第三十三章 安貞二年(1228年)秋 長門国伊輪
遠い水際が、立ち騒いでいた。
空は昏く、薄い月光が滲むようにぼうっと広がっていたが、霧か靄かわからないものがうっすらとかかり、その光は弱かった。
しかし、遥か彼方の海面と空との境目の辺りには、どこから発したか分からぬ妖しい光が当たり、それに照らされて波や泡が盛り上がり、次々と湧いては消え、湧いては消え、界面からせり出したその不安定な白い突起物は、徐々にこちらに向かって近づいて来た。
どのくらいの時間が経っただろう、やがてそのせり出しは沖合で停止し、しばらくそこでじっとこちらの様子を窺っているように見えた。するとほどなく、そのすぐ脇に、同じような白い泡のせり出しがもうひとつ現れ、海中から突き出したふたつの不格好な瘤のように湧き、沈み、波間に揺れながらじっと停止した。
ふと気がつくと、大地には先ほどから低い読経のような声が響いている。一人二人の声ではない。おそらくは数十名にもなる人間の集団が、まるで裁きを待つ罪人のような絶望的な諦念を込めて、意味のわからぬ言葉でなにごとかを一心に唱えているのだ。
四郎は、その声がするほうを透かし見た。
砂浜に額ずく、多数の人の影。いずれも後ろ姿で、しかも全員が膝をつき腰を折って地に伏しているので、四郎の眼に映るのは、多数の人間の尻だけである。見たところ、大きいのも小さいのもある。おそらくは、男も女も、老人も子どもも、この地上に在るすべての人間が、ここに集まり、海の彼方のせり出す泡の塊に向かって額ずき、祈を捧げているのであろう。
見ると、彼らが海に向かって拝跪している向こうには、地に突き立った竿から細い綱を渡してあり、そのところどころから紙垂が下がっていた。そして、そのさらに下方には大きな高坏が砂に植わって数個並んでおり、その上には団子がいっぱいに盛られ、波間の泡の塊に向かって供えられているように見えた。
四郎は、さらに気づいた。自分がいま立っているのが、|壠《ぐろ》の真上だということに。彼は、この、いつ誰が築いたとも知れぬ古代の城壁の上にひとり立ち、なにもできぬ民が海に向かって額ずき、一心不乱に経文を唱えている様を、いま眼下に見下ろしているのだ。
やがて、海の向こうに停止していたせり出しのうちのひとつが、ゆっくりと動いた。
陸地に・・・すなわちいま四郎と民どもが居るほうに向かって、ゆっくりと海面を移動してきた。よくみると、せり出しの数が増え、いまでは海のあちこちに、十ほどが散らばっている。それらは、先頭のひとつが動き出すと、つられたように次々と前に進み、やがて、海に散らばったせり出しが、全部動きを同じくして、こちらに徐々に、近づいてきた。
やがて、先頭のせり出しの、さらに何間も先の波間が立ち騒いだ。
すると、次の瞬間、なにか黒く鋭く長いものが、波を跳ね上げ、宙に向かって突き立った。それは、表面をびっしりと黒い吸盤で覆われた触手のようなもので、しばらく空中で曲線を描いてうねり、身をくねらせたあと、ふたたび海を叩いて中に沈んだ。しかし間髪いれず別の張り出しの先から、また別の触手が伸びて、それが海に落ちる前、また別の一本があとに続いた。
水際を暴れる、このなにか大きく邪悪なものの所為で、海は渦を巻き、大きな波を立てて陸地に襲いかかった。
