第十章 昭和三年 (1928年) 秋 倫敦 ホーランド・パーク59番地
清々しい気分でドイルのもとを辞し、ケンジントン公園を離れた浅野和三郎は、急ぎ足で西に向かった。次は、ホーランド・パーク通りの心霊大学にて行われる降霊会に向かわかければならない。少し余裕を持たせて約束を入れていたが、スパイ疑惑が晴れた後のドイルとの会話があまりに弾んでしまったため、円形池の畔で、つい時を過ごし過ぎた。
すでに陽は傾き、夕闇がじょじょに迫ってきている。倫敦の街路を構成する石と煉瓦と漆喰と、そのところどころに嵌め込まれた硝子や黒光りする金属柱などが混然一体となって、ひとつの大きな生き物のように、路を進むちっぽけな浅野を包囲した。眼前の光景のあちこちに濃い闇のたまりができ、なにかの忌まわしい罠か陥穽のように、その黒ぐろとした口を開けた。
まるで、子どもの頃に見た夢のようだ。息せききって早足になりながら、浅野は思った。利根川のほとりに育ったはずの自分が、なぜか何度も夢に見た、このうら寂しい都会の風景。百万もの人口があるはずなのに、そこには誰もおらず、動くものはなにもない。街路はただ寂とし、淀んだ空気はそよとも動かない。傲岸不遜な直線で視界を裁ち切る建物群は、それ自体がひとつの闇になりながら聳え立ち、心細げにその前を歩く浅野を圧し潰すかのように、路の両側から頭上へずいとのしかかってくる。
あの時、たしか夢の中では、浅野は絣の着物を着た童姿で、草鞋を履き、桶だか酒樽だかから取り外した、丸い箍を棒でつつきながら、輪回しをしていた。いや、木製の箍ではなく、金属の円環だったか。とにかく、まわりにいたはずの友達からはぐれ、いつしか、見たこともない都会の街路を、たったひとりで輪回ししながら駈けてゆく。もう誰にも会えぬのに、そしてこの路には終点などないのに。ただ駈けてゆく。なぜなら、立ち止まることは、できないからだ。
幼き浅野は、輪を廻しながら街路を駈け、建物のあいだの闇を駈け、上をなにかが覆うトンネルを駈け、そしていつしか、広壮な屋敷が並ぶ家並のあいだを駈けていた。しっかりと固められた築地塀、竹や金属でできた瀟洒な生垣には蔦や葉が這わせてあり、ところどころに薔薇や紫陽花や、色とりどりの、浅野が名を知らぬ可憐な花々が咲いていた。門扉はどの家も重厚で、その背後のとっぷりとした闇の中に、ずしりと重みのありそうな邸宅が沈んでいた。
誰かがいそうで、でも誰も居ない。なんとなく、そのことが浅野にはわかった。そのなかの一軒が、きっと自分の家なのに違いないが、もう今の時分には、どれがそれなのか、わからないのであった。もう家族には会えず、自分には帰るところがない。そのことだけが、わかっていた。
どんどんと、遠ざかる。自分をまもってくれていた、すべてのものから。自分が大切にしていた、なにかよくはわからぬ、とても暖かく、甘美なものから。それでも、自分はただ目の前の円環を廻して、駈けなければならない。駈け続けなければならない。なぜなら、止まれば、すべてのものが消えてしまうから・・・。
夕闇せまる倫敦の黄昏のなかを早足で歩き続けていた浅野は、そうした、あてどもない想念から目覚めた。いったい、何を考えているのだろう。ここ倫敦に来て、ハムステッドに投宿してからというもの、この自分は、本当にどうかしている。毎夜のようにだらだらと続く奇妙な夢を見たり、とつぜん今のような、本当にあてどもない思いに取りつかれたり。
