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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第三十六章   昭和四年(1928年)晩秋   大西洋上 客船ベレンガリア号上

大洋を渡る涼やかな初冬の風が、浅野の額をそっと撫で、かなたの水平線に向かって飛び去っていった。東の空には、まだ低い太陽が、雲間に隠れながらようやく自分の務めを思い出したかのように(あか)い輝きを放ち始めている。つい先ほどまで、遠くに(かす)むアゾレス諸島の影を望み、海鳥のつがいが何やら愛の言葉を喚き合う(ひびき)が、(こだま)となって浅野の耳に心地よく届いた。


背後の巨大な三本煙突から吐き出される黒煙が、薄れた灰色へと変わって頭上を通り過ぎ、やがて船尾の空へと消えていく。水面には少し波が立っているようだったが、この幅広い巨船の船体はそんなことを(ごう)も気にせず、海面をただ滑るように走る。


浅野の視界の左端はちょうどこの船の軸線に当たり、その真上に少しだけ張り出した掲揚台から、後尾に向け斜めに太く高い旗竿が突き出ていたが、いまそこには何の旗も掲げられてはいない。まだ早朝6時である。




浅野和三郎は、大西洋上を西へと進む、ベレンガリア号船尾の展望デッキに居る。そこは、おそらく喫水線より20メートル近くの高みに設けられた広い廻廊の突きあたりで、白く塗られた真新しい手すりがかかり、船尾のほうへと過ぎていく茫々たる大洋の波を眺めるのには、実に適した場所であった。


この巨船は、もとは第一次大戦前に独逸帝国が国家の威信をかけて建造したもので、元の名は「凱旋将軍(インペラトール)」である。反対側の船首には、いまでは取り外されているが、かつて帝国の威光を示す大きな鷲の彫刻が掲げられていた。しかし、大戦後、ルシタニア号撃沈の賠償として英国キュナード・ライン社の持船となり、そのまま英国と紐育を結ぶ大西洋航路のメイン・シップとして就航していた。


スイスのカール・ユングのもとを辞し、独逸、阿蘭陀(オランダ)経由でいったん英国へと戻り、サウサンプトンを出港してはや数日が経過している。余裕のない日程にも関わらず、コナン・ドイルの声望と、その意を受けたトマス・クック社の力は偉大で、この五万(とん)を超える世界三大巨船の一等船室に空きを見つけ、普通では考えられない好条件でチケットが買えた。


突如、それまであまり接したこともない欧米上流階級の社交の場に突き出された浅野は、彼ら独特のにこやかな挨拶や優雅な物腰、遠い極東の国から一人旅するこの男に対する興味、そしてその間に垣間見えるこちらへの軽侮や拒絶など、複雑に重なり合う感情を読み取り、いつしかそれに疲れ、三日も経つと、こうして一人、誰もいない時間に船尾に立つことが多くなっていた。




いま、浅野が小脇に抱えている小さな鞄は、旧世界(ヨーロッパ)のあちこちで入手した、あるいは友に貰った、雑多な土産物で一杯である。


クルー・サークルでウィリアム・ホープに撮ってもらった、あの誰かわからぬ童子の顔が写り込んだ写真の入った封筒がある。降霊会の闇の中で、なぜか浅野のことをひどく気にしていた、心霊ジョンがそっと置いてくれた南洋土人の人形がある。


さらに、畏友コナン・ドイルに贈られたカール・ユングの英訳冊子。イヴァンより無理矢理に買い取った、あの美しい黒海沿岸の線画。アンドレ・リペールに貰った米国の三文小説集。スイスの湖畔でせっせとマルクが作っていた、ミニチュアの(ぐろ)の石もある・・・そして石といえば、ユングと交代でさんざん吹き鳴らした、あの不思議な石笛も持っている。




そういえばユングは、あの石笛は、出口和仁三郎が、闇の彼方に居る誰か別の者の意を受けわざと自分に渡したものだと断言した。そして、和仁三郎自身、浅野の敵ではなく味方だと。そして親友(とも)だと。


