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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第三十四章(後)   昭和3年(1928年)秋   スイス・チューリッヒ湖畔

カール・グスタフ・ユングは、目蓋(まぶた)を外から赤く照らす光のなか、はっと気づいて、そのまま目を覚ました。そして自分が、石塔と名付けた自らの砦のなかに据えた、小さな寝台の上に横たわっていることに気づいた。


ちょうど腰の上あたりに、重厚な煉瓦をひとつだけ()り抜き銃眼のように開けた(あな)があり、そこに窓枠をつけ小さな硝子窓を()めてある。そこから、高原の柔らかな陽光が部屋に入り込み、石塔内の寒々しい壁に当たって、室内全体を照らしていた。




ユングは、まず気を落ち着けて、状況を把握しようとした。


そのまま、部屋の中を見渡す。昨日、浅野和三郎を迎え、手作りのシチューを振る舞ったあと、差し向かいで座ったソファがある。そしてその向こうに、もうひとつ寝台が置いてあり、そこでは、浅野が自分と同じように、眠い目をこすりながらあくびをし、もうすっかり明るい部屋のなかで、きょろきょろしていた。


はて・・・今のいままで、私は彼と湖畔で会話を交わしていたはずだが?


ユングは思った。そしてその少し前には、あの、なにかわからない、想像を絶する生き物が、このチューリッヒ湖の湖畔に現れ、そしてゆっくりと身を没していったはずだ。


しかし、あれはまだ夜半のこと。あたりは真っ暗で、たしか2時半か、3時くらいのことだった。今はもうすっかり明るくなって・・・7時か?8時か?ユングは、思い出して自分の懐中時計を覗き込んだ。そして、うなった。


「もう10時じゃないか!」




混乱する頭のなかで、ユングは、あのあと何があったのか、目の前にいる浅野に尋ねようと思った。が、そうはしなかった。


おそらく・・・昨夜の浅野との長時間の会話のなかで、いろいろなことを考えすぎ、自分の脳髄は疲れを覚えてしまったのに相違ない。たしか、診断そのものも、どこか手詰まりになってしまった。


もし自分が誠意を欠いた精神医師であるならば、会話の中でいったん用意した仮説をこの心霊主義者に対し押し付け、診断を終わりにしてしまったかもしれない。すなわち、過去の宗教運動での挫折経験が、この繊細な患者の心を大きく傷つけ、そして、彼の精神がその治癒機能を発揮して、さまざま奇妙な夢を見せるのに相違ない・・・(もっと)もらしくて、一応は説得力のある説明だ。


だが、おそらくそれでは、この患者の精神は、救われることはない。いや、むしろ、余計に間違った方向へと彼の精神を誤導し、なにか致命的な結果を(もたら)さないとも限らない。


そのための方策をどうしても案出することができず、いつしかユング自身の心にも大きな圧迫が加わり、疲れ果ててしまったのだ。


だから・・・あの、湖水に(うごめ)いていた大きな黒い影は、浅野の奇妙な夢の話に触発されて見てしまった夢だ。幻だ。ユングは、そう思った。


いや、そう思おうとした。




そのとき、塔の反対側の扉が外からせわしなくノックされ、こちらが答える間もなく内へと開かれて、マルクが笑顔で顔を(のぞ)かせた。


「おはようございます、ユング先生!」

彼は、いつものとおり、元気よく挨拶した。

「ゆうべは、よく眠れましたか?浅野さんは?」


そう言って、まだ寝起きの二人のさまに気づき、少しおどけた仕草で口に指を当てた。彼は、少し声を潜めて、

「なにしろ、夜遅くまで、話し込んでおられたようでしたから。」




「君の居た離れまで、我々の話し声が聞こえていたかね?」

ユングは聞いた。

「いえ、まさか!この石塔のなかは、ほぼ完璧な密室です。たぶん銃を撃ったって、あたりには聞こえやしませんよ。でも、笛の音が聞こえました。ユング先生は、笛なんかお持ちでしたっけ?」