四郎がふたたび見ると、しかしそれでも人々は地面に額ずき、このなにか邪悪なものに対し一心に祈りを捧げている。そして、宙を震わす振動にびりびりと揺れる紙垂の下に置かれた高坏に盛られている団子が、なぜか白くなく、赤いことに気づいた。
「あれは、詑粉じゃな・・・。」
四郎は、思った。
「赤米を搗き、捏ね、そこらじゅうに生っておる柘榴の実をすり潰し甘味をつけ丸め・・・民は、神に供えるべきものとしてこれをあまり食しませぬが。」
つい数日前、父にこの菓子を手渡したとき言った自分の言葉を、思い出した。
「団子では、ない。詑粉じゃ。」
四郎は、ふたたび思った。こんどは、口に出した。
「詑粉じゃ。団子ではない・・・団子は、宕じゃ。だが、詑粉は・・・。」
なぜか、口が布で塞がれたように重く、言葉が歯にまとわりついて、うまく発音できない。四郎は戸惑い、腹立たしくなり、そしてまた周囲の状況に眼を遣った。
すでに、眼下の民どもはみな波の中に姿を没し、高坏に盛った詑粉も見えなくなり、ただ吊った縄に下がる紙垂が、打ち寄せる波に捉えられてその上に浮き、たゆたうさまが見えた。
みんな、どこに行ってしまったのだ?波に呑まれて・・・ひょっとして宕に捕らわれてしまったのか?団子を捧げておったではないか!みなみな額ずき、一心に祈を唱え、宕を讃えていたではないか!いや、捧げていたのは団子ではない、詑粉だ・・・詑とは、なにかを騙すということだ。誰を騙すのだ?なにを誤魔化すのだ?
今や、海は高波となって|壠《ぐろ》を捕え、その頑丈な胸壁に突き当たり、飛沫があちこちに飛び散った。波間にあの悍ましい黒い触手が現れ、暴れ、あちこちの胸壁を叩き、突いて、これを破壊しようとした。その上に立つ四郎は、なにもできず、その恐ろしい水と怪物の勢いに揺れる胸壁の上で、ただ転げ落ちぬように伏せるだけ。
やがて、触手のひとつが、|壠《ぐろ》そのものを掴み、これに巻きつき、恐ろしい力で海の中に引っ張り込もうとした。あちこちで、何本もの触手が、同じことを始めた。今や、|壠《ぐろ》の命運は極まった。この、海中の異界と現世とを隔てる境界の防衛戦は破られ、宕どもが大挙して陸に揚がり、そして・・・。
しかしそれでも、四郎は、考え続けた。あちこち千切られ、バラバラになった胸壁のかけらのひとつにしがみつき、恐怖に叫びを上げながらも、ただ一心不乱に考え続けた。
「あったのは、詑粉じゃ・・・団子ではない。だから、宕ではない。詑粉は、誤魔化すということじゃ、何を、宕から誤魔化すのじゃ・・・なぜじゃ、なぜじゃ!」
「四郎様・・・四郎様!」
狩音が、身体を揺り動かし、耳元で懸命に囁いて、四郎を悪夢から覚醒させた。
四郎は、闇のなかで眼を開け、かつて愛した女の顔を見上げた。そして、言った。
「うなされていたか?」
狩音は、うなずいた。暗がりのなかでも、彼女の眼が潤んでいるのが、はっきりとわかった。
四郎は起き上がり、深い溜息をついて、言った。
「宕が・・・|壠《ぐろ》を破る夢を見た。」
頭のうしろをごりごりと掻き、自分が、いつしか眠ってしまっていたことに気づいた。そして、その前のことを思い出した。
さきほど、厚東・多々良と、後平氏との三者連合の実現を訴えかけた維盛は、その熱弁に感銘を受けた様子の四郎の方を見て、にっこりと笑った。
彼が見せる、はじめての人間らしい笑顔だった。
「まあ、篤と考えよ。しかしお主はきっとわが意を受け、連合に賛同してくれる。この旨、そちの父に伝え、共に起ってくれる。儂には、わかっておる。」
