第十九章 安貞二年(1228年) 秋 長門国国府
離せ!その手を離せ!
四郎は、烈々たる怒りに震えながら後ろを振り返った。後ろには誰も居なかったが、右手に持つなにものかを遠くに抛ろうとした四郎の手首を、たしかに誰かが、がっちりと掴んでいるのだった。
やがて、わかった。自分の手首は、自分の顔の上のほうにあった。そして、振り返ったと思ったのは錯覚であった。四郎は、前を向いたままだった。
そして、ゆっくり眼を開けた。
真上に、愛しい女の顔が見える。眼を瞠り、心配そうにこちらを覗き込んでいる。しきりに口を開いてなにごとか言っているようだが、何を言っているのかまでは聞こえなかった。そして女の両の細腕は、四郎が真上に振り上げ、振り回そうとする四郎の右手の手首を掴み、必死で抑えているのだった。
「お止めくだされ、お止めくだされ!とにかく、とにかく鎮まられよ!」
その愛しい女、狩音の細い華奢な身体は、しがみついた腕のあまりの力に、身体ごと振り回されんばかりだった。目を覚ました四郎が、思わず力を抜いたため、やっと動きを止めた狩音は、はあはあと大きな息をつくと、四郎を睨んで、こう叱った。
「夢です!それは夢です!あたしが、ずっと・・・ずっと耳元でそう申していたのに!」
なかば茫然と、四郎は聞いた。
「うなされていたか?」
「このありさまを見て、わかりませんか!それはもう、うなされて、叫んで、大暴れでございます。あたしは・・・あたしは、もう、四郎様が狂してしまわれたのかと思って・・・。」
狩音は、両手を広げて周囲を指差し、涙ぐみながらそう言った。
なるほど、たしかにちょっとした惨状である。
そこらじゅうに薪や置石が散乱し、火が消え、煙が上がり、ぷすぷすと音を立てていた。あの大事な木刀がかなたに転がり、上掛けに使っていた衣が脇の立木の枝に引っかかっていた。数間先に繋いだ馬が怯え、いななきながら、しきりと蹄を踏み鳴らしている。
意識を現に戻した四郎は、やっとのこと、状況を理解した。
「すまぬ、すまぬ狩音。そちの言う通り、また夢を見ておった。例の、海の夢の続きじゃ。だが、今度は少し違う。」
「違う?なにが違うのでございます!」
狩音は、突き刺すように鋭い口調で聞き返した。
「今度のは・・・そうじゃ、海は出てこなかった。陸に上がっていた。儂は、この二本の足で、しっかりと地面を踏みしめて、歩いておった!」
四郎は、現の自分の両足を交互に持ち上げて踵で地面を叩き、すこし嬉しそうに言った。
その表情の、なにか憑物が落ちたかのような朗らかさに、狩音は思わず、立ち尽くし、こう聞いた。
「それでは、遂に、着いたのですね?」
「そうじゃ!目指す場所に、の。」
すっかり正気を取り戻した四郎は、勢いよく立ち上がると、かなたに吹っ飛んでいた木刀をつかみ直し、左手で狩音の腰を抱いた。
「長かった・・・長かったが、遂に着いたぞ!あそこが、おそらく旅の終点じゃ。その、だだっ広い灰色の陸地の、大きな窪の奥に、やつが居た。」
腕に力をこめ、朗らかに笑いながら、まだ瞳の濡れた狩音を胸のなかにしっかりと抱いた。
相手のわけのわからぬ上機嫌に、ただなすがままになっていた狩音だったが、ふっと一息ついて、力を抜き、四郎に身体を預けた。そして、目をつぶって頬を分厚い胸の筋肉に当て、愛する男の血潮の温もりを感じながら、こう聞いた。
「やつ、とは・・・いったい、誰なのでございます?」
「それが、わからん。」
四郎は、笑いながら言った。あまりに自然だったので、狩音は、聞き返す暇もなかった。
「なにかわからんものが、そこに居たのじゃ・・・人のような、魚のような。とにかく、とてつもなく大きかった。沖を過ぎる鯨くらいは、あったかの。それが、水の中から立ち上がり、なにかわからぬ石碑のようなものに寄りかかって、儂を、ぎょろり、と見たのじゃ。」
「四郎様がなにを仰っていることが、あたしには、まるでわかりませぬ。」
狩音は言ったが、もうその声に、四郎を責める響きはなかった。
「まあ、夢じゃからの。だが、遂に現れおったのじゃ。儂にずっと、この不安で底の知れぬ夢を見せ続け、慄かせ続けた不埒なやつが、遂に出てきおった!そう・・・おかしな、まことにおかしな格好をしておった。」
