第十五章 安貞二年(1228年) 秋 長門国 霜降城土牢
輝血は、ただ、しくしくと泣き続けた。もはや、狩音がなんと言って慰めても、泣き止もうとしなかった。
必死に輝血へ呼びかける狩音の横で、四郎は、骨の髄から発する疲れを感じた。頭の芯がぼうっとし、喉が乾き、耳鳴りがした。腕が疼き、腰が痛んで、そのままよろけ、座り込んだ。そして、自分の肩に置かれた狩音の細い手首を掴んだ。掴まないと、なにか、心の均衡がはかれないような気がしたのである。
「四郎さま、しっかり。」
輝血へ呼びかけることを止めた狩音は、肩を強く掴み、その手の温もりと力とで、四郎を励ました。
「これは、病です・・・これこそが、母上の病なのです。なにかはわかりませんが、ひどく変わった、奇妙な病なのです。しっかりとなさいませ。母上は、いまも母上のままですよ。」
狩音の言葉に勇気づけられた四郎は、疲れに負けようとする自らの精神に鞭を入れ、再び眼前の悍ましい光景を見つめた。
母が・・・今は輝血と名乗る母が、蒼竹の向こうで、壁に凭れて泣いている。断崖の中の牢屋は、じめじめとし、そこらじゅうの床や壁を、蟻や百足や地虫が、かさこそと音を立てながら、這い回っている。
この空気の澱んだ地下の劣悪な牢から、母を救い出さねば。そして、毀れ、ばらばらになってしまった母の心を、ふたたび元へ戻す手立てを見つけなければ。
「山風の申す意味が、やっと分かった。」
狩音の手首を握ったまま、四郎は言った。
「父が、会わせようとせぬ訳じゃ。親心かどうかは知らぬが・・・これは、たしかに、あまりにも。あまりにも・・・酷いことじゃ。」
狩音は、黙って頷いた。
「これから、どうなさいます?」
彼女は、膝を折ってかがみ、四郎を正面から見つめて、聞いた。
「母君を、このような場所に置いて参るわけには参りませぬ。」
四郎も、横を向いて狩音に応えた。
「うむ。されど、この分では母上は山を下ることすら、難しそうだ。」
「ましてや、西に参るなど・・・それでは、山上に登り、父上に談判されては?」
「いや、それは駄目だ。斯様な場所に監禁するは、何がしか、意図あってのことじゃ。あの父が、儂が談判したくらいで考えを改めるとは思えぬ。」
「それではやはり、このまま。」
「やむをえまい・・・先ほど、山風も特に命の危険があるとは、言うておらなんだ。あの者は、なぜか昔から母を尊崇してやまぬ。その山風に、見落としはあるまい。」
「しかし、それは山風とて、この牢のなかまでは窺えぬからでは?」
「いや、山風は、この山で起こることは、みな知っておる。今の母のことも、きっとよく存じておる・・・すなわち、あと数日、おそらく儂らが西より戻り来たるまでは、母の命に別状はないということじゃ。」
「そうでしょうか・・・?」
しかし二人は、気づいた。いつの間にか輝血が泣き止み、こちらを向いて座っている。ただ茫っと、二人のほうに虚ろな目を向けていた。瞼は半分閉じかかり、黒目が上を向いてあらぬ方角を眺めていた。頭がふらふらと揺れ、しばらく、なにか前後に細工をした人形のように動いた。
そして、やがて・・・二人が予想した通り、そこからまた別の者が現れた。
「お初にお目にかかる。お二方にご挨拶な申し上げる。吾は、大臣。そう呼ばれており申す。」
それまで輝血だったものの眼は、またぎろりと見開かれ、まっすぐに二人を見つめ、そしてどこからか補充された黄色く、精気のある光を宿していた。大臣は、先ほどの木通丸ほどではないが、能弁で、その口から発する言葉には一切の淀みがなかった。しかも、木通丸にはない気品と丁寧さがあった。
