序章 文化元年(1804年) 秋 長門国 豊浦郡
文化元年 (西暦1804年) の初秋、長門国豊浦郡のとある磯辺で、海人の権蔵という男が、奇妙なものと一緒に海中から揚がって来た。
権蔵は、この近辺の磯から、短い柄のついたたも網だけを肩に抱えて海に入り、海中の海栗を手で拾い集める素潜り漁師である。無口で、人付き合いも下手な男だが、誰よりも長く息を止めたまま泳ぐことができ、誰よりも深く海中の広い範囲を泳ぎ回ることができるため、海人としての腕は良かった。
海から揚がった権蔵は、ひとつため息をついて、たも網一杯にぎっしり詰めた赤海栗や紫海栗のあいだに挿さるその奇妙なものを手に取り、しばらくためつすがめつしていたが、やがてどうしようも無さげに首を振り、そのまま自分の家に戻った。
小半刻ののち、海水と汗を拭い、粗末な袢纏を着込んだ権蔵は、それを手にして、村の外れの寺へと向かい、自分が幼い頃に寺子屋の学童として教えを受けた、青海和尚を訪った。
青海和尚は、久しぶりの権蔵の訪問をことのほか喜んだ。権蔵は、いまでこそ毎日黙って海に潜るだけのはぐれ海人となってしまっているが、かつては、青海の開いた寺子屋に集まる近在の童の中でも、その利発さと好奇心において群を抜き、将来いっぱしの者になるのでは、と淡い期待を抱かせてくれた存在であったからである。
しかし、その後十数年にもわたり断続的に打ち続いた磯焼けと、それに伴う両親の窮迫とが、この童の未来を奪ってしまった。極度の貧困と人生の辛酸を舐めたことで、この利発な童はすっかり変わり果ててしまい、齢三十のなかばを過ぎて妻帯もしていない。両親はとっくの昔に亡くなり、他に身寄りもいない権蔵は、村の外れのほうでただもぞもぞと動きまわるだけの、彼自身が無口な陸地の海栗のような存在となってしまっている。
かつては、青海の口利きで船に乗り込み、最寄の網元に目をかけてもらい、権蔵自身もやる気を奮い起こして両親の残した多額の負債を弁済すべく頑張り続けた日々もあった。しかし、かつて寺子屋でキラキラした学才を発揮し、ともすれば、子供ならではの無邪気さから周囲を見下すような傾向のあった権蔵の、憎たらしいしたり顔をまだ鮮明に記憶している仲間の漁師たちからの当たりは厳しかった。
そんな日々の続くなか、度量と愛嬌に欠け、人との付き合い方においてどこか不器用な権蔵の心はいつしか疲れ、冷えてしまった。彼はいまでは、仲間たちからはるかに距離を保ち、一切の面倒な諍いを回避し、はぐれ海人として毎日ひとりで村のはずれの海に潜っては、仲間が引けた後の市場へ、たもに詰めた海栗を安値で売捌に行く。
そうして手にした僅かの銭も、ほとんどはその日のうちに消えてしまう。鬱積した想いをしばし忘れさせ、冷え切った身体と心を、ほんのわずかの間だけ暖めてくれるもの・・・すなわち安酒による慰めだけが、今では権蔵の生きるよすがになってしまっているのだ。
青海は、この中年のはぐれ海人の人生に対し、なにか大きな負債を負ったような気がしてならなかった。かつて自分の寺子屋で必要以上に目をかけ、まわりの子らの要らぬ嫉視の的にしてしまったこと。その後の窮迫に際し、何ら経済的な支援をしてやれなかったこと。そして、権蔵と周囲の漁師たちとの間を、うまく取り持ってやれなかったこと。
もちろん、青海には青海の人生があり、このうら寂れた漁村唯一の寺を切り回す彼は、常にそれなりの重荷や問題を抱えている。いつまでも、いい大人になった権蔵のことばかり気にかけてはおられない。
しかし、この子はあまりにも運の悪い、あまりにも不憫な教え子だ。今日も、縁側にちょこんと座るその姿を見て、青海は、胸が少しばかりしめつけられるような気がしていたのである。
