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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第三十四章(前)   昭和3年(1928年)秋   スイス・チューリッヒ湖畔

浅野とユングは、ちょうど一歳違いの、ほぼ同世代だった。両者とも性格は控えめで、穏やか。相手の気持ちを慮り、尊重することもできる。そのため、多少は気安く互いを「サブ」、「カール」とファーストネームで呼び合うことができた。またすでに数時間を一緒に過ごし、なんとなく気持ちも通じては来たが、依然、互いの置かれた立場は微妙だった。


精神医学を専門とするユングにとって、人のこころの精妙で謎めいた作用のすべてを、()るかどうかも証明できぬ心霊のせいにしてしまうドイルや浅野らの心霊主義者は、本来は否定しさるべき疑似科学の申し子であり、いわば、永遠に交わることのない平行線上を進む他人である。


黙って彼らの道をそのまま進むなら良し、でも仮にもし彼らが、周囲のいろいろな人々を巻き込んでその(あやま)てる道を吹聴し、勢力を拡大して、向こうの線上からこちらを攻撃してきたら、こちらもやむを得ず、反撃せざるを得ないであろう。


ところが、そうした忌まわしき心霊主義の申し子たるこの小さな東洋人は、なにかわからぬ謎の力に圧迫され、なんと、こちら側の線上に助けを求めて駆け込んできた・・・理由は、彼の見る夢のなかに、かつて自分が、あくまで精神医学者としての眼で冷徹に観察した患者とそっくりの人格が登場したから。


・・・そして、それは実際には存在しない、夢の中の人格である。


ユングは、浅野をあくまで彼の患者として遇し、日頃行うように、彼の人生の背景や精神状態についての質問を行うことでこの奇妙な現象を理解しようとした。そして、いちど見えてきた結論に、一も二もなく飛びつきそうになった自分自身の勇み足を、その科学的で冷静な思考の力で、必死に抑えた。




どうも、おかしい。


これは、普通の症例(ケース)とは違う。少なくとも、自分がこれまで見てきた、どの患者の症例とも違うことだけは、はっきりしている。


この、あまりにも細部や前後関係のはっきりした、他に類例のない驚くべき中世の冒険の夢。そして、それが (多少の前後や中断や重複などは有りながらも)日々、淡々と連なっていくという不思議な現象。そしてどうも、夢の中の彼と、現実の彼とは、その(あらわ)れ方こそ違うが、実はほぼ同じ目的に向かって歩を進めているかのように思える。そのキイ・ワードは、「海峡」だ。




ユングはこれまで、この浅野の夢を、彼の内なる心の傷から来るものと考えていた。あるいは、その傷痕を縫い合わせ、辺縁(へんえん)をゆるやかに溶かして塞ごうとする、彼の精神が自然に持ちあわせている自己治癒機能の作用だと。


そしてときどき登場する「海峡」とは、なにか黒ぐろとした、向こう岸との断絶を示す心理的な暗喩だとユングは理解していた。浅野をなにか大切なものと切り離し、こちらからは乗り越えて行けない、どうしようもなく深く黒い溝。


その海峡の向こう側にあるのは、おそらく、人類が太古の昔から意識下に飼い慣らしている、なにか共通した形象のようなものだ。そこに行きたいのに行けないもどかしさ、戸惑い、絶望。しかしなおかつそれに魅せられ、引き寄せられていく心の不思議。


ユングは、自らの得たその曖昧なぼうっとした形象を何度も反芻し、浅野と会話を交わしながら、より詳細な細部を色付けしていき、それが何であるのかを見極めようとした。そして最終的にはそれに適した名前をつけ、浅野の覚醒意識の前に突きつけてみようと思っていた。