なにかわからぬ、不気味で得体の知れない脅威にずっと追われる身ではあるが、この小さな鞄の中には、おそらく自分がこの旅で得たすべてのものが詰まっている。ユングが請け合ったとおり、巨大で邪悪な力を秘めた敵に対抗するため、自分を見守り、そっと力を添えてくれる、姿の見えぬ味方だ。


軽く鞄の外皮を叩いて胸を張り、浅野は思った。

自分は、負けない。どこかわからぬ海峡なぞで、朽ち果てるわけにはいかないと。


そして、こうも思った。

きっと、その海峡とは、この巨船「凱旋将軍(インペラトール)」に乗って、自分がこれから()新世界(アメリカ)のどこかにあるに違いない、と。




浅野が、多少の心の余裕とともに、そうした前向きな意思を強く持てた理由は、眼前に広がる壮大な海の眺めと親友(とも)たちからの数々の力添えもさることながら、この船に乗ってからずっと、あの中世の夢に悩まされていないことも大きかった。


夢をなにも見ないわけではないが、どちらかというと幼い頃に駆け回った利根川の風景や、故国に残した妻子の顔を見ることのことのほうが多い。あの中世の悪夢は、出てきても常に断片的で、その物語はほとんど先に進まず、ときに時間を(さかのぼ)ったり、また戻ったり・・・ずっと足踏みの状態が続いている。平家の落人部落における維盛との戦いが意外な結末で決着してから、厚東四郎と狩音の旅は、とりあえず夢の中で小休止した状態である。


それはまるで、彼らが、浅野の脳髄の中で、実際の浅野の肉体が彼らに追いつくのを旅路の先で待ち構えているような奇妙な状況であった。が、ともかく、ずっと悩まされ続けてきた謎めく夢の連鎖から解放され、夜ぐっすりと熟睡できるようになったことで、老い疲れた浅野の肉体と精神は、やっと一息つくことができたのである。




そのひとつのきっかけは、あの石笛のせいで、宕と思しき自分に祟る敵の姿を実際に望見してしまったことであろう。それまでは、まったく眼に見えず見当もつかぬ、得体の知れない恐怖にただ(おび)えるだけだった。しかし、期せずしてユングが石笛を吹き、脅威を間近に引き寄せてしまったことで、その姿をこの眼に焼き付けることができ、結果的に、敵をほんの少しだけ知ることができたのだ。


これは、浅野にとって、偉大な前進だった。


現時点では、ユングの言ったとおり、彼我(ひが)の力には途轍(とてつ)もなく大きな差がありそうである。しかし、なにも手が打てないというわけでもなさそうだ・・・それが何であるのかは、まだ、わからないけれど。しかし少なくとも、なにかやれることはある、という実感を得たことこそが浅野にとって重要だった。


最後に見た夢の中で、四郎が(たご)(つか)いである(くび)なしの幽霊武者を人間だと見做(みな)し、一気に反撃に及んだのも、もしかしたら、そうした、こちら側にいる浅野の心象の好転が、夢のあちら側の世界に作用したのかもしれなかった。




浅野は、情勢を()いほうに好転させた石笛(いしぶえ)の実物を、掌のなかで握りしめながら、ふと考えた。


これを一心不乱に、海に向かって吹き鳴らしていた男のことである。巴里に到着する直前の車中で夢に見た、走水(はしりみず)の小さな浜辺に立つ出口和仁三郎の後ろ姿。浅野の記憶が正しければ、あのとき、実際に走水神社にともに参拝したときの出口の姿とは、髪型や服装などがかなり違う。また、たしか浅野が拾った (ないし、出口がそうなるように足元に置いておいた)この石笛を手にとって、なんの練習もなしにいきなり見事に吹きこなしてみせたのは、下の浜辺ではなく、小さな丘の中腹にある神社の境内であったような気もする。


なにしろ十年以上も昔のことで、記憶の細部はあちこち曖昧になっている。だがとにかく、あのとき出口が吹きこなしたこの笛の音は、高く、とても澄んでいた・・・そして、どことなくもの悲しく泣き叫ぶようで、時の彼方から、なにかが自分に強く、感情の塊のようなものをぶつけてくる気がした。