維盛は言った。そして、こう言い添えた。
「言うたとおり、立ち去るは自由じゃ。だが、先の出入りで数名の死者が出た。お主らを恨み、害せんとする者が居てはいかん。儂は陣を見廻り、首領を喪った手下どもの士気と規律を立て直して参るが、お主らは、しばらくゆるりと休んで行くが良いぞ。湯漬けでも運ばせよう・・・それに、寝ておらぬであろう。少し休んで、陽が落ちたら出て行け。この建屋には衛兵をつけておく。この中に居る限り、お主らは安全じゃ。」
そう言って、維盛は部屋を去り、あとには四郎と狩音が残された。やがて部落の女が入ってきて、壺に入った酒と、水と、膳を並べた。そして、突き刺すような眼で二人を睨み、出ていった。
維盛の言うとおり、前夜から喰っておらず寝ても居らぬ二人は、黙ったまま出されたものを平らげ、そのまま何も会話を交わさず部屋に居た。そうしているうち、四郎はそのまま眠ってしまったようであった。
「どのくらい、寝ていた?」
四郎は狩音に聞いた。あたりはもう、すっかり暗い。
「昼過ぎから、ずっと。お疲れですから当然のこと・・・しかし、なぜか妾も。」
狩音は言った。うつむき加減で、声にまるで張りがない。
四郎は、彼を裏切ったこの多々良の間者の様子が、どこかおかしいことに気づいた。
「待て・・・盛られたな、おぬし。」
狩音は、黙って頷いた。盛られた薬の効果が残っているのだ。
「あなた様も、同じでございます。」
少し、よそよそしい口調で言った。たしかに、程度こそ違うが、四郎も、頭の横に鈍い痛みを感じた。
「・・・維盛か!」
苦々しい思いを噛み殺し、四郎は反射的に、身を護るための木刀を探した・・・しかしそれは、朝方、この部落の中庭に遺棄したまま、ここには持って来ていなかった。
「この建屋は、すでに包囲されています・・・衛兵と見せかけ、実は。」
ひとあし先に気がついた狩音は、すでに外の様子を窺い、状況を把握していた。
「逃げる隙間は、ございません。妾の得物も、ございません。」
四郎は、声にならぬ唸りをあげた。これは、すでに死んだと同じ状況ではないか!
しかしなお、彼は思考し、生き残るために為すべきことを考えることを止めなかった。
「狩音・・・なぜじゃ?」
闇の中でうつむいていた狩音が、きっと眼を上げ、四郎を睨んだ。
この期に及んで、まだ自分にしてやられたことに、今さら役にも立たぬ恨み言を言うのか?
「違う、そうではない。」
四郎が、その狩音の怒りに気づいて、言った。
「維盛じゃ。維盛の奴はなぜ儂らをすぐに殺さず、擒にした?」
四郎の頭脳はすでに立直り、高速度で回転していた。たしかに若く、たしかに猪武者だが、追い詰められた時こそ四郎の頭は冴え、その秘めたる力を存分に発揮する。このときも、絶望的な状況であるにも関わらず彼の眼はらんらんと輝き、この試練を楽しむかのように、口元には笑みが浮かんでいた。
妾の、四郎さまだ!
狩音は思った。妾が裏切り、でも妾が愛した、この世で唯一の男だ!
もし、維盛の意図がわかれば、たとえ絶望的な状況であっても、奴に一太刀くれてやるための手立てを、なにか思いつけるかもしれない。四郎の、その烈々とした闘志が、闇をびりびりと震わせ狩音の胸の内に伝染した。そうだ、四郎さまは、決して負けない。決して挫けない。最後の最後まで闘う!