しかしどうも、その自分の思惑通りの展開には、ならないようである。


なぜなら、海峡とは、深層心理的な何らかの状態を示す暗喩などではなく、もしかしたら、より具体的な、実際の「海峡」のことであるかもしれない。そう思えてきたから。


ユングは、それまで数百に登る患者の密やかな内面世界に深く接してきた圧倒的な経験量から、そうした微妙な違和感を覚えた。そう考えたのではなく、そうと感じた。


そしてこの浅野の夢には、内から発するものばかりではなく、なにか、外部から継続的に作用する要素が関わっている。外部より加わる・・・圧迫なのか刺戟なのか、よくはわからないが・・・とにかく浅野の精神に影響を与え、なかで展開される夢の内容を、ときに都合よく書き換えてしまうようなもの。


そしてそれが常に、「海峡」というキイ・ワードを、イメージとしてではなく、具体的な目標物として突きつけて来ている。まるで何かの、彼が果たすべき義務を課すかのように。つまり浅野は、なにかを内面に飼いならしているのではない。なにかに、あるいは誰かに飼われ、その思惑に従って日々行動し、夢を見ているのだ。




もし、それが事実だとしたら・・・大変なことだ!


これまでの自分が行ってきたすべての研究努力が水泡に帰するばかりでなく、既知のすべての学問における人間認識を、変更せねばならない。それくらいの話だ。


ユングは思ったが、すぐに、その自分の思い込みを、自分でたしなめた。

いや、そんな馬鹿な。


それこそ、すぐに飛びついてはならぬ(たぐい)の仮説だ、取るに足らぬ臆説だ。




「・・・そしておそらくは、私の妄想だ。こんな辺鄙な場所に、長らく引きこもってしまっているからな。」


ユングは、まずは自分自身に言い聞かせるように、闇の中でそうひとりごちた。




話し疲れた二人の初老の男たちによる会話は、しぜん、途切れがちになり、話す時間と黙る時間が、ゆっくりと逆転し始めた。


会話に飽きたわけではない。内容は非常に興味ぶかいものだった。続き物の奇妙な夢、旅のあちこちで遭遇する思わせぶりな怪異の数々。そして何よりも、眼の前にちょこんと座り、今はすこし疲れた顔で眼を(つむ)る、この人の好さそうな男が関わってきた遠い国の人々の内面に広がる独特な精神世界、そして宗教観。


予想通り、思わず時間を忘れてしまうほど、どこまでも魅入られる話だった。


ドイルから手紙を受け取ったあと、浅野がジュネーブに到着する時間を予想し、ラッパーズヴィルでのマルクの馬車との待ち合わせ時間を指定したのは、ユング自身である。そうなると、自然と、彼はこの石塔に泊まらざるを得なくなる。通常の、一時間やそこらの診察で帰る患者とは、最初から別扱いであった。


もちろん、かの忌まわしき論敵ともいうべき心霊主義者たちの領袖、コナン・ドイルたっての刺客ともいうべき、特殊な来客ではあったが、すでにユングは、経験豊かな精神医学者として、浅野の症例(ケース)が、どこか異質のものであるということを、ある程度予想していたのである。




実はこれまで、当代きっての精神科学者であるユング自身にも、数多くの説明のつかない不思議な現象に遭遇した経験がある。


住み慣れた家の無人の台所から、ある日とつぜんピストルを発射したような音が響き、驚いて行ってみると、年代物の頑丈なテーブルが割れて中央に陥没していた。木質の経年劣化に起因する必然的な破断であるとしても、湿度の高いその季節に、外的な力の干渉なしにいきなり頑丈なその木がまっぷたつに割れてしまうのは、いかにも不可解なことであった。


またその十日後には、食器棚に置いてあったパン切りナイフの刃が、鋼製であるという物理的事実を自ら無視するかのように、バラバラに千切れているのを発見した。


さらに・・・彼があくまで精神医学的なアプローチで冷徹に観察し、 (明確に結論づけてこそいないが)特有の精神病理に基づくヒステリー性の症状の持ち主として紹介したS.W.すなわちヘレーネこそ、彼と血のつながる従妹であるという事実があった。


一連の怪異は、彼女の霊能力もしくは、彼女と血の繋がった自分のそれに起因するものなのではないか・・・意識的に認めこそしないが、どこか、もやもやした想いが、ユングの胸を不安にかき乱した。