「なにか、妖魔か、悪鬼の類では?」
狩音は少し不安そうに聞いたが、底知れぬ闇から開放され、それと正面から対峙することのできた四郎は、上機嫌のままこう言った。
「いや違う・・・なにかもっと、こう、生身の身体のあるものだ。斬ったら斬れそうな。伐てば伐てそうな。あれは、生き物じゃ。儂は、見た。たしかに、見た。もう逃さぬ。次に見たらば、必ず伐つ。伐って、この夢を終わらせる。」
狩音を抱く腕に、ぐいと力がこもった。
陽が高く上がり、焚火のあとを片付けた四郎と狩音は、駄馬を曳いてふたたび路を進んだ。
あの霜降城の土牢で、想像を越えたあまりの藤の方に取り憑いた奇病の有様に驚いた二人は、譫言を発してばたりと仆れてしまったこの母を、どうにか牢から引きずり出そうとしたが、できなかった。ほどなくまた現れ、落ち着いた声で母の保護を誓う大臣に仕方なくすべてを託し、とにかく一刻も早く西方の妖かしどもを一掃すべく、そのまま山を越えてきたのである。
あの不気味な、わけのわからぬ海の夢から解放され、いや、正確には解放されるためまずは伐つべき相手の正体に遂に見極めを付けた四郎の足取りは、これまでになく軽やかだった。右手にあの重い樫の木刀を持ち、大きな行李をひょいと背負うその四角い背中は、まるで丸腰の童が野原を駆け回るがごとくに躍動し、すいすいと前へ前へと進んだ。
大きな荷はなにも持たず、ただ駄馬の口を取って進むだけの狩音が、馬もろとも置いていかれそうなくらいだった。
「四郎様!足が、疾うございます。もっと、落していただかないと。」
狩音は軽く叱ったが、四郎の浮き立った気分が伝染り、彼女の気分までもが晴れ晴れとしていた。
ほどなく、峠道が尽き、眼下に小月の入江が見えてきた。目指す長門国の国府は、あの入江を廻り込んだ、長府の邑の中にある。
彼方から遠望した長府の佇まいは、全く炊煙が立っていないこと以外、さほど異常なものではなかったが、いざそこに到達してみると、明らかにこの邑には、なにか患いを帯びた死の匂いが立ち込めていた。
街路に人の姿はなく、そこらじゅうから漏れてくる糞尿や汚水の匂いが、つんと鼻を刺した。一台の荷車がひっくり返り、積んでいた荷があたりに散乱していた。どこか彼方から、いつ終わるとも知れぬ読経の声が聞こえ、黒い烏どもが、艶のある嘴を閃かせながら、我物顔であたりを飛びまわり、濁った声で何事かを哭き交わしていた。野犬が口元を汚しながらあちこちの辻の影を漁り、たまに行き倒れた人間の躯に鼻をつけると、そのまま屍肉の一部分を噛み千切って、黒くなった血を舌で舐めまわしながら、さも旨そうに咀嚼した。
陰惨な光景に、ここに至るまでの浮ついた気分もどこかに吹き飛び、四郎と狩音は、眉をひそめながらこの死の邑の街路を歩いた。やがて、ふらふらと襤褸を着た数名の人間が現れたが、皆、なにを言うでもなく、ただあてどもなく彷徨い、うつろな眼で空を見上げていた。
ふたりの子供が、声を張り上げて辻から走り出て来たが、四郎たちの姿を見ると、怯えたように建物の影に逃げ戻り、闇のなかからじっとこちらの様子をうかがった。
ほどなく、国府の築地塀が見えてきた。以前と変わらず、重厚で広壮な構えではあったが、邑そのものが帯びる憂色のようなものを、この物言わぬ塀も、ともに帯びているように見えた。驚くべきことに、正門に立っているべき警護の兵は一人として居らず、門扉も開け放たれたままになっていた。
四郎と狩音は、誰になんら誰何されることも警戒されることもなく、馬の口を曳いたまま、そのまますいと国府の前庭に入ることができた。打ち続く災厄、怪異の噂、そして押し寄せた郷人どもの狼藉。この無力な国府が、いまやその最低限の機能すら停止していることは明らかであった。
やがて、奥のほうで人の動く気配がし、数名の官人が、よれよれの装束のまま姿を現した。皆々、驚いているというより、なかば呆けたような表情を浮かべ、この二人の闖入者を眺めている。
四郎は威儀を正し、彼らに向かい大音声で呼ばわった。
