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海峡奇譚  作者: 早川隆
22/71

第十六章  昭和三年 (1928年) 秋   英国 ハムステッド近郊

ハムステッドの素人亭(アマチュアーズ)の一室で、ふと荷造りの手を止め、浅野和三郎は、昔の光景を思い出した。




東京・本郷の東京帝国大学。十数名の英文学科の生徒が待ち受ける中、身長160センチに足らぬその小男は、黒く細いネクタイを無造作に結わえつけた毛織物(フランネル)襯衣(シャツ)に、灰色の背広を羽織り、ことり、ことりという靴音を響かせて教室に入って来た。


少し白いものの混じった黒褐色の髪を撫でつけ、顔は日焼けしてブロンズ色になっていたが、さほど健康的なようには見えなかった。鼻梁(びりょう)は、隆々としてはいないが細く鋭く尖り、一見、そこらの日本人と変わらぬような風采のこの男が、遠い異国の血を引いていることを示していた。薄い口髭が小さい唇にかかり、常に伏し目がちのその眼は生徒のほうを見ず、これから自分の向かう椅子を探していた。


やがて彼は座り、手にした小さな紙片を教壇の隅に置いて、ひとつ小さな咳をし、その眼をあげて生徒たちのほうを見た。


右眼も、そして左眼も、眼球がやや高く眼窩(がんか)からせり出しているような感じがした。(まぶた)は広く見開かれ、右眼の光は優しかったが、左眼にはやや薄く白い膜がかかり、それがときどき、陽の光を反射してぎろぎろと光った。




パトリック・ラフカディオ・ハーン。当時はヘルンと呼ばれていた英米文学の教授と、当時帝大に入学したばかりの若き浅野和三郎との出会いだった。今から30年ほど前の話である。ヘルンは、ギリシアにある英国保護領の小島に赴任していた英国軍医と現地の女性とのあいだに生まれ、学究の徒としてよりは、ただ漂泊者(ドリフター)として世界のあちこちを彷徨(さまよ)い歩き、そしてその最後に日本にたどり着いて根を下ろした。アカデミックな文学博士ではなかったが、ジャーナリストとしての豊富な経験と、単に個人的な資質から来る言葉や文学への深い造詣を有していた。


ヘルンは、日本語の会話や記述があまり得手ではなく、妻との手紙のやり取りすら、活用形を省いた単なるカタカナによる言葉の羅列を用いていた。帝大の学生は、選抜された時点で最低限の英語能力はあるものとされていたから、講義も当然、英語であった。




ヘルンは、いつも、静かに、ゆっくりと授業を始めた。そして、簡明なことば使いの英語で、生徒たちがメモを取るのに好適なテンポを保ちながら講義を進めた。その声は決して大きくはないが教室内によく響き、独特の心地よい重みがあった。彼はこの調子で、大学教授の講義や政治家の演説というよりは、まるで名優が舞台上で戯曲の台詞をすらすら吐くように、流れるようなリズムで(よど)みなく文学を講じた。浅野はじめ生徒たちは、その穏やかな名調子に、いつも軽い陶酔を感じた。


そしてヘルンは、事あるごとに、生徒たちに対し自分の講義の目的を明確に伝えた。

「諸君のうちある者が、もし実社会での経済的、社会的成功を求め、いわゆる立身出世のための実学として英語を学びたいと考えるのであるなら、私の講義は、絶対にそれに(てき)さぬ。今すぐ、他の学校、ないし本学の法科にでも転籍することを勧める。」


そしてまた、こうも言った。

「私の講義の最終目的は、諸君に文学を創作してもらうことである。英文学の名作のエッセンスを吸収し、これを諸君なりに消化して、自分のものとしてもらいたい。そして、学んだことを自分の表現に活かしてもらいたい。単に職業的に英語を学び、将来は英語教師になりたいというのであれば、おそらく私の授業には、失望してしまうことであろう。創作は、英語でも日本語でも構わない。私の望みはただひとつ。文学に親しみ、言葉を使いこなして、諸君に、創作の喜びを味わってもらいたいのだ。」




浅野は、帝大在学中の三年間、ヘルンの授業をいちども欠かすことなく聴講し、同じくヘルンに傾倒する多くの仲間とともに競って創作に手を染め、日本語の美文調の短編小説を書いて高評価を得たりした。


しかし、浅野は、生まれついての創作者ではなかった。やがて各種英米文学の名作を翻訳する方向に自分の天分を見出し、やがて請われて海軍機関学校の講師となり、その後の有為転変の末、いまは日本を代表する心霊研究者として倫敦(ロンドン)に居る。