こうしたいくつもの不思議は、彼がまだずいぶんと若い時分に経験したものである。それから以降、ドイツ語圏きっての精神医学者として名を挙げ、かのジグムンド・フロイドに師事し、のち袂を分かち、それ以降は独自の道で人間の精神の奥底に広がるものを見極めようとしてきた。


その多忙な、心に余裕のない日々の果に、彼はふと自らを省みてみようと思いたち、このような辺鄙な人里離れた山奥に、自ら切り出した石を積み上げた。


そうして出来上がった、この、ややいびつな格好の石塔。それは、まるで湖岸を護る城塞のように湖畔にそそり立ち、誰も居ないチューリッヒ湖の長い尻尾の先の水面に、その影を落している。


その石造りの見張塔からずっと、なにかわからぬものを観察し続けてはや数年。夜はただ、しんしんと時を刻み、薪のはぜる音が、たまにユングの耳を射た。




ふと、浅野が眼をひらき、こう言った。

「いかん、いかん・・・少し眠ってしまっていたようです。」


「サブ。どうぞごゆっくり。長旅にお疲れでしょうし、まだまだ宵の口です。お話する時間は、たっぷりとありますよ。」

ユングは、この極東から来た小柄な旅人を(いたわ)った。しかし、浅野は構わず、勢い込んでユングに言った。


「ご相談している先から何なんですが、いま、例の夢の続きを見ておりました。早めにお話ししておかないと、細部を忘れてしまう!」

「ほう?(ストーリー)は、先に進みましたか?」

ユングは眉を上げ、この唐突な進展に驚いた。浅野がまどろみはじめてから、ほんの15分ほど。が、人は、実にみじかい間に長い長い夢を見る。そのことを既にユングは、観察的事実として正しく把握していた。


「大いに・・・大いに進みましたよ。厚東四郎たちが話題にしていた、頸のない騎士(ウォリアー)が、遂に出てきました。そこで目が覚めたのです。そして。」

「そして?」

ユングは聞いた。


「カール・・・先ほど、貴方が言われたとおり、叛乱の前に、やはりひと悶着ありました。人の世を護るための叛乱なぞ、あの忌まわしい貴公子は、もともと起こす積りではなかった。私達を裏切り、私達の命を捧げ物にして、タゴどもと単独講和していたのです!」


「なんと・・・。」

ユングは、驚いた。その、場末の三文芝居のような急展開にもだが、なにより、自分が先ほど示唆した言葉が、早くも彼の精緻な夢の中に作用したかに思えたことに驚いたのである。




「どうも、タゴたちとの最終決戦の前には、まだひとつ、何か悶着が起こりそうな気もしますな。」


先ほどの、ユングによる現状維持(ステイタス・クォ)のための一言は、話に結末をつけ、もしかしたら自然な精神の自己治癒機能であるかもしれない浅野の夢を唐突に終わらせてしまうことを怖れた、ユングの窮余の一策に過ぎなかった。




しかし彼のその言葉は、予想以上に絶大で迅速な効果を発揮し、夢のなかで生起する寸前だった、平維盛と厚東四郎それに多々良の一党による(たご)に対する一斉蜂起が、主将の維盛による裏切りによって、ただちに雲散霧消した。


もしかしたらその急展開は、こちら側の世界におけるユングによる苦し紛れの一言が、浅野の潜在意識に何らかの示唆を与え、これを制御(コントロール)して、起こる筈であった叛乱を未遂に終わらせた可能性がある。


つまりユングは、意図せずして浅野の夢のなかの世界に介入し、そこに残っていた人類の未来への僅かな希望を、永遠に砕いてしまったのかもしれないのだ。




浅野の説明をよく聞けば、維盛が裏切ったばかりではなく、四郎と狩音はいま、(くび)のない幽霊武者と正面から対峙し、絶体絶命の危機に()る。


この超自然的な、禍々しさしか(あらわ)し得ない形象物の登場は、なにを意味するのだろう?普通に考えたら、彼らはこれから、この人智の及ばぬ幽霊に倒され、そのまま引きずられて、地の果てにあるあの粢島(しとぎじま)まで連れて行かれてしまう筈なのだ。


