた雑誌をひっくり返し、その出来の悪い、エジプトのピラミッドとスフィンクスが向かい合った図柄の表紙を眺め、言った。

「それでは貴女は、あのハリー・フーディニ氏のお知り合いなのですね。」


女はふたたび、ころころと笑った。上品だが、なんとも可憐さを感じさせる仕草だった。

「まさか!ハリーはもう亡くなりましたし、私、彼と面識なんかなくてよ。その小説を書いたのは、ハリーが何人か抱えていた、代筆家(ゴースト・ライター)のうちの一人です。私は、その代筆家と友達なのですわ。」


「ああ、なるほど!」

浅野は、合点がいった。たしかリペールも同じことを言っていた。多忙を極め、文筆家としての実績もないハリー・フーディニは、自分名義で発表する文章はすべて専門の代筆家を雇い、書かせているのだ、と。


「実は・・・私もそうではないかと思っておりました。彼は奇術の興行が本業ですものね。おそらく彼の人気に便乗し、小説めいたものを企画して出版社あたりが書かせたのでしょう。しかしこの小説の文章は、たいへんよろしい。物語がくだらないぶん、こんなところで才能を使ってしまうのは、貴女のご友人にとって、なんだか勿体ない気がします。」

浅野は、先ほどまで感じていたことを、本心から言った。




「咄嗟のことなのに、機転のきいた素敵な御愛想(おあいそ)だわ。とある東洋の知的な紳士が、貴方の仕事をお褒め下すっていたと、フィルにはそう伝えておきます。」

女は、得も言われぬ魅力を湛えた笑顔のまま、言った。


「フィル。すなわちフィリップ、という名前なのですね、その代筆家(ゴースト・ライター)氏は。」

浅野は確かめた。

「貴女のご友人ということは、彼はアメリカ人なのですか?」


「ええ、そうです。私もそうですが、彼はプロビデンス在住です。プロビデンスをご存知?ボストンの南西にある港町ですわ。この急行列車ではそのまま行き過ぎてしまいますけれど。フィルはそこで生まれ、数年前までお金持ちの夫人と一緒に紐育に居たのですが、その後、いろいろありましてね・・・一人で、故郷に出戻って来たのです。」


「なるほど。しかしなんとも奇遇ですな。まさか、巴里で手渡された小説の、実作者のご友人と旅先の列車で乗り合わせるだなんて。」

「人生とは、つねに驚きに満ちたものですわ。」

女は、少しも慌てずに言った。


話しながら浅野は、半身しか見えないこの女性の姿を観察した。

薄い栗色の髪に覆われた、ちんまりとした頭。まったく赤みのさしていない、乳白色の滑らかな肌。優美な曲線を描きつつ小さく突き出た鼻の両脇に、少しきつめだが丸みのある眼が輝き、全体に小ぶりななかで不釣り合いに厚めの唇の真ん中だけが、もの言いたげにすこしだけ開いて浅野を見つめていた。


決して若くはないが、老いは一切感じさせない。席ふたつ分離れたこちらまで、落ち着いたかぐわしい蘭麝(らんじゃ)の、ほのかな香りが漂ってきた。そして彼女が身にまとうこの独特の雰囲気は、どうだろう。発音はとても柔らかなのに、そのひとつひとつが決然とした淀みのない口調。全体の印象は暗色だが、瞳だけは明るい青緑色である。そしてその瞳の奥に、ただならぬ知性のひらめきのようなものがある。




彼女は、こう自己紹介した。


「私は、エスター。ミスカトニック大学の歴史学者です。吸血鬼(バンパイア)の研究をしています。」




吸血鬼(バンパイア)だって?」

浅野は、吃驚(びっくり)して思わず腰を浮かしかけた。

「あの・・・ドラキュラ伯爵とか、そういうやつですか?」



エスターは、またころころと笑った。

「みなさん、私が吸血鬼研究をしていると言うと、おんなじように驚かれますわ。」


ひとしきり笑ったあと、まじめな顔になって、

「いえ、あのドラキュラ伯爵の物語は、ブラム・ストーカーという英国の小説家が書いた作り話です。もとからあったバンパイアの伝説に、人の生き血を吸うと称された、昔の残虐な数名の君主のイメージを足して、人為的に(おぞ)ましい怪物(モンスター)(こしら)えたのですわ。もちろん、ストーカー本人もあくまで架空の恐怖小説として発表したのですが、どうも一部で、本当にああした吸血鬼が居るなどと誤解する人も居るようね。物語が、人の想念のなかで勝手に育ってしまって、そのままあちこちひとり歩きをしているのです。」