ユングは、自分の上着のポケットのなかを探った。きのう、浅野に借りてそのままになっていた、あの龍の頭のような形をした日本の石笛(いわぶえ)が、そのなかにあった。


いけない、いけない。


これは、いま向こうの寝台で寝ぼけ眼のまま座る客人が、長年にわたり、大切にしていたものだ。昨夜、彼から習って吹き方を会得したからといって、彼からこれを奪うわけにはいかない。忘れぬうちに・・・彼がこの塔を辞すより前に、ちゃんと返しておかなければ。




そして、ふと気づいて、マルクに尋ねた。

「笛の音は、どこでしていたのだね?銃を撃っても聞こえぬこの塔の中から、なんで笛の音だけが聞こえたのかね?」


マルクは、やや意外そうな面持ちで、こう答えた。


「いえ、まさか!ここからじゃありませんよ。ずいぶんと夜遅くに、湖畔のほうから聞こえましたが?先生か浅野さんが、湖のたもとで、ピイイと甲高い音のする笛を吹いておられるようでした・・・違いますか?もっとも僕は、そのまま毛布を(かぶ)って寝てしまいましたけれど。」




ユングの想念は、ここで完全に、ごしゃごしゃになった。




夢などではなかった!


あの時間に、自分はたしかに湖畔に出て、この石笛を湖に向かって吹き鳴らしていたのだ。そして戻ろうとしたとき、背後で音がして、湖のなかから、あれが出てきた。


・・・あれは、何だ?


ユングはあらためて、思った。なぜか、石塔へ猛烈に戻りたい気がしたのを覚えている。その姿を見る前から、なぜか、あれが、常ならぬ、この世で決して眼にしてはならぬものであることを、自分は身体のどこかで、感知していた。


この古代の氷河の裂け目にできた小さな水溜まりに過ぎぬチューリッヒ湖から、なにかおぞましく禍々(まがまが)しいものが(あふ)れ、この人の世にこぼれ出て来るような気がした。そして、自分こそが、思いつきで不用意にこの石笛を吹いてしまうことで、その重大な事態を誘発してしまったような気がしていた・・・。




そして、不意に、気づいた。


違う!自分が昨夜、考えていたことは、完全に間違いだ。浅野の身の回りに起こるさまざまな不思議の原因は、浅野の心の傷などではない。そしてそれを塞ごうとする彼の精神の自己治癒機能などでもない。


自分は、まるで湖を見張るこの石塔のような安全地帯から、浅野と厚東四郎が闘う夢のかなたの世界を、どこか遠くから眺めているだけだと思っていた。


しかし・・・それは違う。その闘いは、実はユングのすぐ近くで展開されていたものなのだ。思っていたよりも、ずっと近くで。そしてユング自身が、観察者としてではなく、一人の当事者として、今にもその闘いに関わりつつあるのだ。




浅野の夢の世界と、浅野にいま現実に襲いかかっているさまざまな怪異とは、相互に、つながっているのだ!




現実の浅野にユングが及ぼした影響は、浅野の夢の世界に影響する。そして、その中世の夢のなかで浅野の分身である厚東四郎に襲いかかるさまざまな怪異は、きっと、いま現実の浅野に起こるさまざまなことの原因に他ならないのだ。


この世と・・・中世の夢の世界とは、相互に繋がっている。


ただ精神の中や意識下で影響し合うだけではなく、おそらくそれは、どこか物理のレベルで繋がり、相互に作用を及ぼし合っているのだ。




すなわち・・・ユングは気づいた・・・すなわち自分は昨夜半、このチューリッヒ湖の水面の上に、浅野の言う、神の存在をこの眼で見たのだ。


いや、あれは、神などではない。


浅野も、わかっている・・・浅野とユングとは、タゴという悪魔の存在を、闇の彼方に垣間見たのだ。きっと、きっと、そうに違いない。




なにか・・・このなにか宇宙の真理の一端に触れた、当代きっての卓絶した精神科学者の頭脳は、にわかに高速度で回転を始めた。


ひとつ、解せないことがある。


邪悪な意思を有するタゴが、なぜ、暗い湖水に揺られ、(しばら)揺蕩(たゆと)うたのち、すぐに姿を消してしまったのか?


