第十四章 昭和三年 (1928年) 秋 倫敦 ケンジントン・ガーデン
「本当に、ジョンはそう言ったのだね?」
サー・アーサー・コナン・ドイルは、浅野和三郎に尋ねた。
「それはどうだか・・・なにしろ、暗闇の中でドタンバタンの大騒ぎ、そのさなかにそっと囁かれた言葉でしたから。ただ、私の耳にはそうと聞こえたのです。」
英国最高の物理的霊媒という異名を取るルイス老人が、闇の中で呼び出した「ジョン」は、浅野の耳に口をつけ(それが口だったのであれば、の話だが)、ややくぐもった聞き取りにくい声で、こう言ったのだ。
|まっすぐ帰るんなら、今だぜ。《Now, you can go back straight.》
|海峡に行ったら、もう戻れないぜ。《You can’t come back from the strait.》
「『まっすぐ』と『海峡』の発音は、似ているからね。だが、聞き違いなのだとしたら、それぞれ、まるで意味が通らない。」
ドイルは、口をへの字にして考え込んだ。
「君、よく聞こえなかったものは仕方ないのだから、いったん、君の記憶ならびに解釈が正しかったものと仮定して考えてみよう。」
大成功のうちに終わった世界スピリチュアリスト会議の1ヶ月ほどあと、浅野和三郎は、例のケンジントン公園の円形池のほとりのベンチで、ドイルと久しぶりに話をしていた。他に人はおらず、またも一対一である。しかし、思わぬスパイ疑惑をかけられた前回とは違い、今回ははじめから、まるで終生の友であるかのように打ち解けた会話となった。
ただ、二人が交わす、その会話の内容自体は、ひどく奇妙なものである。
ドイルは言った。
「前半は、君の身になにか良からぬ運命が差し迫っているという切迫感を感じさせるね。そして後半は、より具体的に、海峡に行ってはいけない、と君に警告しているのだ。『海峡』がなにか別のことの暗喩でなければ、おそらく君は、英国を出てはいけないということになるね。」
「ドーヴァーの白亜の崖を眺めることは、私にはもう二度とできないということですね。それは困った。一週間後には、私はまさにその海峡を渡って、フランスに行くことになっているのですから。」
「いったん日延べをしても意味はなさそうだね。時期についての警告は、ジョンは何もしていないのだろう?」
「ええ、そうです。」
「なんなら、いっそのこと、このまま英国に居着くというのはどうかね?」
ドイルは、笑いながら言った。
「私も老いたし、心霊研究に有能な助手が欲しい。君ならまさに、その役にうってつけだよ。」
「ありがとうございます。ただ、私にも故国に仲間が待っていましてね。年末までには、日本に帰国しないといけないのです。」
「まあ、君にも立場がある。それは、もっともなことだ。」
「卿のお言葉は本当に嬉しいのですが。」
「半分冗談だよ、気にしないでくれ給え。それにしてもだ、まさか、あの狭い、人目にもつくドーヴァーでなにか凶事が起こるとは、ちょっと考えにくいね。おそらく別の・・・これから君が行く先、あるいは帰る先に横たわる、どこか他の海峡に危険が待っているということではないかね?」
「実は、私も卿のご見解と同意見です。ジョンは、明らかになにか別の海峡のことを言っています。」
「なにか、心当たりがありそうだね?」
ドイルは、浅野の顔色を見ながら聞いた。
「実は・・・あるのです。とても奇妙で、卿以外の人にはこれまで、全く話したことがないのですが。」
「ぜひ、聞きたいね。話してみてはくれないか?」
浅野は、ドイルに尋ねた。
「関門海峡、という海峡のことをご存知ですか?」
「もちろん、知っている。行ったことはないがね。日本列島の、本州と九州を隔てる狭い海峡のことだろう?」
「そのとおりです。お詳しい卿ならご理解いただけると思いますが、この海峡は、わが国の歴史において、極めて重要な役割を果たした海上交通の要所なのです。」
「うむ。たしか、源平合戦での最後の決戦が行われた場所でもあるね。壇之浦と言ったか・・・?」
「さすが、よくご存知で。あの戦いで、平家一族が滅亡しました。時の幼帝も多数の皇族とともに海に身を投げ、戦いの最終局面では、実に数多くの死者が出たと伝わっています。」
「ひとつの騎士団が、劇的な、そして悲惨な最期を迎えたのだね。」
