第四章 昭和三年 (1928年)秋 倫敦 そしてそれ以前のこと
浅野和三郎は、はるかな長旅の末にここへやって来た。
7月10日に東京駅を出て、神戸から船で大連へ。大連では、商社の駐在員として現地に住んでいる次男と数日を過ごし、そしてシベリア鉄道でユーラシア大陸を横断、ドーバーの波止場にたどり着いたのが同月末日のこと。
ハムステッドに宿を取り、一週間ほどなにもせず、五十路の身体を労って長旅の疲れを癒やした。そして、そのあとは何度もこの郊外の宿から都心に出かけては、思いつくままに調査研究に勤しんでいる。
倫敦の神霊書籍のメッカ、フォイル書店で貴重な稀覯本を何冊も買い込み、かのアーサー・コナン・ドイル卿の全面出資により、ピカデリーの目抜き通りに出店された神霊書房でも同じくらい大量の本を買い漁った。手に持ちきれないくらいのこれらの重厚な書籍類は、その場でハムステッドの素人亭宛に発送され、浅野の部屋は、半月もせぬうちに、積み上げられた大量のこれらで、足の踏み場もない有様となった。
そのいっぽう、伝をたよって心霊主義の専門誌「ライト」編集部を訪れ、主筆のデヴィット・ガウに面会することができた。彼は、先ごろ英国中の話題となった、コティングリー妖精写真事件についてのコナン・ドイルの評論活動を支えた男である。ガウを通じ、そこに集う数多くの神霊協会の関係者や研究家、霊媒などと誼を通じ、招かれるままに彼らのもとへ通った。
ガウからは、またあのハリー・プライスを紹介された。プライスは、クルー・サークルのウィリアム・ホープを巡る大論戦のあと、米国心霊研究協会の在外審査部長として、欧州各地に散在する心霊関連の書籍や事例研究のうち、いわば、「導入に耐えるもの」だけを精査して米国の心霊人士たちに紹介する役割を果たしていた。
世にはびこるすべてのいかさまを排し、純正なる心霊現象のみを見出そうと情熱を傾けるこの男は、親切に浅野に応対してくれ、何度かの顔合わせの間に、アメリカの神霊研究の状況を視察するように勧められた。
彼いわく、現在の欧州における心霊研究の隆盛の大元は、半世紀以上前にアメリカで起こった、あるひとつの心霊現象がきっかけになっているという。また、広大なアメリカ合衆国にあって、心霊関係の名所や旧跡は、建国当初の、厳格なピューリタニズムに支配されていた頃のごく狭い領域、すなわち東海岸北方の一角、ボストン周辺にのみ集中していることなどを教えられた。
浅野は大喜びで、日本への帰りにボストンへ寄り道をすることを約した。そして、英国の心霊人士たちとの交流の合間には、地方都市クルーへと足を伸ばし、あのふしぎな、興味深い心霊写真を撮影したのである。そのちょっとした遠足のことは、もちろん、プライスには内緒である。
倫敦で会う誰もが例外なく、遠い極東の地より心霊現象の研究にやってきた、この控えめで、ややぎこちない発音ながら端正な美しい英語を話し、独特なユーモアの感覚を持つ初老の日本人紳士に、好意的な関心を寄せて来た。
キリスト教文化圏ではない、日本というアジアの新興帝国には、神道という名の古来からの独自宗教がある。先進的なヨーロッパ諸国の知識人から、一般には原始的な汎霊説と切り捨てられているそれは、実は世界のどの宗教にもない柔軟性と強靭性とを持ち、そのときどきの時代状況や、人々の精神環境に合わせてまるで原初生物のように自在にその形を変える。
あるときは仏教の諸流派、そして後にはキリスト教とすら結びついて、独自のかたちを成して人々の信仰の基となった。
神道の神社には、あるものはただ無である。なにもないが、しかし、すべてがそこにある。そこに神が居る。我らの神は、なにもしないが、しかしわれらのすべてを、ゆるやかに、優しく、そして慈愛深く見守ってくれているのだ。その至福の一体感、八百万の神に護られているという無意識の確信こそが、現在の日本の隆盛を下支えしている。
無論、近代合理主義と西洋流の物質主義、科学万能の思想を、全面的に、ときに節操なきほど無批判に受け入れることで、大日本帝国は物理的に国を富ませ、強靭にしてきた。それは厳然たる事実である。
しかし、その一方で、ひとりひとりの日本人の、心のさらに奥にある感性、そして世界観は、おそらく西洋人のおおかたが持つそれとは、いささか違う。