浅野は、先ほどの衝撃から少し立ち直って、言った。

「すると、貴女はそういう吸血鬼文学の専門家というわけですか?たしか、他にもあるでしょう?カーミラとか。」


「吸血鬼カーミラね。そういう亜流というか、派生形は幾つも出回っておりますわ。おそらく世間では常にそうした需要があるのでしょう。でも私は、文学者でも文芸の評論家でもありません。私はあくまで歴史学者で、かつて東欧に本当に存在していたバンパイアのことを研究しているのです。」


「本当に存在していた、ですって?私は、バンパイアというのは、あくまで架空の存在だと認識しているのだが・・・。」


「お知りになりたくて?」

エスターは、悪戯っぽく笑った。

「ええ、それは、もう。」

浅野が勢い込んで言うと、エスターは脇の座席を叩く振りをして、言った。

「それなら貴方、こちらの席においでなさいな。私だっていつまでも半身を(よじ)って、こんなことを延々話し続けるわけにはいかないわ。ボストンまで、まだたっぷりとお話しする時間はあってよ。さあ!」




言われるがまま、ふらふらと浅野が手荷物をまとめて席を移り、窓際席に横滑りしたエスターの隣に腰掛けると、彼女はあらためて名乗り、握手を求めてきた。

「私は、エスター・ロスといいます。さっきも言いました通り、ミスカトニック大学の歴史学教授ですの。」

「私は、ワサブロー・アサノ。大学教授ではないが英文学の研究家で、今は・・・そう、一種の宗教学者のようなものです。発音が難しいでしょうから、サブ、とでもお呼び下さい。」

浅野は、心霊研究者であるという部分は、ぼかして言った。


「お名前の音の響きからすると・・・日本のかたね。それでは私のことも、遠慮なくエスターと呼んでくださいな。」

「わかりました・・・ところでエスターさん、ミスカトニック大学というのは、私は知らなかったのだが、ボストンにある大学の名前なのですか?」


「いえ、すぐ近くですけど、少し北のアーカムという街にあります。ハーバードやタフツほど有名ではありませんけれど。私のような、ちょっと変わった学問を志す人間にとっては、自由に研究ができる最高の環境ですわ。」

エスターは、特に気を悪くした風もなく、答えた。


「それは、失礼しました。なにしろボストンやマサチューセッツ、このニューイングランド地方のあちこちに、私のような外国人には把握しきれないほどぎっしりと、実にたくさんの大学や研究機関がありますから。」

浅野が詫びつつ言うと、エスターは頷き、こう補足した。

「そうですわね。慣れていないと、訳がわからないでしょうね・・・このあたりは、『知の回廊』と呼ばれるくらい、全米から多数の頭脳が集まる場所なのです。いや、全米というより、全世界といったほうがいいかしら。貴方のお国からも多数お出でになっている筈よ。欧州のドイツ語圏やフランス語圏は別かもしれませんけれどもね。」


「いや、それにしても、さすが世界最尖端の米国だ。私の国では、まだ女性が大学教授だなんて、聞いたことがない。紐育に着いてまだほんの数時間だが、すべてが無駄なく効率的に動いている・・・誠に合理的です。その最たる(あらわ)れが、貴女ですな。ただ優秀であれば、性差などなんの関係もない。たいへん、素晴らしいことだ。」


「東洋の素敵な紳士からお褒めに預かりまして・・・まこと光栄でございますわ。」

エスターは、やや芝居がかった仕草で、まるで欧州王室の貴婦人のように礼を言った。そして、少し浅野の顔を見つめ、やがて我慢できないかのように、ぷっと吹き出した。

「いえ、なにしろ、変わった専攻ですから・・・私の学生時代から、この分野には、女はもちろん、男のライバルですら、居たことは皆無なのですよ。ミスカトニックでは、こういう変わり者の女でも、価値を認められれば研究室を持てるのです。」

