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海峡奇譚  作者: 早川隆
33/71

第二十六章   昭和三年(1928年)秋   仏国 巴里周辺 

浅野がアンドレ・リペールのもとを辞したのは、もうとっぷりと陽が落ち、巴里の街が夜の闇に沈んだあとのことだった。


話し上手、聞き上手のリペールに乗せられて、あまりにも話が弾みすぎた。おそらくは6時間近く、あの「|精霊の家《maison de esprit》」に居たのではないだろうか。異邦でややくたびれ始めた50歳過ぎの身体に、夜闇に冷やされた晩秋の隙間風が通り過ぎ、浅野は少しだけ震えた。


しかしながら、ここに来た成果は上々である。ハイズビル事件以来、英国や米国とはまた違った形で独自の発展を遂げてきた仏国の心霊研究界との強力なコネクションができた。有能で誠実なアンドレ・リペールは、浅野をうまく煽って多くの話を抽き出したばかりでなく、自らも、フランスで知り得た事実や最新の研究成果について、多くを浅野の耳に注ぎ込んだ。




なかでも、霊体の実体化についての豊富な知見は、エヴァ・Cことマルテ・ベローを輩出した、フランスならではの研究成果というべきだった。


物質化現象の仕組みについては、心霊研究の世界でも様々な見解があり、また立場を事にする神智学者たちからは違った説明がなされることなどもあるが、大まかに言えば、エクトプラズムがやがて一定の形質を(まと)い、時間は限定されるが、霊界からこの世に実体を伴ってひとつの人格が再生成される過程のことを指す。


これは、霊界ないし宇宙を満たす、アストラル体、あるいはエーテル体など様々に呼称される形なきエネルギーが、優秀な霊媒の力を借りてエクトプラズムとしてまずこの世へ現れ、なんらかの霊的作用によって形を成していく故であると説明されることが多かった。古今東西、世界のどこにおいても、現れる幽霊の姿が常に茫洋としているのは、この実体化が中途半端な故であり、またある過激な一派に至っては、聖書にあるいわゆるキリストの復活は、こうした霊的な実体化現象の一種であるなどとまで主張していた。




細かなことはどうあれ、浅野にとってもっとも大切なのは、リペールとの会話を通して、あらためてジョンの実在を確信できたことである。


あの倫敦・ホーランド・パーク59番地の心霊大学における降霊実験において、最後、べたりと浅野の片耳に口をつけ危険を警告した、あのジョンである。彼は、闇の中で確かにこう言った。


 Now, you can go back straight.

 You can’t come back from the strait.


浅野は、覚えている。その口が開き、僅かに空気を震わせて、この言葉を吐き出した。ただこの言葉が聞こえただけなのではない。


空気が震え、耳にひっついた物体が、この言葉を吐き出したのだ。




日頃は霊媒・ルイス老を通してだけ現れ、自らの姿を晒すことを極端に嫌うジョンは、あのとき、他の参加者には内緒で自分にだけこっそりと近づき、この謎めいた言葉を残して、霊界のかなたに去っていった。


まるで、あの暗闇の中でも、良からぬ何か別のものに見張られているかのように、ひっそりと警告して行ったのだ。


これはいったい、何を意味するのであろう。ある意味ではますます訳がわからなくなったが、まずは、あの警告が単なる思い過ごしや勘違い、あるいは過労による錯覚などでは無いのを確信できたことについては、とても大きな前進だった。


なんとなく曖昧模糊としていた、我が身に迫る危険が、だんだんと形をとってその姿を現してきたようである。まさに、危険の実体化だ。そしておそらく、それは海峡に関わる、何らかの要素を有している。




もうすぐだ。もうすぐ判る。


浅野はむしろ、その何か良からぬ危険が迫るのを心待ちにしている自分に気づいた。昨日からのイヴァン老提督との交流により、自らが心に秘めた力、この老躯の奥底にまだ残された灯火のようなものが目覚めたことに気づいた。


迫り来る危険が何であろうと、それに直接対峙し、それを見極め、それと対決するだけの心構えが、できつつあった。


「来るなら、来い!」

浅野は、誰の姿もない深夜の巴里の街路に向かって呟いた。これほど清々しい、前向きな気分になったことは、大本(おおもと)を巡る一連の事件に巻き込まれて以来、ついぞ無かったことだった。




