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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第十二章  昭和三年 (1928年) 秋   倫敦周辺

ホーランド・パークの心霊大学(サイキック・カレッジ)にて、ルイス老人を霊媒としたあの賑やかな降霊会に参加した翌朝、浅野和三郎は、ともに日本の心霊/超常現象研究界を代表する福来友吉(ふくらいゆうきち)教授とともに、サウス・ケンジントンのクイーンズ・ゲート・ホールに居た。


平素はコンサート・ホールとして使用されている、五階ぶんの高さをぶち抜いた大伽藍(だいがらん)。その屋根の下に三百名にも及ぶ各国代表団とさらに数百の聴衆が座り、熱心に壇上へ眼を注いでいる。


開会に先立って、まず壇の脇に控えた弦楽四重奏の楽団が荘重な音楽を奏し、引き続いてアーサー・コナン・ドイル卿がその六尺豊かな巨躯(きょく)を揺らして、ゆっくりと演壇に立った。卿は簡単な開会の辞と、遠来の客を(いたわ)る歓迎のことばを述べ、まず威厳たっぷりに場内を見渡した。


そして、聴衆を(あお)るように、こう付け足した。

「とかく、世の風評とは、全く当てにならぬもの。遠来の同志、そしてお客様方、こちらに来られてみて如何ですか?英国名物の曇り空は、いったい何処に行ってしまったのでしょう?そして、あの陰鬱(いんうつ)極まりない霧は?このところ、朗らかな快晴続きで、なんとも心地良い限りです・・・怪しげな怪異を語る変わり者どもが(つど)いて、ひそひそと、心霊やら冥界やらの話をするのには、なんとうってつけの天気でありましょうや。」


場内は、爆笑に包まれた。自らを愛嬌のない強面(こわもて)と評したドイルは、どうやら、浅野流の諧謔(ユーモア)を、わずか一夜で早くも身に付けたらしかった。


「その天気に劣らず、世界中でとかく評判の悪いのがわが英国紳士の無口、陰気さ、無愛想さであります。こちらも、お天気同様、その不名誉を(そそ)ぐべく、我ら全力を以て皆様をおもてなし致しましょう。どうか、なにくれとなくお申し付けください。」


笑わぬ「顔役」ドイルの、この巧みなつかみ(アイスブレイク)で、場内の雰囲気は一気にほぐれた。続いて、実務家のジョージ・ベリーや理事たちが次々と壇に立った。アンドレ・リペールというフランス人理事は、英仏両語を使い分け、巧みな弁舌で聴衆を惹き込んだ。


「大成功裏に終わった三年前の巴里(パリ)大会ののち、わが心霊主義者たちの運動は、ますます全世界にその支持者の数を増やし、考究の深みを増しております。御覧ください、このホールの大盛況ぶりを!しかし、われらのスピリチュアリズムへの科学的なアプローチは、まだその(ちょ)についたばかりの段階であります。旧態依然たる既成の宗教制度、傲岸不遜(ごうがんふそん)な唯物論の脅威。まだまだ四周はわれらの信念に対峙(たいじ)する敵ばかり。油断大敵、我々はますます自らを律し、虚心坦懐に真理を探求していかねばなりません・・・未知の世界を開拓し、事物の真髄に近づけば近づくほど、われわれは神へ近づくことになるのです!」




浅野は、場内の熱気に圧倒される思いで、あたりを見廻した。


ホールの客席最前列には、英仏を中心とした社交界や政財界の著名人が、何名も集まっていた。その中には、すでに浅野とも親しいド・クレスピニ夫人やマッケンジー夫人、ヘンリー・ガウの顔も含まれている。


そして、中でもひときわ華やかなドレスを着こなした上品な老婦人が、リバーの熱弁に、熱心に耳を傾けていた。英国貴族の一端に列するハミルトン侯爵夫人である。彼女は、ソンムの戦いで次男を亡くし、以降、いわば心霊主義者たちのパトロンの一人として、多大な私財を散じていると噂されていた。