この、現世と来世とのゆるやかなつながり、それを介した人と人との関係、それらのもの同士の曖昧な境界線は、ときに神秘のヴェールに包まれ、欧米の合理主義者たちの眼からは、ただ理解不能なものとして映るかもしれない。
しかしそれは、もしかすると全人類・全世界に普遍のものを具えてはいないか。近年の、欧米における心霊現象への深い関心、あの世とこの世との交流への強い希求は、そうした、本来は人類に普遍的なものへの、自然な心の接近を示すものではないか。
もの柔らかな表現で浅野の語る、これら日本の精神的スピリチュアリズムに、彼ら欧州の心霊人士たちは、 (特に積極的に肯定はしないまでも)非常に興味深く聞き入っていた。
自信と確信とに満ちた一神教の躍動力をもとに、数百年にわたり科学と合理性を追求して創り上げられた欧州文明と、頂点に君臨する大英世界帝国は、しかしその帰結として、いま非常なる精神的危機に際会している。
拡大する生産と富の集中により地方の経済は疲弊し、人々の生活のよりどころであったコミュニティは、各地で音を立てて破綻しつつある。富が集積されるはずの都会では、著しい貧富の格差によって一方的な搾取が蔓延り、資本家と労働者のあいだは常に一触即発である。現に、東方では無産主義者による革命が成り、このキリスト教文化圏の伝統と全欧州の秩序を無慈悲に破壊すべく、静かにその力を蓄えている。
われわれは、来るところまで来てしまった。
なにかが間違い、なにかが狂っているのだ。
その挙げ句が、つい十年まえの欧州大戦だ。開戦時には、まるでナポレオン戦争の頃のように美々しく着飾った浪漫溢れる胸甲騎兵が槍をひらめかせて突撃し、そのまま、物言わぬ機械仕掛けの自動火器の餌食となった。大地は、ずらりと並ぶ重砲の砲列と、巨大な軍需工場から絶えず吐き出されてくる数千基数の炸裂弾とが制圧する地獄となり、個人の勇気と物理的肉体は、ただそのあいまで敢えなく切り裂かれ、多少の血煙とともに霧散するだけの虚しいものとなった。
自動火器と重砲弾の物理的暴威に抗し得ぬ兵士は、大地に塹壕をうがち、泥濘と冷気のなか、ただそこに籠もって日々の命をつなぐだけの毎日を送った。戦線はるか後方の司令部に居る上流階級の将軍たちは、すべてを超克する攻撃精神の発揮を求め、何度も彼らを塹壕から追いたてて敵陣に向かわせたが、そうした攻勢作戦の結果は、ただ数千、数万の新たな骸が両軍の塹壕の間に転がり、烏どもに啄まれるだけのことであった。
塹壕はその両翼が次々と継ぎ合わされて北海と南方の山岳地帯に達し、欧州大陸はただ兵士たちの生存本能ゆえ、巨大な縫い目により、東西へ人為的に分断されてしまった。巨大な戦線は膠着し、日々じわじわと死者の数だけが増えていった。厭戦気分が前線に蔓延し、さらなる無理な攻勢の発起は、軍規の崩壊と、兵士たちによる反乱発生の可能性を孕む、もっとも危険な賭けとなりつつあった。
この膠着状態を打破し、戦線を動かすべく頼りとされたのは、またしても機械力と科学、化学、そしてさらなる合理性の追求であった。
航空機、戦車などの、化石燃料の爆発とその制御のメカニズムにより駆動され操向される自律移動機械は、人より疾く動き、人の力の及ばぬところから大量の弾丸や爆風や弾片を浴びせ、生身の兵士たちを圧殺していった。海上は巨大な鋼鉄の動く島々がその巨砲の炸裂力を以て制圧し、合間の海面を縫って細々と人々に生活物資を運ぼうとする商船団は、水中に潜む獰猛な潜水艦隊によって狩りたてられ、喫水線下に幾千本もの水雷を叩き込まれ、多くの民間船員の命を渦の中に巻き込んで、虚しくその姿を波間に消していった。
戦前には画期的な窒素肥料を発明して食料の爆発的増産を可能たらしめ、気候変動や自然現象に由来する宿命的な飢餓を撲滅し、人類の発展と福祉に貢献したはずの偉大な化学者、フリッツ・ハーバーは、皇帝への忠誠と、祖国に対する崇高なる義務感の命ずるがまま、戦争を早期に、そして静かに終結させるための決戦兵器を案出した。