巴里の夜道をひとり歩く、浅野の足取りは軽かった。


ホテル・デュ・ルーヴルまでの帰路については、別れ際、リペールからあらましのことを聞いていた。道のりは単純。ここコペルニック通りを抜け、ただ南を目指して街路を下る。そしてセーヌの流れに突き当たったら、左折して、ただ流れをさかのぼって川べりを歩いてゆくだけだ。


そこそこに、距離はある。若いリペールの足ですら1時間はかかるというから、浅野の足なら、おそらく1時間半ばかり見ておかないといけない。だが、きっとイヴァンに自動車を運転させるよりも、ずっとずっと早く着くことだろう。


浅野はくすりと笑い、あの白髪白髯の凛とした親友(とも)のことを思い浮かべた。彼とも、明日にはお別れだ。おそらく、永久(とこしえ)の別れとなるだろう。もうさほど余命の長くはない彼は、いつか黒海のほとりに舞い戻ることはできるであろうか。




やがて、リペールの言葉の通り、静かに流れるセーヌ川のほとりに出た。街路は綺麗に舗装されており、脇にはマロニエの木が等間隔で植わり、街頭がその黒い影を背後から浮かび上がらせていた。


空には小望月(こもちづき)が掛かり、地面に光を投げかけているようだったが、巴里にはあちこちに地上のほうから発する光があり、街はあまり月光の有難味を感じておらぬようであった。


そういえば、この夜闇のあいだを流れる真黒なセーヌ川の眺めも、ひとつの海峡のようだ。浅野は、そう思った。しかし、そのどこにも危険の兆候は感じられなかった。まだあちこちに人が居たし、灯りを()けた川船がゆらゆらと揺れていたし、なによりも、流れが穏やかで、そして川幅が狭かった。


自分の生まれ育ち、日々眺めて暮らした利根川のほうが、遥かに大きくて、まるで海峡のようだな。浅野は、自らの思い過ごしを(わら)う気になった。




川べりを歩きながら、浅野は、リペールとの愉快で有益な会話の数々を思い出していた。あの、どこか発言者や研究対象から一歩引いて距離を保ち、公平冷静に判断して正確に状況を把握し、適宜適切な言葉で議論をリードし、座をなす一同にとって有益な結論を導き出す・・・進行役(ファシリテーター)として、あれほど有能な男はいない。また、意思伝達者(プレゼンテーター)としても超一流で、世界の心霊学会が、コナン・ドイルも含め、彼を過小評価するのは不公平であると浅野は思った。




そういえば・・・そのコナン・ドイルについて、リペールが面白いことを言っていた。ドイルは「顔役」を自称し、その親分肌と面倒見の良さから、日本風に(たと)えればまるで侠客(きょうかく)の親分のような心情的な紐帯を多くのメンバーと共有している (今や、浅野自身もそのうちの一人だ)。


しかし、まつろわぬ者たちも一部に居る。ハリー・フーディニがそのなかでも最も最有力な一人で、偉大なるドイルに正面から楯突くようなことはしないが、話題になった心霊現象や霊能者 (エヴァ・Cのような)に対し、これは詐術だと告発することで、間接的にドイルのお人好しを嘲笑(わら)っていたというのである。


彼が、世界に聞こえた奇術王であるという事実が、彼の「ペテンだ」という主張に、比類なき説得力を与えた。顧客を騙す、在る種のペテン師がペテンだと言うのだから、おそらくそれはペテンに違いない。奇術師が、その霊現象に種も仕掛けもあるというのだから、おそらくそうなのだろう。


単純だが、そういう話だった。彼は、世界的奇術王であるという自らの属性を存分に活かし、「心霊現象否定派(サイキック・バスター)」として、心霊現象を受け付けない保守的な人士たちの喝采を集める、「良識派」として喝采を浴びていた。




リペールは、フーディニを嫌っていた。あまり個人の好みを表に出さぬ彼としては珍しく、「あのユダヤのペテン師」などと、穏やかでない表現で吐き捨て、そのあとハッとして自分の口を覆ったほどだった。


「いや、今のは失言でした。どうかお許しください。もちろん、私は人種差別主義者ではないし、ユダヤ人によき友人もいっぱい居る。今のは、つい・・・慣用句のように、口をついて出た言葉です。しかし、まことに不適切でしたな。」