「四郎忠光どのの苦衷、お察し申し上げる。これまで、吾とともに貴殿の母のうちに在りし別の者どもが、好き勝手な振舞いなど致し、誠に申し訳ござらぬ。皆々、これまで母君の心の奥底へ縛り付けられ、好きに動けぬ身の上であったが故、はじめて味わう自由に舞い上がり、貴殿の胸中をも慮らぬ雑言の数々、誠に不埒千万。我ら内なる者を代表し、この大臣が、お詫びを申し上げる。」
「次は、大臣か。ずいぶんと高貴なる響きであることよ。本当の名は無いのか?」
「ただ、大臣、そう役割のみで呼ばれており申す。吾、内なる者どもを統べ、これを抑える役割を仰せつかっており申す。すなわち、これまでに当牢屋にて起こりし無礼、これ皆まさに、わが罪。なにとぞ平に、平にご容赦を乞う。」
「それでは、お主こそが、藤の方の御心を統べる元締と考えて良いのだな?」
狩音が、聞いた。
「まさに狩音殿の言わるる通り。藤の方の精魂ご健在の平素は、吾も御心の内にてひそやかに潜伏してござるが、今度のような常ならざる病の際には、意識の表に上りて、ただこれを平らかにするが役目。藤の方ほどのお優しき、心清らかなる御方とても、およそ人の子である以上、御心のうちに実は様々な己を飼っておられ申す。吾は、それらのあいだを保ち、それらの均衡を図るがために居り申す。」
「すなわち、病が快癒されるまでの、いわば、母の代理じゃな?」
四郎が確かめた。
「いかにも。」
大臣は、すぐと答えた。
「それでは聞く、大臣。これまでに出でし者ども、それぞれ、母の心のうちで如何なる役を担っておるのじゃ?」
大臣は、淀みなく答えた。
「はじめに出でし輝血は、木通丸がすでに申した通り、母上の御心の内なる、不安と心細さの現れでござる。輝血とは、鬼灯のこと。四郎殿もご存知であろう、母上は、鬼灯をことのほか好まれた。これすなわち、ご自身の不安を鬼灯に見立て、これを齧り、食すことで打ち消そうとなされていたのでござる。」
「そうか・・・確かに、母は鬼灯を好まれる。それでは、木通丸は?」
「彼奴は・・・吾が申すのも奇妙ではござろうが、つまらぬ男でござる。さいきん何処からか流れ来たりて、母上の御心のうちに棲みつくようになり申した。すなわち、四郎殿を失い、四囲これみな敵ばかりの当城に在りて、母上が頼みとされた、我が身を護るための如才なさと小賢しさの顕れ。」
「先ほどの・・・あの物狂いのような・・・。」
今度は狩音が聞いた。
「朧冠者でござるな。あれは・・・何と申すか、人がみな、実は心の裡にて飼っておる、はるかな古に獣であったころの名残でござる。恐怖と、憎しみと、狂おしきまでの生存への渇望と。いや、彼奴のことは、忘れられよ。藤の方ほどの、まさに天女に等しき清らかなる女性のうちにも、およそ人である以上は、斯様な闇も棲みついておるものなのでござる。」
「あのような者どもが、いったい、母上のうちにあとどのくらい居ついておるのじゃ?」
「さて・・・拙者にも全部は、わかり申さず。おそらく数百か、もしかすると数千。」
「何じゃと!」
「人の心とは、げに複雑神妙なるものでござる。四郎殿、そして狩音殿。貴殿らの心のうちも、実は同じ。ただ、そうした心の内に飼う様々な己が、平素は出て来ておらぬ、ただそれだけのことでござる。」
「奇天烈な話では有るが、理は通っておる。」
四郎は、感心したように言った。
「それら、さまざまな己を飼いならし平らかにするというお主であれば、大臣。これから儂がなにを為すべきか、当然、識っておるのであろうな?」
「まさにそのこと、僭越ながらご指南致そうと、顕れ申した。」
大臣は言った。
「まずは口を挟まずに聞かれよ、四郎殿。」
「うむ。承知した。」
「西の海にて暴れし、妖かしでござる・・・あいや、わかり申す。妖かしではないと言わるるは、貴殿のご気性ならば尤もなれど、しかし、奴原はやはり、妖かしでござる。もっと申すと、奴原は、恨みを呑んで壇之浦に滅せし、平家の武者共の亡霊でござる。」