それが、共に()とうと自分をかき口説くための和仁三郎の感情だったのか、なにか他のものだったのか・・・よくはわからないが、自分がこの笛の音に強く心を動かされ、横須賀での安定した生活のすべてを捨てて、あの奇妙な信仰生活に入ったことだけは確かである。




山深い綾部は京都の北縁に当たり、すぐ近くにまで迫る日本海からの厳しく冷たい風が吹き付ける。ゆえに浅野の越した冬には非常に雪が多く積もり、教団の敷地内は常に森閑(しんかん)として静かであった。


もっとも、あの秋山真之が早くも引越し三日目に姿を現して以来、主として海軍士官らの来訪が頻繁になり、浅野自身が都度応接に当たらなければならないという手間はあった。が、彼らが舞鶴軍港へと戻っていく夜十一時を過ぎれば、浅野は(じゃく)とした部屋でまったく一人きりになる。そんな彼が向かい合うのは、開祖・出口なおがあちこちに墨で書き散らかした、無数の「お筆先」の数々であった。


そこに書かれていた数多くの未来予測、堕落した日本人に対する鞭撻(べんたつ)、叱咤。海外より迫る脅威への警告。ほとんど平仮名で書かれたそれらのなかには、まるで意味のわからぬ田舎の老婆の戯言(たわごと)のようなものも多かったが、数葉のうちのひとつには必ず、浅野がはたと膝を打つような、鋭く、物凄いものがあった。


浅野は、そうしたひとつひとつに、丁寧に適する漢字を()て、「お筆先」が、ある一定以上の品格を持って人の心に響くように(あつら)え直し、のち「大本神諭(しんゆ)」と呼ばれる教団の経典のもとを(まと)めていった。




当時はまだ教勢もさほどではなく、もともと信心深い土地柄であった綾部の周辺には、競合と称してよいライバル教団がいくつもあった。もとが商売人であり、こうした大本の経済的な実情を憂えていた出口和仁三郎は、この頃、主に実業家としてあちこちを走り廻り、その、人の心に深く食い入る渉外の才能を遺憾なく発揮して教勢拡大に努めていた。


いっぽう、雪深い綾部の山奥に籠もって大本の教義の核に触れ続け、いわば聖典原理主義者と化していた浅野が、やがて和仁三郎との間に意識のずれを生じさせてしまうことは、なかば必然といっても良いことであった・・・そういえば、このあたりのことは、一週間くらい前、巴里の「精霊の家」で、アンドレ・リペールに対しても説明した。




今になって浅野は、ふと思う。


当時の和仁三郎の人を喰った振舞いや、超人めいたわざとらしい数々の伝説の作り方などは、自身の教団への忠誠心の浅さや、信心そのものの軽薄さを糊塗するための愚かしい行いであるように浅野の眼には映じていたものだ。


しかし、愚かだったのは、どちらかというと自分のほうだったのかもしれない。


この驚くべき異能の開祖が霊界より降した教義の(エッセンス)に日々触れて、それによって得ることのできた納得と充足感。教団の教えの核を、自分自身で再発見し、それを独占的に、思うがままに(まと)めなおしているというある種の選民意識のようなものが、自分を誤らせはしなかったか。


そして折々、この教団中興の祖ともいうべき功労者、出口王仁三郎の存在を軽侮し、これに挑戦するかのような態度となって顕れ、この一見、豪放磊落(ごうほうらいらく)なように思える親友(とも)の、実は硝子(ガラス)のように繊細な心を傷つけたりはしなかったか。




自分は、やり過ぎた。当時はそれを、ただ教義に対する忠誠のゆえだと思っていた。しかし同時に浅野は、彼とその周囲の同調者たちが、老衰とともに日々先鋭的になってゆく開祖の威光を背にしてなにか煽動的な言辞を吐いては世を騒がせるたび、教団の世俗面を代表する王仁三郎が、額に汗しながら、あちこちをあたふた走り回って事後処理してまわるさまを見るのが、内心、愉快でたまらなかった。