リペールは、頭をかきかき、本日一番の失敗を恥じ入るように苦笑いした。


「もう5時間も話し込んでいますし、お互い(いささ)か疲れておりますからね。幸い、ここにユダヤ人は居りませんし、傷つく人は居りません。それに先ほどは、私も粗相(そそう)をしてしまいましたからな。」

浅野も笑い、まだ少し変色している自分の股間を指差した。


「いや、お救いいただいて有難う。私は単に、あの、本名ウェイス・エリックというハンガリー生まれのユダヤ人青年を、個人的に好まぬだけなのですよ・・・ご理解いただきたい。人種に貴賎はありません。しかし人間の品格に高下はあるのですよ、残念ながら。」


「遠く離れた極東でも、もちろん脱出王フーディニの名前くらいは伝わっておりましたよ。私は、彼がアメリカ生まれのアメリカ人だとばかり思っていましたが・・・ただ、その世界一有名な奇術師が、ドイル氏はじめ、心霊研究の同志周辺に深く喰い込んでいたとは、ここ欧州に来て初めて知ったことです。公平なあなたに、そこまで言わせてしまうとは、実際の彼は、相当にアクの強い人物だったのでしょうな。」




「いや、ハリーも、前半生でかなり苦労はしたのでしょう。東欧生まれのユダヤ人という逆境を跳ね除け、世界の脱出王として奇術を誰にでもわかりやすい巨大な見世物にするアイディアを案出し、新大陸で成功を収めたところまでは、むしろ賞賛に値すると思っております。しかし。」


「心霊研究家としては?」

浅野が水を向けた。リペールは頷いた。

「そう。大いに問題がありましたな。最初は、無くなった母君と交霊したいという、至極まじめな孝行息子としての純粋な動機だったのです。しかし、思うようにいかぬと見るや、心霊研究のほとんどを一種の詐術だとみなし、それを敵視し、破壊しようと動くようになりました。」


「本業が奇術師だけに、説得力もある・・・しかし、いわゆるサイキック・バスター達の中にも、たとえばハリー・プライス氏のような、あくまで真正の心霊現象を厳密に(あぶ)り出すためという、真面目な動機で活動している人も居るでしょう?」

「プライス氏は、どうなのかな・・・?よくは分からないが、フーディニが、そういう目的で破壊活動をしたのでないことだけは、確かですよ。」


「母親の霊と交われなかった、恨みとか?」

「いや、それならまだマシですよ。彼の動機は・・・そう、先ほど貴方が大本教団の最近の宣伝攻勢に対して与えた評言と同じです。金のためですよ。」


「なんですって!彼はもう、お金には困ってなかったはずでしょう?」

「それも、どうだか。特に新大陸の金持ち達は、儲けた金を、湯水のようにすぐ蕩尽(とうじん)してしまう傾向がありますからね。とにかく、彼は、それまでの大仰な脱出芸が飽きられて、売れなくなってきていたのです。」




「なるほど・・・アメリカの大衆は、常に新しい刺戟(しげき)に飢えていて、とにかく飽きっぽいという噂は、私も聞いたことがあります。もっとも、かつて新聞社をひとつ潰しかけている私に言わせれば、日本の大衆も似たようなものだが。」

浅野は、仕方なさげに笑った。リペールもつられて笑い、また口を抑えた。


「だから、とにかく。」

リペールは慌てて、続けた。

「フーディニは、後半生をどうもサイキック・バスターとして生き、保守的な世間の良識派として喝采を浴び続けようと画策していた形跡が在るのですよ。ドイル氏も、誠に厄介な人物と関わりを持ってしまったものです。」


「まあ、もう亡くなってしまいましたから。」

浅野が、とりなすように言った。

「さよう。まこと人傑では、ありましたけれど。最期は、よくありませんでしたな。」

リペールも応じた。


「事故だったそうですよね。去年でしたっけ?」

「ちょうど2年前の、今ごろです。聞くところによると、彼はそのころ、心霊現象や迷信を否定する著作の出版を準備していたようです。故人に鞭打つ積りはないが、もし彼が今でも存命で、その本が出版されていたとしたら、またもいろいろと悶着の種になっていたことでしょうな。あのドイル卿が、顔を赤くして赫怒(かくど)されていたことでしょう・・・私には、そのさまが目に浮かびますよ。」