そして、宕どもに対する人類の蜂起のチャンスは永遠に失われ、そのあと大地は暗黒の闇に閉ざされてしまうことであろう。そうなれば・・・先ほどユングは、幸福な結末の大団円が来るのを怖れたばかりだが、これはおそらく、それよりもさらに悪い、最悪の展開といえるのではないか。


このような形で終わった夢が、その夢の世界の創造主である浅野和三郎の精神に与える影響は、もしかしたら破滅的なものになりはすまいか。


ユングは思わず、それまで胸で組んでいた自分の両手を開いて、じっと見た。私はいま、意図せずしてある種の殺人行為を行ってしまったかもしれない・・・一瞬だけ、そう錯覚してしまったのである。




気がつくと、自分の夢の内容を語り終わったばかりの浅野が、きょとんと、不思議そうな眼でこちらを見ていた。彼の語った彼の夢が、なにか、眼の前にいるこの大柄な異邦人に不思議な影響を与えてしまっていることに気づいたようだった。


ユングは、慌てて話題を変えた。

「サブ、あなたは、一度だけ、その中世の厚東四郎が登場しない夢を見た、と言いましたね。」


「はい。正確には二度。その夢は、場所もはっきりしています。東京のずっと南にある湾口に、走水(はしりみず)神社という(シュリーン)があります。おそらくはその真下に広がる、小さな砂浜です。」


「そこで、貴方の友達が、笛を吹いていた。」

「彼は・・・もう友達ではありませんけれどもね。はい、出口和仁三郎(おにさぶろう)という実在する男が、石笛を吹いていました。澄み切った、とても美しい音色でした。」


「たしか、それは実際に体験した風景だと言いましたね?」

「そのとおりです。実際に彼とその場所に行き、そこで私がその岩笛を拾いました。出口がそれを手に取り、その場で見事に吹いてみせたのです。私は、巴里へ向かう車中で、そのさまを夢に見ました。そしてそのあと巴里に着いて、ホテルのベッドの中でも。」


「もしや、あなたは・・・その笛を今でも持っていますか?」

ユングは、興味津々で聞いた。

「もちろんです。私はその石笛を、片時たりとも手放したことがない。」

浅野は言って、懐からそれを取り出した。




石笛を手渡されたユングは、その奇妙な形に驚いた。


それは、笛とはいえぬような自然石で、特にはっきりと人為的な加工が加えられた痕はない。形はとても独特で、丸くも四角くもなく、蛇や龍の頭を思わせる。そして、眼に当たる部分に、極めて自然に、指で塞ぐのに適したふたつの不揃いで小さな孔が開いていた。


「これをどうやって、吹くのです?」

ユングは、聞いた。


浅野は手を伸ばし、また自分の笛を取り戻して、口に当てた。

「ちょっとしたコツが、ありましてね。」

こう言うと、ピイイ、と甲高い音で石が鳴り、音は石塔内の堅い壁に反響して、高いとんがり屋根のてっぺんへと登っていった。


「なるほど・・・素晴らしい音色だ。とても澄んでいて、清明で。そしてどこか、とても物悲しい。」

浅野は、ユングがそう言って止めるまで、ずっと、ずっと笛を鳴らした。息継ぎなど、まるで不要。出口に手渡されて以来、十年以上、この笛を片時も離さず、吹き続けてきたのだ。