権蔵は、困り果てた顔で、青海に言った。
「これですだ、先生。こんなものが、海の底に斜めに突き立ってやがったんで。」
そう言って、手にした細長い棒状のものを青海に手渡した。
長さは四寸ほど。棒というよりは、平たい板状のものが、長く伸びたような形をしている。ただ一直線に長いだけではなく、握ってみた手元には、両横に少し飛び出た突起が認められる。長年月、海底に沈んでいたらしく、表面は藻やら昆布のようなぬめぬめとしたものに覆われ、ところどころ藤壺のような固い付着物が下の金属と密着して、その正体を隠している。しかし掌に感じる、ずしりとした重さから、この下にあるのはおそらく何らかの金物であろうと察せられた。
「沈船やその名残が、付近に無かったか?」
青海は尋ねた。
「むかし、海峡の付近で時化に遭い、沈んだ唐船かなにか。その積荷ではなかろうか?」
「それは、おれも考えました。」
権蔵は言った。
「まだ少し息も続く気がしたけ、ちょっとばかり周辺をあてどもなく泳ぎ回って、探してみたんだども・・・。」
「見つからなかった、なにも。」
青海が勝手に言葉を受けた。そして、続けた。
「これは、明らかに人の手になるものじゃ。なんらかの金物。そして古いもの。自然に海の底に転がっているものではない。」
「へえ。」
権蔵は頷いた。
「だどもよ、もう息もつげなくなって、おれ、慌てて水面に上がっただ。」
「戻らなかったのか、また?」
「うん。」
「なぜじゃ?」
青海は尋ねた。もし沈船が付近にあるなら、それはまさしく宝船の可能性がある。数多くの古銭や陶磁器、武具など、さまざまなお宝が散らばっているはずだ。黙って引き揚げ、少しづつ売り捌けば、それなりの額には、なる。おそらく、権蔵の人生で初めて向いてきた運だとも言える。この頭脳明晰な男が、そのことに気づかぬ訳はない。なのに、なぜ?
「それはたぶん、ご禁制だしよ。」
青海の思いを察して、権蔵が、先回りしてきた。
「引き揚げたところで、どうせ、御上がなんのかんのと仰って、みんな持ってってしまう。それに、浜の。」
少し、憎々しげな眼をして村の船溜まりのあるほうを顎でしゃくって、
「浜の連中、おれがそんなもん見つけたと知れたら、いったい何を言い出すか。あのあたりは、浜の連中は誰も潜れねぇ、おれの縄張りだ。奴らも、潜ったところで大した稼ぎにならねえと知ってるから、おれの勝手にさせてる。でもよ、宝船があると知れてみろ、わんさとやって来ちゃあ、ああだこうだ理屈をつけて、おれの縄張り荒らすに違ぇねえ。そうなりゃ、おれは、すぐに喰いっぱぐれちまうよ。」
すなわち権蔵は、今は適切な距離を保つことで成り立っている自分と浜の連中との共存関係が、この新たな発見によって崩れてしまう可能性を恐れているのだ。青海は、今さらながら、この教え子の洞察力と、頭の回転の良さに舌を巻いた。そこまでは、青海の思いのまだ至らぬところであった。さすがだ。それだけに、惜しい。あの長年続いた磯焼けさえ無ければ。この子はきっと相応の学識を身につけ、いずれこの儂の後を継ぐようなこともできたであろうに。
「それによ。」
青海のそんな想いを、権蔵の言葉が断ち切った。
「なんか、こう・・・そう、もうあそこに、潜っちゃいけねぇような気がしたんだ。」
「ん?なんと申した?」
意外な言葉に、青海が聞き返した。
「うまく、説明はできねぇ・・・でも、海の中なのによ、おれ、なんか、背筋がこう、ゾクッとした感じがしただ。」
「なんの、話じゃな?」
「感じたんだよ、あのとき。この、なにかわかんねぇもんが、海の底に斜めに刺さっていたのを引き抜いて、なんじゃこりゃあ、と確かめていたとき、後ろから、なにか大きな手のようなもんが、おれの背中をさーっと、撫ぜていったような気がしたんだ。」