「なるほど・・・ドイル卿はお元気な方だが、なるべく心労の種は減らしていただき、長生きしていただかねばなりませんな。やはり、なんといっても心霊研究界の顔役ですからね。」


「全くです。」

ドイルに好まれていないというリペールも、浅野に同意した。




「しかし、フーディニ氏も、八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍だったわけですな。」

浅野は、感じ入ったように言った。

「奇術師としても、まだ活動していたのでしょう?たしか映画にも何本か出演していたはず。そのうえ、そのような本まで。ある意味で、惜しい人物を亡くしたとも言えますね。」


すると、リペールは鼻で笑って、言った。

「浅野さん。貴方とはこれだけ打ち解けて、もう数時間も話している仲ですから、失礼を承知でそのまま本音を言うが、貴方も、ドイル卿同様に、いささかお人の好い方のようですな。」


「と、おっしゃいますと・・・?」

浅野は、この突然の攻撃にきょとんとして、言った。

「まさか、出版に近い業界におられたこともある貴方が、代筆家(ゴースト・ライター)達の存在を知らぬ訳は、ありますまい。」

リペールは、ニヤニヤしながら楽しそうに、言った。


「なるほど。それでは、彼の準備していた本は、別の誰かに書かせる予定であった、と。」

「ええ、そのとおりです。」

リペールは、即座に言った。


「もちろん、世間に公表は、されておりませんがね。私は、裏でいろいろハリーのことを調べておりましたから・・・事情は知っています。すでに過去に、ハリー・フーディニ名義で、ちょっとした奇術冒険譚のような三文小説が、アメリカで発表されているのですよ。おそらく、さきほど話した未刊行の心霊現象攻撃本も、ハリーが死ななければ、それと同じ代筆家が書くことになっていたものと思います。」


「さすが、よくお調べですな。」

浅野は、このフランス人の緻密な仕事ぶりに感じ入って、うなった。




リペールは、実務家としての自分に向けられた、浅野の素直な賛嘆に気を良くしたらしい。ふと思いついて、こう言った。

「あ、そういえば、アメリカから取り寄せた、その三文小説の現物が、どこかにありますよ。『イカれた小話集(ウィアード・テールス)』という三流雑誌なのですが。よろしかったら、お帰りの際に進呈しましょう。ハリーも死んでしまったし、あんなもの、いつまで置いていても仕方がないですからね。バカバカしいが、旅のお供に、暇つぶしに読むには好適です。もし要らなかったらご遠慮無く、どこかのゴミ箱にでも捨ててしまってください。」




巴里の夜道をセーヌの流れに沿って歩き、浅野はほどなくホテル・デュ・ルーヴルに帰り着いた。


前日はイヴァン老提督と痛飲し、とても愉快な気持ちでただ深くぐっすりと眠れたが、この夜はふたたび、あの厚東四郎と狩音が夢枕に立った。しかし、その夢から()めた浅野は、窓から入ってくる朝日のなか、これまでとは違い、むしろ彼らの旅路の行く末を見届けるのが楽しみになるほどの余裕が生まれていた。


前夜からの清々しい気分を引っ張り、浅野は身支度をして、ホテルをチェックアウトした。車寄せには、既に友が、ぴかぴかに磨いた愛車とともに彼を待ち受けていた。


「ボンジュール、浅野さん!」

イヴァンは、にこやかに挨拶した。浅野は、どう言おうか迷ったが、結局ロシア語ではなく、日本語と英語を混ぜ、「おはようございます、提督(アドミラル)!」と返した。


「昨日は、無事に戻れましたか?」

イヴァンは聞いた。自分が帰り道の世話を焼けなかったことが、些か心残りな様子だ。

「ええ。なんとか!ただ夜道をずっと歩いたんで、少し寒かったですよ。もっと早く終えることができれば、貴方をお呼びしたのに。」

「それは残念・・・まあ、今日はきちんと、巴里駅までお送りしますよ。次は、スイスに行かれるのですよね?」

「はい、その通りです。定刻までには間がありますから、ゆっくり行きましょう!」




この日の巴里は、燦々と陽光が降り注ぐ、気持ちの良い天気だった。


街路脇のあちこちには、多数の風景画家が椅子を出して座り、イーゼルに掛けたキャンバスに向かって、絵筆を走らせていた。ある者は観光客をモデルにスケッチし、ある者は黄金色に染まる秋の街路樹を写しとり、そしてある者は朝日に照らされる遥か彼方のエッフェル塔と、その脇を流れるセーヌ川の流れを描いているようだった。


巴里よ!おお巴里よ!


