第十三章 安貞二年(1228年) 秋 長門国 霜降城土牢
まるで、この土牢のなかでだけ、時間が止まったかのようであった。
四郎は、先ほどの自らの打撃によってしなり、皺の寄った蒼竹を掴みながら、唖然としている。狩音は、あまりに予想を越えた事態をすぐと受け止めることができず、ただ眼を瞠っている。
そして・・・母は、きょとんとした、幼兒のようなあどけない表情で、二人のほうを見ている。彼女は、甲高い、幼児のような舌足らずな声で、こう言った。
「あたし、いたずらをして、しかられてしまったの。悪いのは、かがちなの。だから、いま、おしおきされてるの。」
そうして、また泣きべそをかきながら、その場にうずくまってしまった。しかし、少し気を取り直したように、四郎に言った。
「ね、おともだちに、なってくれる?いっしょに、あそぼ。」
「母上・・・戯れておられるのか?四郎が、四郎が、お救いに上がりましたぞ。ここから、出ましょう。共に、城の外へと、逃れましょうぞ。」
不思議なことだが、四郎の声は、今はもう冷静そのものだった。
「にげちゃ、だめなの。だって、またおこられちゃうから。かがちは、ここにいなくちゃいけないの。」
母は、あどけない表情で言った。
「母上。いったい、何を言っておられる?気をたしかに持たれよ。おそらく酷い扱いを受けておられるのであろうが・・・まずは、お気を確かに。」
「あなたは、だあれ?なにを、いっているの?」
「母上・・・」
ここで、狩音が四郎の肩に手を置いた。思わず見上げる四郎に、相手に合わせるよう、その眼で伝えた。そして、後を引き取った。
「かがちちゃんね。あたし、かりね。あそびにきたの。ここは、かがちちゃんの、おうち?」
母は、嬉しそうに眼を輝かせた。
「うん。そうなの。かがちの、おうち。これから、ゆうげのしたくを、するんだよ。」
「うわあ、いいなあ。あたし、山道をずっとずっとあるいて、おなかすいちゃった。ゆうげのしたく、おてつだいするから、いっしょに、食べよ。」
「うん。いいよ。いっしょに食べよ。でも、そのまえに、かがちが、おうたをよむね。」
「おうた?」
「うん。かがち、おうたがうまいんだよ。みんなに、ほめられるの。ちょっとまっててね、いまかんがえるから!」
そして、その場の地面に胡座をかいて座り、まくれた裾から秘部が顕になるのも構わず、口に手を当てて、なにごとか考え始めた。
年の頃はもう四十にもなろうかという貴婦人が、まるで童のように座り込み、あどけない光を放つ瞳を宙に向けたまま、小さくぶつぶつ呟いて、何ごとか考えている。あまりに異様な光景である。
さすがの四郎も、いま、自分が何をなすべきなのか、全く考えが浮かばない。しばらくは、このまま、狩音の機転に任せるしかなさそうだった。
やがて、藤の方、いや「かがち」は、眼を輝かせ、手を打って喜んだ。
「できたよ!おうたができた。」
「え、いいね、きかせて!きかせて!」
狩音が、調子を合わせて聞いた。
得意げな顔をして、「えへん」と小さく咳払いをした「かがち」は、まるで短冊を持っているかのように片手を前に差し出した。そして・・・。
大人のような、深みのある太くて低い声で、朗々と歌を詠んだ。
「射干玉の 昏き深水に 沈みゆく
君が御剣 水漬く屍」
「え?なんていったの?」
狩音が、なおも調子を合わせて、聞いた。
「むつかしくて、かりね、わかんなかったよ。」
「え、わかんなかった?」
いつの間にか、あどけなく甲高い声に戻った「かがち」が、不思議そうに答えた。
「いつもは、ほめられるんだけどな・・・つまんないな。」
「ごめんね。たぶん、かりねが、ばかなの。だから、意味をおしえて!」
「うん。わかった!じゃ、べつのおうたを、よむね。」