言い終わってエスターは、またころころと笑った。年齢はもうそれなり、いっぱしの貴夫人で通るような見た目なのに、笑うと童女のような愛嬌がある。




エスターは、目を輝かせながら、こう続けた。

「ミスカトニックは、昔からちょっと奇妙な学問成果ばかりを挙げる大学なのです。最新の情報だと、近々、地質学のフランク・ピーボディ先生が、南極大陸の大々的な調査を計画しているようですわ。」


「南極ですって!?」

浅野は、驚いて聞き返した。

「まさか・・・とても、人間が足を踏み入れられる場所ではない、そう思っておりました。しかし、いったいぜんたい、南極でわざわざ何の調査を?」


「地質学、古生物学、気候学・・・若手研究者中心の、さまざま学際的なチームを編成中だと聞いています。ピーボディ先生は、地元資本と連携して、分厚い氷を掘り抜くために、強力でしかも携帯性に富んだ新式のドリルを試作しているみたいなの。」


「なるほど・・・まず機械力と発明の見通しとがあって、それから探検内容が決まるところなぞ、きわめて現実的で、実際的なエネルギーに満ちている。まさに新大陸にふさわしい、合理的な発想ですな。」

「その、新世界(ニュー・ワールド)の住民たちが、秘密のヴェールに包まれた地球最古の大陸を探検しに行くの。堅い氷原や岩盤を、ベロリとひっぺがしながら、ね・・・いったいぜんたい、中から、なにが出てくるやら。」

エスターは、肩をすくめて、笑った。




「ときに・・・先ほど仰っていた、バンパイアが実在していたというのは、いったい、何の話なのです?なにか土俗の民間伝承の話ですか?」


少し話を、真面目な方向に振らないと。

一人の男として、どうにも、このエスターには、魅せられてしまう。


浅野は脳裏に、神戸の埠頭で別れて三ヶ月の、やや細部の記憶が薄れかけてきた妻の顔を思い浮かべながら、そう聞いた。




エスターは、話が本題に戻ると、また悪戯っぽく笑った。


小さな口元をすぼめ、翡翠色の瞳をきらきらと輝かせながら、こう言った。

「それをお話しする前に・・・サブ、貴方さきほど、わがアメリカが合理的な、世界最先端の国だと褒めてくださったわね?」

「ええ、もちろん!なにしろ急いでいたので紐育を駆け足で通り過ぎただけだが、どこの街路にも人が一杯、まるで巨大なマッチ箱のようなビルディングが整然と立ち並んでいて、すべてが一分刻みにせわしなく動いているようです。私の国だと、東京の銀座といわれる街角あたりが似ているが、それでもこれほどの活気はない。」


「異邦人の第一印象として、貴方の眼には、まず紐育がそう映ったのね・・・でも、そのアメリカが、実は合理的でもなんでもない闇の歴史を多く背負っている、と言ったら如何(いかが)思われるかしら?」

「合理的でない?」

「そう。この国の人びとは、白人も黒人も、南米から来た移民たちも、みんな、心のなかに悪魔を飼っているの。悪魔というのは、ものの(たと)えだけれど・・・要はいま、貴方が褒めて下すったような合理性の、対極にある非合理ね。」


「とつぜん、話が高度になって参りましたな。さすがは大学教授です。」

浅野は、冗談交じりに返した。エスターは構わず、続けた。

「人間は、あるところまで合理性を受け入れられるけれど、畢竟(ひっきょう)、非合理な存在なのよ。周囲の環境が合理的になっていけば行くほど、心の中では、そうした非合理が頭を(もた)げてくる・・・そういうものなのだわ。」


「なるほど。それはよくわかります。私もここ十年ほどずっと宗教研究に関わっておりまして、人の心が、単純に割り切れるものでないことは、ある程度理解している積りだ。」

「それなら、なおのことお話し易いわ・・・実は、私達がいま向かっているボストンの、さらに少し先に、そうした非合理性を象徴するかのような事件が起こった場所があるの。セイラムという地名はご存知?」