思えば、長い旅路だ。すでに終わりが近づいているような気がするが、しかし、まだ何も始まっていないような気もする。自分はこれまで、とても大きなことを成し遂げたような気もするし、まだ、なにも達成できていないような気もする。


ヘルンの望むような文学者にはなれなかったが、心霊研究家として大いに世間に喧伝され、名を博した。そして、物質主義、合理主義の隘路(あいろ)で迷う人々に対し、心霊世界からの燭光(しょっこう)を示した。もちろん、自分自身、他の誰よりも誠実に研究や啓蒙の活動を続けてきた自負がある。そのひとつの頂点が、ひと月前の世界スピリチュアリスト会議における大成功だ。


しかし、そんなことより、人生における最大の成功といえるのは、良き妻と三人の男子とに恵まれ、温かい家庭を持てたことだ。これさえあれば、自分はもう、他に何も要らない。これ以上を望む必要がないほどの人生の幸せだ。誰の人生と比較されようと、胸を張って勝利を主張できる、人間としての完全な成功だ。


しかし・・・それが全てであろうか。それを得て、それに満足して、このまま満ち足りた思いで生を()えることが、自分にとっての、唯一の残された時間の使い方なのであろうか。


誰かが自分に、海峡に行け、という。海峡が何をさし示すのか、現在のところまるで分からない。夢の中でともに進む厚東四郎という男にとっては、その海峡とは、明らかに壇之浦のことだ。現在の関門海峡だ。そこに、彼が対峙(たいじ)すべき海の亡霊どもが待っている。しかし、自分の先に横たわる海峡とは、いったい何なのであろう?霊界から来たジョンは、そこに行くと、二度と戻れないと警告する。それほど恐ろしい大地の裂け目は、はたして、どのくらい暗く深い闇を(たた)え、自分を待ち受けているのであろうか。




先程から、荷造りの手が完全に止まってしまっていた。


あと1時間ばかりでこれを終わらせ、旅装を整え、運ぶのを手伝いに来てくれるスコッティとともに、ハムステッドの地下鉄駅に向かわねばならない。日本から持参した重く大きい旅行鞄、王侯貴族御用達という、頑丈な錠前のついたルイ・ヴィトンのトランク。いずれもまだ、中身が半分も詰まっていない。


一週間前まで部屋の床の大半を占領していた、浅野が倫敦のあちこちで買い求めた参考書籍の数々は、小分けし、数百円ぶんもの金を散じてすでに直接日本に向け発送し終えている。しかし、身の回りの物や着替え、小物など、詰めなければならないものがまだ、部屋のあちこちに散乱している。


とりあえず浅野は、ホーランド・パーク通りの心霊大学(サイキック・カレッジ)においてジョンからプレゼントされた南洋の少女の人形と、コナン・ドイルの心霊文庫から届いた、まだ封をしたままの郵送物とを、いつも持ち歩く旅行鞄のほうへ入れた。ドイルからのプレゼントは、中身が詳細な医学者の診療記録であるため、腰を据えて読む暇がなく、これからの旅の道々に眼を通そうと思ったのである。




なんとか残りの荷造りを続けながらも、なお浅野の想念は千々(ちぢ)に乱れ、意識があちこちに飛んだ。


海峡・・・やはり海峡だ。夢の中の四郎と、自分とのあいだにある唯一の共通項。それが、ともに海峡を目指しているということだ。自分の行先については、どこの海峡であるのか、よくわからない。ただ、そこには、これから亡霊と闘わねばならぬ四郎同様の危険と困難が待ち受けているらしいことは、おぼろげながらわかる。


そして・・・この奇妙な一連の夢と、現実の世界にいる自分自身とをつなぐ、唯一のよすが。それがまさに、先ほど唐突に記憶の蘇ってきた、ヘルン先生なのである。




ヘルン先生、のちの小泉八雲は、1904年、自らの死の直前、「怪談(Kwaidan)」という、日本各地に伝わる民話や伝説に取材した怪奇小説集を出した。これは、その後数年かけて世界中に翻訳され、多くの人の眼に触れる、八雲の代表作となった。そして、その冒頭に掲げられているのが「耳なし芳一のはなし」である。江戸後期、天明年間に出された「臥遊綺談(がゆうきだん)」の一章をもとにしたものであるが、当時、各地で語られた物語の派生形が幾つか知られており、八雲の妻節子を介して、それらを部分的に採録した可能性も捨て切れない。


浅野は、東京帝大を出てのち、ヘルン先生と会うことはなかった。ただ、のち既に心霊研究の徒となってから、かつての恩師が出した怪異短編集ということに興味を持って一読し、(あわ)せて聞いた恩師の訃報に、深く瞑目(めいもく)したのである。


