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海峡奇譚  作者: 早川隆
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序章  文化元年(1804年) 冬  筑前国 福岡城下

その三月ほど後のこと。


長門国で権蔵(ごんぞう)の手により海の中から引き揚げられたものは、青海(せいかい)和尚のところから数名の人の手を介して海峡を越え、九州に渡っていた。福岡城の東門堀端(ほりばた)にある新設の藩校・修猷館(しゅうゆうかん)の有力な教員で、近在ではその名を知られた朱子学者、木宮稜庵(きのみやりょうあん)という男の屋敷にあったのである。


儒者同士の(つて)から、隣国の漁村での発見のことを聞いた稜庵は、手早く話をつけ、その正体のわからないものを、一分 (四朱に相当)銀を支払うことで急ぎ送らせた。


いざ手元に来てみると、なるほど、まるで正体がわからない。もっともらしい木箱に納められ、紐など掛けられ、なにやらいわくありげに見える品ではあるが、つい最近まで、この中身だけが海底に裸身(はだかみ)のまま斜めに刺さっていたという話だったはずではないか。その肝心の中身といえば、細長い四尺ほどの、まわりをびっしりと海底の藤壺(ふじつぼ)や藻がまつわりついて固まったような、その原型すらよくわからないような代物だ。


しかし、稜庵は、ある種のかんが働く男であった。


これは、もしかしたら、彼の考える、ある「もの」かもしれない。


可能性は低い。しかし、当たってみるだけの価値はある。仮にこれが、彼の考えるとおりのものだとすると、その価値は千両万両ではきかないくらいの、破格の宝物なのだから。




また稜庵には、この物品にこだわる、もうひとつの大きな理由があった。それは、この大藩の公式藩校の枢要な地位を占め、およそ朱子学者として、江戸湯島の聖堂に(まつ)られている林羅山(らざん)らに次ぐほどの地位と富貴(ふうき)を勝ち得た稜庵にして、いまだ手に入れられていないものである。いや、正確には、この藩校・修猷館に関わるすべての儒者のなかで、彼にのみ欠けているものである。


それは、朱子学者としての、名誉であった。



稜庵は、わずか数年前まで藩内を二分するかのような大騒ぎとなった、あの忌まわしい争論のことを思い起こした。


天明四年 (西暦1784年)、博多湾志賀島(しかのしま)にて、はるかな(いにしえ)のものと思われる小さな金印が出土した。発掘したのは土地の百姓で、甚兵衛とも秀治とも喜平とも伝わる。在地の庄屋を通じて福岡藩に提出されたその印の正体を確かめるべく、藩は、設立されたばかりのふたつの學問所(がくもんじょ)に、それぞれ調査を命じた。ひとつは、福岡城の本丸からみたその位置から「東」と俗称された修猷館(しゅうゆうかん)で、もうひとつは「西」すなわち、徂徠(そらい)学派の亀井南冥(かめいなんめい)祭酒(さいしゅ)とする甘棠館(かんとうかん)とである。


稜庵は、修猷館館長・竹田定良(さだよし)の右腕として東奔西走(とうほんせいそう)し、さまざまな説を総合して最終的に見解を「金印議(きんいんぎ)」としてまとめ、藩に提出した。その内容は、金印は朝廷に代々伝わる宝物であり、かつての壇之浦合戦の際、安徳天皇入水(じゅすい)とともに海底に沈んだもので、おそらく海峡付近の強い潮流に流され志賀島周辺にたどり着き、長年月に亘る潮汐の変化で地中に埋まり、六百年後に陸上にて掘り起こされたのであろうと結論していた。


いっぽう、甘棠館は「金印弁(きんいんべん)」なる書を提出し、この印が後漢の光武帝(こうぶてい)から古代の奴国(なこく)王に与えられたものであるという鑑定をなし、藩はこれを()れた。大いに面目(めんぼく)を施した亀井南冥と甘棠館は、その後、修猷館を圧する勢威(せいい)を得て、稜庵はいったん、大いなる恥辱(ちじょく)(まみ)れることとなった。