「吹いてみますか?」

浅野は、ふたたびユングの手にそれを渡し、勧めた。

「すぐには、無理かもしれませんが。しかしコツさえ掴めば、貴方でもすぐに綺麗な音を出せるようになりますよ。」




石笛は、ユングにとってたいへんに興味深い、天然の楽器であった。


つい3年ほど前の今ごろ、ユングはこの石塔を出て、数名の知人とともに東アフリカに渡った。ケニアとウガンダを経由して、内陸奥地の壮大な楯状火山・エルゴン山の麓に行き、そのつい20年ほど前まで西洋人の姿を見ることすら絶無であった未開領域で、地元民たちの暮らしに混じり、原始の暮らしにおける精神と真理について観察しようと考えたのである。


遥かな(いにしえ)、数万年前から時の止まったかのような始源の地に、ユングと仲間たちは3週間に渡り留まり、太陽が登ってから沈むまで、そこに生きる人の営みを、ただ観察し続けた。


現地の民は、無害なこの異邦人たちに対して優しく友好的で、なんら思惑なしにユングらを自然の一環として受け入れ、日々をともに暮らした。闇を(おそ)れ、陽光を(おそ)れ、ただ喜び、泣き、笑う彼らは、獣の死骸から採った牙を加工した独自の角笛(つのぶえ)を持っていた。


闇に向かってそれを吹き鳴らし、毎夜のように、なにか、おそらく邪を(はら)うような仕草をした。詳しい意味合いは、ユングたちとまともに会話を交わせぬ彼らに質するわけにはいかない。しかし、その角笛の音は、ひたすらに重く深く、おそらくは闇の彼方に在るなにかを拒絶し、みずからの住む世界を守ろうとしているのであろうと察せられた。




いっぽう、この石笛は違う。


おそらく、日本民族が氷河期を経てあの極東の弓状の列島に()み着き始めた、数万年の昔より使われていたであろう点では同じだ。


だがこれは、より素朴で、より自然そのものだ。なにしろこの石には、人が加工を加えた痕すら見当たらない。そして・・・その音は、ただひたすらにもの悲しく、人間の意思や願望を、自然のなにかに反映しようという目的をまるで持ち合わせていないようである。


それはただ、(あらが)えぬ運命に自らの身を委ねるのみの無力な者が、神なる存在に対し諦念(ていねん)を現すためだけの音色であるように思えた。




そしてそのあと・・・最初は、診断と治癒の期待を込めていた両者の会話は、そのまま、浅野によるユングへの石笛の吹き方のレッスンに変じていってしまった。


ユングは、その場で1時間も経たぬうち、たちどころに石笛の名手となった。おそらく、浅野の経験的なアドバイスが効いたのであろう。


ふたつの穴の押さえ方、そして笛の傾け方。息の吐き方。この石笛に合わせた独特の方法があり、それは一度体得すれば、ぜったいに忘れぬものである。ただし、それは全世界に存する、おそらくは数千兆にも上る自然石のうちで、ただこの石笛だけに当てはまる、特殊な公式のようなものだ。




石塔の中では、甲高い石笛の音が間断なく鳴り渡り、ずいぶんと(やかま)しい夜になったが、その音は、緊密な花崗岩の分子組成に阻まれ、外に漏れることはない。外の湖はたぶん、(しん)として静謐なままであろう。


石笛をマスターしたユングは、孤絶した石塔のなかで、しばらく一心不乱にそれを吹き続けた。やることのなくなった浅野は、そのうちまた眼を(つむ)り、今度はソファの上で本当に寝入ってしまったようだった。長旅と心労が、身体を芯からじわじわと(おか)す疲れだ・・・同じ年代のユングも、浅野のその状態が、我身のことのようによくわかった。




ふと、ユングは懐中時計で時間を確かめた。驚くべきことに、もう夜の2時を廻っている。おそらく、3時間はこの石笛を吹くことだけに熱中してしまっていたようだ。これでは、自分は何のために浅野をわざわざ泊まらせたのか、意味がわからない。


しかし、まだ自分はちっとも眠くない。すると・・・ユングは、なにもないこの石塔で過ごす、ただひたすらに長い夜のことを思って、ちょっとうんざりした。自分も浅野のように、すぐと眠ってしまいたい。