かがちは、特にこだわる風もなく、また、口をへの字にして、考え始めた。
ほどなく、また思いついて、
「じゃ、よむね。」
と言った。
「夕闇の 道たづたづし 御裳裾の
我手を曳くは 失せし空蝉」
歌を詠むとき、また、あの太くて低い声になった。そして・・・。
今度は、その声のまま、こう言った。
「ふふふ、狩音さんとやら。人に合わせるのが、げにお上手な。」
四郎と狩音は、びっくりして立ち上がった。
「すまぬ、すまぬ。ちと、戯れた。」
野太い、男の声で言った。もちろん、顔は、あの美しい母のままである。しかし、眼が少しぎらぎらと輝き、口元が上がって、こちらを嘲笑しているかのように思える。
「ふたりとも、驚いておるな。なんと呆けた顔じゃ。よろしい。訳を教えてやろうぞ。まずは安心せい。お主の母は、まだ生きておる。」
男は・・・いや、母の顔をしたそれは、まず四郎のほうを向いて、言った。
「輝血は・・・いや、いまおぬしらの前に現れておった幼兒の名じゃが、輝血は、お主の母が好きでの。こうして、いつも取り憑き、ただしくしく泣いておる。たまにこの牢に人が来たときだけ立ち上がり、得意げな顔で、実に下手くそな歌を詠む。今のような、の。」
「お主は・・・お主は、誰じゃ!」
四郎が、その、なにかわからぬものに向かって、問うた。
「母じゃ・・・お主の、最愛の母じゃよ・・・というのは、嘘じゃ、はっはっは!」
「わかっておる。母ではない。母によく似た、全く別の者であろう!」
「いやいや、母じゃよ。身体は、母じゃ。お主の母じゃ。だが・・・いま一寸ばかり、儂らがそれを借りておる。」
「何じゃと!」
「いや・・・それも違うのう。儂らは、お主の母の一部じゃ。これまでの優しいお主の母は、母の、ごく一部であった。その陰では、儂らがずうっと、物も言わず、息を潜めて隠れ居ったのじゃ。」
「儂ら、じゃと・・・面妖な!」
「お主の口から、面妖という言葉が出るとはな。在るのはただ現し世かぎり。あの世などなし、妖かしなど居らじ。いつも、この母の前でそう申しておらなかったか?これこそ、大いに面妖なことだの。」
「巫山戯るな!」
ここで、二人の噛み合わない会話に、狩音がまた割って入った。
「お主、まずは名を名乗れ。かがち、とは違うのだな。」
「その通り。我が名は、木通丸。当年とって廿三、坂東から流れ来たりた旅の武者じゃ。以後どうか、お見知りおきを願うぞ。」
「ひとまず、わかった。」
狩音が首筋に置いた手の温もりのおかげで、四郎もなんとか平静を取り戻し、木通丸に言った。
「では、木通丸。まずは、これまでのことを、わかるように説明せよ。」
「うむ。そう来なくてはの。なに、儂はお主らの敵ではない。いまお主らが胸のうちで疑うておるような、妖かしでもない。先ほども言うたように、儂はもとから、お主の母の、一部なのじゃ。」
低い男の声で、ただ得々と語る母。異様な光景だが、四郎と狩音は、どうやら、漸くその状況に慣れ始めていた。
木通丸は、言った。
「おぬしたち、いまの己が己自身だと、本当に思って居るのか?人は、己の中に、さまざまな己を飼っておる。強い己、弱い己、猛き己、脆き己・・・清らかな己、そして醜き己。」
こう言って、母の顔のまま、にやりと笑って続けた。
「その時々、いろいろな目に遭うて、様々な思いに取り憑かれて、人はその都度、変わるのじゃ。変わって参るのじゃ。最初から最後まで、己であり続けることなど、ありはしない。おぬしらは、時とともに、別の誰かに、変わるのじゃ。同じ己だと思うておるのは、単に、前の己のときのことを、そのままずっと覚えておるからに過ぎぬ。」
四郎と狩音は、眉間に皺を寄せて、そのなんとも異様な講釈を、ただ黙って聞いていた。