いま、自分の旅と同時進行で進む厚東四郎らの旅に、芳一が出てきたことは、おそらくこのときの若干の喪失感と罪悪感とを伴う思い出が、かたちを変えて夢の中に(あらわ)れてきているのに違いなかった。




だが、自分は、初見時、特にこの短編に強い印象を受けたという記憶がない。


亡霊譚としてはありきたりだと思ったし、設定上の無理も鼻についた。なにより、読んでみてさほどの興趣も余韻も感じることができず、単に翻訳短編集の冒頭を飾る一篇として、すでに海外にも知られた「平家物語」を想起させる内容であることが有利に働いたのであろうと結論づけていた。


同じ「怪談」に収められている、「食人鬼」や「雪女」のほうが、遥かに文学的な価値が高い。かつてのヘルン先生なら、おそらくそう評価するだろうし、教え子たる自分の評価も同じだ。なのに、なんで、夢に出てくるのが巳之吉(みのきち)でも夢窓疎石(むそうそせき)でもなく、芳一なのだろうか。




ヘルン先生の授業は、基本的にみな英語によって行われた。ごくたまに、「ココ」「ダメ」「マダ」などといった片言程度の日本語が出ることはあったが、彼の授業で日本らしい要素といえば、ただそれだけである。語られるのは、徹頭徹尾、英米文学の名作について。日本の文学作品について触れられることは無かったし、ましてや、昔の怪談についてヘルン先生が一言でも語ったという覚えもない。つまり、ヘルン先生の記憶は、この夢における芳一の登場とは無関係なのだ。




いや・・・浅野は、思った。


そういえば。


あるとき、ヘルン先生が、片眼鏡を置いてとつぜんあの白濁(はくだく)した眼を上げ、生徒たちに、こう言ったことがあった。もちろん英語である。


「諸君、考えたことはあるかね?人間とはなにか、そして(おのれ)とは何者か?哲学的・形而上学的な意味あいではない。自然な、被造物ないし生物としての自分が、果たして何であるのか。自分は、ただ自分なのか。他とは完全に独立した個体なのか・・・おそらく、こうした疑問に完璧に答えられる人間は、この世に存在しない。」


いきなり、何を言い出すのか?他の生徒は、なにやらわかった風を装って聞いていたが、そのときの浅野は、素直にびっくりした。おそらくは、そのときに講じていた誰かの作品の内容について補足したか、あるいは、それにかこつけて余談を挟んだか・・・どうだったか、詳しいことは、覚えていない。


覚えているのは、内容がかなり唐突であったこと。そして、それを語るときのヘルン先生の顔が、いつになく生き生きと輝いて、いつもは白濁したあの義眼が、なにやら粘りつくような光を帯びているように見えたことである。




ヘルン先生は、さらに言葉を継いだ。その一言一句を記憶しているわけではないが、大方、このようなことだった。

「だが、私にはわかる。個の人間は、実はぜんぜん、個ではない。物理的には切り離されていても、心理的には相互につながり、目に見えぬ糸で結ばれて影響を与えあっている。その関係性は、ただ現世の人間同士において()るだけではない。実は、人間は、過去とも未来ともつながっている。我の人格は、我一代のものではなく、遠い祖先の血を()き、その罪やその記憶の一切を引きずり、そしていつまでも連続するものだ。人間とは、過去幾代かの人格の連続体のことなのである。」


発言前後の文脈(コンテクスト)についての記憶が欠落しているので、こののときのヘルン先生の真意は、今となっては、まるでわからない。だが、浅野には、妙に強烈に印象された一言であった。




「もしかしたら、このことではないか?」


浅野は、誰もいない、いろいろな物がただ散乱するだけのホテルの一室で、そう、ひとりごちた。


そう言ってはみたものの、自分でも、いま自分で言ったことの意味が、よくわからない。よくはわからないが、ただ、夢の中に出てくる芳一ないし厚東四郎忠光は、単に自分が夢に見る客体(きゃくたい)ではなく、もしかしたら何かの要素でいまの自分と繋がり、連続する存在なのかもしれない、そう思った。


・・・しかし、そうなのだとしたら?