そう考えているうち、ふと、ユングは外でこの笛を吹いてみたくなった。




アルプス山中の、ひたすらに静謐(せいひつ)な湖のほとりの石塔。その外に出て、灯りひとつない真っ暗な闇のなかで、この太古からの時を刻む石笛を、ただひたすらに吹き鳴らす・・・ユングはなぜか、自分のこの他愛もないアイデアが、すっかり気に入った。


オーバーを羽織り、首筋にマフラーをしたユングは、石塔の扉を開き、かちんと冷えた高地の夜の空気のなかに立った。そのまま歩を進めて湖岸に進み、少し湿気を帯びた草の根を踏みながら、ポケットに入れた、浅野の石笛を取り出した。




浅野は、石塔のなかで、すっかり寝入ってしまっているようだ。この先20メートルほどの離れにはマルクが泊まっているが、なにもやることのない僻地の田舎では、夜はただ寝るしか、することがないはずだ。


ユングの予想と違って周囲は真っ暗闇ではなく、中天には朧月(おぼろづき)がかかり、夜の空を流れる水気を含んだ雲と霧に(にじ)んだ弱い光を湖上に投げかけていた。わずかに風が出て、湖水の表面は細かく波立ち、粉々に割れた硝子のような無数の小さな光を反射していた。そしてその向こう、手を伸ばせば届いてしまいそうな近くには、対岸の峨々(がが)たる山肌と、そこに貼り付く黒い樹々の影とが見えた。


「まるで、海峡のようだな・・・。」

ユングは、ひとりごちた。しかし、声を出してそう言ったのかどうか、自分ではわからなかった。いずれにせよ、マルクと浅野以外、半径数百メートル以内に、人はたぶん、誰もいない。


ユングは、おもむろに石笛に口をつけ、先ほど習ったとおりに傾けて、吹き始めた。




ピイイ・・・という、あのもの悲しい、しかし(やかま)しく突き刺すような音が、チューリッヒ湖畔の夜気を震わせ、うっすらと宙に浮く雲の間を抜け、物言わぬ岩稜の痩尾根(やせおね)のあいまを立ち上り、そのまま虚空に消えていった。


山はなにも答えず、風も答えず、湖面の(さざなみ)ですら、ユングの笛の音にはまるで頓着せずにただ細かく揺れ、先ほどと変わらず、ただ月からの反射光を細かく震わせ続けた。


なにも答えず、なにも変わらない。千年万年経っても、この湖畔の風景は変わらず、いくら笛を吹いても、この哀しい調べを闇に突き刺し続けても、ユングに応えるものはなにもない。


ユングは、自分で笛を吹きながら、その当たり前の風景になぜか安心した。自分がそれまで信じていた自然と人間との関係が、いまだ不動なことを確信し、天文学と地質学と精神医学とあまたの宇宙論と・・・人類が様々なアプローチ方法を考え、必死になって探し求めているその答えが、いまだどこにも姿を(あらわ)していない、その状況にまずは、ほっと安堵した。




はて、私は、なにがしたかったのであろう・・・?


自分で、自分の行動の理由を(いぶか)しみながら、ユングは笛をオーバーのポケットに仕舞い、石塔に戻って自分もまずは就寝してみようと考えた。もし眠れぬ場合は、なに、ランプの光でなにか、読みかけの学会誌でも読もう。


ユングは自分で自分にそう言い聞かせ、(きびす)を返して石塔に戻ろうとした。そのとき・・・。




ちゃぽん、と音がした。




背後で、やや遠くのほうで、湖面になにかが()ねるような音がした。




ユングはその場で足を止め、闇のなかで少し考えた。はて、聞き違いか?魚が跳ねたのか?いやしかし、山中のこの静かな湖で、湖上に跳ねる魚なんて、いただろうか?誰かが石を投げた?もしかして、いらずら者のマルクが?