「己の中には、違った己が居る。そして、新たに生まれ、死んで行く。それは、時とともに、常に人の中にて起こっておることじゃ。しかし、はじめから、ずっとずっと心の奥底に飼っておる、別の己も居る。」
「それが、お主だと申すのか、木通丸?」
「その通りじゃ、わが息子よ。儂は、お主の母なる女子の、心の奥底に在る、もうひとりの母じゃ。先ほどの輝血も同じく・・・あの兒は、母のなかの、心細さや寂しさを写し取っておる。儂は、聡くて明晰な、いわば智慧の化身じゃな。そして母のなかには、儂らの他に何人もの、別の母が居る。」
四郎は、思い出した。
まだ十三歳のころだ。大雪の降る山中にて、体力を過信し過ぎて行き倒れになりかけた際のこと。頭が朦朧とし、ふらふらになった若き四郎は、目の前の、雪に埋もれた杣道の真ん中に、見事に掘られた立派な地蔵が鎮座しているのを見た。たしかに地蔵のように思えたが、ごく近くまでたどり着き、手で触ってみると、それはただ、大木の切株のうえに、大きな石がたまたま載っているだけのことだった。
また次には、彼方の路端に、黒ずくめの袈裟を着た僧侶が、網笠を被ってじっと立っているのが見えた。それは、いくら歩いて近づいて行っても黒い僧侶のままだった。そして全く、身じろぎもせずにただこちらを眺めている。
長いながい時間をかけて、よろよろと、やっと手の触れるくらいの間近に到った時、四郎ははじめてそれが、ただ木の幹に空いた大きな虚に過ぎないことを理解した。
四郎の頭はずきずきと疼き、後ろのほうにある小さな核のようなものだけが、必死に、これは石だ、これは虚だ、と訴えかけて来た。しかし、すでに冷たい岩石のように死につつあった四郎の頭の前半分は、小さなその声を、ただ物憂げに無視した。そして四郎は、自分が、自分であったと信じていたものが、その小さな核と、冷たく大きい岩のような部分とにゆっくりと分裂しつつあるかのように感じた。
人は、その生きる力が果てる際にはじめて、どうやら、それまで己と信じていたものの本質を識ることになるようであった。
やがて嘘のように天候は回復し、路傍に倒れていた四郎は、凍死を免れ、その丸一日あとに目を覚ました。恐ろしいほどに喉が渇き、腹が減っていた。
いま木通丸の語る人の本質は、そのときの四郎の記憶に重なる部分が多かった。
自分は、自分のようであって、自分でない。あのときの鮮烈な記憶が、四郎の考え方を変えた。人とは、多少の知恵と力を具えただけの、ただの生き物である。当たり前に生まれ、当たり前に死ぬ。それだけの存在である。鼠や蟻や小鳥や馬や・・・そこらの川の魚どもとも何ら変わらぬ。
永久に続くものなど、ない。目に見えぬ価値や、人だけが識ることのできる真理など、ない。高貴な仏僧の語る来世など、ない。輪廻など、ない。仏など居ない、神も居ない。人は自分を、ただ自分だと信じているだけのつまらぬ生き物に過ぎぬ。だから人とは・・・死ねば、ただそれきりの存在だ。
木通丸の語る人間という存在は、四郎にも首肯できる部分が多かった。これまで彼に、こうまで納得の行く真理を語る者は、誰も居なかった。しかめ面をして、木通丸と名乗り、どこか得意げな微笑みとともに朗々と真理を語る母の顔を睨みつけ続けている彼は、内心、この何とも奇妙な存在に、心の底から興味を持った。
「心の奥底に在る、さまざまな己。それらがの、あるちょっとした拍子で、全部、表に出てしまうことがある。お主の母が、いま、まさにそれじゃ。」
木通丸は言う。
「あの流行病に取り憑かれ、お主の母の細やかな心は、少しばかり毀れた。もとより、お主が壠に去り、一人ぽっちでこの敵だらけの山に住まい続けなければならなかった寂しさ、心細さもあったであろう。最近は、武光も少しは気を使い、正室や、その子らの迫害を抑えるように、振る舞ってはいたが。」