とつぜん、嬉しくなり、床からはね飛んで四郎の横に座り、その問に答えた。
「おそらく・・・おそらくは、我らの命をなにかに供するため。奴は、我らをまだ生かし、そして、なにかが来るを待っておりまする!」
「・・・宕か!」
四郎は、言った。そして頭を振って、言い直した。
「いや、宕ではないな。奴らは、陸に長くは揚がれぬ筈じゃ。では来るのは、芳一か?」
闇の中で、ぎろりとまだ見えぬ敵を睨んだ。そして、そのまま横を向くと、そこに居た彼のもと相棒と眼があった。二人は、少しの間だけ、互いを見つめ合った。
やがて、にっこり笑って、四郎は言った。
「それでは・・・多々良殿。ここはひとまず、手打ちとなし・・・最後は共に、華々しく暴れるとするか!」
狩音は、激しく頷くと、この男がとつぜん愛おしくなり、なにも言わずにその胸の中に飛び込んだ。
「おい、入れろ、入れてけろ。」
外から呼びかける声があった。
闇の中で、抱き合った四郎と狩音は、声がするほうを見た。わずかに鎧戸が空き、外の月明かりに照らされながら、一人の男の影が、音もなくするすると入ってくるのが見えた。
両腕で、なにやら長いものを懐に抱え込んでいる。四郎には、それがなにか、すぐと解った。男の影は、そのまま床を這うように進み、二人の前までやって来た。先ほど、伊輪党を指揮して二人と渡り合った、例の副将、蛇丸であった。
彼は、手に抱えていたものを、音を立てぬよう床にしずかに横たえ、二人のほうへ、つと押して言った。
「ホラ、てめえ等の得物だ。その木刀、重ぇな。短刀も、弓もあらあ。矢は無くなってたから、何本かこっちで都合つけて、持って来てやった。」
「如何なる風のふきまわしじゃ?蛇丸とやら。」
四郎は、自分の木刀を手に取ると、聞いた。
「へっ・・・落ち着いたもんだな、おめえら、もうじき殺されちまうってのによ!」
蛇丸は、吐き捨てるように言うと、続けた。
「くやしいが、おめえには、義理があらぁ。さっき、オイラの不首尾を庇ってくれただろ?あれがなきゃあ、巌鴨親分の代わりに、オイラの頸が飛んでたさ・・・桜梅様は、げに恐ろしい御方じゃ。」
「そうか。眼にした事実を言うたまでのことじゃが。だが、助かる、礼を言う。」
「ほざけ。借りは返したぞ!これ以上は味方しねえ。オイラは、気取られねえうちに、また出ていくぜ。」
「そしたら、どうなる?」
横から、狩音が聞いた。蛇丸は彼女を見て、答えた。
「多々良の姐さんも気の毒だがな。この厚東の野郎と一緒にお陀仏よ。せめて最後に、派手にひと暴れしてやんな。さっきくらいに暴れりゃ、もしかしたら・・・おめえたちなら、一騎か二騎なら、打ち倒せるかもしんねぇや。」
「その、儂らがひと暴れする相手は・・・お主たちなのだぞ!」
四郎は、不思議そうに言った。
「敵に、情けをかける気か?お主も相当な物好きだな。」
蛇丸は、へっ、と鼻で嗤った。
「俺たちなもんかよ・・・来るのは、あいつらだよ。もうすぐ、あいつらが来るんだよ。桜梅様は、それを待ってなさるんだ。」
「誰じゃ?もしや、芳一なる僧か?」
「違うよ・・・あいつは、いつ来るかなんて、まるでわかんねぇ。いつも、気づいたらそこに居やがんのよ。どっからどう来て、どう消えるか、儂らにも、とんとわかんねぇ。」
「ならば・・・来るのは、もしや?」
狩音が、言った。蛇丸は、気の毒そうに彼女を見て、こう言った。