タゴは、すでに浅野の夢のなかで、いや、彼と合一した厚東四郎の夢のなかで、グロという名のこの世の防壁を破り、現世へと(あふ)れ出てきていたはずだ。そしてその(よこしま)な意思を(あらわ)して、あの平家(ヘイケ)の王子を操り、この世のすべての希望を奪うべく、厚東四郎の前に立ちはだかっていた筈だ・・・(くび)のない武者(ウォリアー)という、邪悪そのものでしかない形象物となって。


そのタゴが、夢の世界とつながるこの現世に現れ(いで)て、なぜそのまま矛を収めて撤退してしまったのか。本来は、あのまま、湖畔に居るユングと浅野へ、あの邪悪な触手をかざして、襲いかかってきて然るべきだったのではないか?




ユングは、ふと眼を上げ、部屋の向こうにぽつねんと座っている浅野のほうを見た。浅野も彼を見ていた。


もういちいち、言葉に出して確認する必要はない。


ユングは、夜半、湖畔に出て石笛を吹き、そしてあの化け物に遭遇した。浅野も表に出て、ユングとともにそれを見た。


二人は、昨夜、チューリッヒ湖のほとりで、タゴという名の悪魔を見た。そして二人は、厚東四郎の遭遇している、中世日本の異形(いぎょう)の夢に、しっかりと接続されてしまったのである。




マルクの沸かしてくれた珈琲を飲み、ふたりは、籠からパンを数切れ頬張ったあと、握手した。浅野はまだ旅の途中だ。そろそろここを()たねばならぬ頃合いである。


「どうも、誠に、申し訳ない・・・。」

ユングは石笛を返し、この東洋から来た来客に詫びた。


「あれだけ沢山のお話しを聞かせていただきながら、貴方に、しっかとした処方箋を、お示しすることができなかった。お話しさえ聞けば、私の知る過去の症例から、なにがしかお役に立てるようなこともあると自惚(うぬぼ)れていたのだが・・・このざまでは、わが最愛なる論敵のコナン・ドイル卿にも、きっと笑われてしまいますな。」


なぜか・・・あの湖の(たご)のことについては、正面から口にするのがはばかられた。今さらそれに触れたところで、はたしてどのように対処したら良いのか、事が大きすぎて、さすがのユングにも、まるでわからない。


浅野は、笑って答えた。

「とんでもありません!あなたの従姉(いとこ)のお話しを、詳しく聞けただけでも有り難かった。本にはあまり書かれていなかった、彼女のその後のことも聞けましたしね。」




ユングが、『いわゆるオカルト現象の真理と病理』のなかで例示した「S.W.」ことヘレーネ・プライスヴェルクは、その驚くべき症状を呈したあと、実は、霊媒としてあるまじき、ぼろ(・・)を出した。


周囲に集まる驚嘆と畏敬の喝采のなか、彼女は、優れた霊媒であり続けることに疲れ、あるいはそれを装うことに疲れ、その語る世界は、かつての豊穣さと精彩を徐々に失い始めた。イヴェネスはやがて世界から静かに姿を消し、レベルの低い空疎なおしゃべり屋、ウルリッヒ・フォン・ゲルベンシュタインの登場回数だけが極端に増えてきた。


そしてヘレーネはあるとき、ちょっとしたごまかしをした。空中からさまざまの事物を取り出してみせると言って、上着の内部に隠し持っていたさまざまな小物を闇の中に投げ飛ばし、その現場を押さえられた。


ユングは、それよりずいぶん前に、彼女の観察を止めていた。ヘレーネはその後、ごく普通の商店員として働き、若くして死んだ。


ユングはあくまで、彼女が一時期呈した症状を、ヒステリー、癲癇(てんかん)、ストレス等に起因した、ある種の精神病として紹介した。しかし彼女が、本当に闇の彼方の霊界とつながりを持っていたのかどうか、実はユングにも未だによく、わからない。