「我こそは、長門霜降城主厚東武光の名代にして、末子の四郎忠光と申す。長門国守護代、小田村光兼様に謁見を賜りたく、罷り越したり。誰ぞ、お取次ありたい!」
ほどなく、四郎と狩音は、案内されるまま国府の奥の間に通された。そして、やや異例のことではあるが、既にそこに待ち構えていた長門国守護代、小田村光兼による、みずから立ち上がっての出迎えを受けた。
公的にいえば、六波羅、ひいては鎌倉の名代として長門国の徴税権と軍事警察権を管掌する小田村は、厚東氏よりもさらに一段上の存在である。実質的な軍事力は厚東に在るとしても、形式上は、あくまで四郎が光兼の前に畏まって拝跪せねばならぬ立場であった。が、今の光兼には、そのようなことに構っている余裕は無さげだった。
ひとつには、光兼の廻りに控える部下が、この国府内にもはや僅かしか残っておらず、衆目を気にする必要がまるで無いことも理由であったであろう。また、四郎の訪問が前触れのない突然のことだったので、改まった準備をする暇が無かったともいえる。
形式をあまり気にしない光兼の人柄もあったのかもしれない。彼は、中央から下向してきた名のある貴族や武家ではなく、生まれも育ちも長門の、地元出身の官吏であった。四郎と直接の面識はまだ無かったが、父とは、ある。またこの地方における利害共通のいわば共同事業者として、小田村氏は、厚東氏の実質的な盟友であるともいえた。
光兼は、満面の笑みを浮かべ、四郎の腕を取らんがばかりにして座敷まで引っ張って行き、なんと、上座に座らせた。驚いた四郎が席を譲ろうとすると、こう言ってそれを止めた。
「よい、よい。もはや、上辺だけの権威に囚われているべきときではない。厚東殿、儂は待ちかねておったのじゃ。見ての通り、身の廻りの手勢も残らず逃げ散ってしもうたような情けなき有様じゃが、儂はまだ、この国府の護りの任を、決して放擲してはおらぬぞ!そして、その我慢も報われた。軍は・・・貴殿の率いる軍勢は、どこまで来ておられる?」
腰を浮かしかけていた四郎は、それを聞くと、またゆっくりと座り直し、きちんと威儀を正しながら、こう答えた。
「まことに恐れながら。未だ、一兵たりと霜降を発せず。」
さらに、それを聞いて瞬時に顔色の変わった光兼を試すかのように、続けた。
「我ら、単なる物見に過ぎず。いまこの地にて何が起こり、何を為すべきなのか、それを偵知しに参り申した。まずは、これまでの経緯、今の様子などを、順を追ってきちんとご教示願いたい。」
光兼は、やや身体から力が抜けたような様子で、
「そうか。」
とだけ言った。
そしてそのまま、その場に座り込んでしまった。しばらく苦しげに下を向き、目線は落ち着かず床のあちこちをさまよったが、やがて覚悟を決めたらしく、顔を上げて、つとめて冷静な口調で、これまでのことを語り出した。
内容は、すでに四郎が霜降城で父に聞かされたのとほぼ同じである。
なんとなく流行りだした疱瘡の病。入れ替わるように発生した謎の舞踏病。さらに、どこからかこの国府に押しかけた数も知れぬ群衆ども。彼らは、火を焚き、よく分からぬ言葉でなにやら妖しげな経のようなものを口にしながら夜通し騒ぎ、朝になると引き上げた。時を同じくして、ここから半里ほど離れた穴門豊浦宮にも、より大勢の郷人どもが押しかけ、御神体の鬼石を囲み、季節外れの数方庭の踊りを熱心に繰り返した。
その騒擾事件が起こってからというもの、地中からむくむくと死者が蘇り、海からは平家の亡者どもが揚がり来たりて夜な夜な祟りをなすという噂が廻り、いつのまにかこの国府の廻りから、民草どもが雪崩を打って逃散してしまった。警護の兵や官人どもも民に混じって逃げ、今や、長門国国府は、その門扉ひとつ閉めることのできぬ、もぬけの殻と化した。
しかし (と光兼はここで語気を強めた)、自分は守護代の任を死すとも果たさんと、厚東の援軍が来るまでと、この空城で頑張り通した。いまはまだ、妖異は国府までは襲い来りておらぬ。一刻も早く援軍を派し、長門を、姿の見えぬ恐るべき敵から防衛してもらいたい。厚東の軍勢こそ、唯一の希望である。なにとぞ頼む!
