第十一章 安貞二年(1228年) 秋 長門国 霜降城搦手
厚東四郎忠光は、狩音をあとに連れ、巨大な霜降山の裾野を、裏へ、裏へと廻り込んで行った。すでに路などなく、周囲は草木の生い茂る原生林と同じである。だが、幼き頃よりこの山に馴染んだ四郎の脚は疾く、さすがの狩音も、ついていくのがやっとというような按配であった。
小半刻も歩いた頃であろうか、谷のようになった沢の入口にさしかかった四郎は脚を止め、星々の明かりに山塞の威容を透かし見て、
「ここだ。」
と言った。
そしてそのまま、まっすぐ沢筋に沿い、丸く水流に削られた巨岩や、朽ちて乾いた流木の間を縫って、山を登り始めた。傾斜は急で、日ごろとても人が通っているようには思えぬ場所である。しかし、あらかじめ進み方をすべて心得ているかのように、四郎の足の運びには一切の迷いがなかった。
やがて、傾斜は踊り場のような小さな平坦地になり、二人の眼前にはいっぱいの叢と、繁茂する樹々の影と、そして暗闇が広がった。
「山風、おるな?」
四郎が、どこへともなく、呟いた。
「先ほどから、我らを見ておる。儂には、判るぞ。お主の眼が、わが背中に、まるでべたりと貼りついておるかのようじゃ。」
そうして脚を止め、大きく息を吸い込んだ。
「どうした?昔の馴染みであろうが。お主の、無二の親友が帰って参ったのだぞ。何も語らぬとは不義理ではないか、そうは思わぬか?」
とつぜん、前方の樹々の闇の中から、空を切り裂き、矢が飛んで四郎の脚元に突き立った。柔らかな矢柄がしなり、着地の衝撃で小刻みに震え、やがて止まった。
「これが、お主の歓迎の仕方か?ずいぶんと、ご挨拶なことであるのう。」
狙われた四郎は、そう言って笑い、矢を引き抜いて両手に持ち、しばらく弄んだあと、柄をしならせて、ぴしりと地を叩いた。そして、背後で小刀を抜いて身構えている狩音に、小声で説明した。
「味方じゃ、案ずるな。狙うてはおらぬ。戯れているだけじゃ。」
「そのとおりじゃ。狙っておらぬ。儂が本気で狙っていたら、あんたら、明日には、そこらの犲の餌じゃ。」
前方の樹々の闇の中から、低い、唸るような男の声が聞こえてきた。
不思議なことに、樹々の間なのか、あるいは樹上から降ってきているのか、声を発する相手は、位置を悟らせぬ技を身につけている。その高低や、左右が全く掴めない。四郎の広い背中の陰に隠れて、狩音は身を固くした。
「久しぶりだのう、山風。どうじゃ、ここに来て、姿を見せよ。」
「まっぴら御免じゃ。儂の居場所は、ここじゃ。」
「相変わらずだのう。長年の馴染みだというに、こそこそと闇に隠れて、儂にすらその姿を見せたことがない。どうせ、この夜中じゃ。出てきたところで、顔貌までは、大してよくは見えぬ。お主が、本当にこの現し世の人なのかどうか、ただそれを確かめたいだけなのにの・・・。」
「ほざけ。儂がこれまで、何度あんたを救けたと思うとるんじゃ。」
「そうじゃ、改めてその礼も言いに来た。折角やっては来たのだがな、すぐにまた発たねばならぬ。もしかすると、戻れぬ。だから、永久の別れになるかもしれぬ。どうした?何を黙っておる。親友が別れを言いに来たのだぞ。もっとも、別れと云うても、お主が現し世の人であれば、の話だが。」
「西へ、行くのだな?」
しばらく黙っていた、山風が言った。
「たしかに、二度と戻れぬかも知れぬぞ。あんたは、自らを信じ過ぎる。自らの力をたのみ、相手が何であろうと恐れぬ。だがの、この世には、まだあんたの知らぬ恐ろしいことも、わんさとあるのだぞ。」