まるで、自分ではない誰かが、脳髄のどこかにしがみついて、常になにかを自分の精神のなかにドクドクと注ぎ入れて来るかのような違和感だ。浅野、しっかりしろ。何度目かの、人生の切所だ。世界中のスピリチュアリストたちが参集する偉大なる大会は、もうすぐなのだ。そこで、日本の神道とスピリチュアリズムの親和性、いや両者はきっと表裏一体のものであるに違いないという、長い廻り道の末、自分が半生をかけてたどり着いた信念を披瀝する、絶好の機会が巡ってくるのだ。
そして、今はとりあえず、ここ英国でも一等といわれる霊媒のもとを、訪う途中なのだ。約束の時間には絶対に遅れないようにしなければ。
この約束は、倫敦神霊界の顔役の一人で、今回の世界大会の中心的な運営メンバーでもある、ド・クレスピニ夫人が繋いでくれた話だ。父親が元提督、亡夫も将校という海軍一家の未亡人で、独り身となったその余生を信仰と神霊研究とに捧げている六十過ぎの上品で物腰の慎ましやかな老女だが、以前、彼女の茶会に招かれたとき、浅野は見事に道に迷い、大いに遅れて彼女の不興を買ってしまったのだった。
土地勘のない異邦人に対する気遣いで、彼女はそれをはっきりと言葉には出さなかったものの、その非礼が大いに彼女の感情をよからぬほうに刺戟したことは、言葉の端々からわかった。
心霊現象に関心を持つ者、そのなかでも特に冥界からの幽かな声、朧げな囁きに耳を傾けようとする、ある一群の者たちは、普通の人間よりもはるかに繊細な神経を持つことが多い。この点、いくらか大まかなところのある和三郎は、意図せぬちょっとした言葉使いや振る舞いから、彼らの神経を少なからず痛めつけてしまうことがあった。
まだ大本の幹部で、その有り余る資力をもって買収し傘下とした大正日日新聞の主筆だった時分のこと。面白半分に武士の割腹の作法について部下と会話しているとき、同じ部屋に居た事務員が凍り付いたような表情で仕方なしに愛想笑いしているのに気付いたが、やがて耐え切れなくなった彼女は、そのまま立ち上がってどこかに消えてしまった。後で聞くと、外に出た彼女は泣き崩れ、血みどろになって痛みに耐える武士の絶望を感じ、それに打ちひしがれていたとのことであった。
以降、浅野は身を慎み、発言には極度に気をつけるようになった。おそらくド・クレスピニ夫人も、常人より遥かに細やかな神経を持っているのであろう。その顔を潰して不興を買うということよりも、彼女の、その鋭敏な精神を傷つけることを恐れて、浅野は、知らぬ路を、ただ西を目指して急いだ。
あたり全体が本物の闇に沈み始め、倫敦の街路に夜が訪れようとしていた。見知らぬ街がどんどんと暗くなり、もはや、何処に居るのかもわからなくなり、浅野は絶望的な気分になった。しかし、やがて、ふいっと視界が開け、近くと思しき一角に出た。瀟洒な白塗りの邸宅が並ぶ、とても美しい場所だった。
目的地のホーランド・パーク59番地は、実は、先ほどまで浅野の居たケンジントン公園から、距離にして半キロもないほどの近くだった。夕照のなか、建物の外壁に反射して眼を射る黄金色の光と、そのもとにできる影との悪戯に翻弄されて、浅野はそのわずかばかりの区画の街路を、要はただ、おたおたと右往左往していただけのことなのである。
気づいてみれば、定刻にもまだ少し間があった。これまでのわけもない焦りや切迫感が馬鹿馬鹿しくなって、浅野は自らの無様さに苦笑いしながら、心霊大学の門を叩いた。
玄関で待ち受けていたド・クレスピニ夫人は、慈愛深き満面の笑顔で浅野を迎え入れた。やや芝居がかった仕草で片膝を折り、まるで前世紀の貴婦人のような挨拶をして浅野の手をとり、奥の客間へといざなった。