夢の彼方で、ヘルン先生は、いったい何を自分に伝えようとしているのであろう・・・少し頭痛がし、腰がずきずきと(うず)いた。




もうすぐ、スコッティがやって来る。彼に、この散乱した部屋の中を見せるわけにはいかない。浅野は、とりとめのない想念をいったん頭から振り払い、この宿を退去するための作業に集中した。




けっきょく浅野の作業は間に合わず、約束の時間通りにやって来たスコッティを部屋に入れ、荷造りを手伝わせる羽目になった。新学期となってから、ホテルにあまり手伝いに来られなくなったスコッティは、最後の最後で、この謎めいた浅野の部屋に入れたことを、ただ無邪気に喜んだ。


やがて浅野は、スコッティに荷物を半分持たせて部屋を出て、ウィリーやホテルの住民たちに大急ぎで分かれを告げ、そのまま急ぎ足でハムステッド駅へと向かった。


駅は高台に作られており、上り坂を息を切らせながら駆け上がった二人は、ふたつの街路が交差する角に作られた煉瓦作りの古い駅舎にたどり着いて、大きく息を吐いた。


「さあ、ここまで来れば大丈夫。ヒャキョウさん、荷物をもうひとつ、僕が持ちますよ。」

「ああ、済まないね。とても助かる。」

「あとはエレベーターを使って、一気に地下に降りるだけですから。」

「さすがは倫敦(ロンドン)の地下鉄だよ。私の国には、こんなものは無い。」




やがてやって来たエレベーター・カーゴに乗り込んだ二人は、向かい合って立ち、どちらからともなく、笑いあった。初めて会ってから、約二ヶ月半。この短いあいだに、スコッティは、ほんの少しだけ大柄になり、態度や物腰がちょっとだけ大人びて来たように思えた。


「本当に、いろいろ有難う。」

浅野は、この年若い友人に、心の底から礼を言った。

「倫敦に来てから、実にさまざまな人に会った。みな素晴らしい人たちだったけれど、なんといっても、最高の男は、君だったよ。」


スコッティは、ややはにかみながら答えた。

「いえ、なんかいろいろしつこく後をくっついて行って、ご迷惑をかけました。遠い東洋から、素晴らしい学識のある紳士がやって来ると聞いて、僕はもう、興味津々で。」

「実際には、こんな、ものの役に立たぬ老人だよ。その点、君にはこれから、長い時間がある。有意義に過ごして・・・強いバリツのマスターに成り給え。」


「そうですね、原作者にせっかくご紹介いただきましたし、将来、僕はなんとしてもシャーロック・ホームズの手助けをしないと!でもそのためには、まずドイルさんに考えを変えてもらって、また続編を書いていただかないといけませんね!」

スコッティは、嬉しそうに笑いながら、言った。




だが浅野は、その無邪気な笑顔を見て、少し考えを変えた。


スコッティは、もう大人だ。立派な大人だ。住んでいるところや顔かたち、そして肌の色や眼の色は違うが、つい数年前の自分の息子たちにそっくりじゃないか


浅野は、腹を(くく)った。そして、言った。

「スコッティ。私は、ひとつ、君に謝らなければならないことがある。」


スコッティは、きょとんとして、浅野を見た。





しかしこのとき、ちょうどエレベーターが地底深くの改札階に着いて、二人の会話はしばらく途切れた。


浅野は倫敦方面へのチケットを買い、すべての駅員と顔なじみのスコッティは、そのまま鞄を抱えてプラットフォームに入っていった。そして、ホームの最後部へと歩き、すでに停車していたゲート形電車(ゲート・ストック)の乗降口へと向かった。


脇に控えていた乗降係(ゲートマン)が立ち上がり、斜めの格子状に組み合わされた籠型の仕切りを開け、浅野を中へといざなった。




他に乗降客はおらず、発車までにまだ少しの間があったので、浅野は、さっき言いかけたことの、続きを言った。


「実は・・・スコット君。私は、うそをついたのだよ。コナン・ドイル卿とは、たしかに会った。とても親しく、長時間にわたって話をした。しかし、そのとき私は、うっかりしていて、君のことをドイル卿に言うのを忘れた。」


スコッティは、黙っていた。

「他にいろいろと、深刻な話をしていたんだ。いや、それはただの言い訳だな・・・とにかく、私は君を、ドイル氏には紹介しておらんのだよ。そして、何より良くないのは、帰ってきてから、君に真っ赤な嘘をついたことだ。」


浅野は、まだスコッティの足元に置かれていた自分の荷物を持ち上げ、乗降口の上へ置き直して、続けた。

「そういうわけなんだ。私は、君の信頼を裏切り、君をまだ子どもだと見下して、愚にもつかない嘘をついた。ついでに言うと、バリツなんてもの、あれも嘘だ。日本に、あんな武道は無いよ。私はそれも知っていた。知っていて、君に黙っていた。まったく、(ろく)でもない大人さ。」