しかし、それは・・・まだ若く愚かであった自分が、その小さな虚栄心を満たすための、子どもじみた我儘(わがまま)だったのかもしれぬ。自分がますます純粋に、過激になり、やり過ぎればやり過ぎるほど、世俗との間でバランスを取ろうとする王仁三郎は、困惑し、悩んでしまったに相違ないのだ。




浅野が綾部に移ってから二年後、開祖・出口なおがこの世を去った。これにより、一時的に信仰の核を喪った教団は混乱に陥る。


それまで、開祖を扇の(かなめ)にしてなんとか(まと)まっていた和仁三郎ら世俗派と、浅野ら聖典原理主義者たちとの対立が、じょじょに顕在化していった。


反面、それまでのさまざまな施策が功を奏し、その頃には大本の教勢は大いに偉となり、周辺の諸宗派を圧して、京都や大阪、そして東京にまで信徒を増やすようになっていた。


農村部から次々と都市に流入し、それまでの地縁と切り離された孤独な人々がすがる心のよすがとして。また、出口なおの唱える「大正十一年の立替(たてかえ)説」は、大戦景気の終焉と米騒動などの騒擾(そうじょう)発生により、漸く世の中を覆い始めた不安な民心をとらえた。大本への入信は、特に大都市圏における一種の流行現象にまでなり、浅野が入信する前にはまだ数千に達しなかった入信者の数は、このわずか数年のあいだに二十万を越える勢いで伸びた。


浅野と和仁三郎との対立は、日々膨れ上がる布施の額と様々な献金と、雪崩を打って入信してくる各地の信徒たちへの応対と・・・そして何より焦眉の急であった教団組織の編成作業とでいったん中断し、この親友(とも)同士の意識の断絶は、またしばらく眼に見えぬものとなった。




宗教団体とは、いったん上昇気流に乗ると、信徒同士の勧誘行為で自動的に、そして幾何級数的とも言ってよいほどの勢いで拡大してゆくものである。僅か数年のあいだに教勢は数十倍にもなり、そして、それとともに際限もなく金が入って来る。


それまで、綾部の山奥にひっそりと何棟かの茅屋(ぼうおく)を建て、寒さに震えながらひっそりと布教活動を続けていた大本は、さながら宗教界を代表する怪物(モンスター)のように、ひたすらにその影響力を増大させていった。敷地内には、幾つも立派な会堂や社殿が林立するようになり、あちこちの大屋根から幾多の千木(ちぎ)鰹木(かつおぎ)が天高く(そび)えて、あたりを睥睨(へいげい)するようになった。


のみならず、教団はその有り余る資力を吐き出す先を求めるかのように、北辺の辺鄙(へんぴ)な綾部から五十キロ南に下った丹波亀山に遊休地を見つけ、それをほぼ即金で買い取った。この、京都市街にほど近い、かつて明智光秀の居城として知られた亀山城の敷地に、かつての城割を再現するかのように(さかん)な槌音が響き渡った。そしてさらに・・・教団は、自らの広報機関とすべく、大正日日新聞を買い取り、浅野和三郎をそこに送り込んだ。




大正十一年、すなわち数えて僅か数年後に破局がやってきて、現在の天皇制国家がいったんその役割を終え、より純粋な、なにか別の新たな秩序が打ち立てられる・・・出口なおの唱えるこの「立替(たてかえ)」なる説は、内容が漠然としているだけ、一種の危険な革命思想の煽動とも取れた。そしてこの、得体の知れない新興教団の急激な隆盛は、ときの政府をいたく刺戟した。


なかでも、元海軍軍属の浅野和三郎は、その宣伝役または参謀格として暗躍している。彼は文学界でもつとに知られた知識人層の名士であり、彼を慕って多くの軍関係者や、社会に影響力のある文化人が綾部に日参し、それらが喧伝されることによってまた多くの一般入信者が増える。この螺旋階段のような教勢拡大の方程式に、いったんどこかで歯止めをかけなければならない。公権力の組織としての自衛機能が、はたらき始めた。




