姉をこちらの世界へ呼びます
僕は、凛姉がフェンスによじ登った段階で、ポケットに入れていた酒ビンを1本空けた。
もしかしたら、元いた世界に干渉できるのではと思ったからだ。
「ありがとう……。あれ?」
僕のその思惑は成功した。身を投げ出しそうになっていた凛姉の動きを止めることに成功した。
ただ、まだ安心などできない。凛姉はフェンスの向こう側のギリギリ所に立っている。それに動きを止めただけで、その場に固定したわけではない。もし地震がこの場で起きたら落ちてしまう。
それに、もうすでに凛姉にかけた魔法が解けかけていた。ただ、それは溝田の手によって大事には至らなかった。
「凛ちゃん。馬鹿なことは止めよう!!」
溝田……。いや溝田さんが、どこからそんな力が出たのか、金網のフェンスの穴部分に腕をむりくり突っ込んで凛姉の腕を掴んだ。
「離して!!」
やっぱり、世界を超えての魔法は効果時間が短いようだ。ワイバーンを止めた時より短い時間で効果が切れた。
「ロナさん。今、酒何本あります」
僕はポケットに入れてあった2本目の酒ビンを空にする。そしてまた停止魔法を発動した。ただ、これもすぐに効果が切れる。こうなったらありったけの酒を飲んで、意地でも落ちさせない。
「5本だけです。けど、ツヨシさんの体が……」
こんな時に僕の体の心配なんてしなくていい。まだ2本目だ。あとで吐くのは確定だが、まだまだ5本くらいなら飲め――。
「ゴフッ」
まだ消化しきれていない、うどんや揚げ物が腹から喉を通る感覚はあった。あれ、こんなに早く吐いてしまったのかと思い、吐瀉物を見る。
僕は、血を一緒に吐いていた。しかし、少しにじむ程度だ。吐きすぎて、胃か喉かが少し傷ついたのだろう。
「ツヨシさん!!」
ロナさんが僕に駆け寄って来た。
「5本ならまだ飲めます!」
僕は彼女の手を払い、冷蔵庫に向かい、次々と酒ビンを空にしていく。そして。
「まだ足りないっ!!」
僕は雲を持ち、食堂に向かった。
凛姉より溝田さんのほうが力が強い。ただ凛姉の方は力を入れる必要がない。
それに対して溝田さんは、さっきからずっと力を込め続けている。なんとかまだ大丈夫そうではあるが、もうすぐ限界に近そうだ。
ただ、下にいた大人たちが異変に気が付いた。
「君たち何してるんだ」
ビルの下から大人たちの声が聞こえてきた。何人かはビルの中へ入って行った。3分もあれば、屋上に到着するだろう。ただ、それまで溝田さんが持ちそうになかった。
「あ、まずっ」
僕の魔法が解ける瞬間と、溝田さんの、下の大人の声を聞いた安心感による一瞬の緩みが重なってしまった。
「止まれ!!」
僕は、大声でそう言いながら食堂に入った。食堂には冒険者の人以外にも、今日手伝いをした農家の人たちも酒を飲んでいた。
僕が大声で叫びながら、ふらふらで入って来たので、先にいた冒険者の人は敵襲かと思ったのか、それぞれの装備を構えだした。
「どうした。何があった!?」
あの指示を出していた冒険者が、声をかけに来てくれた。しかし、僕はそれを無視して女将に詰め寄る。
「この宿で1番高い聖水をください」
僕はどんな顔をしているのだろう。女将さんは、顔が引きつって口が動かないようだ。しょうがない。後払いで、高そうな酒を勝手に貰おう。そう思い、カウンターの中に入ろうとしたら、後ろからロナさんの声が聞こえてきた。
「ツヨシさん止めてください。死んでしまいますよ!」
そう言って彼女は、僕の両脇に腕を指し込んで、僕をカウンターから引っぺがした。
「止めないでください。どうせ僕は1回死んでいるんです。それなら姉を助けたいんです」