アンドレ・リペールの熱弁は、心霊主義の学際的、また世界的な広がりにも言及した。

「昨年のこと。諸君もおそらくその名をよくご存知であろう、ライプチヒ大学のハンス・ドリーシュ教授が、われら心霊主義者による主張の、科学的学説としての価値を認めました。同教授は、1891年、ウニの(はい)を分割して完全に同じ二個体(クローン)のウニを複製することに成功した、いわば生命の新創造主ともいうべき偉大なる科学者であります。生命とは、合理主義者たちの語るような機械的なものではなく、既知の物理法則、化学法則では説明できない、なにか別の原理が宿っているのであります。われわれ心霊主義者の考究する先に、その答えが無いと、いったい、誰が申せましょうや?」


リペールは、広い場内を、自信満々に見渡した。

「さらには、わが祖国フランスの英雄にして、火星の生命や運河について長年の優れた研究を成し遂げられた偉大なる天文学者カミーユ・フラマリオン氏。氏は残念ながら数年前に逝去(せいきょ)されましたが、晩年はずっと心霊主義に則った研究を行い、名著『|未知なる自然の力《Les Forces naturelles inconnues》』の中では、降霊会でのテーブル浮揚をはじめて写真に収められました。その他、ウィリアム・クルックス卿、オリバー・ロッジ卿はじめ、実に多数の国際的科学者たちが、数多くの瞠目(どうもく)すべき研究結果や見解を発表しております・・・諸君!国際的に名を知られ、その科学的厳密さと公平性において何ら疑問を持たれ得ぬ学会の泰斗(たいと)たちが、いまや、雪崩を打ってわれら心霊主義に次々とお墨付きを与え、またこちらの研究そのものに入り込んで来つつあるのです!」


そして、浅野ら各国のゲストが座るほうに手をかざし、こう言葉を継いだ。

「さらに諸君、見給え。あちらの一角を!世界中から集えし、われら欧米の心霊主義研究家たちの(もっと)も有力な同志たちが居並ぶ、実に心強い風景を!アルゼンチン、メキシコ、キューバ、豪州、志那、印度、そして日本。古くより世界中で見られた数多の心霊現象は、これまで人類の無知、宗教的な思い込み、そして愚かなる迷妄の暗がりでさまざまな、実に歪んだ解釈をされて来ました。しかし、今や、時代は変わりました。いや、時が来たのです!我ら心霊界の実在を信じ、心霊の力を()る者がみなみな手を携え、この、争いと不公平と悲しみに満ちた、物質主義の呪詛(じゅそ)に塗れし現代の人類世界に対し、決然と声を上げるべきときが、やって来たのです!」




リペールは、壇上で片腕を宙にかざし、まるで年季の入った俳優のように自らの熱弁を締めくくった。聴衆はみなその場で立ち上がり、歓喜の声を上げ、クイーンズ・ゲート・ホールの巨大な空間には、まるで天にも、霊界にまでも届けとばかりの大喝采が響き渡った。もちろん、浅野と福来も立ち上がり、この優れた扇動者(アジテーター)の巧みな話術に賛嘆の拍手を送った。


やがて壇の脇に控えた楽団がまた楽曲を演奏しはじめ、最前列にいくつか(しつら)えられたテーブルの上では茶菓が配られて賑やかな歓談が始まり、世界スピリチュアリスト会議の初日のプログラムは盛況のうち、つつがなくすべて終了した。




翌日、世界スピリュアリスト会議は個別の講演や懇親会などに移行し、日中、浅野は多くの人々と語らって過ごした。そして晩餐(ばんさん)を終えたあと、一般聴衆向けに公開された、議長のコナン・ドイルによるスライド上映会に参加した。


ドイルは、あくまでこの会をまとめる顔役としての役割を果たすことに徹し、会を盛り上げることに全精力を傾注しているようであった。自分ひとりの名を冠したこの講演についても、あまり自己の活動や研究を事細かに説明するよりは、全般的な心霊研究の現在、未来についての展望を、素人にも噛み砕いてわかりやすくプレゼンテーションする内容になっていた。