幾つか、前兆があった。


まずは、他社系列の新聞紙上にて、数多くの宗教者や社会学者などからの、大本の得体の知れない教義そのものや、「鎮魂帰神(ちんこんきしん)」といわれる、大本特有の儀式が信者の健康や精神に与える危険性に対する批判キャンペーンが執拗に行われた。次いで、京都府知事や内務省の警保局長などが、「個人の信仰には立ち入らぬが」という慎重な前置きを入れた上で、国家安寧秩序を(みだ)す予言や雑説の流布については断固対応する旨の談話を発表した。


さらに、続々と刊行されていた大本神諭のうち一巻に不敬な表現があったことを(とが)めて該当巻を発禁処分とし、浅野と和仁三郎を京都府警に出頭させて、様々に具体的な警告を発した。




それでも、公権力によるここまでの対応はまだ抑制的で慎重であり、踏むべき段階を慎重に踏んでいた。


しかしながら、問題は大本の側に在った。開祖・出口なおという求心力ある存在を喪い、実質的には数派に分裂していた教団は、こうした外部からの働きかけに対し、統一した意思や対応策を示すことができなかったのである。


そして、既に内部に多数入り込んでいた警察の密偵は、このような教団組織の内情を詳細に把握していた。やがて、検察や警察要人の東西の行き来が頻繁となり、かつて大逆事件における検挙の采配を振るった検事総長が、遂に大本に対する強制捜査と一斉検挙とに、ゴー・サインを出した。




大正十二年二月十二日、京都周辺各所からの応援を得た二百名を越える警官隊が綾部を包囲し、水盃(みずさかずき)を交わしたあと突入、敷地内に武装蜂起の備えがないか一斉捜索を行った。浅野は敷地近くの自宅で拘束され、同日、大阪に居た王仁三郎も逮捕された。両名は、教団の他一名とともに不敬罪と新聞紙法違反に問われて起訴された。武装蜂起の証拠や、皇室に対する直接的な危害を加える要素は見当たらなかったため、内乱罪や大逆罪等に問われなかったのは幸いであった。


両名は、四ヶ月の拘束ののち責付出獄(せめつきしゅつごく)(保釈)となり、継続していた裁判も、のち大正天皇崩御に伴う大赦によって免訴となった。王仁三郎は積極的に独自の活動を再開し、大本の立て直しに奔走したが、出獄後数年を経ずして、浅野はひっそりと教団を離れた。




浅野は、やり過ぎた。当時はそれを、ただ教義に対する自身の至誠のゆえだと思っていた。しかし彼はまだ若く、愚かであった。中年を過ぎてやっと手に入れた心安らぐ自分の居場所で、その小さな虚栄心と名誉心とを満たすため、浅野は、本来捨ててはいけない、大事ななにかを捨ててしまっていたのかもしれない。


ユングに指摘された、浅野の心に巣食う大きな空虚と挫折感。それはすなわち、良き親友(とも)たちに対する、なにか自分の後ろめたさのようなものではなかったであろうか。




ふいに、五万(トン)の巨大な船体がわずかに震え、船腹深くで激しく廻るタービンの動きを浅野は身体の芯で感知した。自分がいま立つ張り出した船尾の直下で舵が(かし)ぎ、船全体がわずかに転舵したのである。巨船は、おそらく数十万噸分にも及ぶ膨大な水圧をその長大な船腹で受け止め、しばらく力を溜めるようにそのまま直進した。そして数秒遅れで舵が()き始め、ベレンガリア号は、時間を掛けてゆっくりと西南西に向きを変えた。




この雄大な大洋の上で、想念が、とりとめもなくなっていた。浅野は、ふたたび石笛を握り直し、この先に自分を待っているであろう運命について思いを馳せた。


自分が新大陸に行くのは、英国で得たさまざまな知己の勧めや招請に応えてのものである。目的地は、マサチューセッツ州の州都ボストン。この巨船の寄港地である紐育(ニューヨーク)は、ただ通り過ぎるだけだ。


なぜ、ボストンか?