「そン通りよ。奴らだよ・・・頸のない、妖かしの武者どもよ!月が中天に掛かる頃、ドドドって蹄の響きがして、奴らがやって来る。そしたら俺達は、物陰に隠れて、事が終わるのをただブルブル震えて待つのよ。音が消えりゃ、しまいだぁ。おめえらは、もう影も形もなくなって、どっか行ってらあ。たぶん、あの粢の御島だろうよ。気の毒だがよ、運命じゃ。諦めな。」
「頸のない武者どもだと?そういえば、先ほど維盛が言うておったな。」
四郎は、言った。そして狩音に聞いた。
「知っておったのか?」
狩音は、しかたなさげに頷いた。そして言った。
「それらの者は・・・もとは我ら多々良から逃れし、罪人どもでございます。厚東の父君と通じ、叛乱を起こそうと図りて露見し霜降に逃げましたが、多々良と事を構えるを怖れし父君はそらとぼけ、関与を認めず。哀れ、それらの者は、山中を流浪しそのまま佐々実にまで逃げ、そこで捕らわれ申した。はるか以前の話です。」
「維盛にか。それで、どうなった?」
「頸を、斬られたのよ!」
蛇丸が教えた。
「ずらりと、一列に並べられてな。七人いたぜ。にやにや笑いながら、桜梅様がひとりひとり、なにやら声をかけて冷やかしながら、愉しそうに頸を刎ねていきなすった。儂はまだ年端のいかねえ下っ端だったけどよ、ひとりの肩を脇からずっと押さえとった。まだ若ぇ侍でな、涙をこらえててよ、可哀相だったな。」
「それら死せし者どもが、なぜ今さら、ここにやって参る?」
「知らねえや!だが、これだけは言える・・・奴ら、そのあと宕様に贄として、捧げられたんじゃ。そいつらが、何やら呪いをかけられて、今でも恨みを呑んで駆けまわるんじゃ。」
「捧げられたと?屍体なのにか?生贄にならぬではないか。」
「おう、そうよ!だからよ・・・たぶん、宕様は、桜梅様に、贄は殺さずに捧げよという掟を思い出させるために、奴らを差し向けるのに違ぇねえ。桜梅様は、なにしろ残酷な御方じゃ。愉しみながら、人を殺められるからの。」
「ふむ。なるほど。」
四郎は言った。
「そんな妖かしが、この世にあるものか。儂が正体を暴き、素っ頸、あらためて刎ねてくれようぞ!」
「だからよ・・・その素っ頸が、無ぇんだよゥ。」
蛇丸は肩をすくめ、おそろしげに言った。
「まあ、もうすぐ、おめえにもわからあ。それが何かわかったところで、所詮、おめえらに勝ち目は無ぇけどな。なにせ相手は、人じゃねぇ・・・じゃ、せいぜい頑張んな。あばよ!」
そう言って蛇丸は、機敏に身を翻し、屋外へと消えた。
やがて、中天に月が掛かる頃合いになり、なんとなく外がざわつくのがわかった。
そして、彼方から声が響いてきた。朗々と、堂々とした美声。桜梅少将・平維盛が、外から藁屋根の建屋のなかに居る二人に、呼びかけてきたのである。
「さあ、出てまいれ。わが同盟者にして、ご客人よ!今こそ、お主たちを見送り、皆で快くお送り申そうぞ!」
四郎と狩音は、先ほど蛇丸から渡されたそれぞれの得物を手に、わずかに空いた隙間から外の様子を窺った。
先ほどまで入口や軒先に立っていた衛兵は、すでに居ない。部落の者らの報復から二人を護るためと称して、実は彼らを擒としたままにしておくためのこれら衛兵は、今や全員、中庭に横一列に整列し、長い薙刀を幾本も構えて、こちらに向かい立っていた。
その背後遠くに維盛が立ち、大音声で愉しそうにこちらへ呼びかけて来ている。まるで、歌うように節をつけて、この見世物を盛り上げるかのように、こう言った。
「我らは、同盟の約定を為したであろう?だから、いま些か困りおる儂を、お主らの力で救ってもらいたい!どうか、頼む!」
四郎が、暗がりのなかから叫び返した。