来たときは、陰鬱でくすんだ、秋雨に烟る灰色の大都会であった。しかし、良き友を得、生きる力を取り戻し、今の浅野の眼に映ずるのは、さまざまな彩りに満ちた、美しい、人の営みの数々である。


イヴァンは背筋をピンと伸ばしてハンドルを握り、指でとんとんと拍子を取りながら、軽く鼻歌を歌いつつ運転した。会ったときの彼は、こんな風ではなかった。かつての海軍提督としての威厳をなんとか保ってはいたが、意識は常に脇にいる上司に向けられ、そのくだらぬ、取るに足らぬ小さな男の機嫌を伺い、どこか、おどおどしていた。


(よわい)70にもなる失意の老提督が、自分と関わることで新しい力を得て、生きる気力を取り戻し、これほど陽気に前向きに未来に向かっていることが、浅野は心の底から嬉しかった。




ふと、浅野は気づいた。前席のダッシュボードに引っ掛けられていた、あのセヴァストポリの小さな風景画が、ない。


それは常にぶらぶらと揺れて、道に大きな起伏があったときは、ゆらり、と空を切って外れてしまいそうなくらいに不安定だった。おそらく、それゆえ、想い出の大切な画を危ぶんで、イヴァンが自分で取り外したのであろう。


しかし、デュ・ルーヴルとパリ駅とのあいだの道路は、おそらく世界一平滑で、よく整備された目抜き通りである。道にはタクシーが溢れ、ほんの数フランで、パリのどこにでも連れて行ってくれる。これだけの交通量を支える幅の広い道路は、常に硬く舗装され、きちんと補修されている。


浅野は、そのことをちょっとだけ奇異に感じた。




不思議なことに、車中で交わされる会話はほとんど無かった。もう、会うのはこれきりになるであろう。今日、巴里駅で別れてしまえば、浅野は数カ国を経由して日本に帰り、そしてイヴァンは・・・もしここ数年以内になにか大きな政変でも起こり、あの赤化政権が倒れたりすれば別だが、そうならなければ、ここフランスで客死することになるであろう。


二人とももう、老人なのだ。あまり、残された時間はない。しかし今更、焦って何かを話さなければならない訳でもない。この二人は今や、異郷で共に武器を()り立つ戦友同士であった。気心の知れた戦友にとって、言葉など重要なものであろうか。彼らはただ、一緒の車中に居て、ともに同じ時間を過ごすことだけを愉しんだ。




イヴァンは、道を間違えなかった。


考えてみれば、当たり前のことだ。トマス・クック社に雇われた運転手である彼にとって、巴里駅とデュ・ルーブルとの間は、日々数度も往復するメイン・ルートである。しかし今日の、戦友との最後のこのドライブは、浅野にとって、やや呆気ないくらいに短いものだった。


やがてパリ駅北操車場の宏大な鉄骨屋根が見えてきて、浅野とイヴァンの、永久の別れの時がやってきた。


イヴァンは車を停め、まずは運転手としての自分の仕事を、きちんとこなした。そのままドアを空けて小走りに車の後ろを廻り、浅野の脇のドアを空け、彼が抱えたトランクを手にとった。


浅野は車を降り、イヴァンに礼を言ってトランクを受け取った。するとイヴァンは、ニコニコしながら、浅野にこう聞いた。


「あなたがこれまで眺めた中で、最高の風景は、どこのものですか?」




意外な質問に、浅野は戸惑った。


「さ、さあ・・・?」

口ごもり、ぱっと頭に浮かんだ光景を、そのまま言った。

「横須賀軍港の南にある、走水(はしりみず)神社という小さな神道の(やしろ)の裏山の上で、妻と幼い子どもたちと一緒に弁当をひろげて、ピクニックをしたのですよ。そのときの海が青くて、とても綺麗だった。あの風景かなあ?あ、いや!」