「それでは、母が毀れたは、儂の所為だと申すか。」
四郎が、冷静な口調で木通丸に問うた。
「そうは申しておらぬ・・・お主の母は、お主を決して、責めてはおらぬ。ただお主の安否を気遣い、息災でいることだけを願うておる。そのこと、常に共にある儂は、横目にて、ようく見ておる。」
「では、どうすれば母は治る?どう致せば、もと居た母が、表へと戻って参る?」
「それはちと、難しいのう・・・。母が戻るは、すなわち、儂らが再びもと居た心の奥へと引っ込み、二度と表へと出てこれなくなるということじゃ。母が病んで早や十日、輝血をはじめ、皆々、この自由を満喫しておる。」
「もと居た場所に、戻るだけの話であろう?このままの状態では、母は、ずっとこの檻の中じゃ。さすれば、いつかは、本当に身体を病み、壊し、お主らもろとも、冥界に旅立たねばならなくなろう。それは、お主らにとっての自由なのか?ただの、滅びではないのか?」
この、合理的な四郎の反駁は、同じく理知的な木通丸に、多少の影響を与えたらしかった。「彼」は、しばらくだまり、やがてこう言った。
「たしかに、そうじゃの・・・お主の母の身体は、喩えるならば、舟のようなものじゃ。母をも含めた、儂らを全員、載せる舟。舟が沈んでしもうては、儂らとて海の藻屑じゃ。それは困る。」
「さすれば、母の身体をもとに戻すことこそ、お主たちの生き伸びる道ということになる。吾に教えよ、その方法を!」
「ふむ。わが息子の機転、叡智は、なかなかのものじゃ。のう、朧冠者よ。」
木通丸は、どこか他人事のように、他者に呼びかけた。
それと同時に、母は、両手を耳のあたりに当て苦しげな顔をした。見る間に頬が紅潮し、汗が噴き出し、髪が乱れた。そのまま顔を覆い、ウンウンと唸りだした。そして・・・。
別の者が、出てきた。
その者は、しばらく獣のように唸り続け、四郎を威嚇するように睨んで、口を開いた。
「若造が・・・なにもできぬ、口ばかり達者な、この、無力なこわっぱが!」
憎悪と呪詛と、この世のすべての害意と悪意をかき集めたような、がさついた声で言った。
「今度は何奴ぞ!木通丸ではないな。」
「その通りよ・・・儂の名は、朧冠者。覚えておけ。お主が死に際、また耳にすることになる名じゃ。」
「お主も、儂の母の一部ではないのか?わが母が、子の儂を殺すのか?」
「ずーっと、殺したかったわ、この毛虫が!」
朧冠者は立ち上がり、四郎に覆いかぶさるようにして、大声で吼えた。
「お主が生まれ落ちたときから・・・血だらけの、ぬらぬらしたお主が妾の陰部からずるりと音を立てて、出てきたときから!妾は、お主をひねり潰したかった。縊り殺したかった!あの忌まわしき、厚東武光の血を享けた呪われし怪魔の嬰児よ!」
「ほざくな、この化物が!」
あまりのことに呆然とした四郎の脇から、決然と、狩音が叫んだ。
「引込め、化物め!心の奥へと、沈んでしまえ!お主の居場所は、そこじゃ。光の届かぬ、深淵の泥の中じゃ。この世の光は、お主の如く忌わしき化物に当たるには勿体なさ過ぎる!」
ぴしりと、果敢に言った。
朧冠者は、苦しげに唸り始めた。顔が歪み、呼吸が乱れ、声が切れぎれになってきた。母は、ふたたび手を顔にやり、汗にまみれた膚を掴み、あちこち引っ掻きはじめた。そのまま、まるで海老のように身を反らせ、大声で吠えた。そしてそれも止んで、腰が抜けたように尻から床に落ち、呆けたような顔で壁に凭れて眼を瞑った。そして・・・。
しくしくと、また泣き始めた。
狩音が、おそるおそる聞いた。
「かがち、ちゃん?」
母は、泣きながら頷いた。そして言った。
「ごめんね、ごめんね。ぜんぶ、かがちがわるいの。かがちがいたずらしたから、おとなたちが、みんなでおこるの。かりねちゃん、ほんとにごめんね。」