二人は石塔を出て、マルクが用意した馬車のほうに向かったが、そこに彼は居なかった。探すと、湖畔のほうに居た。しゃがみ込み、一生懸命なにか作業している。


ユングが声をかけると、驚いたマルクは慌てて立ち上がり、こちらにやって来た。

「すいません!つい、熱中してしまって。まだお食事中だと思ってましたから。」

手を拭き、馬車のほうへ向かおうとした。




すると、浅野が、彼を止めた。

「ちょっと、マルク君。」


マルクが振り返ると、浅野は、黙っていまマルクがしゃがんでいたほうを指さして、聞いた。

「あれは・・・何だね?」


そこには、人の膝くらいまでの高さの、小さな石壁が(しつら)えられていた。長さはせいぜい5メートルほど。平たい川原石をただ積み重ねただけの素朴なもので、漆喰などは全く使っていない。あいだにひとつ、丸い通り穴のようなものが作られていたが、もちろん、小さな妖精でもなければ、通り抜けることなど不可能である。


このミニチュアの城壁は、石塔と離れのちょうど中間くらいの位置に連なり、湖面からこの二つの人為構造物を隔てようとしているようにも、見えないことはなかった。


マルクは肩をすくめ、まるで悪戯が露見した子どものような顔をして、こう言い訳をした。

「いえ、その。ここのところ、あちらの石壁の補修ばかりやっていたもので。飽きてしまって、昨日からつい、河原の石を拾って崩れないように積み上げてみたんです・・・そしたら意外に面白くて。バランスを取って、壁が崩れないようにして積み上げる単純作業がね・・・いや、そうすることに、特になにも意味はないんですが。」




ユングは、ラッパーズヴィル駅の列車の時間が気になり、このいらずら者の若い弟子に、馬車の用意を急ぐよう言った。マルクは、慌てて表のほうへ走っていった。


すると、二人きりになったのを見計らって、浅野は言った。

「さっきあなたは、あの化け物が、なぜこちらを襲ってこなかったのか、不思議に思っていたでしょう?」


ユングは、黙って頷いた。


「あれが、その答えですよ・・・マルク君の築いた、あの小さな小さな城壁。あれが、我々を護ってくれたのです。なぜならあれは、私が夢の中で見た、(ぐろ)にそっくりです。いや、壠そのものだと言っていい。」




「そんな・・・なぜ?」

衝撃を受け、思わず、ユングは言った。

「マルクは、この件とは、まったくなんの関係もない。なのに・・・なぜ、急に思い立って、そんなものを造る?」


「さあ、それはわかりません。」

浅野は言った。


そして、そのままマルクの築いた小さな壠に歩み寄り、そこから一枚だけ川原石を引き抜くと、

「こちら、頂戴して行きますよ。お守りです。」

そう言って、石笛と一緒に、大事そうに懐中に仕舞った。




やがて遠くのほうから、たった数時間前、世界全体を救ったかもしれない若いスイス人学生の長閑(のどか)な声が響いてきた。

「われらが戦車(チャリオット)の準備万端、整いました!いつでも出発できますよ!」




浅野は、寂しそうな笑顔を浮かべてユングのほうを向くと、言った。

「先生。お見送りは結構です。どうも私は、自分が助かりたいばっかりに、あなたの石塔まで、とんでもない災いを(もたら)しかかってしまったようだ。マルク君が救ってくれたので事なきを得たが。もちろん意図してのことではないから・・・どうか、なにとぞお許しいただきたい。」


そうして一礼し、両脇に荷物を一杯に抱えて、場所のほうへ歩いていった。




ユングは、その場に取り残されたまま、しばらく動かなかった。少し考えていたが、やがて決然と顔を上げ、大股で浅野を追い抜き、その行く手に立ち塞がった。


「あなたは、本当に、とんでもない人だ。」

ユングは、浅野に言った。


「本当に、とんでもない災いを(もたら)してくれた・・・おかげで私は、我身が危うくなったばかりでなく、自分の信じる科学に対する信頼という、生命よりも大切なものにすら、疑念を抱かざるを得ない状況に陥っている。」


浅野は、黙ってそれを聞いていた。

なんと答えたら良いか、わからない風であった。




ユングは、構わず続けた。

「君の精神に取り憑いている魔物は・・・私の精神にも祟ってくる。本当に迷惑だ、もうこれ以上、私にかかわらないでくれ給え!」


厳しくそう言うと、さらに、

「もし、なんらか私に償いをしたいと思ってくれているのなら・・・君にひとつだけ頼みがある。」

そう、断固とした口調で続けた。


「この件とは、私は無関係だ。そういうことにしてくれ給え!私は、ドイル卿からの手紙を受け取っていないし、君をこの石塔に招いてもいない。君はここに来なかったし・・・私は君の石笛を、吹きもしなかった。とにかく、君がここに来たという痕跡を、一切残さないようにしてもらいたい。」