そして振り返り、すでに着座していた先客たちに紹介した。
「本日、遠く東洋の歴史ある偉大な帝国から、私達のもとに、高貴なる使者がお見えになりました。日本の心霊研究の第一人者、ミスター・ワサブロー・アサノ!」
万雷の・・・といっても来客は10人に足らぬほどであったが・・・拍手が浅野を迎えた。ほとんどが上品な身なりの紳士淑女たちで、真ん中にはなぜか、労務服の老人と、同じように粗末な身なりの老女が座っていた。
「浅野さんは、日本古来の伝統宗教であるシントーと、神霊界との関わりを深く考究していらっしゃいます。そして、われわれキリスト教徒とはやや違ったアプローチで、心霊の実在を確信し、その証拠を幾つも発見しておられます。わたくし、ライト誌のガウさんのご紹介でお目にかかり、数回、お茶などご一緒してそのご高見に、すっかり魅せられてしまいましたの・・・ご覧の通り、素敵な紳士ですが、唯一の欠点は・・・そう、やや方向音痴なところ。」
満座が笑いに包まれ、浅野は頭をかいた。
「これは、面目ない・・・今日はなんとか、時間に間に合わせたつもりですが、もしかしてまた遅刻してしまいましたかな?」
ド・クレスピニ夫人は、心の底から愉快そうに笑って、こう言った。
「なぜって・・・あなた、鏡で自分のお顔をご覧なさいな!汗だくで、肌から湯気が立ってらっしゃって、お髪も乱れておいでだわ!きっと、遅刻はならじと一生懸命に走ってこられたのね。もしかしたら、ハムステッドのお宿からずっと駆けてこられたのかしら?」
再び爆笑が起こり、浅野も仕方なく、座の雰囲気にあわせ、手の甲で汗を拭う素振りをした。
「でも、お気持ちとても嬉しくてよ。慣れぬ倫敦で、いろいろご不便のことと思います。さあさ、席にお座り下さい。いま、タオルと冷たいお茶を一杯、ご用意いたしますわね。」
「それでは、お言葉に甘えて。」
浅野は、ほっとして着座した。
「お待ちしておりました、浅野さん。」
台所へと消えたド・クレスピニ夫人に代わり、50代と思しき、福々しい夫人が挨拶してきた。
「わたくしはマッケンジー夫人、この心霊大学を運営させていただいています。そしてこちら、本日のいわば主役、ルイスご夫妻ですわ。」
そう言って、座の中央にちょこんと座らされた、小柄で貧相な老夫婦を指し示した。二人は、ややぎこちなく頭を下げた。
「ご承知のとおり、ミスター・ルイスはおそらく、この倫敦きっての優秀な物理的霊媒といって差し支えないでしょう。さきの6月にも、まさにこの場所で多くの立会人をお招きした上、公開実験を行い、それはもう興味深い数々の現象を目の当たりに致しましたの。」
浅野をはじめ、座の視線を一身に集めた老ルイスは、ばつの悪そうな顔をして自分の妻と目を合わせた。そして観念したように、こう言った。
「いやあ、ワシなんて、実験中はただ寝とるだけの話でして・・・どこからともなく、野郎がやって来やがって、さんざん悪さして帰っちまうんでさあ・・・ワシゃ、眼を開けると、いつもびっくり仰天で。」
「失礼だが、日ごろは、なにをしておいでなのです?」
やや不躾とは思いながらも、その異様に周囲から浮き立った出で立ちを不思議に思い、浅野は尋ねた。ちょっとした覚悟さえすれば、座の空気を読まなくても良いというのは、遠来の客のいわば特権だ。
「ワシは、日頃は炭鉱で働いちょります。故郷はウェールズでして。たまにマッケンジーさんにお声を掛けていただき、汽車賃先送りでここに伺うというわけでさあ。お茶も食事も美味しいし、今回は倫敦見物もさして貰えるっちゅうことで、女房と一緒にまかりこした次第でさあ。」