「はて・・・聞いたこともない。」

「それが普通。ニューイングランド以外のアメリカ人だって知らない名だわ。でも、とても重要な土地でね。まだ紐育が拓けるずっと前のことよ。この地に、大西洋の波涛を越えて清教徒(ピューリタン)たちが流れ着き、息も絶え絶えになりながらなんとか冬を越して生命を繋いでいた頃、セイラムは、いわばアメリカが欧州や外の世界と通交するための最重要な港湾だった時期があるの。たしか、あなたのお国にも当時、セイラムから何度も貿易船が行っていた筈だわ。」


「それは知りません。当時、日本は武士政権(サムライ・ガバメント)による鎖国の最中で、清国と阿蘭陀(オランダ)以外の国と通航することは、あり得なかった筈だが・・・ペリー提督が来航するよりも、ずっと前の話ですよね?」

「ええ、そうよ。ではあなたの国でも、その事実はあまり知られていないのね・・・それはともかく、その重要な港湾都市で、もう欧州ではとっくの昔に(すた)れていた、魔女裁判が大々的に行われたことがあるのです。」


「魔女裁判?中世の、無実の女性が多数火炙(ひあぶ)りになったという、あれですか?」

「そうよ。その通り。おそらく歴史上、組織的に行われた最後の魔女裁判ね。この不名誉な記録を、わがアメリカが保持しているの。正確には、アメリカ合衆国が独立する八十年ほど前のことだけれど。」

「なんと・・・たしかに、合理とは対極にあるような事件だ。」

浅野は、うなった。


「理由は、よくわからないの。なにかその植民都市の小さなコミュニティ特有の濃密な人間関係とか、個人的なうらみつらみとか・・・でもとにかく記録されている限り、直接的なきっかけは、降霊会(セアンス)だったの。」

「降霊会?」

浅野は、ぎょっとした。


説明が面倒なのでエスターには黙っていたが、まさに自分の専門分野ではないか・・・これまで何度も実施し、また参加したことがある。つい先だっては倫敦(ロンドン)の降霊会で、我身を案じた霊に親切な警告まで受けたばかりだ。


浅野の顔色が変わったことに気づき、エスターが不思議そうな顔をした。

「どうか、なさって?」

「あ、いや。どうぞ、先を続けてください。降霊会がきっかけで、何が起こったのです?」


エスターは続けた。

「数名の少女たちが、夜こっそりと親の眼を盗んで降霊会を行い、そのうち二名が原因不明のまま暴れだすなどして、悪魔()きと診断されたの。そして、現場の邸宅に雇われていた、南米から来たと思われる黒人女が、彼女たちにブードゥーの呪いをかけたと自白したことから、話がとんでもないことになったのだわ。」


「ブー・・・ドゥ?なんですか、それは?」

全く聞いたこともない。浅野は、不思議そうに尋ねた。

「もとはアフリカの住民たちが信じていた呪術の一種のようなものよ。さまざまな派生形があって、全体像を把握している人は、どこにも居ません。とにかく、当時の敬虔な清教徒(ピューリタン)たちからすれば、およそ理解可能な範疇の外にある妖術がかけられたことを知って、さらに、まるで熱病が一気に蔓延するかのように、次々と人がおかしくなりはじめたの。」


「一種の、集団ヒステリーですな。」

「現代風にいうと、そうね。おそらく、当時まだ孤立した小さな植民都市だったに過ぎない閉鎖空間で、細々と暮らしていた住民たちの心にいつしか巣食った闇が、ブードゥーという、なにやら得体の知れない暗示を受けて一気に顕在化したのかもしれないわ。でも・・・もしかしたら、本当に悪魔()きだったのかも?」




「あまり、合理的な解釈とは言えないようですね。あなたの本心でないことは、よく判りますが。」

浅野は、少し厳しい声音で言った。


そう、実は彼女の言うことは正しい。人の心には、時としてなにか全く別のものが憑依(ひょうい)して、唐突におかしな言動をとることがある。かつて大本(おおもと)きっての審神者(さにわ)として、そうした実例と幾つも対峙してきた浅野は内心で頷いたが、相手が外国人のしかも大学教授と来ては、安易にその本心を明かすのは危険である。


「理由はともかく、そのあと、地域社会全体が狂ったとしか思えない狂乱状態に陥り、またたく間に百名を越える人びとが魔女だと告発され、やがて隔離施設が足りなくなり・・・そして、処刑が始まったの。」