「なんと!」
「亡霊どもは、今より三十年の昔、その数名がふらふらと海より揚がり来たりて、阿弥陀寺にて琵琶を巧みに奏でる、芳一なる盲目の寺僧に取り憑き申した。」
「ふむ。どこかで聞いた話じゃ。」
「いかにも。あれは、真実の話でござる。もしあのとき、芳一が亡霊どもの導くがまま、夜毎、霊を慰め続けていたら、さらに多くの亡霊どもが揚がり来たるところで御座った。和尚の機転で、芳一は耳だけ取られ申したが、海はいったん、平らかになり申した。」
「芳一は、そのあとも痛めつけられたがの。」
「まさに。されど、怪異を許さじという、現し世を統べる父君の、その断固たる意志が、物言わぬ芳一をひたすら鞭打つことで海底にまで伝わり申した。以降、亡霊どもも身を慎み、みだりと地に揚がることを憚り、あのときの怪異を大っぴらに語る者とてなく、話はいつか、朧気な噂となって消えて行き申した。」
「ふむ・・・まあ聞こう。」
「されど、つい先日のこと。突如、徒党を組みて長府の国府へと押しかけた郷人らの一団が、穴門豊浦宮を襲い申した。」
「儂の聞いた話と、ちと違うな。それらの者は、国府を襲うたのではないのか?」
「違い申す。国府にも一隊が派された由にござるが、それは、おそらくは囮。ただ国府の前で夜通し騒いで、僅かな守護代の手勢を館から出さぬが役目。」
「げに聡い、郷人どもだの。」
「明らかに、意図を持った何者かがすべてを企て、皆はただ、その手筈のとおりに動いたのでござる。そして、本隊は豊浦宮に。」
「ふむ。して?」
「宮になだれ込みて、そのまま、火のついた藁束を結わえつけた竹竿を幾百も掲げ、輪を描いて数方庭の踊りを踊り始め申した。」
「数方庭の祭りは、夏に行われたばかりであろう?」
「さよう。それをまた、踊りだしたのでござる。」
数方庭の踊りとは、上古、新羅の塵輪なる悪鬼に煽動された蒙昧な熊蘇の民が、当時、仲哀天皇が都と定めていた穴門豊浦宮に襲いかかって来たものの、天皇みずから矢をつがえ、見事に叛乱の首魁の塵輪を射殺したという故事による。以来、塵輪の屍を埋めた御神体の鬼石の廻りを、皇国の弥栄を讃え、毎年、近在の郷人どもが、火のついた竿を掲げ、ただひたすらに踊り廻るのだ。
大臣は、続けた。
「郷人どもは、数方庭の踊りを繰り返すと見せかけ、実は鬼石の下を掘り返し、そこに埋められたものをこっそりと持ち去ったのでござる・・・これが、今に至る一連の怪異のはじまりでござった。」
「よく分からぬ。いま少し説明せよ。その、埋められておったものとは、何じゃ?」
「現し世にてただ帝が御手にのみ握られ給いし、草薙の剣でござる。」
と、母の顔をしたまま、大臣が言ったから、四郎はひどく驚いた。
「草薙の剣、じゃと!」
四郎は声を上げた。
「大臣、いくらなんでも、莫迦なことを、申すでない。あの剣は、今ごろ、平家の者どもの骸とともに、壇之浦の海の底じゃ。」
「さよう。そのように、信じられており申す。」
大臣は言った。
「されど、そは世に真実を偽るための、嘘でござる。」
「お主が、ただの人ならば、一笑に付すところだ。だが、その常ならぬ異形に免じ、もう少しだけ聞きおいてやる。続けよ。」
「すなわち、世に信じられているところによれば、三種の神器のうち、神鏡のみ無事、勾玉は幸いにも安徳帝入水のあと、箱ごと波間に浮きあがり、無事に拾い上げられ申した。しかし、重みのある御剣だけは、沈んだまま浮いては来ず。」
「うむ。」
「されど、そは偽り。何故なら、御剣はもとより海に沈みおらず、戦に先立ち、平家とともにこの長門まで落ち延びて来られた皇室の一行によって、穴門豊浦宮の鬼石のもとに埋められたのでござる。」