ユングは顔を上げ、彼がいるはずの離れのほうを透かし見た。灯りは消え、そこはただしんと寝静まっている。彼が屋外に出てきた気配は、どこにもない。


もしかして・・・ずっと、この刺すような石笛の音を耳にしていたから、なにか残響音で耳鳴りでもしてしまったのであろうか?この老いを感じ始めた身体なら、あり得ることではあるが・・・。




また、ちゃぽん、と音がした。


こんどは、前よりも少し大きな音であった。




ユングは、自分がなにか、ただならぬ状況下に()ることを、本能的に悟った。振り返ってはいけない、湖の上になにがあるのか、見てしまってはいけない。それをしてはいけない。ユング自身か、それとも、なにか他のものかわからなかったが、とにかく、何かが彼にそう激しく警告した。


そうだ、そうしよう・・・なにも気づかぬふりをして、自分はこのまま、石塔の中に戻ろう。頑強な花崗岩に(まも)られた、難攻不落の見張塔(ウォッチタワー)のなかへ。


この世の境界線を護る、最前線の砦のなかへ。そうすれば・・・私は大丈夫だ。




ユングはそのまま、なにも見ずに前へと進み、石塔のなかへ戻ろうとした。だが、足が動かなかった。水気を含んだ柔らかい草地が、ユングの足をまるで罠であるかのように絡め取り、靴底がじゅぶじゅぶと泡を立てて、地面にめり込むような気がした。強く大地に押し付け、強引にそれを引き抜こうとした・・・歩を進められたような気もしたが、もしかしたら、永遠にこの場で足踏みをしているだけのような気もした。




また背後で、ちゃぽんと音がした。


こんどは音が連なり、なにか生命のあるものが、ばしゃばしゃと水面(みなも)を叩いて暴れているような気配がした。不思議なことだが、反対側を向いているのに、ユングの眼には、そのなにかが立てる白い波飛沫(なみしぶき)が、はっきりと見える気がした。


背後の禍々しい気配は、時が経過するとともに増々その存在感を増し、ユングは遂に、決意した。勇を鼓して、その何かわからないものに正面から対峙するしかないと思ったのだ。




彼は、そのまま、反対側を向いた。


そして、湖のかなたに見えるものを、その視界のなかに収めた。




ぐるりと、半身を後ろに廻して振り返ったユングの視界いっぱいに、先ほどまで眼にしていた壮大な黒いパノラマが広がった。




朧月(おぼろづき)の光に照らされるアルプスの尖塔のような岩峰の岩肌、そこに貼り付く黒い樹々、(もや)の中に(にじ)み、消えかかりながらも夜空のかなたからわずかに微かな光を放つ星々・・・そして、視界を上下に二分するかの如くに一直線に広がる湖水の影。


その漆黒の水面を、なにやら大きな影のようなものが動いていた。距離はよくわからないが、とにかく大きな生き物であるように思われた。その影は、水面に何本かの触手なようなものを跳ね上げ、なにか太鼓を叩くような仕草でそれをまたバラバラに水面へ打ちつけ、湖はそのたびに、ぱしゃばしゃと白い飛沫(しぶき)を上げた。


ユングは、そのさまを茫然と見守りながら、昔、どこかの海に面した漁港で見かけた漁師の網の中で、捕えられた(たこ)が悶えているさまを思い出した。それは、幾多の醜悪な吸盤に覆われた禍々(まがまが)しい足を太い魚網に絡ませ、まるで身体に芯が無いかのようにくねり、右に左に裏返りながら暴れ、身悶え、やがて、それをじっと見つめていたユングの前で力尽き、動かなくなった。


しかし、いま目の前で動くその影は、なにか優雅な(がく)を奏するかのようなその動きを止める気配を見せない。ユングの身体は軽く(しび)れ、まったく身動きすることができなくなり、視線をそこから移すことすら不可能になった。


まるで、蛇に射すくめられた獲物のように、かなたで(うごめ)く黒い影を眺めるだけである。




やがて、水面で身悶えるその大きなものの影は、ゆっくりと横のほうに滑りながら移動し、都度、音を立てて白い波飛沫(なみしぶき)を上げながらゆらゆらと揺れ、二度三度大きく身を(ひるがえ)して暴れると、ゆっくりとその身を湖水の中に沈めていった。