「わかりました・・・そういうことに致しましょう。私は、日本の支援者たちに向け報告するための日記をつけているけれど、もちろん、これまでに起こった説明のつかない一連の不気味な出来事については、そこでは一切触れていない。もちろん、ここに来たことも書きません。」


そう言って、また静かな湖水のほうを見た。そして続けた。

「そうなると、旅の日程があわなくなるけれど、その分はどこか・・・そう、ジュネーブの湖で観光船にでも乗って、帰り道で置いてきぼりを喰った、とか、そんな風に書いておきますよ。あなたへの、せめてものお詫びだ。もちろん、そうしたからとて、その気持があの魔物に通じるかどうか、わかりませんけれど。」


浅野は、力なく笑みを浮かべながら、淋しげに言った。そう言って、今度は本当に馬車へ向かい、歩み去ろうとした。




しかしユングは、その大きな胸をいっぱいに張って、また浅野の行く手に立ち塞がった。


「まだだ!まだ貴方に言っておくことがある。」

浅野を睨みつけて、言った。

「その顔だ。今の君の顔だ。いま君は、(うつむ)き、私への申し訳なさでいっぱいになっている。そして、次にどうしたら良いのかわからない、途方に暮れた顔つきをしている。まるで、国を逐われて行き場のない、孤独な難民のような顔だ。」


一瞬、浅野は、ユングがなにを言わんとしているのか、わからないというような顔をした。構わず、ユングは続けた。

「わからないのかね?自分が、いま、どんな状況に置かれているのか。」

「それなら・・・わかります。はっきりと説明はつかないけれど。それは、なにか、とんでもなくのっぴきならない状況です。この地上に居る人類一等の知性である貴方でさえ、すぐとは歯が立たないほどの。」

浅野は、力なく言った。


しかし、ユングは、そんな浅野の失意には頓着しなかった。まっすぐ彼を見据え、むしろ冷酷とも取れる声音で、こんな言葉をぶつけた。

「大きな渦に呑まれた小魚は、何が起こっているのかを理解できず、自分の身の回りのものごとしか見ない。必死にもがいて、もがいて、いつか、その渦のなかに呑まれてしまう・・・今の君が、そうだ。君はたぶん、いま大いなる代理戦争のさなかにいる。異なった位相の、異なった世界同士をまたぐ、目には見えない大戦争だ。そして、大いなるもの同士のせめぎ合いの中で翻弄される木の葉のように、相互からの烈風に吹かれて、ただ、きりきり舞いさせられている。」




なにも言えず、大きな荷物を抱えてただそこに突っ立っているだけの浅野に対し、ユングは、一気呵成に言葉を浴びせかけた。まるで、言葉の奔流を浴びせかけることで、浅野に新しい力を充たそうと決意しているかのように。


「サブ。君は、心にひとつ大きな挫折感を覚えている。かつて自分が、自分を信じすぎ、やり過ぎて、外部から災いを(もたら)し仲間を裏切ったというね・・・昨晩、会話を初めて、私がまず気づいたのが、それだ。」


じっと浅野を見て、

「君は、傷つきやすい、善良な魂を持っている。そしておそらく、これまで身の回りで起こる、すべてのことから逃げてきた。その天性の愛想の良さと、温和な性格と諧謔(ユーモア)とで、なるべくまわりと軋轢をおこさず生きてきた。でも、今は違う。なにか、君という存在を絶対的に脅かす敵から、自らを(まも)らなければならない。立ち向かわなければならないのだ。今度ばかりは、面と向かって、そのなにかと闘わねばならないのだ。きっとそうだ。」




ここでいったん、言葉を切った。そして、より重大なことを伝えなければならないという真剣な目で、こう続けた。


「そしてその相手は、邪悪で、巨大で、容赦がない。現時点では、力の差は圧倒的だ。だが・・・気づいていないかね?君には、手を差し伸べてくれる味方がいる。私ではないが、誰か別の、素晴らしい味方がいる。ちょうど、夢の中でその中世の戦士を助ける若い娘のような。君はまだ、その存在に気づいていない。しかし、彼は・・・あるいは彼女は、君のことを、どこかから、常に見ている。そして君を護ろうとしている。敵は、その邪悪な力で、これまで常に君に先制攻撃をかけてきた。しかしそれが大事に至らなかったのは、おそらく彼ら、君のいわば守護天使ガーディアン・エンジェルたちのお陰だよ。」