「迷い鯨でも、通ったか?それとも、海亀の鰭が触れたのではないか?」
「違うよ。おれ、びっくりして、あやうくコイツを取り落としそうになっただ。でもなんとか堪えて、両手で抱えて、すぐに廻りを見渡しただ・・・なんも、居なかったよ。鯨も亀も。もちろん魚も。ただ、まわりには薄暗い海の水だけだ。頭の上から、おひさまの光がゆらゆらと揺れながら、なんだか、ひどく遠くに見えたよ。だから、おれ、あそこにすぐに帰らにゃなんねえ、そんな気がしたんだ。」
「それから、その場に戻っておらんのか?」
「戻ってねえ。いや、もう戻らねえ。なんだか、ひどく不気味なところなんだよ。俺の縄張りの、もうちょっとだけ深くさ行ったところだ。なんだか暗くて、急な崖がどこまでも黒い奈落に落っこっていて、そもそも、なぜかあそこにゃあんま海栗も居ねえ。だから、いつもは行かねえんだけど、あんとき、ふと気が向いて、少しだけ深くに進んでみたんだよ。」
「そうしたら、見つけた。これを。」
青海は、手にしたものを、もう一度眺めながら、言った。
「そして、なにかに背中を撫ぜられた、と。」
権蔵は、はげしい勢いで頷いた。
「ひどく、奇妙な話だな。まるでそのなにかが、不気味な深みにお主を呼び込み、これを手渡したかのようじゃの。」
青海は、手にしたものを権蔵のほうへ差し出しながら、言った。
「よ、よしてくれよ和尚様。おれ、まだ怖いんじゃ。全身の産毛がよ、こう、なんかまだ、逆立ちよる。」
「うむ・・・ともかく、これが何であるのか、儂にもわからぬ。だが、斯様なことに詳しい者には、二三、心当たりがある。少し日にちはかかろうが、調べてみても良いがのう、如何する?これは、お主が見つけたものじゃ。」
「いやあ、もうええよ。わしゃ、ええ。そんなもん、もう忘れてぇ。あそこにも、二度と行かねえ。これで縁切りじゃ。ただ捨てたんじゃ、なんか撥が当たりそうだから、和尚さまのもとに持って来ただよ。何なのかわかると思うてな。でも、和尚さんでもわからねぇのなら、もう、ええ。良かったらよ、これ、置いていくから。迷惑じゃねえですよな?」
「ふむう・・・。」
青海は、考え込んだ。たしかに、これが何なのか、少しばかり興味は、ある。かといって、それほど大して価値があるとも思えない。何しろ、海底の泥がこびりつき、藻や藤壺だらけの我楽苦多にしか見えないのだ。
手元には、置いておこう。そして、次に町へ行くときにでも、伝を当たって何なのか、確かめてみよう。少しでも価値のあるものなら、町の裏通りにある古道具屋にでも、持ち込めばいい。価値がなければ、そのまま、捨ててしまえばいい。
青海は、ここまで考えた。そして、「置いていく」と語った、眼のまえの発見者の顔を見た。なんという変わりようじゃ。あの、澄みとおった瞳で往来物の綴本を開き、それに見入っていたすべすべとした餅肌の美童が、太陽と汐風を一杯に浴びて、いまではすっかりと日焼けし、罅の入った茶碗のような膚の、疲れ切った中年の漁師になっている。
青海は、ふところに手を入れ、もぞもぞとやって、一朱銀を取り出した。それを源蔵の掌の上に載せ、思いついたようにもう一枚出して、二枚を握らせた。
「まあ、なんかの足しにしろ。」
掌の中に入った、二枚の小さな四角い鋳銅は、そのまま、だいたい三日分くらいの飲み代にはなる。源蔵は、さいしょ遠慮するような素振りはしたが、その眼は輝いていた。価値のわからぬ我楽苦多に、優しく代価を支払ってやることで、儂は、かつての優秀な教え子の人生を、また一段と駄目にしてしまっておる。なんと、悪い師じゃ。青海は、内心で自らの行いに苦笑した。