「約定など、しておらぬ。だが、儂らを無事解放するという条件にて、聞ける頼みならば、聞いてやる!」
「ありがたや・・・実にありがたや!」
維盛は、本当に感謝しているかのような声音を装って、大仰に言った。
「やはり持つべきは、信頼できる同盟者よのう・・・では頼もう。儂は、言うたように、宕を騙した。いちど宕の支配下に入るという誓いを為し、白い団子を山に向けて掲げ、ここまでが宕の領分であると天下に示し、伊輪と佐々実と・・・その他、実に十五にも及ぶわが山中の落人部落がみな、海底におわす、われらが主人のしもべになると誓うた。しかし儂は、密かにこの草薙剣を地に埋め、それを掘り出し、いまわが腰に提げておる。これは、重大な背信行為じゃ。」
四郎は、その維盛の口上を聞いて、先ほどの夢の意味を悟った。
すなわち、夢のなかで彼の領民たちが海に向かって供えていたあの赤い詑粉は、あくまで宕を陸に揚げないための、境界線を示す粢なのだ。搗米を血の色で染め上げることで、人の命の代わりの贄となし、宕を騙してこれ以上の犠牲を出さぬようにする。
詑粉は、そのための知恵なのだ。遥かな昔、勇敢な誰かが自ら粢となって、海底の宕と談判して出来上がった、当座、数千年限定の約定。それは、あくまで、赤い詑粉を海に向かって供えることだったのだ。
そして一方、あの白い団子。それについては、今、いみじくも維盛自身が種明かしした。白い団子は、それを高坏に盛り、供えた時点で、既にその地域の人々が宕の支配下に入ってしまっているという、惨めな降参の印なのだ。
四郎は、むかむかと腹が立ってきた。そして、闇に向かって、至極当然な理を叫んだ。
「我らの知ったことか。貴様が、勝手に宕と手を打て!」
だが、維盛は闇の彼方で哄笑し、こう答えた。
「やはり、のう・・・厚東殿は、わが同盟者ではなかったのか。脇なる多々良の女子も、すっかり四郎の味方をしておる。多々良も、厚東も、われら平氏を、救けてはくれぬ。そうか・・・儂らはやはり、陸地の孤軍なのじゃな。」
しばらく黙り、やがて、こう続けた。
面白そうに・・・とても愉しそうに、続けた。
「そこで、じゃ。儂はの、また宕に降参することに決めた。善は急げと・・・儂は既に話をつけた。宕は、素直に従う者には寛大じゃ。なんと、草薙剣は、地上で儂が持っておれば良いとの有難いお告げがあった。その代わり、儂は、儂の為した背信行為に対し、解死人を立てねばならぬ仕儀と相成った。」
「解死人じゃと!そうか・・・儂らを、それに仕立てる積りなのじゃな!」
四郎は、呆れて叫び返した。
「そのとおりじゃ・・・悪いが、死んでくれい。いや、宕に喰われて、わが一門の者らと共に、海底で永遠に生きておってくれい・・・はっはっは!これで、三方が丸く収まるというものじゃ。儂は地上を支配する。宕は海底を支配する。そして・・・お主らは、なにか人とは違うものになって、いつまでも、いつまでも生き続ける。なんと、美しき物語の結末ではないか!」
維盛は、配下の者らに叫んだ。
「それ!撃て!解死人の、家を焼け!」
中庭で、薙刀を構えた横列の背後に、弓隊が現れた。
そして種火に浸した穂先をつがえ、次々に火矢を中空に向け放った。
ぷすぷすと藁屋根に矢が刺さり、火はほどなく屋根全体に延焼して、四郎と狩音の居る板間は、みるみるうちに黒い煙で一杯になった。たまらず、二人は外へと駆け出した。
すぐに斬り合いになるかと思いきや、意外なことに、眼の前にずらり並んだ薙刀の群れは一切動かず、二人の身体に狙いをつけたまま沈黙している。
