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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第十七章  時知れず 場所も知れず

厚東四郎忠光(ことうしろうただみつ)は、誰もいない、だだっぴろい、黒くて広い平原にいた。


黒いのは、かなたを遠望したときだ。自分の身の廻りを見渡すと、土は黒いのではなくて、どことなく嫌な黒みがかかった灰色である。ぬかるみの泥が、そのままじわじわ温度の低い陽光に照らされて、水気を完全には(うしな)わないままなんとなく乾いた土になりかけたような、どこか不貞腐(ふてくさ)れた感じのする色だった。


困ったことに・・・四郎は、その泥のなかに半身が埋まってしまっていた。腰から下は完全に泥土の中にあり、自由が効くのは、ただ上半身と両腕だけなのである。


泥中の足の感覚はあるが、動かそうとしても、思うようには動かない。硬い土にがっちりと捕らえられているわけではなく、ある程度は動くが、逆に動けば動くほどじわじわと深みに(はま)っていくような気がした。日頃は鍛え上げた身体の力に自信を持つ四郎も、下半身の踏んばりを全く活かせないということが、こうまで人の身体を非力なものにするのか、その後しばらく、ただ無駄に藻掻(もが)き続けながら思い知った。


長い長い時間をかけて、腕の力と、半身を激しく(よじ)る勢いとだけで泥の大地に(あらが)いつづけ、なんとか尻の上半分だけ泥の上に出すことができた。途中、なんどか叫んだ。言葉にならない、罵声でもない、呪詛(じゅそ)でもない、ただ獣のような四郎の悲痛な叫び声が、この誰もいない黒い大地に(むな)しく(こだま)していった。




どのくらいの時を要したであろうか。四郎は、はあはあ言いながら、やっと両足を生乾(なまがわ)きの泥の中から引き抜くことができ、ごろりと横になって、そのまま、晴れているとも曇っているともいえぬどんよりした空を見上げた。あれだけ激しく動かしたはずなのに、自分の身体はなぜか芯から冷え切っているような気がし、ひどく疲れて、心はうつろだった。


右斜めの方角に、弱い光を投げかける太陽が見え、まわりに何本もじんわり(にじ)む光の(とげ)を伸ばしていた。それ以外、どこにも、なにも、雲ひとつ浮いてはいなかった。もちろん、空を()ぶ鳥の姿もない。やっと肘をついて半身をもたげ、周囲を見渡した。立木ひとつ植わっておらず、小さな川も、谷もない。ただ、ゆるやかな起伏のある泥土の平原が、どこまでも、どこまでも続いているだけである。


しかしよく見れば、ところどころに、どこからか流れ着いたような流木が見えた。ひどくまばらで、大きさも形も不揃いであり、あるものはただ泥土のうえに転がり、あるものはちょうどさっきまでの四郎のように、泥の中に突き刺さっているように思えた。


あたりの泥土も、ただの泥ではなかった。ところどころに魚の死骸が突き刺さっていたり、ただその上に横たわって陽光に(あぶ)られ、そのまま干上がってべたりと貼りついていたりした。あたりには悪臭が漂い、彼方にはときどき、なにかわからないかたちをした、生き物のような、なんとも言いようのない黒い(むくろ)がごろりと転がっていた。




四郎の背後には、半分壊れかけた小舟がひっくり返っていた。おそらく、自分はあれに乗っていたのに違いない。四郎は思った。ああ、そうだ、そうに違いない。なぜなら、あの小舟には、どこにも(かい)がついていないじゃないか。


自分は、黒い夜の波間を、揺られ揺られて長い間たゆたい、いまやっとその終点に来たのに違いなかった。もう、あの不安な波の揺れはない。海の底から聞こえてくる、あの引きずり込まれるような恐ろしい歌も聞こえてこない。乾いたような、湿ったような中途半端な泥の上ではあるけれど、やっと、なんとか(おか)の上に立てたのだ。


四郎は、うれしかった。そして勃然(ぼつぜん)と、やる気を取り戻した。なにをやるのか、それはまだよくわからない。しかし、波間にただ揺られる不安な状態を脱したことで、彼のなかに、またいつもの傲岸不遜(ごうがんふそん)な自信のようなものが(よみがえ)ってきた。