「そして、どうやら、私は毎晩、少しづつそこに向かっているようなのです。」
ドイルが、訝しげに眉をひそめた。そして、言った。
「毎晩、とはどういう意味かね?」
「夢に見るのですよ。ほぼ毎晩。英国入りして、ハムステッドに泊まるようになってからのことです。しかも、物語が続いている。いつも中途で目覚めるのだが、次の夜にはその続きが夢に現れるのです。」
「それは・・・妙だな。明晰夢かね?つまり、君は、それを夢と自覚した状態で見ているかね?」
「いえ、明晰夢ではありません。私は夢のなかで完全にその当事者になりきっています。私は、中世の日本の武士です。四郎という名までついています。そして、忍者とおぼしき女の従者をひとり連れて、これから、どうも壇之浦に向かうことになるらしい。話は行きつ戻りつして、何度も同じ場面を繰り返して見ることもあるのですが、全体に、ゆっくりと前に進んでいる。しかも、なんど同じ場面を夢に見ても、話の筋があとから変わることは、一度としてありません。」
「それはさすがに、実に珍しい事例だね。夢というものは、たとえそれが何かの予知夢だったにせよ、細部はどこか曖昧で、矛盾に満ちているものだ。なにか、そういう物語を過去に読んで、強烈な印象を持っているということはないかね?」
「いえ、全くありません。このような奇妙な物語を読んだ記憶はありませんし、そもそも夢の中で次になにが起こるか、まるで予想もつきません。しかし、敢えていうなら一人だけ、自分が現実世界でもその名を知っている人物が、夢に出てきました。」
「それは、誰かね?」
「厳密には、彼も架空の存在のはずなのですが。他人の書いた物語の登場人物なのですよ。ラフカディオ・ハーンがまとめた、『怪談』に出てくる盲目の琵琶法師です。」
「ラフカディオ・・・ああ、あのアイルランド人か。聞くところによれば、君は、東京で彼の教え子だったことがあるそうだね?」
「はい。一切の世辞抜きに、物静かで知的で学識の高い、素晴らしい先生でした。私がその後英文学の道を志したのも、おそらくはハーン先生の影響が残っていたからだと思います。」
「なるほど。彼は心霊主義者だったのかね?」
「いえ全く。ハーン先生から、この方面で影響を受けた訳ではありません。当時、私は、まだ当たり前の西洋合理主義の信奉者でした。心霊主義に関心を抱くようになったのは、ずっとあとのことです。」
「そうか・・・ところで、ホウイチだったね、その盲人の名は?」
ふっと、ドイルは言った。
「いや私も、当然、『怪談』くらいは読んでいるよ。あれは、そのくらい有名なおとぎ話だ。君は、夢の中でホウイチと話したのかね?」
「いえ、それがまだなのです。現在、私は、周辺を統治する国王の父親から一連の任務を与えられたところです。その最初の指示が、まずは芳一に会うこと。ただし、夢の中で私が居るのは、『怪談』で語られた芳一の受難の、数十年あとのことです。」
「ふむう。全く奇妙だ。時期まで具体的に指定してある夢、か・・・しかも、毎晩のように続き物の。なにか、それ自体がひとつの怪談のようだね。しかも、遠く離れた英国にて、見ず知らずのウェールズ人に取り憑いた心霊がどうもその夢のことを知っており、ある場所に行くなと警告してきているらしい、と。」
「まさに、卿におまとめいただいた通りです。夢に何らかの霊的な示唆の効能があることを、私は疑ったことはありません。しかし、今回の夢はあまりにも具体的すぎ、生々しすぎ、私には、それが現のことであるとしか、思えないのです。」
「なるほど・・・君は、夢が続いていると言ったね。そしてまだ、海峡には達していないと。夢の中での君は、今日現在、どこで、なにをしているのかね?」
浅野は、昨夜夢に見たばかりの、霜降城土牢での出来事をドイルに話した。
自分の母親が目の前でどんどんと毀れていく、その有り様があまりに辛くて、この恐ろしい夢のことを、信頼する誰かに聞いてもらいたかったのである。
「奇妙だ・・・とても奇妙だ。」
ドイルは、なぜか自分も少し打ちのめされたように言った。
「わしは日頃いろいろな人から、夢見状態における、さまざまな霊的現象のことを聞くが、こんな妙な話は始めてだ。さまざまな欠片が散らばり、しかも、相互につながり、なにひとつ不自然なものがない。しかしその一片一片は、どれも、ひどく不気味で、とても奇妙なものだ。」