その中でもっとも聴衆の興味を惹いたのは、なんといっても、これに先立つこと8年前、英国じゅうの話題をさらったセンセーショナルなあの事件、いわゆる「コティングリーの妖精写真」に言及したときである。


イングランド北部、リーズにほど近いブラッドフォード市郊外の高地に、コティングリーという名の美しい村がある。その村を流れるせせらぎ(ペック)が、小滝となって流れ落ち、美しい少渓谷をなすあたりで、16歳のエルシー・ライト、そして従姉妹で10歳のフランシス・グリフィスが、森の妖精たちと仲良くなった。


1917年の7月、ある晴れた土曜日。エルシー・ライトは、父親が手に入れたばかりの小さなミッジ・カメラを貸してくれとせがみ、乾板一枚だけを装着して渓谷へと降りていった。そして、すぐに帰ってくると、父親にふたたびせがんで現像させた。


そこに写っていたものは、レンズから1メートル半ほど先に座り、ポーズを取るフランシスの顔と、その前で空中に浮かぶ4つの不思議な生き物だった。いずれも体長はわずか数十センチほど。人間の女に似て、それぞれふわりとした衣服を羽織っているが、背中には大きな羽根が生え、まるで重力の法則を無視して空中をゆらゆらと舞い、踊っているように見える。生き物のうち一体は、二股に分かれた大きな角笛(つのぶえ)のようなものを吹いていた。背後には小滝がぼやけて写り、そこが何処であるかを物語っていた。


従姉妹は、その後数年のあいだに、数枚の妖精写真を撮った。当初は特に公表されず、話題にもなることなく時が過ぎたが、1920年、この噂を聞きつけたヘンリー・ガウがコナン・ドイルに話し、興味を持ったドイルが、人を介して当事者や周辺に状況をインタビューし、その内容を、かつてあのシャーロック・ホームズ(たん)を執筆した有名誌「ストランド・マガジン」へ掲載したのである。


ドイルは、特にこの写真の真贋(しんがん)を決めつけはせず、結論は読者の判断に任せるというかたちで記述したのだが、その後、巻き起こったセンセーションは破格のものだった。それまでに公表されたいわゆる怪しげな「心霊写真」と違い、昼間の陽光の下で、可憐な少女とともにレンズに写り込んだこれら罪なき森の精たちは、あちこちに転載されたそのビジュアルで多くの一般人の興味を惹いた。そして、妖精なるものの実在を巡って、あちこちで論争が起こったのである。場内に詰めかけた聴衆のほとんどが、まだ鮮烈に記憶している大騒ぎであった。




ドイルは、自分自身も関わったこの件についての経緯を、誰にとっても身近に、面白くなるように工夫して話した。

「皆さんは、お宅の赤ちゃんや家で飼う猫などが、なにもないはずの部屋の天井の片隅とか、どこか庭の遠くのほうを、ずっと興味深げに眺めていたりするような場面に出くわしたことは無いでしょうか?」


こう言って、まず微笑しながら、聴衆をゆっくり眺め渡した。

「そう・・・そこには、なにも無いのかも知れない。だが、もしかしたら、なにか我々には見えないものを、見ているのかも知れない。エルシーとフランシスは、コティングリーの美しいせせらぎの畔で、そういうものに出会ったのかも知れないのです。」


ここまで聴衆の心を(つか)んでしまえば、あとは簡単である。

「この物質世界の外、いや、ほんのちょっとしたお隣に、我々の目には見えない、別の世界が広がっている可能性は、充分にある。妖精たちの出現は、もしかしたら、こうしたことを示唆しているのかも知れません。妖精は、おそらく心霊とは違います。しかし、我らの未知なる存在であるという点では共通している。世の合理主義者や物質主義者は、こうした、彼らが真理だと決めつける、いわゆる自然法則に反した存在をまず一切否定することから始めるが、果たして、それが厳に科学的な態度であると言えるのでありましょうか?コペルニクスやケプラーが見出した真理は、当時のいわゆる科学界で、まずどのように扱われたでありましょう?新たなる発見とは、常に、その時代の支配的風潮による狭い理解の範疇(はんちゅう)の外からやって来るものなのであります!」