しかし、はるか江戸から政治が容喙(ようかい)してきて、風向きが変わった。


寛政年間における學問統制の一環として、江戸においては朱子学が大いに奨励(しょうれい)されるようになった。それ以外の学派は、研究や講義を公式に禁じられたわけではなかったにしろ、公儀のお墨付きを(うしな)ったことで、世間におけるその存在感は大いに減ずることとなった。


幕閣(ばっかく)の意向を忖度(そんたく)した藩の上層部によって、徂徠学派の甘棠館はその存立根拠を徐々に喪っていき、いっぽう、朱子学を奉じた修猷館のみがその影響力を増した。


斜陽の甘棠館は、寛政十年 (1798年)、原因不明の出火により全焼し、そのまま再建されることなく廃校となってしまった。亀井は職を解かれ、今では、甘棠館の残存教員たちをも吸収した修猷館こそが、福岡藩において唯一の有力藩校として認められている。


思わぬかたちで失地は回復したものの、かつての汚辱を(そそ)ぐ機会を、稜庵は心待ちにしていた。もし、長門の沖合で引き揚げられたこの「もの」が、彼の想定したとおりの宝物だったとしたら、かつて金印について述べた自らの見解の正しさを著しく補強することになるのみならず、これそのものが、金印などとは比較にならぬくらいの発見となり得る。おそらく日本の歴史におけるもっとも重要な大発見であり、木宮稜庵の名は永遠に不朽のものとなるであろう。


こうした復仇(ふっきゅう)の意志と、大いなる学問的虚栄に満ちた期待のもと、稜庵は、このずしりとした「もの」を手にとった。



しかし、稜庵はまたも不運であった。


今度は、他ならぬ修猷館がこの事態に容喙(ようかい)して来た。修猷館二代目館長・竹田定矩(さだかね)は、野心と虚栄心に満ちたかつての父親の右腕、木宮稜庵の密かな動きを察知し、これ以上の個人的な物品の売買や勝手な調査を禁じた。


代替わりは、ついほんの数年前のこと。亡き父親の腹心達への遠慮から、最初は老補佐役の公私の別なき振舞いを黙認してきたが、(いにしえ)の帝王学を深く学んだ定矩は、年数が()ち、自らの権力に一定の重みと(はく)がついたこの段階で、頃はよしと一種の綱紀粛正(こうきしゅくせい)に及んだのである。


いま修猷館はその勢威の絶頂にあり、かつての競合相手であった甘棠館は、その姿を消した。しかし、その開校の祖であり、公平無私な人格者であり、藩の内外において朱子学派以外の儒者や学徒から隠然たる支持を受ける亀井南冥は、いまだ野において健在である。


現在は、朱子学に対する幕閣のいわば公的な保護により、南冥復帰の可能性は絶無である。しかし、また中央からの風向きが変われば、どうか。現に、寛政の改革を主導した松平定信は、改革の実少(じつすくな)きを(もっ)てすでに失脚してしまった。まだ現在は、定信の方針を墨守する数名の老中らによって、修猷館にとっての追い風が、ゆるやかに吹き続いている。だが、これがいつまで()つものか、誰にもわからない。


このような時期に、危ういことは、してはならぬ。そして、またも藩内に無用な波風を立てて人の恨みを買うようなことを、行ってはならぬ。


稜庵は、愚か者ではなかった。竹田定矩の意志を聞き知った彼は、これ以上、二代目の意向を無視した振舞いを続ければ、自分自身がすべてを喪ってしまうことを悟った。彼は素早くこの若き総受持 (館長)に詫びを入れ、この「もの」に対する期待と執着を心のうちから、断った。なに、大したことはない。いろいろな可能性は考えてみたものの、おそらくは、ただの我楽苦多(がらくた)だ。


稜庵は、愚か者ではなかった。

だが同時に、彼のかんはきわめて優れていた。


彼は、みずからの名を不朽のものとする好機を、当座の地位の安泰と引き換えに、みすみす喪ってしまったのである。

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