僕はふらふらだったが、何とか気力を保って、呂律を回す。ただ、彼女はおそらく何も魔法を使っていないのだろうに、僕は力負けした。
「こんなにふらふらで何を言ってるですか。少し私に体を預けてください」
彼女は僕を無理やり自身の体に抱きかかえた。今の僕に、彼女の肌や胸の感触を感じることなどできない。というより、もう指先の感覚がなくなってきていた。
ただ、彼女に抱きかかえているとなぜか感じられる懐かしく、優しいオーラのようなものは感じられた。
僕は少し体調が良くなった。少なくとも指先の感覚は元に戻った。
「回復してくれたんですか」
僕はロナさんの返事を待たずに、雲を見る。溝田さんはどうやら立て直したようだ。ただ、指から血が流れ出していた。おそらく爪がはがれてしまったのだろう。しかし、すでに大人たちが屋上までたどり着いていた。大人の1人がフェンスによじ登っている。
ただ、僕の気分は晴れなかった。これで解決とはいかないからだろう。
ここで自殺を止めることができたとしても、凛姉はすぐにまた自殺しようとするだろう。
今回の件で、溝田さんが信頼に値する人だと分かった。ただ、それだけにこれ以上彼女を巻き込むのは気が引けた。
彼女は元々、もっとレベルの高い大学に行ける頭があった。ただ、凛姉と一緒の大学に行きたいといった理由で、今の少しレベルの低い大学に進学した。
凛姉は常々言っていた。「私に構わなかったら、溝田さんはもっと上を目指せるのに……」と。だから僕は……。
「ロナさん。お願いがあります。今のまま回復魔法を掛け続けてください」
「まだ、体調が悪いんですね」
ロナさんは、大人に無事捕獲された凛姉を見てほっとしていた。彼女には悪いが、まだ一息ついてもらうわけにはいかない。
こちらの世界から元いた世界に干渉できるのは分かった。
「体調は悪いですけど、理由は違います」
このままでは、凛姉はまた自殺未遂を繰り返すだろう。
「それでは、なぜです?」
ロナさんは薄々気が付いているのだろう。彼女の顔からは感情が読み取れなかった。
「凛姉を転移させます」
僕は、カウンターの中へ入り、高そうな酒のビンを3本ほど掴む。
「女将さんこれ貰います」
女将さんは面食らっていたが、僕の言葉に反応し、正気に戻った。
「飲むのはいいけど、転移って。あんたそんな大魔法、1人でなんてできるわけ」
「そうだ。どんなけ距離が離れているか知らないが、おとぎ話の中ですら、城から王子を1人逃がすのに、賢者クラスが3人と家来の命が10人くらい生贄になってんだぞ」
常人ならそうなのだろう。
「ロナさん。頼みます」
僕は彼女の顔を見ず頼む。そして、3本分一気に空にした。途中、喉が焼けるように熱くなったが、そんなのは関係ない。なぜか、ロナさんなら治してくれる。そう確信できた。
「無理だと思ったら、今度は力ずくで止めますからね」
ロナさんは呆れながらも、僕の肩に手を置いてくれた。そしてその手から肩にかけて癒されていくのが分かった。
「ありがとうございます」
僕は、改めて雲を見る。凛姉たちはビルから出て、裏通りの所にいた。人通りの少ないと言っても、やはり野次馬が大勢来ていた。
これからやることは神様にしか出来ないことらしい。ただそれは、常人のものさしで測った時の事だ。
亜麻猫さんは言っていた。僕が魔法の常時展開ができないのは魔法の理解が足りないからだと……。
普通の人は転移など経験がない。しかし僕は経験者だ。記憶がなくても体や脳が覚えているだろう。もしかしたら、1回死んでいるので転生なのかもしれない。だけど、理屈は一緒のはずだ。そうでなければ、短い距離とはいえゲロを転移させることなどできないだろう。ただ止めるだけでいい停止魔法と違い、転移はどこに移動させるかとか移動ルートはとか考える必要があった。しかし何故か、簡単にできてしまった。