最初は冷静だったが、話すうち、数日分の緊張と極限の恐怖とが、涙となって目の奥から溢れ出してきたようだった。最後は、四郎の袖に縋りつかんばかりになっていた。
「頼む、なにとぞお頼み申す、忠光殿!一刻も早くこの国府に軍勢を。早くしないと間に合わぬ。妖異ども、すでに火の山の西を押さえ、北を押さえ、海の底を伝って、すぐそこの、沖合に来ておるやもしれぬ。」
「まずは・・・まずは落ち着いて下され!」
四郎は、縋り付く光兼の手を振りほどくようにして、肩を抱き、強く押し付けるようにして、ひとまず座らせた。
「拙者、霜降の城を出てまだ二日と経っておりませぬ。霜降で父からこの件をはじめて聞かされ申したが、そのときはまだ、さほど切迫した感はござり申さず。まずは物見して、しかるべき後に対応を議すとのことで、単身罷り越した次第。いつの間に、斯様なまで事態が悪化したのでございます?」
光兼は、信じられないという表情をし、絶望的な光を湛えた眼を四郎に投げかけて、言った。
「すでに・・・すでに、急使をなんども走らせておる!」
「いや、ここに参る途次、われら一騎とも行き合わず。何度か山合いの間道などを取り申したが、主街道筋の動きには常に気を配っておったが故、急使が何騎も走り過ぎるを見過ごすことはありませぬ。それとも、海路を向かわれたか?」
「海路など・・・むざむざ海底の妖魔どもの頭の上を行くようなものではないか!では、みな討たれたのじゃ。殺されたのじゃ!もはや、とり囲まれたと見ゆる。我らには、退路も無くなった。」
光兼は、がっくりと肩を落とした。そのまま、童が遊び飽いて壁に投げ出した人形のように、上体を斜めに折って目をつぶり、やがてぶるぶると震え出した。
「光兼殿、しっかり!ようく考えられよ!」
四郎は、ここで声を励まし、敢えて相手を同格扱いに呼び捨て、言った。
「妖魔だか敵勢だか、拙者には、とんとわかり申さぬが、もしこの国府が包囲され、すべての連絡が途絶し孤立しておるならば、なぜいま、拙者がここに居るのでございます?拙者は、霜降から当たり前に歩み、当たり前に進んでここへと至り申した。たしかに途中、いかなる旅人とも行き合わぬは不審なれど、同時に、われらが退路を断つような軍勢も、その姿を一切見ず。ご安堵めされよ!ここは決して、孤立などしてはおりませぬ。」
光兼は、意外そうに目をしばたたかせた。
「なに、そうだったのか?しかし、ならばなぜわが伝騎は戻って参らぬ?」
その、きょとんと間の抜けた表情に、四郎は、なんだかむかむかと腹が立ってきた。父の話もこの守護代の挙動も、なにか掴みどころがなく、よくわからない。こいつら、揃いも揃って阿呆ばかりか?
逃げたのだ。
その伝騎どもは、これ幸いと、そのままどこかへ逃げたのだ。
多々良の手練の間者どもが厚東の背後を撹乱するため上陸し、あちこち撒いたに過ぎぬ怪異の噂を真に受け、むやみやたらと立ち騒ぎ、今にも国を喪うのかとばかり、眼に見えぬ、いや存在すらせぬ敵に動揺し、震えている。
・・・いや、敵ですらない。この世に在りもせぬ、ただ噂のなかの妖魔の影に脅えているのである。
四郎は、だんだん、この国をあげての空騒ぎが馬鹿馬鹿しくなってきた。
ひとつため息をついて振り返り、自分と同じように眉根を寄せ、この貴人の醜態を遠くから眺めていた狩音のほうを見た。彼女は軒下に立ち、所在なさげに、いつも掛けている革でできた首輪を指で弄り、輪からぶら下がるいくつかの石飾りをつまんでは戻し、つまんでは戻ししていた。
四郎は、その醒めた冷たい目を光兼に戻し、
「ともかく。まずは、ご安堵めされよ。おそらく、御身の廻りから急に人が居なくなられたがゆえ、日頃はすぐとわかることが、わからなくなっておられるのです。申した通り、背後はまだ安全でござる。それは、この厚東四郎がこの眼で然と確かめてきた事実でござる。」
まだ少し怯えながら、しかし、やっとのことで頷いた光兼を励ますように、四郎はしっかりとした声で続けた。
「怪異の噂は、ある意図を持って流されたものでござる。なにか、良からぬ企みを持つ奴ばらが、何がしかの目的を果たさんがため、国府の周辺にばら撒いたのでござる。その虚事が巧みで、また真に迫っていたが故、愚かな民草ども、皆々、勘違いをなして逃げ出した・・・ただ、それだけの話でござる。」
そして、いちだんと語気を強め、こう言った。
「西の妖かしなど、居らぬ。地から蘇りし屍体など、あり申さず。平家の亡霊も、右に同じく。すべて噂でござる。謀でござる。眼に見えぬものを恐れる、人の心が作り出した、ただの幻に過ぎぬのでございます。」
そう言い終わると、ぎろりと光のこもった眼で、この腰の抜けた守護代を睨んだ。