それは、もちろん、建国当初から亜米利加(アメリカ)合衆国の中心であったこの都市に、この国で起こる多くの心霊現象の事例が集中しているからである。また、市内に住む、当代きっての物理霊媒といわれる女性とも会えるからである。


しかし、しかしきっと・・・大切な親友(とも)たちの身体を乗っ取って、ときどきその姿を顕したあの卑劣な宕の遣いどもが言う「海峡」は、この新大陸のどこかにある。


ボストン港では、なさそうだ。丸い湾口の砂嘴を埋め立て、複雑に入り組んだ、あたかも海峡のような複雑な形を成す巨大港湾ではあるが、海水の抜ける先がなく、それはあくまでもひとつの湾であるとしか言えない。


それでは、浅野の目的地は、いったいどこになるのだろうか?




また浅野の想念はあらぬ方向に飛び、巴里の「精霊の家」でアンドレ・リペールに貰った印刷物のことを思い出した。


イカれた小話集(ウィアード・テールス)』の合併号で、表紙にはエジプトのピラミッドとスフィンクスが向かい合う、雑な画が描かれていた。そこに、「|ファラオと共に囚われて《Imprisoned with the Pharaohs》」という短編が掲載されており、ハリー・フーディニによる一人称の奇妙な旅行体験記という体裁になっている。


内容は、取るに足らないものだ。晩年、「心霊現象否定派(サイキック・バスター)」として生き、コナン・ドイルの宿敵として立ちはだかった奇術王ハリー・フーディニが、旅先のエジプトでトラブルに遭い、ピラミッドの中で名状しがたい奇妙な経験をするが、奇術の腕前を発揮してそこから無事に脱出する、というだけのものである。


内容には、シェイクスピアの風格もなく、ディケンズの味もない。同じアメリカ人のナサニエル・ホーソーンのような批評眼もない。ただ奇妙で物珍しいだけの、まさにイカれた小話(ウィアード・テール)であった。




しかし、

“Mystery attracts mystery.”

で始まり、

“But I survived, and I know it was only a dream.”

で終わるその文章はなかなかに非凡なもので、これを実際に書いた代筆家(ゴースト・ライター)の、卓越した筆力をうかがわせた。


そういえば、リペールはこの代筆家のことを、よく知っている様子であった。その名は一般には公表されていない。しかし、調べはついているような顔をしていた。おそらくその代筆家はアメリカ人の筈だが、名前を聞きそびれた。また、そのときは聞く必要もなかった。


しかし、なぜか浅野は、今になってこの名も知らぬ未知の代筆家のことが妙に気になった。彼ならば、いま浅野自身が置かれたこの奇妙な、まさにイカれた(ウィアード)状況をどう小説にするか、ふと考えてみたのである。




そういえば、浅野自身も、かつては小説家であった。まだ若き学生であった頃、『吹雪』という題名の、このフーディニの脱出譚とは似ても似つかぬ美しい美文調の小説を発表し、高評を得たことがある。


しかし、まだいわゆる文壇なるものが形成され始めていたばかりの頃のこと。小説ごときで飯は喰えぬ。また、創作そのものに内発的な動機を強く感じるわけでもなかったので、浅野はそのまま英文学の翻訳家となり、数多くの翻案と、辞書の編纂を行った。なにか元があるものを解釈し、それをわかりやすく誂え直す・・・この地味な、あのマルクがやっていた(ぐろ)の積上げのような繰り返しの作業が、とても性に合っていたのだった。




あちこちに飛ぶ浅野の想念は、いつしかふたたび、あの雪深い綾部に戻っていた。


そう、自分は、なにか元のある繰り返しの作業が、とても好きだった。目先の細かい作業にただ没頭するのが好きなのである。


あのときも、出口なおという、晩年まで文盲だった老婆が墨であちこちに書き散らかした、さまざまな状態の半紙の皺を伸ばし、滲んだ平仮名の続き字に悩まされながらも、なんとかこれを解釈し、意味を成すように適切な漢字を充てる。そうすると、ただぐちゃぐちゃの半紙だったものが見る間に生命を宿し、この人間たちすべてに語りかける、霊界からの警句に変じるのだ。