彼は、みずからの持つ豊富な化学知識と経験値を応用し、塩素やホスゲンの毒ガス開発と生産にいそしんだ。やがて、禍々しい曲線で囲われ、銀色に輝く巨大なタンクやボンベがイープルの最前線に据え付けられ、バルブが緩められて人類史上初の化学兵器が音もなく敵の塹壕へ向け放たれた。黄色の霧のように見えたそれは、兵士たちの呼吸器官と肺を内から灼き、ひとりひとりに極限の苦しみを与えながら、その生命を一気に、大量に、そして残虐に奪っていった。
神の真理、すなわち化学方程式に仕える化学者としてのハーバーの傲慢さは、それで人が容易に屈し、戦争がすぐ終わるなどと安易に考えていたことである。
自然の気まぐれで、ひとたび風向きが変われば、恐るべき殺人ガスは今度は容赦なく味方の兵士たちを襲った。そして、敵の交戦意欲と憎しみ、復讐心は、その程度 (数千名の兵士の窒息、中毒死)の衝撃で破砕されるようなものではなかった。相応の化学知識を備えた敵の化学者たちは、すぐに有効な対応策を編み出した。
そしてもちろん彼らも、彼らの敵に対し、ハーバーがやったのと同じことをした。目には目を。歯に歯を。戦争は終わることなく、悪魔に魅入られた化学者たちの開発競争は、互いに数千数万もの兵士たちの命を犠牲に供しながら、さらなる血塗られた殺人技術を蓄積し、ますます効率的に合理的に発展し、ただただ双方を、奈落の底へと向かって駆り立てていったのである。
戦闘は無限の地獄の連鎖であり、戦争は総力戦という名の破滅であった。両陣営、実に千万を数える人命を犠牲にし、勝者も敗者も、その全身に傷を負った。ただ海の彼方に在って、賢明にも欧州戦線の泥沼には申し訳程度にしか関与しなかったアメリカと日本、新興のこの二国だけが無傷で、しかも戦時景気による底抜けに明るい経済的繁栄を謳歌していた。
世界に冠たる欧州文明の、ひとつの極が訪れて峠を越し、憂鬱な黄昏がやってきているようであった。行き過ぎた物質文明への信仰と、合理主義の限界が、誰の眼にも明らかとなっていた。
その60年前、1848年のこと。新大陸ニューヨーク州の小さな村ハイズビルの古屋敷に住むフォックス家で、ある奇妙な現象が起こりはじめた。
家のどこからか、不思議な物音が鳴りわたる。原因はわからない。この家の12歳になる次女ケイトが指を鳴らすと、それに応えるようにラップ音が返ってきた。続けざまに何度か鳴らすと、正確にその回数だけ音が返る。母親がケイトの年齢を当てるよう口頭で呼びかけると、ほどなく、12回のラップ音が、一定間隔で鳴り渡った。
なんらかの知性を持った、目に見えないこの相手と、一家との奇妙な同居生活が始まった。相手は、ラップの回数によってイエスとノーという意思表示までをし始めた。当時の狭いコミュニティのなかで、噂は燎原の火の如くに広まり、人々はこの不思議な現象を目撃するため、フォックス家に押し寄せてくるようになった。
翌年には、近隣で最大のコンサート・ホールを借り切った有料の交霊会が開かれ、一家を経済的に大いに潤すこととなった。この頃には、独り立ちして外に出ていた長女が実家に戻り、演出や売込みに格別の才能を持つ彼女が、一家のすべてを取り仕切るようになっていた。
彼女は、新聞・雑誌などのメディアを通じて噂が広まるのを待ち、満を持して、1850年6月、一家ごと居を移してニューヨークに進出した。ブロードウェイのバーナム・ホテルで連日開かれたフォックス姉妹の交霊会は、当時、全米そして旧世界各地から多くの人口を吸引し爆発的な成長を遂げていたこの大都会における最大の、スキャンダラスで不思議な、そして人の関心を惹きつけるもっとも魅惑的なイベントとなった。
当初は単純なラップ音によるコミュニケーションだけであったが、その内容は、出し物として徐々に洗練の度を加え、最終的には、文字盤などを駆使したより細密な対話方法を使い、フォックス姉妹を霊媒にした目に見えない霊は、観客の望む、ありとあらゆる応答を、自在にこなすようになっていた。
もちろん、この出来過ぎた出し物を、当初からペテンと見做して告発する人々もいた。フォックス三姉妹の場合、特にイベントのプロデューサーとして場を取り仕切る長女の露骨な商業主義が、倫理を重んずる多くの人々の眉をひそめさせた。
彼女が、年齢の離れた下の二人の幼い妹たちを精神的に支配し、望みもしないペテンへの加担を強いてこれを一方的に搾取しているのではないか?