「やはり、卿もそう思われますか。」
浅野は、ほっとしたように言った。
「おそらく、老境の長旅で疲れているのです。じわじわと弱った身体に、おそらくこれまでに接した様々な人の体験談や、大昔に聞いた伝説、あるいは大人になってから読んだ各国のさまざまな物語などが、妄念となって取り憑いているのでしょう。」
「君は、まるで精神分析医のようなことを言うね。」
ドイルが、浅野を少し冷やかした。
「あの、明らかなる霊的現象をすべて人間の遠い記憶やら想念やら集合的無意識とやらにまとめてしまおうとする連中だ。私は、好かんがね・・・ただ、いま思い出したんだ。夢の中で、君の・・・いや、四郎という男の母親が牢の中で示した症状と、そっくりの報告を読んだことがあるよ。」
「え、そうなのですか!」
浅野は、驚いて聞いた。
「うむ。だが、著者の名前を思い出せない・・・そうだ、ドイツ人だ。あるいはオーストリア人だったかも。今世紀の初頭、まだ世界戦争の前に、彼が故国で知り合った女性患者を観察し続けた記録だよ。彼女へのヒアリングは、最初、まるで我々も行う降霊会のように、テーブル・ターニングから始まるんだ。そのうち様々な人格が彼女に取り憑き・・・または内部から現れて、彼女はまるで、別人のようになる。」
「なるほど・・・幼い子供にも、大人にも。」
「そう、それぞれ名前がついていてね。年齢性別はもとより、性格や教養については、それぞれ、見事なまでにバラバラだ。書いた男の名を思い出せないのだが、さすが医師だけあり、冷静かつ詳細に取られた、症例としては素晴らしい記録だ。たしか彼がまだ若い医学生だった頃の卒業論文だったと思う。原文はドイツ語で、医者仲間のあいだで回覧されていた英語の抄訳版を私は読んだのだ。私は、これは医学的事実というよりも、ひとつの霊現象だと思った。だから、私が出資して作ったピカデリー通りの心霊文庫に、たしかその写しを数冊入れておいたはずだ。」
「心霊文庫には、倫敦に来てすぐ伺いました。しかしその書籍は見落としましたよ・・・まだ、あんな夢を見る前でしたしね。よろしければ、是非購入させて下さい。」
「畏まった。このあと問い合わせて、君がフランスに発つ前にはハムステッドに届けるようにしておこう。なに、私から無償でプレゼントするよ。君とは、長いお別れになるからね。もう、今生のうちに会うこともあるまい。短い間だが、とても愉快な話ができた。礼を言うよ。」
「なにを仰いますか!卿は、まだまだお元気ですよ。身体も頑健そのものだし、気力も充実しておられる。きっと百まで生きる筈です。」
「上手を言うね。だが、こればかりは順送りだ。私もさして長いことはあるまいよ。それに・・・。」
ドイルは言った。
「あちらに行けば、会いたい人も居るからね。」
「お聞きしております・・・世界大戦で、英国のため、卿は大勢のお身内を亡くされたのでしたね。おいたわしい限りです。」
「そう。長男を亡くしたよ。ずっと歳の離れた弟も。現在の妻の弟レッキーも死んだ。だが、レッキーとは、ある降霊会でちょっとした会話を交わしたことがあるんだよ。それは、私とレッキーしか知らない、ごく個人的なことについての内容だった。君、死後の世界というのは、必ず在るのだよ。たぶん、ほんの、我らのすぐそばに在るのだ。」
「もちろん、私も、その確信を持っております。しかし、なにも貴方がわざわざあちらに行かずとも、この世から息子さんと会話を交わす方法が、きっと、近いうちに見つかりますよ!かのオリバー・ロッジ卿も、大戦で戦死された息子さんと、会話を交わしたそうではないですか。」
「レイモンド君のことだね・・・私の息子は、まだ、連絡を寄越してはくれないよ。以前、クルー・サークルのホープ君が撮ってくれた写真に、キングが・・・長男の名だ・・・キングスリーらしき顔が写っていたことはあったがね。話をしたいものだな。あちらの世界は、どんななのだろう?」
「なに、気をしっかり持たれて!この世でもう少しだけ、お待ちなさい。必ず、キングスリー君と交霊できる日が来ますから。」
浅野は、「強面」ドイルの目元に、うっすらと涙が溜まっているのを見た。