自分はまさにあのとき、「お筆先」に生命を与える司祭であった。自分が全能の神になったわけではない。しかし、ものの(たと)えなどでなく、まさに神そのものによる言葉を、この世に紡ぎ出すための手助けをしているのだ。いや、自分こそが神の言葉に、生命を与えているのだ。




そういえば・・・ひとつ、妙なお筆先があった。


「みかとがおこまりだぞよ なんじはみつぎぞ うみになげなば みくにがほろぶぞ」


「帝が、お困りだぞよ。なんじは貢ぞ。海に投げなば、御国が滅ぶぞ。」

浅野はそれを、なぜか唐突に思い出した。元は平仮名だが、このように漢字を宛てねば、絶対に意味が通らない。なおのお筆先には、ときどき唐突なものがあるが、これはその中でも、際立って異様なものである。


みつぎ、は貢と字を宛てなければ、おそらく意味をなさない。しかし浅野は、あの中世の夢のなかで桜梅こと平維盛が厚東四郎に説明した、水底(みなそこ)(たご)が芳一に言わせた言葉が、なぜかこのお筆先と重なった。


「神剣の()()を知らぬか聞かれた。水底(みなそこ)で安徳帝の御霊(みたま)が、そを探してあちこち彷徨(さまよ)うておられる。」


神剣、すなわち「御剣(みつるぎ)」である。なおのお筆先にある「みつぎ」は、もしかしたら、「みつるぎ」ではないか?その前後の言葉のおかしさは、もしかしたら、乱筆による字の読み取り間違いで、御剣を海に投げねば御国が滅ぶ、という意味が本来なのではないか?




夢の世界と、自分がいまここに居る世界とは、相互に、つながっている。

カール・ユングは、そう言った。


だとすると、自分がかつて接したその謎のお筆先の内容が、なんらかの作用をあの夢の世界に対して及ぼしていたのであろうか。いや、それはない。浅野は思った。なぜならあの夢を見ていたとき、浅野は、まるでこのお筆先のことを忘れてしまっていたから。実はそれはいま、おそらく十年ぶり位に脳裏にとつぜん(よみがえ)ってきたものだったのである。


しかし・・・同時に、ユングは、人の無意識・潜在意識の専門家である。彼が扱うようなその領域は、いま浅野が否定し去ったような顕在意識下での認識とは、また違う様相を呈しているのかもしれない。すなわち、忘れていたはずのこのお筆先が、意識の深層では常に残り、それが繋止(リンク)された過去の夢とつながり、そちらに影響を与えた可能性は無いであろうか。




いや、ない。

絶対に、それは無い!


浅野は、自分自身に言い聞かせるように、そうと声に出した。その声は、他にまだ誰も出てきていない展望デッキを流れ、風に乗って大西洋のかなたに飛び去った。


御剣、といっても、自分はいまそれを持っていない。在り処もわからない。それは歴史の闇に埋もれ、長らく行方不明とされているものだ。夢の世界に出てくるその神剣は、大地から掘り出され、いったん維盛の腰に()げられ、そしていまは狩音が拾って、厚東四郎のもとに()る。


まさか自分が、夢の中の四郎に命じて、それをこれから彼らが向かうであろう壇ノ浦の海底に投げ入れさせ、安徳帝の御霊(みたま)にお返しするなど、とても不可能というものだ。


「開祖さまは、昇天されたあとも、なかなかに無理難題を仰る・・・。」

浅野はまた、口に出して言った。どうやら、最後に残ったお筆先の解釈は、自分の能力を越えた、難しい課題になりそうだった。




しかしそれも、もうすぐわかる。


水平線の向こうの、新大陸に行けば。

そのどこかにある、海峡にたどり着けば。


浅野和三郎にとって、すべての決着をつけるための、その場所に行けば。




かすかにだが、風が強くなり、眼下に見える大西洋の海原に大きな波が立ち、船尾に当たって細かく砕け、飛沫(しぶき)となって飛び散るのが見えた。




今日は、少し時化(しけ)るかもしれない。

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