ふっ、と四郎は鼻で嘲笑って、山風に答えた。
「相変わらずの説教癖じゃ・・・おぬしはたぶん、誰も来ないこの山の、誰も居ないこの谷で、草木や獣を相手に、あと千年も、くどくどとその高説を垂れ続けるのであろう。」
「おっと、それは違うな。」
山風は、なにやら面白げに闇の中から言い返してきた。
「このところ、実は儂もちょいとばかり、忙しい。今あんたが持ってるその矢の鏃に、まだ血がこびりついておる。人の血じゃ。」
四郎は、ちょっと驚き、手にした矢の先を見た。たしかに、なにかついているようにも見えるが、夜闇の中ではよくわからない。
「多々良の手の者じゃ。このところ、数名、立て続けに搦手から城内に忍び入ろうとして、ここを通った。」
「なるほどのう・・・父上は、おぬしに感謝せぬとな。ひとりで搦手を守り、優に軍勢百人分の働きは、しておる。して、その多々良どもは、なにをしに参ったのじゃ?」
「儂が、知るか。儂はただ、上から狙うて、奴らの頸を射ただけじゃ。百発百中じゃ、皆、その瞬間に死ぬ。だから、忍ぼうとした理由など、聞いてはおらぬわい。」
「それはちと、手柄にするは片手落ちだのう。」
四郎は、笑いながら言った。
「父上は、おそらく奴らを生捕にすることをお望みであろう。」
山風は、歯牙にもかけぬ調子で答えた。
「儂は、武光になぞ、なんの義理もない。おそらく、あんたの父は、多々良の者が自分の膝下にまで入り込んでいることに、気づいてもおらぬであろう。」
「なるほどのう・・・われら厚東がこの山に城を築く前から、お主は代々、この谷の主であった。」
「そして、今も主じゃ。」
闇の中から、誇らしげに声がした。
「あんたらが山をどうしようと、儂は、ただこの谷を護る。入り込んでくる奴ばら、皆々討ち取る。それだけのことじゃ。」
「ずいぶんと、物騒な親友じゃの。」
四郎は、苦笑いした。
「しかし、相変わらず健在のようで、安堵した。そこでじゃ・・・ちと、尋ねたいことがある。」
「藤の方のことか?」
山風は、言った。
「そうじゃ、やはり存じておるのか。」
「あんたは、母に会いに参るのじゃな?だが、あの冷たい父上は、会わせようとせぬ。それで、搦手に廻ってきた・・・おおかた、そうであろう?」
「さすがは山風、まさに図星じゃ。この谷を抜け、木菟の小峠を越えれば、土牢がある。母上は、おそらくそこじゃ。父は、本丸の地下に座敷をしつらえて・・・などと言うておったが。流行病の患人を隔離するのに、同じ屋を使うわけがなかろう。」
「たしかに、そうじゃ。藤の方は、その土牢のなかに居られる。流行病が伝染るなどと、聞いてはおろうが、あんたも見抜いているように、それも嘘じゃ。あの病は、伝染りなどせん。」
山風は、言った。
「まあ、よい。このまま、進め。先には特に危険はない。あんたの背後に居る小娘も、どうやら、それなりの手練のようだ。夜闇や禽獸程度は、あんたたちにとって、特に障害でもなかろう。」
「関所を、通れた。」
四郎は、狩音のほうへ振り返って、にやりと笑った。
「あとは・・・土牢の入口に詰めておる番兵をどうするか、じゃな。」
「案ずるな、番兵など居らぬ。」
山風が言った。
「誰も来ない、深山の中の寂しき土牢の入口じゃ。日に二度ばかり、餉や着替えを運んで山の上から侍女が来るが、行き来は、それだけじゃ。病じゃというに、最近は薬師すら来ぬ。」
「さすが、よく識っておるな。」
四郎は、感じ入ったように親友に言った。
「だがの、四郎殿。」
山風は、やや威儀を正したような口調で、言った。