大喝采が、場内を包んだ。




9月10日の月曜日、午後8時。(ようや)く、待ちに待った浅野の出番がやって来た。


この日、やっと世界各地から集まった各国代表の報告会が行われることになっていたのである。クイーンズ・ゲート・ホールから場所を移して、ウィグモア街にあるグロトリアン・ホールが会場であった。もとはドイツのピアノ会社が建てた中規模の音楽講堂で、客席は280ほど。日本代表の順番は、8番目であった。


演題は、「近代日本に於ける神霊主義」。参加国多数につき、目論んでいた講演時間を半分以下に切り詰められてしまったが、浅野は、かつて小説を草していた際に身につけた表現力と、数多くの名作に接することで涵養(かんよう)された英語力、さらに、横須賀海軍機関学校における軍事教育の最重要要素、すなわち、報告内容を簡単明瞭かつ確実に相手に伝える技術のすべてを駆使して、おそらく各国代表のうち、もっとも有意義な発表を行った。


日本古来の神道が、実は近代の心霊主義と極めて共通項の多い宗教であること、融通無碍(ゆうずうむげ)で柔軟性があり、時代と共に様々に形を変えながら、長い歴史の荒波を乗り越え常に人々の心とともに()り続けたこと。唯物論や合理主義の猛威にも耐え、日本国内でこれを否定しさる者は、今日ほぼ誰一人としてその姿を見ないこと。さらに、神道を背景にしたさまざまな奇蹟や霊能者が続々と生まれ出ていること・・・。


そして話を具体的な事例に転換し、かつて霊能者長南年惠(おさなみとしえ)の起こした奇蹟、そして御船千鶴子(みふねちづこ)や長尾郁子らによる念写の事例、いわゆる千里眼事件のことなどに触れ、さらに同行の福来教授の研究結果を記載した、45ページもの英文冊子を用意している旨を付け足した。


主催者側は気を利かし、各国代表の最後に福来教授を特別に登壇させ、日本語での挨拶を依頼した。もちろん、浅野がその場で内容を通訳した。そして二人の日本代表は、用意した冊子を一冊残らず配布し切ることができた。




これ以上ないほどの上首尾であった。これまで、東洋の片隅でひっそりと世の指弾を受けながら行われていた日本の心霊研究は、この世界的な大会で大いにその存在と成果とをアピールし、浅野はその事実を、胸を張って仲間たちに持ち帰ることができるのである。


さらに、大いなる副次的効果があった。会場内でいろいろな人から声をかけられ、多くの質問攻めにあった浅野は、時間を決めてこれら一人ひとりの研究者や聴衆と膝を交えて会話を交わし、うち何名かからは、後日別途の招待などを受けた。渡英以来、ハムステッドの郊外に宿を定めて気ままに行動していた浅野のスケジュール帳は、見る間に一杯になった。


その中には、海を渡ったフランスやスイス、そしてアメリカといった諸国の人士からの魅力的な誘いもあった。いずれも、世界スピリチュアリスト会議の招待状を受けた昨年の時点では、思いもよらぬほどの成果であった。


浅野は上機嫌だった。自分が半生をかけて追い求めてきたことの正しさを示す、ひとつの幸せの頂上であったといってよい。彼は、滞英期間をやや切り詰め、これら周辺諸国、さらにアメリカでの訪問予定を幾つも入れた。




シベリア鉄道を経由し、ユーラシア大陸を横断してはや数ヶ月。このまま大西洋を周り、アメリカ大陸を横断して太平洋へ。浅野の世界一周の旅は、おそらく日本の心霊研究の歴史に残るほどの成果を挙げつつ、順風をいっぱいに受けて、大海原へと滑り出した。

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