いちど完全に身を没したあと、とつぜん、一本の触手が水面から突き出た。それは、中天を指してしばらく止まり、やがて尖端をぐるりと回転させて、名残惜しそうに消えていった。




その巨大ななにかに押し付けられた湖水がやがて、小さな壁をつくり、こちらのほうへゆっくりと寄せてきた。それらは、進むにつれあたりの小さな(さざなみ)と混じり、徐々に勢いを失い、やがて、ゆっくりと(ほとり)の土に突き当たって、消えた。




ユングは、身じろぎもせず、しばらくそのまま湖畔に立ち尽くしていた。


不思議なことに、驚きも、恐怖もなかった。遥か彼方で(うごめ)いていたあの影がなにものであるのかはわからなかったが、とにかく、なにか実体を具えた物理的存在であったことだけは感得できた。ユングは、ただ、目の前で起こったその現象のみを、経験豊かな科学者としての眼で、冷静に観察していた。


あれは、なにか生命を宿した生き物である。その形状は、魚のようでもあり、蛸のようでもあり・・・そして、どこか人間のようでもあった。知能程度は確認できなかったが、その動きは、単なる魚類や畜生類の脊髄反射的な動作ではなく、なにかゆったりとして優雅な、なにかしら意思や美意識の存在すら思わせるような、微妙で規則的な動きであった。


ユングはふと息をつき、自分の身体が金縛りから解け、また動かせるようになったことに気づいた。そのまま湖水から目を離さずに数歩、湖畔を歩いた。そして、考えた。なにを考えたらよいのかわからなかったが、とにかく、考えた。


考えることしか、そのとき、自分にやれることは、なにもないような気がしたのである。





「わたしは、あれを以前にも、見たのです。」


とつじょ、背中のほうから声がして、ユングは、腰が抜けそうになるくらいに驚いた。なにか叫びそうになったが、声の出ぬまま背後を振り返ると、そこに、浅野和三郎が立っていた。彼は、ユングの驚きにも構わず、あの化け物が身を没した湖水のあたりを覗き込むようにしながら、横に立った。そして言った。


「お話し、しましたよね・・・私は、夢の中で見たのです。夢のなかで、厚東四郎の意識と合一し、彼が流れ着いたどことも知れぬ地の果ての不気味な陸地でね。そこはまるで、巨大な灰色の砂洲のようだった。どこまでも続き、やがて大きな険しい山になり、それを超えると、小さな窪地のように落ち込んだ場所があった。」


「なにか、先住民によると(おぼ)しき奇妙な神殿が築かれ、読み取れない象形文字のようなものが、あたり一面に刻まれていた・・・そう(おっしゃ)いましたね。」

ユングは、喉の奥から、やっとかすれた声をしぼり出した。


浅野は、ゆっくりと落ち着いた声音で、答えた。

「そう、そのとおりです。そのとき、神殿の周囲を巡る水濠(みずぼり)のなかに、あれがいました。そしてそのあと、厚東四郎の(まも)る古代の城壁を、叩き壊してこちらに全面侵攻してきた・・・あれは、今あなたが見たのと、まったく同じものです。」


「あれは・・・何なのです?水棲生物なのはわかるが、哺乳類なのか、爬虫類なのか、魚類のうちなのか・・・それとも節足類か。なにしろ、影しか見えなかったもので、私には見当もつかなかった。」

ユングは、勢い込むように浅野に聞いた。ほぼ条件反射であった。聞かずには、いられなかった。


浅野は、なんの感情もあらわさず、ユングのほうを見つめ、ただ(あきら)めたようにこう言った。

「貴方に相談すれば、わかると思ったのですけれどもね・・・でも無理なようだ。それはそれで、仕方ない。でも私の眼には、あれは、獣にも魚にも見えなかった。もちろん人なんかでもなく・・・そう、あれはまるで、なにかの、神のように見えた。」

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