そんなに気軽に渡されても
「二か月は長いよ。すぐにでも正式な婚約者として扱いたいのに、まだお預けだからな」
「お預け……」
レオンハルトはまるでまたたびを前にして、制止された猫のようだった。
湧き上がる熱がくすぶる瞳が、コーデリアにまっすぐに向けられている。
「殿下、そんなに焦らないでください。私は殿下の、その……殿下だけの、またたびですから」
コーデリアの声が小さくなっていく。
思いを言葉にしている途中で、恥ずかしくなってきたからだ。
それでも最後まで言い切ったが、レオンハルトからの答えは返ってこなかった。
「殿下?」
「…か…い……すぎる……」
コーデリアを見つめ、レオンハルトが固まっている。
「どうされたのですか?」
「……やはり二か月は、長すぎるなと思ったんだ」
額に手を当てると、幸せそうで同時に不満そうな、複雑なため息をもらした。
「すぐにでも、君に婚約者として触れたいが……。今はこれだけだ」
「っ‼」
手の甲が持ち上げられ、口づけが落とされた。
小鳥が羽をかすめたような軽い感触。
だがコーデリアには、唇の触れた個所がどんどんと、熱を帯びていくようだ。
今でさえこれなら、正式な婚約者になったらどうなってしまうのだろうか?
想像し、少し怖くなってしまう。
コーデリアは早鐘を打つ心臓を押さえながら、レオンハルトへと口を開いた。
「……陛下には、先ほどのベルナルト様の件もお聞きしました。やはり陛下が、一枚噛まれていたようです」
「そうだったのか……」
蕩けていたレオンハルトの瞳が、鋭さを取り戻した。
今はコーデリアに合わせて、雰囲気を切り替えてくれたようだ。
「すまなかったな。今日の式典の場で、父上が君を試そうとしているのは勘づいていたが……。まさかベルナルト殿が殺気を飛ばしてくるとまでは読めず、怖い思いをさせてしまったな」
「殿下は、私を守ろうとしてくれました。それだけでもう十分です」
「……君は優しいな。だが、俺が不満なんだ。君を脅かすものなど視界に入れさせたくないのに、失敗してしまったからな」
レオンハルトが肩を落とした。
演技ではなく、本気で落ち込んでいるようだ。
(もしかして、さっきヘイルートのことについて口を滑らせたのも……)
レオンハルトなりに焦り、動揺していたせいかもしれない。
コーデリア本人よりずっと、レオンハルトはコーデリアの身を案じてくれているのだ。
まっすぐな愛情に、全身が温かくなっていく。
「……殿下、ありがとうございます。でも私は、殿下の正式な婚約者になる以上、自分である程度、身を守れるようになりたいんです」
レオンハルトが、コーデリアのことを大切に思ってくれるからこそ。
政治的な圧力にも直接的な暴力にも屈することなく、レオンハルトの隣に立っていたかった。
「ですので殿下、可能であれば私に、剣術か護身術の教師を紹介していただけませんか?」
「剣術か護身術……?」
「はい。万が一の際、襲ってきた相手を倒すことは無理でも、時間稼ぎくらいはできた方が、殿下にも安心してもらえるかと思うんです」
そう何度も襲われたくはないが、とかく王族やその関係者には、危険が多いものだ。
身を護る術を学びたい、と。
この前、ニニの誘拐事件の時からひそかに、提案する時期をうかがっていたところだ。
(護身術もその他にも、私にはまだまだ、足りない能力ばかりだもの……)
こちらを思いやってくれる、レオンハルトの気持ちはとても嬉しい。
だが同時に、消せない劣等感の火が、コーデリアの胸にくすぶっている。
優秀な彼の足手まといになどならないよう、できる努力はしておきたかった。
「付け焼刃になるかもしれませんが……どうでしょうか?」
「そうだな、君の華奢な腕に、重い剣を持たせるのは気が進まないが……」
レオンハルトが考え込んでいる。
「だが、一理あるな。確かにそちらの方が、俺も安心できそうだ」
どうやら、コーデリアの提案は受け入れてもらえたようだ。
一安心し、具体的な相談に入ろうとしたが、
「うん、わかった。じゃあまず君に、聖剣を装備してもらうところから始めようか」
「……はい?」
笑顔のレオンハルトへと、思わずコーデリアは聞き返してしまった。
聖剣。レオンハルトが自在に体から出し入れする、黄金に煌めく長剣だ。
コーデリアも幾度か、必要に駆られて握らせてもらったことはあるが、本来はライオルベルン建国より受け継がれる国宝だった。
そんなありがたすぎる聖剣を「はい、これ装備して」と手渡されても、わけがわからなかった。
「殿下、何をなさるのですか? これは殿下の、ひいては国の至宝です。自分用の剣の一本くらい、こちらで調達しようと思います」
聖剣を返そうとするも、レオンハルトは頑として受け取らなかった。
「俺には、普段から使っている鋼の愛剣があるから問題ない。この前、ニニの誘拐事件の時に俺が振るっていたの、コーデリアも見ていただろう?」
「はい。あの時の殿下は、とてもかっこよくて――――ではなくて!」
にこにこと話すレオンハルトのペースに巻き込まれかけ、コーデリアは我に返った。
「殿下、なぜですか? 私の剣術練習に聖剣を使うなんて、もったいないにもほどがあると思います」
コーデリアは剣術に関して、素人もいいところだ。
豚に真珠という言葉が、頭から離れなかった。
「その聖剣、切れ味はいいのに重さは無くて便利だぞ? 刀身の長さを縮めて短剣のようにして持ち歩けるし、護身具としてぴったりじゃないか」
「国宝が護身具は無理ですよ殿下……」
うっかり刃こぼれでもさせた日には、自責の念で胃がねじれそうだ。
コーデリアは抵抗するも、レオンハルトは意に介さないようだった。
「聞いてくれ。他にも利点はあるんだ。君が訓練すればおそらく、魔術師のように炎を操ることができるようになるはずだ」
「……私が、炎を?」
「そうだ。この聖剣は、俺の力の一部でもあるんだ。俺が認めた君ならば、ある程度自由に力を引き出し、炎を操れるようになるはずだよ」
「本当にそんなことが?」
「できるはずだ。試しに練習してみてくれないか?」
「…………」
コーデリアはじっと、まばゆい刀身を見つめた。
自由に炎を操ることが可能なら、女性であるコーデリアが剣を振り回すより、ずっと強力な武器になるはずだ。
護身術の観点からすると、悪くない選択なのは確かだった。
(それに何より、笑顔で押してくる殿下には勝てないものね……)
たとえば、二人きりの部屋で、コーデリアを甘やかそうとする時。
たとえば、新しいドレスを贈られ、着てみてほしいと頼む時。
いつもレオンハルトは笑顔で、しかし決して引かなかった。
そのことをよく知っているコーデリアは抵抗を諦め、素直に聖剣を貸してもらうことにする。
「ではありがたく、お借りしますね。……万が一にも折ったりしないよう、気を付けたいと思います」
もし折ったりしたらら、とても賠償できませんから、と。
おっかなびっくり、コーデリアは聖剣を握りしめたのだった。