地面は固い・・・固いと思えば、固い。

とりあえず自分はこの上に立ち上がり、そして歩くことができる。

そうだ、だから歩いて行こう。

この先に、まだこの黒い大地が続いている。


そして歩いて行く先に、なにか・・・それがなにかはまだ、わからないけれど・・・自分を待ち受ける、なにかがいるはずだ。


どこから来たのかわからない、そんな根拠のない自信と確信を得て、厚東四郎は、(おぼろ)げな光を投げかける午後の太陽の下で、ふらふらとした歩みを始めた。




いくら歩いても、歩いても、あたりは、ただ(しん)として静かだった。


死のような静けさ。そして、いつまでも全く変わることのない光景。灰色と、黒と、たまに混じる乾ききった古い流木の白。空はどんよりとした鉛色で、ずーっとかなたのほうに、一筋だけ、うっすらとした雲のようなものが見える。


じんわりと、生暖かくこの死の大地を照らす太陽は、まるで空に固定されたかのようにその動きを()めていた。四郎は、そう思った。自分はもう、何刻も何刻も歩き続けているのだから・・・太陽がいつまでも沈まないのは、きっと、太陽そのものが、この不思議な土地では動きを停めているからだ、と。


しかしそれは、おそらく四郎の思い違いだったのであろう。おそらく、彼が歩み続けたのは、ほんのわずかな間だけだったのに違いない。なにしろ、廻りにはさっきと変わらぬ、灰色の大地が広がっているだけなのだから。どこまでも、そしていつまでも、ただ永遠に広がっているだけなのだから。


いつか、力尽きた四郎はこの泥土のうえに(たお)れ、あの微弱な光を投げかける太陽が、そのまま数万年もの時をかけて、誰に知られることもなく四郎の骸を照らし続け、水気を飛ばし、表面をかさかさに(あぶ)り上げ、あたりそこらじゅうに投げ散らかされている魚の干物といっしょにしてしまうのであろう。




なんとも不思議なことに、恐怖はなかった。焦りもなかった。なぜなら、四郎には、ある種の確信があったから。この先に、自分が長らく求めていた答えがある。知りたくて知りたくてたまらなかった、真実がある。扉は、すでに開いている。いや、四郎はすでにその扉をくぐり、真理の堂宇(どうう)の中へと入ってきたのだ。


だから、歩いて行くしかない。前へ、歩を進めて行くしかない。自分がこれまでずっと、そうしてきたように。


考えてみれば、不思議なことだ。長らく呑まず喰わずだったはずなのに、全く喉は渇いていない。空腹も感じない。さらにいうと、先ほど覚えていた体の芯からの疲れすら、いまはもう、どこかに消えてしまった。




やがて、前方に、おそろしく大きな丘が見えてきた。黒く平たい大地が、大きくお椀のように盛り上がり、まるで四郎を差し招くかのように波打って、いつまでも、いつまでも続いていた。


四郎には確信があった。あの丘を越えた向こう側の陰に、おそらく、探し求めてきたものの答えがある。なにかが、そこで、四郎を待っている。生きて帰れるかどうかはわからないが、とにかく、そこに行けば、すべてがわかるような気がした。




どうやってあの丘を越えたのか、それはわからない。つい今しがたのことのはずなのに、四郎には全く覚えがなかった。ただ、たいして時を費やした訳ではなかったようだ。なぜなら太陽はまだ、先ほどとまったく同じ高さにあったから。


ただしその姿は、丘の頂上を越えて、反対側の斜面に差し掛かったとき、空から見えなくなってしまった。


あたりは、一面うすぐらい日陰になっていた。さきほどまでは感じなかった寒さが、とつぜん骨のまわりを撫ぜまわすように、四郎の全身にまつわりついてきた。相変わらず、音はしなかった。なにも聞こえず、ただ、ぺたぺたと(かす)かな頼りない音をたてる四郎の歩みがあるばかりだ。


本当に、自分は大地の上を歩いているのだろうか?四郎は疑って、たまに後ろを振り返ってみたが、そこには、確かな二列の黒い足跡が、はるかなかなたから、ずっとずっと長く続いてきていた。


丘の斜面の反対側は、そのままぐんと深く落ち込み、さきほどの大地の高さよりずっと低い峡谷になっていた。気がつくと、すでにずいぶんと歩み入ってしまったあとだったが、四郎はいったん足を止めた。そして、ひとつため息をついてまわりを注意深く見渡した。




さきほどまでの、ただ黒い泥土の大地とはずいぶんと様相が違ってきている。斜面にはところどころ堅そうな岩礫が顔を(のぞ)かせ、足元には泥ではない、さらさらした赤土や粘土が混じっている。それどころか、これまで道なき道を進んでいたはずなのに、いつのまにか、四郎はひとすじの踏跡の上を歩いていた。もちろん、きちんと整地された道ではない。しかし、森のなかの獣道などよりずっと上等な、これまでたしかに幾百幾千もの人がその上を歩いて、しっかりと踏み固めたに違いない道だった。