「あんたは、あんたの父を、血の通わぬ冷酷漢だとばかり、思うて居るかも知れぬ。昔から、奴はあんたに冷たかった。よく折檻し、泣き叫ぶあんたを引っ張って、山じゅう追いかけ回して、蹴ったり叩いたりした。儂はそれを見て、あんたの境遇に同情した。それで、わからぬように救けた。いろいろと。」
狩音は、四郎がかすかに、闇に向かって頷くのを、見た。もしかしたら、目元には涙が溜まっているかも知れない。見えないが、ふと、そう思った。
「あんたの母上にも・・・同情した。こんな、人に姿も見せられぬ卑しき山の民がの。藤の方への仕打ちは、それくらいに酷かった。あの正室は、悪鬼じゃ、狂人じゃ。」
「うむ。お主には、親子ともども、本当に救けられた。改めて、礼を申すぞ。」
四郎は、真面目に言った。
「だが、の。」
山風は、言葉を継ぐ。
「あんたの父は、鬼ではない。鬼に引き摺られているが、鬼ではない。心の弱き、ただの男じゃ。外には油断なく、冷たき、厳しき貌を見せながら、陰ではつねに、自分を呪うて哭いておる。おそらくは、そのような男じゃ。」
「斯様な山奥に居って、よくもそこまで・・・やはり、お主は、まるで正体のわからぬ奴じゃわい。」
「斯様な山奥の、さらにその奥の山上で起こっておることじゃ。下々のつながりを、甘く見てはならぬぞ。」
「なるほど、わが城じゅうが、間者だらけということか・・・まあ、よい。それで、父について、なにを言いたいのじゃ?」
「もしかするとな・・・母に会わせぬは、あの男なりの、親心ではないかと思うてな。」
「なに?」
「あんたは、これから西に行く。西のほうで暴れておるという、あの海の妖かしどもを退治しに参るのであろう。言うておくが、それはこの儂でも尻込みするほどの、恐ろしい仕事じゃ・・・あんたでも、無理であるかもしれぬ。だから・・・」
「だから、何じゃ?」
四郎は聞いた。少し、声に怒気が混じっている。
「この世の最後に、あの恐ろしい母上のすがたを、見たくはないであろう。そう、あの武光は考えたのかも知れぬ。」
「なにを、言うておるのじゃ。」
四郎は、この親友の忠告を、即座に撥ね付けた。
「では儂も言うておくがの。妖かしなぞ、この世にはおらぬ。お主も、現し世のただの人に過ぎぬ。母上は、流行病じゃ。それはさぞ、見た目は恐ろしかろうて。儂もそのこと、すでに聞いておる。だが必ず、病は治る。妖かしに化けた不埒な者どもも、成敗する。そうして儂は、またこの谷に、必ず戻って参る!」
山風は、しばらく、黙っていた。
谷を吹き下ろす微風が、草をなびかせ、枯葉を舞わせて、かさこそと音を立てた。沢を流れる、わずかな量の水が、岩間をちょろちょろと溢れ落ちる音がした。遠くの方で樹々がそよぎ、葉と枝が互いに重なって、低い声でなにごとか会話を交わしているかのような気配がした。
狩音にとって、その間は、永遠のように思えた。しかしほどなく、また闇の中から、四郎にとって唯一の親友の、声が聞こえた。
「まあ、よい。四郎殿。あんたは、決して止まらぬ男だ。前に進み続ける男だ。たとえ母がどのような姿で居るとしても、それを決して恐れぬ男だ。そして、自らの力のみを頼んで、妖かしどもに立ち向かう男だ・・・儂が、闇の中から、今さら何を呟いたとて、それに耳など貸しはせぬ。そしてそのまま進む・・・その先に、どんなに暗い、どんなに恐ろしい奈落が、待っていようともな。」
前方の樹々の間から、なにやら、がさごそという足音が聞こえた。それは、わずかに遠ざかりつつ、数歩ごとに止まって、こちらのほうを窺っているようにも思えた。