浅野は、とっておきの風景を思い出した。それは、イヴァンにも関わる、まさにいま挙げるに相応しい候補だと思った。


「旅順の光景ですよ!実は、シベリア鉄道経由でここに来る前、日本から船で渡航した先が、大連だったのです。大きくなった息子が、現地の商社に努めていましてね。彼と二人で、203高地に登った・・・貴方には申し訳ないが、あの攻防戦の際、わが軍が貴軍の堅固な陣地線を突破するきっかけになった古戦場です。われわれにとっては聖地で、いまでは語呂合わせで爾霊山(にれいさん)と呼ばれています。これにはもちろん、貴軍の尊い犠牲者を弔う意味も含まれていますよ。」




「なるほど・・・そして眼下には、旅順港(ポート・アーサー)が広がっていたのですね。」

イヴァンは、微笑みながら言った。


「そう!貴方がかつて居たところですよ。あの恐ろしい戦艦の艦長としてね。もちろん、戦後二十年以上経っている。もうあの戦争を想起させるものなど、どこにも在りはしなかったし、あたりは赤茶けたただの禿山で、とても見れたものじゃなかった・・・ただ、眼下遥かに、大地というよりは、空に()め込まれた鏡のような旅順港(ポート・アーサー)が、夕陽に照らされて、黄金色にきらきらと輝いていた。あの光景は、忘れられませんよ。」


浅野は、少しうつむき、そのときの様を思い返した。脇には息子が控え、夕陽をいっぱいに浴びて、心の底から楽しそうに笑っていた。彼は今でも元気にやっているだろうか?あれからもう、三月が経っている。思えば、長い旅をしてきたものだ。浅野は言葉を継いだ。


「私の場合は、その光景というより、家族と一緒の思い出が風景に重なって美しく印象されてしまうのかもしれない・・・でも、とにかくあの旅順港は美しかった。きっと一生、忘れられませんよ。」




イヴァンは微笑みながら、無言で、しばらく、手にした私物の粗末な手提袋のなかをごそごそやっていたが、やがて綺麗に包んだ四角く平たいものを取り出し、浅野に渡した。


「実はこれが、私にとっての、その風景です。」

彼は言った。

「車の中で掛けていた、セヴァストポリの、あの画です。貴方に差し上げますよ。」


浅野は驚き、その包みを即座に突き返して、イヴァンの手に押し付けた。

「いったい、何を言っているんです!それは、あなたの人生最良の時、一生の思い出の風景だと言っていたでしょう!きっと、ご家族と共に過ごした美しい思い出もあるに違いない。確かに、美しい画だと思って感心したが、私がこれを受け取れるわけがない!」




イヴァンは、笑みを絶やさず、しかし、少し寂しそうな光を眼に湛えて、言った。

「貴方に、いつか故国に戻ると言いましたが、それはもう無理です。実は、心臓が悪いんですよ。私は、たぶんセヴァストポリには戻れない。あの美しい、家族や愛する人達との思い出に彩られた土地には、永遠に戻れないのです。私はこのまま巴里で死んで、ごく数名の身内や亡命者にひっそりと葬られて、それで終わりです。この画を受け取ってくれる人も居ない。」


そして決然と、背筋を伸ばして、こう言った。

「だから・・・ミスター・アサノ。貴方に、この画を進呈したい。この失意の街で得た、私の唯一の親友(とも)に。ともに過酷な運命に(あらが)う、世界でただ一人の同志に。私に較べれば、貴方はまだずっと、ずっと若い。もしこれから、貴方がまた迷い、打ち負かされそうになってしまう時があれば、この画を見て、この私のことを思い浮かべていただきたい。この・・・イヴァン・コンスタンティノヴィッチ・グリゴローヴィッチという男のことを。歴史と運命に翻弄され、しかし最後は決然とそれに立ち向かって死んでいった男のことを。」


イヴァンは、まっすぐ浅野を見つめた。有無を言わさぬ提督の迫力が、その全身に(みなぎ)っているのがわかった。もはや、問答無用。浅野はこの厚意を、ただ受け取るしかない。選択肢は、ない。




だが、浅野も、そのまま引き下がる男ではなかった。力が漲っているのは、彼とて同じであった。だから、こう言った。

「それでは・・・買い取ります。」


イヴァンは、不満そうに眉を上げた。

親友(とも)に対する、私の厚意なのだ。お金の問題ではないのに!