その横隊の真横で指揮を執っているのは、蛇丸であった。先ほどとは違い、殺帛の気合で真一文字にこちらを睨み、維盛の号令一下、いつでも二人を膾斬りにできる態勢である。十数本の薙刀の穂先は、寸毫の乱れもなくぴたりと横一列に並び、構えているのがいずれも手練の使い手であることを示していた。
さすがの四郎と狩音も、それ以上は前進できない。背後は燃え盛る建屋であり、二人は全く身動きが取れなくなった。藁屋根はいまや完全に炎の中に崩れ落ち、数本の突き立った柱の影が、炙られる罪人のように断末魔の叫びを上げていた。
ふたつの軍勢は、夜闇に踊る焔に照らされ、そのまましばらくにらみ合いを続けていた。すると、やがて門扉をぴたり閉ざした部落の外のほうから、連続して地を震わせる馬蹄音が響いてきた。音はだんだんと大きくなり、やがて、すぐ前のあたりで止まった。
「宕さまじゃ・・・宕さまの御使いじゃ!」
誰かが、かすれた声で言うのが聞こえ、四郎と狩音の前にぴたりと並んでいた薙刀の穂先が、僅かに乱れるのがわかった。蛇丸は、後ろに眼をやり、維盛の合図を待っているかのようであったが、ひとつ頷くと、右手を宙で回すような合図をして、薙刀の横隊に指示を出した。
横隊は、真ん中から均等に左右二つにわかれ、そのまま穂先を斜めに上げ、反対側の石突を地に当てて、両側に並んだ。ちょうど、四郎と狩音に道を開け、進むのを促すような格好である。時を同じくして、ぎいと重い音がして板張りの門扉が開き、二人は、物見台と柵の向こう側に並んだ、先ほどの馬蹄音の主たちと遠くから相対するような格好になった。
月の光と篝の炎に僅かに照らされてはいたが、彼らの姿はまだ遠く、土煙と薪の上げる黒煙とに邪魔されて、よくは見えない。ただし、馬上高くにすっくと背を伸ばす、とても大きな男たちの影が、そこに数騎いるのがわかった。
自分も脇に退いていた維盛が、彼らに向かって丁寧に呼びかけた。
「これは・・・この化界の地の果てまで、よくぞお越しくだされた!拙者、解死人の頸をご着到に先んじて斬り、河岸のたもとに晒しておりましたが、お気に召しましたかな?」
しばらく、沈黙があり、七騎と見えたその一隊から一騎が進み出て、門内にずいと馬を乗り入れてきた。右手になにか、黒くて丸いものを掴んで、ぶら下げている。
その騎馬武者の姿を見て、四郎も狩音も、言葉を喪った。
大柄な武者で、芦毛の馬体もそれに応じて、とても大きい。まるで、天界の高みから地上を見下ろすかのような、ひとつの巨大な塔の如き構造物である。彼は重装備の大鎧を着た武者で、美麗に装飾された太刀を佩き、茜色の糸で威した草摺と大袖が、周囲の焔に照らされ、それに呼応して自らも燃え上がるかのように紅蓮の輝きを放っている。弦走の柄は、影になっていてよく見えなかったが、鳩尾栴檀の両板とともに、とても美しく装飾されていることはわかった。おそらく、一軍を率いる将帥級、かなり名のある武者の装備であろう。
しかし、その武者には、ある際立った特徴があった。
大袖の影になった胸板の上に、ふたつばかり肩上の障子板が差し渡され、そして、その上が無かった。兜の鉢も前立も、吹返しも錣も・・・本来、高位の武者が必ず着用しているべき頭部を保護する装備が、まったく無かった。いや、それどころか。
その武者には、頭部そのものが、無かった。大鎧の上部を繋げる障子板の影までは視認できたが、その上には何も載っていなかった。武者の貌があるべきその場所には、向こう側の、何もない夜の闇がただ広がっていた。
彼は、頸のない武者だったのである。