「行け。進め。そのまま歩めば、あとわずかで、母に会えるぞ。」
また、山風の声が聞こえた。それは、だんだんと遠くなっていきながら、やがて、闇の中に消えた。
「進め。西へ進め。信ずるところに従って、ただ進め・・・この、勇猛なる馬鹿者よ。わが愛すべき愚か者よ!」
城主・厚東武光の側室であり、四郎の母である藤の方は、土牢の奥の一角で、ただしくしくと泣いていた。
分厚い蜘蛛の巣が、まるで白い布のようにあちこち垂れ下がる、暗く、じめじめとした陰鬱な空間。ここは、正確には地下ではなく、霜降城搦手から小峠をひとつ越えた、二の丸直下の谷底にある。突き立った崖の下、巨岩の筋目に沿って裂かれた穴を掘り進み、三室ばかりの小さな土牢が設えてある。
この土牢は、厳重な拘禁が必要な重罪人や謀叛人などを、処刑の前に閉じ込めておく場所であった。そのような罪人が生ずることは、安定した厚東氏の統治下において、まず、滅多にないことである。四郎の母は、そのいちばん奥の広い牢に閉じ込められているのであった。
他の二室は、空であった。父の言った、領内で捕えた多々良の忍は、ここに連行されるまでもなく捕えられた場所で拷問され、処刑されたもののようであった。山風の言ったとおり、いま、ここには牢番も、番兵すらも居なかった。
誰もいない、深山の懐の土牢にて、奥の隅に寄りかかり、粗末な衣をかけたまま地べたに素足をつけ、ただしくしくと泣き続けるその姿。さすがの四郎も、この痛ましい姿に茫然とし、大声で母の名を呼んだ。
しかし、母は、我が子の声にもその顔を上げようとしない。
ただ俯向いたまま涙にくれ、表情をうかがい知ることはできない。ここに着くまでの道すがら、流行病のことを四郎から聞いていた狩音は、おそらく藤の方が、痘痕だらけのわが醜い貌を息子に晒すことを恥じているのだと思った。
四郎は、堅牢な蒼竹の檻を掴んで揺すり、牢内一面に響き渡る大声で、
「母上!母上!」
と叫び続けた。
それでも母は顔を上げない。四郎は苛立ち、手にした樫の木刀でなんども蒼竹を叩きつけ、檻を破壊して中に入ろうとした。その盛り上がる筋肉が玉のような汗を放ちながら、長門国一等の怪力を以て樫の棒を振り上げ、眼にも止まらぬ捷さで極太の蒼竹を打ちのめす。
ばしり、ばしりと音がして、さしも堅牢な蒼竹にもあちこち細かく皺が寄り、数箇所で外皮が破れ、中から白い屑が舞い飛んだ。それでも、竹の持つ柔軟性はその恐るべき衝力に耐え、身をいっぱいにしならせて、ぎりぎりのところで破断を免れた。
はあ、はあ、と荒い息をついだ四郎は、がっくりと膝をつき、檻の破壊を諦めた。そして、ふたたび顔を上げて母の名を呼んだ。
今度は、母は、その声に反応した。
泣き止み、ふと顔を上げて、よろよろと立ち上がった。彼女は、そのまま牢のむき出しの土壁に片手をつき、ふらふらしながら四郎のほうに近づいてきた。そして、なにか、見慣れないものでも見つけたかのような、きょとんとした眼で、格子越しに四郎を見た。
狩音は、驚いた。その貌は、日ごろ四郎から聞かされていた通り、凛と鼻筋の通った、高貴さを感じさせるかつての藤の方、そのままである。少しばかりやつれ、青白い顔色をしてはいるが、肌は透き通るように美しく、そこには醜い痘痕も、瘡のひとつも見られない。
四郎も安堵して立ち上がり、両手で竹格子を握って、静かにまた母の名を呼んだ。
母は、四郎をじっと見て、やがてこう答えた。
「あなたは、だあれ?あたし、かがちよ。ははうえじゃ、ないわ。」