新大陸は、まさに、旧大陸からその合理主義精神と勤勉さ、現世利益への欲望のみを抽出して原野に放つことで成立したような国家である。信奉する科学思想と物質主義、そしてキリスト教的な福祉と公正の信念に従い、彼らは、幾度もフォックス家に対し厳密な検証を求めた。
結果、彼らはこのように主張した。ラップ音は、幼い二人の妹が身につけた、両手両足の関節を人知れず音を立てて鳴らす技能により生み出されており、超自然の存在に起因するものではない。交霊会で催されるさまざまな怪異現象には、いちいちトリックがあり、フォックス家の出し物は、ただ優れた詐術で観衆の注意を逸し、真実をごまかし、間違った結論へと導くペテンだというのである。
こうした合理主義的な立場からの反論は、権威ある保守層や上流階級人士たちのあいだで多くの支持を集めたが、悲しいかな、すべての超常現象を明確に否定するための、決定的な証拠を欠いていた。
そして不思議なことに、有意な、ある一定数の人々が、これら保守階層のあいだでも、姉妹のおこす超自然現象が真正のものであることへ熱烈な支持を表明していたのである。
彼らにとっても、日頃の生活における合理性はもちろん大切なものである。しかし、人はその心のどこかで、割り切れない、曖昧な領域を必要とするようであった。1足す1は2ではなく、ときに1であり、3でもあった。この世は白か黒かのみで画然と二分できるものではなく、両者のあいだには、灰色という、どちらともとれない、薄くぼんやりした中立地帯が存在するもののようであった。
結果、ハイズビルの古屋敷ではじまった一連の超常現象の噂は、かたちを変え、徐々に体系化され、あの世とこの世をつなぐコミュニケーションの手段として認識されていった。すでにこの世を去った愛しい人々との対話をも可能にし得るその素晴らしい新たな交流の方法は、新大陸の各地そして旧大陸にも波及して、合理主義、化学万能主義の世のあいまにひっそりと咲く花、心霊主義となって、じわじわと広まっていった。
いわゆる、権威あるメディアに乗った公式な大流行ではない。しかしそれは、アンダーグラウンドで継続的に、根強く支持され続けることとなった。大都市の公会堂、教会そして民家でひっそり夜毎に行われる交霊会または降霊会が、世界のあちこちで、たいへんな隆盛を見せることになったのである。
人のこころが希求する、その不合理かつひそやかな大波は、地球をほぼ半周して、浅野和三郎の母国、日本にまで及んでいた。
短期間に終わった文筆生活のあと、和三郎が英文学の講師として十七年間も勤務した横須賀の海軍機関学校には、近在の海軍基地や工廠などからさまざまな軍人が出入りしていた。そのなかの一人に、中島與曽八という機関大監 (大佐)が居た。
彼の父は、浦賀奉行所与力として、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に乗り込んだ最初の日本人、幕臣・中島三郎助である。のち三郎助が、二人の兄とともに幕府に殉じて函館で戦死してしまったために中島家を継いだ三男の與曽八は、父親以来の見識と経験を新政府に認められ、エリート軍人としての道を順調に歩み、ことに艦船設計における命綱ともいうべき、機関畑の先端知識を存分に吸収し、優秀な技術官僚へと成長していた。
彼は、世紀をまたいで2年間、英国グラスゴー大学に国費留学していたため、当時のかの地の流行に詳しかった。懇意にする上流階級の英国人から招待され、その邸宅で夜ごと催される降霊会に参加することは、胸襟を開いた彼らと精神面から誼を通じて、海事先進国・英国からさらなる艦船設計のノウハウを無償で入手するための、まごうかたなき軍人としての愛国的な責務であった。