そう言って、先ほどみずからが返した石笛が入っている、浅野の懐中を指さした。

「君の夢の中で、その石笛を海に向かって一心不乱に吹いていた、和仁三郎(おにさぶろう)という男。どんな男なのか、私は知らない。だが彼は、おそらく最良の君の友達だ。彼はおそらく、君に遣わされた過去からのリンク役だ。なぜなら彼は、横須賀の南にある神社で、その石笛をわざと君の足元に落し、君にそれを拾わせたから・・・そしてそれを見事に吹き鳴らしてみせ、そのあと、君にその笛を託したから。おそらく彼の先には、別の誰か・・・おそらくは、君の守護天使が居るのだ。彼らはみんな、君の味方だ。君は、ひとりではないのだよ!」


ユングは、そう言い切った。

そうして、いったん黙り、浅野のほうを、じっと見た。




浅野は、かろうじて、こう答えた。

「え・・・ええ。もしかしたら、そうかもしれない。あなたの言うことを、まだ半分程度しか、理解できていないけれど。」


そう言って、石笛を取り出した。そしてそれを掌のなかで転がしながら、こう続けた。

「もしかしたら、降霊会の闇のなかで私に密やかな警告をしてきた、ジョンという心霊も、私を(まも)ろうと、出来る限りのことをしてくれたのかもしれない。そして昨日、マルク君の精神になにか影響を与えて、あのミニチュアの(ぐろ)を作らせたのも・・・誰かはわからないが、闇の彼方で私を護ろうとしている誰かなのかも。いや、これは、実に心霊主義者的な解釈ですな、カール。貴方にはきっと、到底受け入れがたいであろう雑説だ。」


浅野は、笑って言った。先ほどまでとは違い、やや言葉や態度に生気が戻ってきていた。




しかしユングは、その浅野流の諧謔(ユーモア)をまるで無視し、ただ真面目に、自分の言いたいことだけを言った。


「私に判るのは、ここまでだ。私がなにか力添えすることはできない。できるとしても、その方法がわからない。さらに言うと・・・正直に言うが、私は、君を(たす)けたくない。君を救けて、このなにかわからぬ恐ろしいことの、巻き添えになりたくない。私には、まだ思索すべき事柄、見出すべき真実がまだ山のようにあるのだ。ここで、こんな、私にはなにかまるでわからぬものに取り()かれて、私の人生を、そして私の研究を邪魔されたくはないのだ。身勝手な言い分だが、私の本心だ。本当に、ここまでで勘弁して欲しい!」




浅野は、そのユングの言葉を黙って聞いていた。胸が、ある特別な感情に充たされていた。それは前にも、どこかで別の誰かに抱いた感情である。


・・・思い出した。

コナン・ドイルだ!


それぞれ、まるで違う考え方を持った論敵同士だ。しかし、医師であるということは共通している。義侠心を持つ勇気ある戦士で、そして、名医だということも。




ユングは、最後にこう言った。

「行って来れ給え!そして、二度と戻ってこないで来れ給え。しかし・・・絶対に勝ち給え!君は、勝てる。立ち向かうのだ。そして勝利するのだ。そしてその勝利は、おそらく、君ひとりのものではない、なにか、もっと大きなものの勝利だ。そして私は・・・一生かけて、そのなにかを、別のアプローチで考究してみせる。そして、残り少ない人生のうちにお互いそれが成ったら、またこの世界のどこかで会おうじゃないか。そうして共に、また熱いシチューを食おう。」




そうして、浅野をそのがっしりとした身体でしばらく抱擁した。大荷物を抱えた浅野は、なにもできずに、ただ、されるがままになった。


ユングは、やがて浅野の両肩を掴んで回れ右をさせると、大きな手を背中に当てて、マルクの待つ馬車のほうへと、押し出したのである。

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