スコッティは、茫然(ぼうぜん)としているように見えた。なにか言いたいらしいが、言葉が出てこない様子だった。浅野は、構わず続けた。


「だから君には、知っておいてもらいたい。この世の中は、汚い嘘ばかりでできている。そして世の中には、まだ君の知らないことが、いっぱいある。君はもう大人だよ。私の旅はいつか終わるが、君の旅は、まだこれからだ。私のような大人になっちゃいけない。真実を語ることが、君の友情に対し、私がお返しできる唯一のことさ。本当に、すまなかった。」




スコッティは、眼にいっぱいの涙を溜め、浅野が言い終わるのを待って、こう答えた。


「知って、いました。」

「えっ?」

「ヒャキョウさんが、ドイルさんに、僕のことなんか、話しはしないこと。」

「そうなのか・・・。」


「最初から、わかっていました。ヒャキョウさんは、いい人だから、できないことでも、できると僕に言うのに違いないと。僕のママも、同じ意見でした。」

「しかし・・・私は、ドイル卿には、会ったんだ。だから、話そうと思えば、君のことを話せたんだ。」


「いえ、でも、話しません。そう思っていました。」

スコッティは、頭を振り、

「だって、ヒャキョウさんは、優れた研究を、いっぱいしている人です。戦争で家族を亡くした人たちを慰めるために、あの世に行った人たちと会話して、みんなの悲しみを無くそうとしている、立派な人です。ドイルさんも同じです。そんなお二人が話すことは、僕のことなんかではなく、悲しみにくれている、世界のみんなのことであるべきなんです。それでいいんです!」


浅野は、眼をみはった。なんという子だ!

そして、ふと、気づいた。

「スコッティ・・・もしかして。君に、お父さんは、居ないのかい?」




スコッティは、黙って頷いた。うかつだった。彼の年齢からして、父親が世界大戦の犠牲になってしまっている可能性に、もっと早く気づくべきだった。


常に朗らかで無邪気な、その笑顔の陰に隠れていたものを、浅野は悟った。


絶えず浅野にくっつき、浅野を質問責めにし、浅野の部屋に入りたがったこの子。彼が求めていたのは、ただ少年らしい好奇心を満たすことではない。彼が求めていたのは、彼の父親だったのだ。


スコッティは、さらに言った。

「僕は・・・僕のパパに会ったことがありません。でもきっと、いつか、会えます。話ができます。だから・・・ヒャキョウさんは、僕の英雄(ヒーロー)です!」


やがて発車ベルが鳴り、乗降係(ゲートマン)は格子状の仕切りを締め、また後ろに下がった。彼は、浅野とスコッティの会話を聞いて、少し発車時間をごまかしてくれていた。




「それでは、ヒャキョウさん。」

スコッティは、少し恥ずかしげに彼の英雄を見上げ、別れを告げた。


「道中、お気をつけて・・・さいしょから見え透いたインチキ武術なぞ使って、ライヘンバッハの滝に、()ちてしまわれないように!」




浅野は、少し驚いてスコッティを見た。たったいま、あれほど心が通い合ったばかりなのに。いきなり凄い嫌味をぶつけてくる子だ・・・会ったばかりのときはとても素直で、こんな子じゃなかったはずだが。少年期の成長とは、複雑なものだ。


しかしスコッティは、まるで、さっきまでとは別人のように眼をギラギラと光らせ、口元にどこか酷薄そうな笑みを浮かべて、少しばかり低くなった声で、構わずこう続けた。


「本当に、お気をつけくださいね。あなたの行く先には、海峡がありますよ・・・くろぐろとした口を開けて、今にもあなたを呑み込もうとしていますよ。」




浅野は、呼吸ができなくなり、目の前が真っ暗になった。そのままよろけそうになり、ガタンと音を立てて、乗降口の格子に手をついた。


そして眼を見開き、信じられぬ面持ちで、またスコッティのほうを見た。




同時に、ゲート形電車(ゲート・ストック)が警笛とともに、ゆっくり動き出した。浅野の眼と、スコッティの眼が間近で合い、車両の動きとともに、徐々に遠ざかっていった。


しかし、そのときスコッティは、もとの表情に戻っていた。いきなりよろけた浅野を見て、ただ、きょとんとしていた。少し心配そうな顔をして、あの、聞き慣れた素直なスコッティの声で、こう言って別れを告げた。


「ヒャキョウさん、気をつけてくださいね!本当にありがとう。お国のご家族にもよろしく!いつまでも、お元気で!」




やがて電車は円形の暗いトンネルに入り、ハムステッド駅のプラットフォームと、その上に立つスコッティの小さな黒い影は、ひとつの丸い光となって、徐々に遠ざかって行った。


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