與曽八が、会の背景となっていたスピリチュアリズムという思想について、さほど真剣な関心を持っていたとは思えない。しかし、帰国後の彼は、ある種の「ハイカラ」な趣味の発露として、横須賀でもたびたび降霊会のまねごとのようなものを開催した。霊界との中継を行う、特殊な霊媒者を欠くこれらの会は、大抵は見るべき成果なく終わることがほとんどであったが、たまに、説明のつかない、なんとも妙なことが起こる場合もあった。
ある日、中島與曽八は、自宅に呼び集めた数名の客人の前に二人の女中を立たせ、彼女たちの眼を瞑らせて、催眠術をかけた。そうしておいて、一人を横須賀の街中に買い物に行かせ、もう一人に、遠く離れた彼女の行動を、同時進行で語らせたのである。
「ただいまお春さん、大瀧町の街路を歩いています・・・いま八百屋に入りました。大根を二本、葱を一束買いました、風呂敷に包んでいます・・・今度は金子の店へ入りました・・・最中を袋へ入れてもらっています・・・今度は溝板通りへ・・・どこへ行く気でしょう、おや、水交社の門を潜りました。酒保で買った品物は・・・石鹸二本と蠟燭を1ダース、そしてマッチ一箱・・・。」
まるで、空に巨大で高精度のレンズを嵌めたように、彼女はお春の買物の有り様を逐一、事細かに中継していった。そして言った。
「いま玄関に・・・お春さんが、戻ってきたようですよ!」
同時に、チリンと音がして玄関の扉が開き、お春が帰って来た。聞いてみると、買い物の道順、買った品目と量、金の渡し方までもが、すべて中継者の女中が語った内容と一致していた。
これが、浅野和三郎の目撃した、人生ではじめての超自然現象であった。当時の高学歴のエリートとして当然、物質主義・合理主義を疑問も持たずに信奉していた彼にとって、催眠をかけられた女中二人が、あたかも眼に見えないなにかで繋がり感覚を共有したという、まるで説明のつかぬこの奇妙な現象は、それまでに信じていたこの世の理や秩序に対する信頼を揺るがせるのに充分なきっかけとなったのである。
もちろん、この出来事が、部下や来客を愉しませるための、中島與曽八が仕組んだ茶番であった可能性は捨て切れない。しかし、その場に居て、その場の空気を吸って、ずっとその様を間近に観察していた浅野和三郎にとって、それは、どうしても詐術や心ない悪戯の類とは思えなかった。
以降、まるで神があらかじめ進むべき道をすべてあつらえていたかのような様々な偶然と運命の手引きにより、浅野和三郎は、日本におけるスピリチュアリズム運動の中心人物となった。
ほどなく、海軍機関学校を辞して京都・綾部の大本という宗教団体に入信し、主として宣伝面・広報面で優れた能力を発揮し、教団の急激な拡大と興隆を後押しした。大本が官憲による大弾圧を受け、それを抜けたあとは、数名の同志とともに心霊科学研究会を設立し、なおも心霊研究への情熱を捨てなかった。
そしていま、彼は単身、倫敦に来ている。
主たる目的は、第三回世界心霊主義者会議に、初の日本代表として参加することであった。数年前に巴里で開かれた第二回大会は、センセーショナルなほどの大成功を収め、全世界の話題となったが、参加者がまだ欧州と米国、その他数カ国のみに限られているきらいがあった。
満を持して開催予告された第三回は、全世界の心霊主義者の誰もが認める大立者、世界一高名な作家にして、大英帝国きっての愛国者、そしてもっとも情熱的な心霊主義者でもあるアーサー・コナン・ドイル卿を議長に、ほぼ全世界の大陸、主要国から錚々たる代表者を集めた、いわば現世の合理主義に対し、心霊世界から叩きつけられた挑戦状のような趣をまとっていたのである。
そしてその開幕は、数日後に迫っていた。