やや、くぐもった笑いが起こった。マッケンジー夫人がすかさず補足した。
「ルイスさんは、アメリカによく居るようなプロフェッショナルの霊媒ではありません。日頃は実直な、ご覧の通りの勤労者なのです。ですから、いわゆる営利目的の詐術を行う動機がありません。それだけでも霊媒としての信用度は充分なのですが、本日は、単なる降霊会ではなく、ひとつの実証実験として、貴方にもご参加いただきたいと思っているのです。」
浅野は、目を輝かせて、答えた。
「願ってもないことです。喜んでお手伝いさせて下さい。」
「そう来なくては!浅野さんは、降霊会に参加したご経験はお持ちですか?」
「それはもう、日本に居った自分から何度となく。日本では、西洋式に行われるものもありますが、日本古来の風習に則った様式で行うこともあります。」
「なるほど・・・その、日本式にも興味を惹かれますが、今日はとりあえず、私達のやり方で進めさせていただきますよ。」
「もちろんです!」
ド・クレスピニ夫人が、手盆に冷やしたタオルと、冷たい紅茶を持ってきてくれた。浅野がその心遣いに感謝しつつ一息入れているあいだ、座はしばらくざわざわとしていたが、さらにもう二名の客が加わったところで、マッケンジー夫人が一同に声を掛けた。
「さあ、みなさん揃われました。それでは、始めますよ。まずは当館の二階にお上がりください。」
心霊大学の二階は、いわば実験専用の特別室のような誂えがしてあった。室内は薄暗く、灯火を制御できるようにしてあり、部屋の一角は薄いカーテンで仕切られた暗室となっていた。その中にはテーブルが置かれ、上に、なにかごたごたと様々雑多なものが置かれていた。大きな手風琴をはじめ、花瓶に挿した花、どこか南洋の土人の少女を模した小さな人形、貝殻の首飾り、執事を呼ぶために鳴らす小さな取っ手のついた呼鈴など。そして、そのかたわらに積み重ねられた数枚の板は、暗がりのなかでぼうっと、青白い燐光を放っていた。
「さて、それでは・・・浅野さん!そしてホールさん。お二人でルイス氏を椅子に縛り付けていただきたいのです。ホールさんは、前にもやられたことがありますよね。」
浅野の脇に立っていた、背の高い金髪の美青年が、どこか、おどけた仕草で前に出た。そして、浅野を促し、二人は暗室の外に並んでいる20脚ほどの肘掛椅子のうち、もっとも頑丈そうな一脚を選びだした。
老ルイスは、自ら進み出て、その椅子に座った。いつの間にか長い麻縄の束を手にしたホールが、ルイスの右手首を椅子の肱木ごとぐるぐる巻きにして括り付けた。そのままその縄を、背中を通して反対側に廻し、浅野に手渡した。浅野も、ホールに倣って左手首を同じようにした。
「緩い。縛り方がまだ緩いですよ。ミスター・アサノ。」
ホールが、暗がりで笑みを浮かべ、言った。
「ルイスさんは、慣れてらっしゃいます。少々、きつめに縛っても問題ありません。」
浅野は、老ルイスに眼をやった。ルイスは、無表情のまま頷いた。
二人は、そのまま二の腕、胸、首、そして両脚へと順番に縄をかけ、それぞれ二重三重にぐるぐる巻きにして、最後は椅子の脚を押さえながら、うんと引っ張って結び目を作り、ルイスと椅子をほぼ一体にしてしまった。
マッケンジー夫人は、縛り終えるのを見ると、参加者 (彼女はあくまで、実験の立会人、と呼んだ)一人ひとりを前に出し、浅野とホールによる緊縛作業の仕上がりを確認させた。誰一人、文句なし。ルイスは、身動きひとつできない。最後に老妻が前に出て、夫の頬に手をやってなにごとか呟いたが、すぐに後ろに退がった。