「それは、何故じゃ?」
「よもや、幼き安徳帝のお考えではありますまい。誰か帝の周囲に仕えし、この国の未来を憂えた名もなき士が居たのでありましょうぞ。その者、いつか海の彼方よりこの国に祟らんとする敵に備え、源平のつまらぬ内乱なぞで失われぬよう、この護国の貴き剣を持ち出して、地中深く埋めたものと見えまする。」
「それが、つい最近、在り処を知られて掘り返され、どこぞに持ち去られたと。斯様に申すのじゃな?」
「まさに。昨今の怪異は、みなそれがきっかけになりて起こりしこと。地を鎮め、海の底なる亡霊どもを抑えていた剣が消え、またも奴原、この世にぞろぞろと蘇りて、好き勝手を為しつつあり。」
「死者が蘇り、流行病が広がれるは、その結果であると申すか。」
「左様。お察しの通り。これはほんの、始まりに過ぎず。護国の剣がこの大和の地のどこかに在る限り、海の底なる亡霊どもが為せるは、せいぜいが盲人を拐かしてこれに取り憑くくらいのもの。しかし、この地に剣が無くなったとなれば、話はいささか違って来申す。」
「亡者どもが、大挙してこの地に揚がり、この扶桑の国をうち滅ぼすと申すか?」
「さよう。四郎殿には、およそ信じがたきことであろうが、これは、いま、まさに起こらんとしている現実でござる。」
「そのこと、間違いあるまいな。」
「吾がいくら母君の口を借り、百万言を費やしてかき口説こうと、怪力乱神を信ぜずという四郎殿の鋼のごとき信念を揺るがすには、到底、足り申さぬ。なので、もはや多くは申さぬ。しかしながら、母君の心の奥底に居るわれらが、いままさに四郎殿と話しておるというこの怪異そのものが、四郎殿の信念に対する、ひとつの答えになり申そう。虚心坦懐に、このこと、とくとお考えあるべし。」
「ふむ・・・有り体に申せば、そちの話には、いま、いささかの真を感じる。されどそちは、この儂に、一体なにを為せと申すのか?」
「すでに、お分かりであろう。先ほど、父君に命ぜられしことでござる。」
「・・・西行か。」
「いかにも。壇之浦へと参り、この病を流行らせた妖かしどもを討ち平らげるのでござる。されば、病は自ずと収まり申す。海は鎮まり、陸に怪異はなくなり、そして・・・四郎殿の母上も、数日を経ずして、また朗らかでお優しき、もとの母上に戻られ申す。」
「なるほどのう。しかし、母が元に戻れば、お主らのいまの居場所は、無くなってしまうのではないのか?」
「さに非ず。母上ご快癒のみぎりは、我ら、ともどもうち揃いて、またもとの場所に戻るだけのこと。すなわち、母上の心の奥底にてひっそりと息を潜め居り申す。」
「にわかには信じられぬな。先ほどの木通丸や朧冠者は、表に出るを喜んでおるように思えた。」
「誠に非礼なれど、四郎殿。貴殿は、われら内なる者の掟をご存知ない。宿主の身体精神壮健なる折は、我ら、絶対に表には出られぬ決まりでござる。木通丸らは、程度の低い、身分卑しき者ゆえ、ひとたび吾が命ずれば、たちどころに奥へと引込み申す。」
「ふむう・・・しかし、まだ、わからぬことがある。」
「何なりと。」
「穴門豊浦宮を襲うたという、郷人どものことじゃ。ただの郷人が、護国の剣のありかを悟り、徒党を組んで国府を襲うなどの挙に出られるものか?しかも、その結果・・・お主に言わせると・・・海底から亡霊どもを解き放ってしまったと。いったい、その目的は何じゃ?それ以前に、奴らは何者ぞ?」
「さすがは四郎殿。実はわれらにも、それがわからぬのでござる。」
大臣は素直に言った。
「お主らにも、わからぬことがあるのか?」