さらに、道の両脇や周囲の斜面には、ところどころ妙なものが顔を覗かせていた。丸かったり、四角かったり、いろいろな形をした岩が、まるで道を挟むかのように立てられているのだ。


まわりに水気がないため、苔むしてはいなかったが、長年月のあいだ摩耗し角が落ち丸くなり、しかと意匠が判別できなくなった、訳の分からぬあれやこれや。


石仏のような、道祖神のような、なにかの(ほこら)のような。なかには平たい岩礫をただ重ねて積んだだけの素朴なものや、ひどく粗末なものもったが、とにかく、何かしら人の手が入り、なんらかの意図のもとに生み出された不揃いな造形物が、数十も数百もそこらじゅうに露頂(ろちょう)して、ひとりで道を進む四郎を、皆でただ沈黙のうちじっと見下ろしているのであった。




この見たこともない奇妙な峡谷を、行く手に待ち受ける深い闇に向かって、厚東四郎は進んだ。ただまっしぐらに、前を目指して進んだ。


進むにつれ道は高度を落とし、あたりはどんどん暗くなっていった。それが、ただ単に陽光が巨大な丘に遮断されたことによってできた陰なのか、それとも、あの弱々しい光を地上に投げかけていた、動かぬ太陽が遂に沈んで、本当の夜がやってきたからなのか、四郎にはわからなかった。


やがて、微弱なそよ風が、四郎の頬をそっと撫ぜるようになってきた。その風は、少しだけ冷たく、やわらかで、とても心地がよかった。しばらく当たっているうち、四郎は気づいた。風は、湿り気を帯びている。だから、長らく歩き続け、火照(ほて)りかけている四郎の身体を冷やし、乾きかけている四郎の(はだ)の毛穴と喉とを、この水気のある風がかすかに、ごくわずかに(うるお)してくれているのだ。


差し招かれるように、四郎はそのまま歩み続け、ついに谷底と思われる堅い地面の上に降り立った。振り返ると、いま下ってきた丘の斜面は、ほぼ切り立った絶壁のような高さで、なんだか背後から四郎を追い立てているようだ。


泥土で形成された、丸みを帯びた単なる丘だと思っていたものは、今はもう、峨々(がが)たる山稜(さんりょう)となっていた。あちこちに尖った(いわお)が突き立ち、暗くなった空めがけて、まるで顔のない武者が無愛想に剣を振りかざしているように見えた。


そして、いつの間に出たのかわからないが、その鋒先(きっさき)には、かつんとした真白い満月がひとつ、ものの見事に突き刺さっていた。




あたりは、完全な闇となっていた。しかし太陽の代わりに、今ではあの満月が、四郎の足元を優しく照らして、行き先を告げてくれている。


四郎は、再び前を向いて歩き続けた。さきほどまでかすかな踏跡だったものは、今はもう、しっかりと平らにならされた参道のようになっていた。周囲から見下ろしていた不揃いな幾百もの石像の造形物はその姿を消していたが、代わりに、四郎の両脇に突き立った急崖の斜面が、ところどころ、()ち切ったようにまっすぐになっていた。まるで、人口の構造物の柱のようである。


いや・・・柱であった。四郎は、そのうちの一本に触れ、表面を撫ぜまわして、そうと確信した。これは、石柱である。なにか堅い石を切り出して、ここに人のちからで立てたものだ。あたりには、同じような石柱が規則的に何本も突き立っている。


一見、自然地形のように思えるのは、その人工の柱が、おそらくは気の遠くなるような長年月を経て、ゆっくりと劣化し周囲の崖に同化しつつあるからに相違なかった。それが証拠に、石柱を撫ぜまわす四郎の指の先と(てのひら)に、なにやらあちこち表面に刻まれた細かな溝が触れた。


これは、明らかに人の手が加えた傷だ。あちこちに線形の溝が彫られ、なにがしか意味ありげな文字か、あるいは絵画のようなものを描いているのだ。劣化が激しく、それがなにを現しているのかはわからない。だがこれは、はるか(いにしえ)の王朝が(のこ)した遺跡であるに違いないと四郎は考えた。