「さて、それでは最後の仕上げを致しましょう。浅野さん、あなた、先ほどお名刺を下さいましたね。まだ余分にお持ちですか?」
「はい、持っております。」
「それでは、その一枚に孔を開け、この紐を通して、それをルイスさんの両の親指に結びつけてくださいませんか。」
浅野は、言われたとおりにした。椅子にぐるぐる巻きにされた哀れな老ルイスは、肱木にぴたりと縛り付けられた両手の親指に、さらに浅野の名刺がぶら下がった細紐を通され、まるで竿を掛けた物干台のような格好になり、少し不満そうな顔つきで座っていた。
「さてそれではみなさん、お手数ですが、それぞれご自分の椅子を持って移動して下さい。霊媒の左右を、円形に取り巻くように座っていただきたいのです。できれば男女交互に。そしてお互い、両側のかたと手を繋ぎ、眼を瞑って、心をひとつにして下さい。」
そう言って、部屋から姿を消した。やがて完全に灯火が落とされ、あたりは真っ暗闇になった。
半円形を描いて座り、互いに両の手を握りあった十名ほどの男女は、真っ暗闇の中、しばらくじっと座っていた。しかし、やがて誰かが低い声で賛美歌を歌いだした。皆々、やや遅れてそれに唱和した。
主よ 御許に近づかん
たとい吾 十字架に掛けられたりといえど
なお歌えるは 御許に近づかん
主よ 御許に近づかん・・・
浅野も、もちろん周囲に合わせ、闇に向かって唱和した。目の前には、椅子に括り付けられたまま身じろぎもせぬルイスの影が、ぼんやりと見える気がする。
一同がひとしきり歌い終わったあと、あとを引き取ってルイスの細君が一人で歌いだした。先ほど見た、皺だらけの老いさらばえた外見からは想像もつかないほどの美しい声だった。
トネリコの林よ
とても優雅な 飾らない囁き
ハープのように奏でられる その囁き
枝から零れる光 私を優しく見つめる光
幼き頃よりなじみの林よ
踏み出す歩みに よみがえる思い出
舞い落ちる木の葉 やさしい囁き・・・
闇の中で、彼女が、まるで聖歌隊の子供のような神々しい歌声でこのウェールズ民謡を歌い終える頃には、椅子に縛り付けられた当のルイスの頭が、前のほうへ斜めに傾き、軽く寝息が聞こえてきた。その息は、時間の経つにつれてますます高く、しまいには、はっきりとした鼾になって、他には全く音のせぬ闇の中に谺した。
待つこと、数分。
彼が、現れた。
まるで、何も見えぬ闇の中をなにかが通り過ぎるような気配がし、とつぜん頭を上げたルイスが、口を開いてこう言った。
「みなさんこんばんは・・・おや、これは大勢お揃いですね。」
先ほどの、少しおどおどした老ルイスのかぼそい声ではなく、実に快活な、朗々としたしゃがれ声である。しかし、喋っているのは、紛れもなく椅子に縛り付けられたルイス本人。これは、降りてきた霊が、霊媒の発声器官を借りて、皆に直接語りかけているのである。
ルイスの細君は、夫 (の肉体)のほうに向かって、こう言った。
「ジョン、よく来たね。久しぶりじゃないか!調子はどんなだい?」
「まことに良好だ。たいへん、気分も好い。」
「それは結構じゃないか。さあ、皆さんお待ちかねだよ・・・いつものように、やってくれるかい?」
ジョンは答えなかったが、どこかへと移動したらしい。やがて、ルイスの背後の暗室のほうで気配がし、がさごそと何やら音がした。
そして、ちりん、と鈴の音が鳴った。ジョンが、暗室のテーブルに置かれた呼鈴に触れたらしい。彼は、これが気に入ったとみえ、やがて立て続けに、ちりちりちりんと音が聞こえた。そして、その音は動き出し、闇の中をあちこち移動して、部屋の其処此処で鳴り渡った。