だが、浅野は言った。

「素晴らしい画だから!私の、おそらくは一生の宝になる画だから。だから、それ相応の対価を支払います。とはいっても、私の路銀も潤沢な訳ではない。いま支払えるだけの額だけれど。そして貴方にお願いしたい。この画は私が頂戴して国に持って帰るが、必ずまた、この画に負けない別の画を、描いていただきたいのです。それまでは死なぬと、今ここで、私に約束してください。」


イヴァンは、破顔した。そして涙に濡れた眼で激しく頷き、浅野の手を握って、激しく振った。浅野も笑い、ここに商談が成立した。




二人は、そのまま操車場の脇の通路を歩いた。イヴァンがふたつトランクを持ち、浅野はひとつを左手に、そして右手には、いま買い取った親友(とも)の大切な画をしっかりと握りしめていた。


別れの時間が来た。




イヴァンが、唐突に言った。

「やれやれ・・・私が居たのは、旅順だ。海峡じゃない。」


浅野は、瞬間、呆然とした。


イヴァンは、ニヤリと笑いながら、こう続けた。

「まあ、あんたが遠目に息子と眺めていた旅順港も、海峡のように見えないこともないがな・・・本当は、ツシマ海戦の話をしたかったよ。あそこは、れっきとした海峡だからな。ったく、使えない爺さんだぜ。」


眼にどこか妙な光が宿り、声音が少し変わっていた。闇の彼方から響いてくるような、がさついた、低いしゃがれ声だった。




浅野の頭は、高速度で回転した。


違う!いま話している相手は、イヴァンじゃない。誰か・・・別の誰かだ。そして私は、この誰か別のやつと、前にどこかで会ったことがある。話したことがある。


誰だ・・・誰だ?




思い出した!


スコッティだ。ハムステッドの駅で、ほんの一瞬だが、別人のように豹変した、あの子。あの時、滝におちないように気をつけろとか、行く手には海峡が待っているとか・・・スコッティは一瞬だけ、訳のわからない、妙なことを言った。そして、次の瞬間には、もとに戻っていた。




浅野は、またイヴァンを見た。イヴァンの眼は、まだぎらぎらと輝き、口元には、こちらを(あざけ)るような忌まわしい笑みを浮かべていた。


そして、容赦なくこう言った。

「まあ、いずれにせよ、あんたは海峡にやってくる。そういうさだめだ、諦めな・・・とにかく、そこでお待ちしてますぜ。ジタバタしなさんなよ!」


こう言い終わると、なにか魂が抜けたように、老イヴァンの身体がうねり、膝がガクンと折れて、前につんのめりそうになった。手にしたトランクを取り落としかけ、イヴァンはそれを慌てて胸と上腕とで抱きかかえ、完全に転んでしまう前になんとか身体の平衡をとった。


「おっ、と・・・これはいけない。大切な貴方のお荷物を!失礼しました。」

老イヴァンは言い、浅野に失態を詫びた。


声も、眼の光も、もとに戻っていた。




やがてプラットフォームの入り口に達し、イヴァンは、またあの柔らかな笑顔を浅野に向け、言った。

「それでは、ここでお別れです。ミスター・アサノ。道中、どうかご無事で。」


浅野は、まだ茫然としていたが、なんとか気を取り直して、答えた。

「どうもありがとう。貴方もお元気で。」


それ以上の言葉をかけるべきかどうか迷ったが、いま起こった、あまりに奇妙な現象に心が乱れ、なにも出てこなかった。そのままトランクを手に取り、この異郷で得た親友の脇を、ただ無言で通り過ぎた。




そのままプラットフォームを十(メートル)ほど進んだが、背後にまだ視線を感じた。なにか予感がして、浅野は振り返った。


そこでは、イヴァン・コンスタンティノヴィッチ・グリゴローヴィッチ提督が直立し、ロシア海軍式の敬礼をして、親友(とも)の旅立ちを見送っていた。おそらくは彼の生涯最後の、きちんとした敬礼であろう。浅野も反射的に、答礼した。横須賀の機関学校で叩き込まれた、軍属としての習慣である。


二人の男は、数秒ほど敬礼しあったまま向かい合った。そして、どちらからともなく腕を下ろすと、イヴァンは、ピンと背筋を伸ばし、右向け右をして、浅野の視界から立ち去った。




プラットフォームの喧騒と、匂いと、あちこちから漂ってくる煙が、ひとり残された浅野の身体を包み込んだ。

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