そして・・・四郎は、かなたに見た。ついに見た。

自分がずっと、ずっと探し求めていたものを。




そこは、この下り坂の終点で、背後が巨大な垂直の絶壁で区切られ、向こう側は全く見えなくなっている。その前に、半円形の舞台のようなものが張り出しており、ところどころに、先ほどと同じような石柱が立っていた。さらに、その舞台の背後の絶壁には大きく平たい石版が突き立ち、その一面に、なにやらわからぬ文字や絵のようなものが、隙間なくびっしりと書き付けてある。


その意味を理解しようとしたが、四郎にはまるでわからなかった。おそらくなにかの形象・・・蛇か魚か人か波か・・・を(かたど)った文字のようなものが地面と平行に整列し、少しあいだを空けて、下にまた同じように並んで、そのまま何十も何百も段になってずらずらと並んでいた。四郎は、それがなにかの文章であると思ったが、見慣れている縦に並ぶ形式ではなく、なにか全く別の法則(きまり)()って書かれた、この扶桑の国とは全く違った国の住民による文章であることが推察できた。


驚くべきことに、その半円の廻りには深い周濠(しゅうごう)穿(うが)たれ、数十間はあろうかと思われる幅で、くろぐろとした水が(たた)えてあった。よく見ると、それはただの(ほり)ではなかった。その黒い水は、ときにちゃぷちゃぷと音を立てて波打ち、小さな白い波濤があちこち現れては消えた。


濠の水は、生きていた。どこかに、なんらかの力の(みなもと)が存在し、この外界から孤絶した奇妙な空間に未知の力学を作用させて、黒い水面(みなも)小波(さざなみ)を立てているのだ。


・・・いや、明らかに、地中低く落ち込んだこの谷底には、外海(そとうみ)から直接、海水が引かれているのだ。四郎は、しばらく忘れていた、あの忌々しい小舟の、あてどもない不安な揺れのことを思い出した。背中がぞくぞくし、首筋にじっとりと汗が(にじ)んできた。


しかし、歩みを止めるわけにはいかなかった。遂に・・・遂にやって来たのだ。この(くら)く恐ろしい、長い夢の終わりに。




ふと、四郎は気づいた。


半円の手前、黒い水中を、なにやら大きな影のようなものが動いている。それは、水面すれすれに動き、その上にわずかに乗った水を小山のように盛り上げながら四郎の視界を横切った。押し付けられた水の壁が、濠の上に(しわ)を寄せながらつと走り、後ろの岩壁に当たって細かく砕け散った。




そしてそれは、水の上に姿を現した。


人のような、魚のような・・・あるいは、巨大な水棲(すいせい)(けだもの)のような。

なにかの忌まわしい鬼のような。

あるいは、神のような。


四郎に危害を加えるような挙動はしなかった。その代わりそれは、しばらく四郎を(にら)み、よくわからない形状の、腕のようなものを前に伸ばし、四郎を遠くから差し招くようなしぐさをした。


まるで、なにか固く約束した贈物を求めているかのように。




気がつくと、四郎の手には、なにかが握られていた。おそらく、いま求められているものが、それなのであろう。


だが、それが何であるのか、よくはわからなかった。なぜか見えなかった。


持った感じは、自分が日頃使い慣れている愛刀にそっくりだ。霜降(しもふり)の峰の裏手で、姿の見えぬ唯一の親友(とも)、山風にそっと見守られながら、硬い樫の木を、苦労して自分ひとりで斧を振るって切り倒し、削り、納得いくまで磨いて作り上げた、あの木刀だ。


だが、これは、ちがう。


いま手に持っているものには、自分の木刀に備わっている、あの端整なすべすべした手触りと、木の温もりとが感じられない。それはひたすら冷たく、硬く、こちらの体温が伝わることを拒否し、ただそのずしりとした重みだけを四郎の掌に伝えていた。


これは、儂の持ち物ではない。


こんなもの、()れてやっても、ちっとも惜しくない。いや、持っていたくない。一刻も早く、手放したい。投げ棄てたい。四郎は、あのなにかわからぬ生き物に求められるまま、それを渡そうとした。




だが、投げて渡そうと振り上げた手を、後ろから(つか)んで止めるものがあった。


四郎は、怒りを感じた。もう終わりだ。夢の終わりだ。この持ち物を奴に渡してしまえば、悪夢は終わるのだ。闇と恐怖と、いつまでも果てしなく続くこの(くら)い世界の輪廻(りんね)から、(わし)はやっと解放されるのだ。


離せ、その手を離せ!


誰だ・・・だれだ?

お前は誰だ?




四郎は、振り返った。

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