浅野は、遠来の客の特権をまたも存分に行使し、図々しくもこちらからジョンに要求を出した。
「ジョン・・・もっと、もっと私に近づいてきてくれないか?そして、その呼鈴でもって、私に触れてみて貰いたい。君に、できるかな?」
敢えて、やや挑発的な口調で、言ってみた。
ジョンは答えなかった。その代り、猛烈な勢いで音が近づいてきて、すぐと浅野の右足になにか金属質のものが触れ、そして、またちりんと音がした。もちろん、誰が居る気配もしない。真っ暗闇で、鈴も見えない。しかし、その堅い感触だけは、確かなものだった。
闇に向かって、浅野は言った。
「ありがとう、ジョン。君はたしかに今、私の脚に触れたよ。」
この浅野の言葉を皮切りに、部屋のあちこちから声が響いた。
「私にも!」
「こちらにも来てくれよ、ジョン!」
「私の肩に触れてみて!お願いよ、ジョン。」
しかし、ジョンはそれ以上、なかなか動こうとしなかった。
やっと音が移動し、浅野の隣に居た若い令嬢の、むき出しの肩をそっと撫ぜた (手を繋いでいた彼女がビクリとしたので、浅野にもわかった)だけで、そのあと音は微かになり、部屋のあちこちに散って、やがてパタリと止んだ。
しかし、ジョンはこの「実験」の意味合いを正確に理解していたらしい。そのまま消えてしまうようなことはせず、少し間を置いて、またも暗室の中から騒ぎ始めた。玩具を択ぶ気配がし、突然、手風琴が耳障りな音を立てて、なにやら、浅野にはわからない賑やかな曲を奏で始めた。
興が乗ってきたのか、その音はやがて暗室を出て、曲を奏でながら部屋のそこらじゅうを練り歩き始めた。半円形に座った一座の、前を、後ろを。まるで週末の巴里の街角のようである。
手風琴が鳴り渡っているあいだ、浅野は、これが人為的な詐術である若干の可能性を自分の中で潰してしまおうと、懸命に闇の中を透かし見ようとした。しかし、闇はあまりにも深く、濃く、そこには周囲に座るわずかな人の気配以外に、なにものの存在もうかがい知ることができない。
いっぽう、ジョンのほうでは、そんな浅野の思惑を、先回りして感知したようであった。
突然、手風琴の曲が止まり、どさりと、重いものが絨毯の上に落ちる音がした。そして、暗室のほうから、かすかな青白い光を放つ30センチ四方くらいの正方形の薄板が、ふらふらと揺れながら浅野に近づいてきた。
そして、浅野の顔の前で止まり、凝らした目の前に、うっすらと、細い手形が浮かび上がった。
「まあ!」
浅野より早く、女声が重なって響いた。両脇に座って手を繋いでいる二人の女性が、同時にそれを見たのである。浅野は、悦に入ってこう言った。
「わあ・・・よく見える。実によく見える!これは、あなたの手だね、ジョン?」
闇に座るあちこちの観客から次々に声がかかり、今度はジョンは、さしたる選り好みもなく、自分の手のかたちを、蛍光板に透かして見せていった。闇の中で、順番に上がる声が徐々に遠のいて行った。
やがて、再びジョンは静かになり、また部屋のどこかに身を潜めたようであった。不安になった立会人たちが、小さな声で互いになにか言い交わしはじめるや否や、とつぜん、「ばさり!」と音がして、大きな布がなにかに被さるような風圧が一同の膚を叩いた。
それを合図にして、ジョンの一人舞台による最高潮の大狂宴が始まった。