「なんと!法の支配が及ばぬ西部開拓地での突発的な私刑(リンチ)のことはたまに聞くが、それはこの地域の判事による公式な処刑命令だったのですね?恐ろしいことだ。」

「サブ、あなた、英文学の専門家だと言ったわね?それなら、ナサニエル・ホーソーンのことをご存知よね。」

「それは、もう・・・あの『緋文字(スカーレット・レター)』の作者ですな。」


「実は、そのときの処刑命令を出した判事の中に、ナサニエルの叔父も含まれていたわ。」

「なんですって!」

「しかも、彼は自分の下した決定にその後、なんの悔悟の念も示した形跡がないのね。いや、彼だけではなく多くの人が、そんなことがあったという負の記録を都合よく消し去ってしまって、この事件は、長らく闇に葬り去られていたの。」


「結局、裁判のほうはどう終結したのです?告発された人たちは助かったのですか?」

「最終的に、この事態を知ったマサチューセッツの知事が停止命令を出すまで、一九名が絞首され、他に赤ん坊二名を含む六名が死んだわ。」


「まったく知らなかった。そんな事件のこと、私がこれまでに接したどのアメリカ史の書物にも書かれてませんでした。エスター、貴女の仰るとおり、こと、その事例に関する限りは、アメリカが徹頭徹尾、合理主義のよき信奉国であるという私の先ほどの見解は、たしかに一部撤回せざるを得ない。」

浅野は言った。


大本では、憑いたものはあくまで出ていくまで何度でもこれを説得する。断じて、憑かれた人間の身体に害を加えることなど、あり得ない。いくら得体の知れない恐怖に煽られていたとはいえ、この事件は、破格に恐ろしいものだ。


いや、もしかすると、あの頃、外の世界からは、大本の内部がそうした狂的な閉鎖空間に見えていたのかもしれない。だとしたら、あの官憲による執拗な妨害行為や弾圧行為にも、あるていど理解すべき、それこそ合理的な背景があったことになるが。


「もちろん、はるか昔の話だけれど。でもとにかく、あなたは、アメリカを誤解しているわ・・・とっても良いほうに。一見合理的に見えて、でも実はこんなに迷信に囚われていて、常に胸の奥底に、どろどろとした不合理な想念を抱え込んでいる国民は居ないわ。わたし自身もその一員だから、そのことをいつも考えるの・・・そして、その想念が凄惨な狂気に転じ、まるで伝染病のように蔓延してしまったことのある地域が、ここからほんのすぐ先にあるのだわ。そして私たちはいま、そちらのほうに向かって、ただ真っ直ぐに走っているの。」


エスターは、口の中で蒸気をはき出すような音を立てながら、両手を機関車の車輪のように前へ伸ばし、くるくると回転させた。そしてそのあと、本当に恐ろしげに、肩をすくめた。




「で、その恐ろしい魔女狩り事件が、先ほどのバンパイアと、なにか関係が?」

浅野は、話の方向を変えようとして言った。ボストンまでの道すがら、この、とびきりの美女と道中一緒に過ごすのには、まだ気軽な吸血鬼(ばなし)などでもしていたほうが、人間の心に巣食う闇を深刻に見つめるより、はるかにいい。


「先ほどの、ブードゥーの呪いをかけた外国の女のことよ。」

エスターは言った。

「名は、ティテュバと伝わってるわ。どこから来たのかは、よくわからない。でも彼女は、おそらくアフリカの血を引く黒人の混血で、どこかでブードゥーの秘儀を習ったのね。」


「ブードゥーの秘儀?」

「そう。それもまた、いろいろな派生形があってよくわからないのだけれど、秘儀を執り行うことによって、ある奇跡を起こすことができると信じられているの。そしてそれに、バンパイアの伝説とよく似ている部分があるのです。」


「それは、どんな?もっと強く呪いをかけるとか?」

浅野が聞くと、エスターは、表情をかえずに言った。


「屍体を、蘇らせること。」





浅野は、また心の底から驚いた。まったく、なんという女だ。


あのフーディニの代筆家の友人であるという奇遇もさることながら、言うことがいちいち変わっているばかりでなく、浅野がそれまで、見たことも聞いたこともないような新事実ばかりだ。そして、いま最後に彼女が言ったことは・・・。




あの自分の奇妙な中世の夢に、直結しているではないか。

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