「我ら、単に母上の内なる者に過ぎず。もし四郎殿にお願いできるものであれば、亡霊ども討ち平らげしのち、それら不埒なる者どもの正体を暴かれんことを。そして、二度と斯様な危機が長門を襲うことなきを乞い願わん。」
「ふっ、儂もずいぶん、買いかぶられたものだ。儂とて、妖かしの討ち方など、わからぬぞ。居りもせぬものを討つは、いと難し。それに加えて、妖かしどもを解き放てる、謎多き郷人どもの正体を探れと、こうか?」
「実は、そこでござる。」
大臣は、言った。母の顔のままだが、輝血だったときの涙はもう、無い。木通丸だったときのしたり顔も、もちろん朧冠者だったときの悍ましさも。ただ冷静に、感情の波をまるで感じさせずに、淡々と語る。
「他の人間はいざ知らず、四郎殿であれば、妖かしにも勝て申す。それは単に、長門国一等の武芸、膂力を指すばかりではなく、そのお考えそのものによるものでござる。すなわち、妖かしなど居らじ。世に怪異など無し。斯様な信念をお持ちであるがゆえ、ただそれをひたすら信じ続けることができれば、妖かしどもは、居ないのと同じことになり申す。斯様な相手には、妖かしどもは、何も出来ず。」
「よく分からぬが・・・すなわち、何を見ても怪異と信じず、亡霊や妖かしの仕業と認めなければ、勝てると申すのだな。」
「まさに。」
「・・・どうする、狩音?」
しばらく腕組みして考えていた四郎は、傍らに居る、頼りになる相棒のほうを向いて、聞いた。
「妙な話じゃが。怪しき話じゃが。これが、誰か、現し世の人間の画策せし、悪辣な奸計などでなければ良いのじゃが。」
「ただ、四郎様のお心のままに・・・されど、今のところ、母上のご快癒をはかるために我らが為せる術策は、ただ大臣殿の言葉に従うことのみにございます。」
「たしかに、そうだな。よし、わかった。大臣、承知した。それでは、我らこれより西に参りて、妖かし共を討ち平らげて参る。戻るまで、そちが母の身体を健やかに保ち、あの、おぞましき、内なる卑しき者どもの勝手な跳梁を抑えよ。」
「畏まりました。この牢のことは、それがしにお任せを。後顧の憂いなく、存分にお働き下され。捷報をお待ち申し上げております・・・。」
大臣は、冷静に言い終えた、ように思えた。
しかし、言い終わるや否や、彼は、母の顔のまま震えだし、びっしょりと汗をかいて苦しみ出した。これまでのように、なにか別の者に変化するときの前触れに見えたが、ただ、今回のその苦しみ方は、尋常なものではなかった。
「大臣、如何した?われらとの約定、しかと守れるな?大臣!」
大臣は・・・そのまま消えた。
消えて、また、別の誰かが出てきた。また別の、内なる者が。
「今度は、誰じゃ?名を名乗れ!」
この繰り返しにずいぶんと慣れた四郎は、ややうんざりした声で尋ねた。
次の誰かは、震え、かすれ、消え入りそうな声で、小さくこう言った。
「ははじゃ・・・はは、じゃ。おぬしの、はは、じゃ。」
四郎と狩音は、ぎょっとして彼女を見つめた。
母は・・・母と名乗る誰かは、引き続き苦しそうに声を絞り出した。
「し、しろう・・・たぶらかされるな・・・あれは、みな、うそじゃ!」
「母上!母上でござるか!」
その呼びかけにも関わらず、老女のしゃがれ声のようなその者は、ただひたすらな訴えを続けた。
「はは、じゃ、はは、じゃ!おぬしのははじゃ。うらにいってはならぬ。うみに、いってはならぬ。いけば、しろう、おぬしはしまいじゃ・・・。」
「いったい、なんのことじゃ?何を言われておるか、まるで分からぬ!」
四郎は、叫んだ。
その声も、精一杯、こう答えた。
「海じゃ、浦じゃ・・・壇之浦じゃ!奴らは、待ち構えておる!おぬしを亡き者にせんと。行ってはならぬ。海峡に、行ってはならぬ!」
しかし、皆まで言い終わる前に、母はその場で倒れ伏し、竹格子の向こうで気を失った。