貝殻の首輪が、じゃらじゃらと音をさせながら宙を飛び、浅野の横に居た令嬢の首に懸けられた。花瓶に挿してあった花が四方八方に投げ散らかされたらしく、みずみずしい植物の香が、あたり一面に漂った。そのうちの一本は、宙を飛んで列の端に居た婦人の髪にそっと差された。再び呼鈴がちりちりちりんと続けざまに鳴り渡り、手風琴が唸り、燐光を放つ板が、グルグルと廻りながら宙を舞った。
その間・・・おそらく30分。
立会人の誰もが、つるべ打ちの怪異に疲弊し、もう精神的に参りかけてしまいそうになる寸前で、ジョンの勢いは突然、収まった。
浅野には、彼が自分たちに興味を失い、いきなりその場から立ち去ってしまったように思えた。闇の中、あとに残された霊媒のルイス老人の鼾だけが、規則正しく響いた。
「今夜は、ここらあたりでお開きと致しましょう。ありがとう、ジョン。気をつけてお帰り。また会いましょう!」
マッケンジー夫人の声がした。
誰かが闇の中で後に続き、やがて皆が口々にジョンに別れを告げた。
「ジョン、どうもありがとう。」
「ありがとう。」
「また、よろしくね!」
やがてパチリと灯りが点いた。
椅子に座る皆は、突然、部屋を真っ白く照らす膨大な光量に眼をしばたたかせ、腕で瞼を覆って、口々に深い溜息をついた。
「皆さん、大丈夫ですか?お体の具合は?なに、ご心配には及びません。ジョンは今日はことのほかご機嫌でしたね。どうも、これまでよりやんちゃの度が過ぎたようです。」
やっと眼が慣れた一同は、眼前に広がる光景に、思わず言葉を失った。
暗室内部のテーブルにきちんと並べられていた筈の手風琴、花、鈴、そして正方形の板が部屋のあちこちに散らばり、花瓶は倒され、あたりは水浸しになっていた。まるで、この部屋の中にだけ嵐が襲ってきたかのような惨状である。
遠くから、ホール氏が笑って浅野のほうを指さした。その指先をなぞって眼を落とすと、例の土人の少女の人形が、浅野の股のあいだ、椅子の上にちょこんと載せられていた。
「ジョンは、ことのほか浅野さんがお気に入りのようでしたね。」
ホールが、やや悔しげに言った。
「僕のところには、近づいてこようともしなかった。」
「たぶん、異郷を独りで彷徨う初老の東洋人を、憐れんでくれたのだと思いますよ。逆に貴方は、この国で日々満ち足りた毎日を送っておられるようだから。」
浅野が軽くやり返すと、部屋中が笑いに包まれた。
「そのお人形は、ジョンから浅野さんへのプレゼントですね。どうぞ、遠慮なく日本にお持ち帰りください。」
ド・クレスピニ夫人が言った。
「さて皆さん、なにかもうひとつ、お気づきになりませんか?」
そして、まだ椅子に縛り付けられて鼾をかいている、老ルイスのほうに眼をやった。一同、彼女のあとを追ってルイスのほうを見た。
「上着が、ない。」
ホールが、ニコニコしながら、言った。
ルイスは、上着のない青い肌着姿でウトウトしている。上着は、部屋の後方に投げ捨ててあった。十重二十重に巻き付いた縄目はまったく緩んでおらず、誰かが細工した跡も見られない。
また・・・両の手指に結わえてぶら下げた、浅野の名刺が、ルイスの足元に堕ちていた。紐に通したはずなのに、孔はそのまま、綺麗に抜き取られていた。もちろん、結わえた紐は、そのままである。
さきほど、朗々としたウェールズ民謡を歌った細君が、少し心配そうな様子で夫のもとに近づき、肩に手をかけて彼を揺り動かした。老ルイスは、やっと目を覚ましたが、寝覚めの悪い質のようで、しばらく、何やらむにゃむにゃと言い、また眠りに入ろうとした。
「なにをしてるんだい!早く起きるんだよ!」
細君は、朗唱の際の美声とはかけ離れた、酒焼けしたようなしわがれ声で夫を叱り、頬を軽く引っ叩いた。ルイスは、やっと眼を開け、廻りの状況に驚いて、首から上だけをきょろきょろさせた。