喉や胸の焼けるような痛みは回復してきた。今から必ず、絶対成功させる。
「凛姉」
僕は、溝田さんに抱き着かれている凛姉を見ながらそう呟いた。
「つーくん?」
雲の向こうで、凛姉が顔をキョロキョロしだした。声が聞こえてしまったようだ。
「凛ちゃん。ツヨシ君はもういないんだよ……」
溝田さんは、凛姉に抱き着くのを止め、両手で凛姉の耳をふさぐ。ただ、その努力を無駄にするようなことを僕は呟いた。
「今、こっちに呼ぶから」
この言葉を凛姉に届いてしまっただろう。
もうこれで僕は失敗できなくなってしまった。最初、今日がダメなら明日、明日がダメなら明後日と考えていた。しかし凛姉の目が死んでいるのに気が付いた時に、もうやるなら今日しかないと直感的に思った。
「いや、こっちからつーくんの声が……」
「凛ちゃん駄目だって。救急車はまだですか!?」
やはり聞こえていたようだ。車道に飛び出そうとした凛姉を溝田さんが抱き着いて引き留めた。周りの大人もこれはまずいと思ったのだろう。腕や肩を掴みだした。早くしなくては。
僕は、頭の中でどこに転移させるかなどと考え出した。途中、酒が切れる感覚がしたが、目の前の棚から高そうな酒を引っ掴んで飲んだ。
身体中が痛く熱くなってきた。おそらくロナさんの回復魔法が追い付いていないのだろう。僕の目の前が真っ赤になってきた。
「おい。顔中血だらけだぞ。本当に大丈夫なのか」
近くからなのか遠くからなのか、そもそも今のは誰の声だろう。口調からロナさんではない。僕は、凛姉の姿が見えづらくなってきたので手で顔を拭う。べったりと血が付いていた。
その手で、酒ビンをもう1本掴む。その時に、ビンに反射して自分の顔が映った。
目や鼻や口から血が流れ出ていた。薄々気が付いていたが、それだけ集中していたのだろう。ただ、それももう終わりだ。
「転移」
僕の中で確かな自信があった。これは成功した。ほら、目の前の空間が白く――。
「え、つーくん?」
声色は分からないが、間違いなく凛姉の声だ。白く靄がかかっているが、間違いなく凛姉だ。
周りからは「マジかよ」「成功させやがった」などと聞こえてきた気がする。
なんだ、神様にしかできないなんて言っておきながら、僕にでも……。僕とロナさんの二人で成功できたじゃないか。
「つーくん、大丈夫!?」
凛姉は僕に抱き着いてきた。血まみれなのもお構いなしでだ。
「大丈夫だよ。凛ね――。ゴブッ」
僕は安心感からか、また吐いてしまった。しかしさっきのとは違い、出てきたのはレバーみたいな塊の血だった。
「つーく――。「凛さんすみません。どいてください」
凛姉を退け、ロナさんが僕の体を抱きしめた。そして、床にそのまま僕を寝かせる。
「ロナさん。ありがとうございました」
僕は誇らしげに胸を張れるのなら、張れるくらいの気持ちで感謝の言葉を伝えた。
「絶対治しますので、喋らないでください」
対してロナさんは、おそらく内心慌てているのだろうが、それを表に出さず冷静にそう言ってくれた。それなら、そのままロナさんに任せよう。そう思い目を閉じようとした時だった。
「ツヨシ。大丈夫か?」「転移魔法ってそんな無茶なこと」
おそらく、粉雪さんと亜麻猫さんを誰かが呼びに行ってくれていたのだろう。今、玄関口から誰かが入って来て僕の名前を呼んだ。ただ、僕は返事をできそうにない。
僕はロナさんの魔法に包まれたまま、夢の世界へと意識を潜らせていった。