浅野とホールがぐるぐる巻きにしたルイスの縄をほどくのは、大仕事だった。一座の男どもがみな腕まくりをして堅い結び目と格闘し、10分がかりで、なんとか老ルイスの矮小な身体を椅子から引き剥がした。
ルイスは、ときどきひどく咳き込んだが、特に体調に異常はない様子だった。ジョンが降りてきている間、どんな気分がしたか聞いても、なにも覚えていないという。ジョンが口を借りて挨拶をした件についても、全く記憶がないということだった。
「ジョンは、少し恥ずかしがり屋ですが、私達にとても好意的な心霊なのです。」
マッケンジー夫人が解説した。
「なぜか、いつもルイスさんにだけ降りてきます。そして、直接口を聞くのは、奥さんだけ。しかし、彼はまだ、このへんに居ると思いますよ。先ほどの、皆さんの別れの挨拶も、ちゃんと聞いています。彼は、礼儀正しい人間には、きちんとサービスします。物理的実体のない彼が、これだけいろいろな奇跡を起こすのは、なまなかなことではないのです。」
そう言って両手をひろげ、玩具箱をひっくり返したかのような室内を見渡して、肩をすくめた。
「いつもだけど・・・今日は特に、あと片付けが大変だわ。」
「ジョンは、なにか未来の予言をしたりしますか?参加者、いや立会人の皆さんの運勢とか、自然災害、あるいは有名人の結婚とか。」
浅野は聞いた。ド・クレスピニ夫人がそれに答えた。
「いえ、それはしませんね。彼は、とてもアクティブな心霊です。こうして、悪戯をして私達を愉しませるのが好きみたいです。」
「なるほど・・・私の国の心霊は、どちらかというと霊媒の手の先を借りて筆を執り、予言や警告を書き付けたり、口を借りてなにごとか重大なことを皆に伝えたり、そういう深刻なタイプが多いので、こういう楽しいお祭りのような降霊会は、久しぶりに参加させてもらいましたよ。」
「お国の心霊ほど知的ではないが、なかなか愉快な奴でしょう?」
ホールが、笑いながら言った。
「ただ、人見知りで、好き嫌いが激しいんだな。前回もそうだったが、彼はどうも僕を嫌っているみたいだ。僕のほうでは、こんなに大好きなのに。」
浅野はもうホールの軽口を相手にせず、
「ジョンは、本当に立会人に話しかけたりしないのでしょうか・・・私は、なにか言われた気がしたんだが。」
これに対して、ルイスの細君が、なぜか、ひどく怒ったような口ぶりでこう言った。
「あんた、何を言ってるんだい?ジョンは、あたしとしか話さない。あたしがトネリコの木を歌うと、あいつはこっちへ降りてくるんだ。話すのは、あたしだけなんだ、そういう決まりなんだ。下界の人間でジョンが心を許しているのは、世界でただひとり、あたしだけなんだよ!」
「そうですか・・・なら、私の勘違いかもしれない。なにしろ、真っ暗闇で、ひどく神経過敏になっていたからね。」
口ではそう言ったが、浅野には確たる自信があった。ジョンは、人に話しかける。直接、口を聞く。特に気に入った人間に対しては、霊界に在って自分だけが知り得た秘密を、こそっと教えてくれる。のっぴきならないその人間の運命についての、深刻な警告を発するのだ。
浅野には、わかっていた。
なぜなら、真っ暗闇のなか、先ほどのクライマックスのどたんばたんの大騒ぎが行われている最中、いきなり、ジョンの口らしきものがべたりと左耳に貼りついてきて、ひどく掠れた声で浅野の脳髄に直接、こう囁きかけてきたからである。
「あんた、まっすぐ帰るんなら、今だぜ。
海峡に行っちまったら、もう戻れないぜ。」




