それは特別なことでは無いはずで
「コーデリア、聞いてくれ。俺にはもう一つ、黙っていたことがあるんだ」
「………何でしょうか?」
「…………俺は、嘘をついていたんだ」
レオンハルトの瞳はコーデリアからそれることなく、しかしどこか不安げに揺れ動いている。
「………俺が君と出会ったのは、この前の舞踏会が初めてじゃないんだ」
「以前、私が殿下とお会いしたことがあるのですか? すみませんが、覚えていなくて………」
「それは当然さ。一昨年の舞踏会ですれ違った君に、俺が一方的に惹かれていただけだからな」
「……………そうだったんですね。嘘というのは、それだけですか?」
問いを返すコーデリアに、レオンハルトが瞳をまたたかせた。
「…………君は、俺のことを許してくれるのかい?」
「何をですか? むしろ、ちょっとした疑問が解消されて、感謝したいくらいです」
短期間でコーデリアの好みのお菓子を把握し、同じく極めて短期間でドレスを仕立て上げさせたレオンハルト。
彼が以前からこちらのことを知っており、様子をうかがっていたのだと聞けば、それも納得だった。
「殿下が真剣な顔をなさるので身構えてしまいましたが……。他に何かあるのですか?」
「俺は一昨年から、君を目で追っていた。……………君が妹に婚約者を奪われるのを、ただ見ていただけだ」
「殿下………」
「妹の横暴をいさめるでもなく、むしろ、君が他の男のものにならなくてよかったと、暗い安堵を覚えていたんだ」
最低だな、と呟くレオンハルトに、コーデリアは静かに首を振った。
「殿下はご自身に対して厳しく、潔癖すぎると思います。元婚約者たちとの件は、私と元婚約者、そして妹の問題です。どこにも、殿下が気に病む必要はありません」
「君は優しいな………」
「優しいのは、殿下の方だと思います。……………殿下が、私に二年もの間接触せず、無関係であろうとしたのは、私に王子の思い人という重荷を負わせたくなかったから。そして、ザイード殿下との確執に巻き込みたくなかったからでしょう?」
「…………君には、やはりお見通しか」
レオンハルトが淡く微笑んだ。
「殿下は以前の舞踏会の日、私がカトリシア様にワインをかけられそうになった現場を見なかったら、全てを胸の内に秘めたままでいるおつもりだったのでしょう? でも、私を庇い間近で接触したことで、ついまたたびへの欲が抑えられなくなってしまった。……つまり、全ては事故のようなものなんだと思います」
王子である彼が、伯爵令嬢にすぎない自分へと求婚し執着する。
それ自体がおかしかったのだと、ありうべからざる事態なのだと。
胸の痛みを覚えつつ、改めてそう自分に言い聞かせたコーデリアだったが、
「違うよ、コーデリア。あの日俺が君を助け求婚を迫ったのは、事故でも偶然でも無いよ」
「…………え?」
「俺はもともとあの舞踏会の日、君に正面から声をかけ、思いを告げるつもりだったんだ」
「そんな…………」
嘘でしょう?
そう否定するには。
レオンハルトの瞳はまっすぐで、切なくも熱い光が宿っていた。
「殿下、どうしてですか? 傍観者に徹するつもりだったんでしょう?」
「…………君の香りが、俺の第六感が伝える君の姿が、あの日変わっていたからだ」
「私の、『匂いのようなもの』が、ですか?」
「そうだ。………コーデリア、君は俺に会う時、毎回香水を変えていただろう?」
コーデリアはぎくりと肩を揺らした。
「………気づいておられましたか」
「君に関することだからな。毎度指摘するのも無粋かと黙っていたが、今日だって、あの日の舞踏会の香水とは、別のものをつけているだろう?」
「はい。女友達から借りたものです」
香水を変えることで、自身の放つ『匂いのようなもの』が変わるのか知りたくて。
そして、もし香水で変わるのならば、レオンハルトからのまたたび扱いも終わるのではないかと、そう考えてのことだった。
「毎回違う香水を身に纏う君も新鮮で良かったが……。だが、俺が第六感で感じる君の香りは、変わらないものだったよ。その証拠に今日だって、君の香りを頼りに、君の元に辿り着いただろう?」
「香水では、変わらない……………。けど、あの舞踏会の日には、変わっていた………」
一体どういうことだろう?
「あぁ、そうだ。変わらないけど、同時に変わるものなんだ」
「………どういうことでしょうか?」
「………俺の感じる『香り』は、その人間の本質を表しているはずだ。だから、同じ人間が対象であれば大きくは変わらないが、同時にその人間の心の在り方や経験した事柄によって、少しずつ変化していくものなんだと思う」
「心の在り方……………」
「コーデリア、君の心には何か、舞踏会の前に変化があったんだろう?」
――――――思い出す。
トパックからの婚約破棄を受け、伯爵家の未来を自分一人で背負うと、そう決めた頃だった。
「……………確かに、当たっているかもしれません。ヘイルート………友人にも、変化を指摘されていました」
「やはりそうか………。コーデリア、君の香りは冬空に咲く花のように、柔らかさと強さを秘めたものだ。初めて会った時から惹かれていたが、それでもあの日までは、自制がきいていたはずだった」
レオンハルトの声が、苦し気に低くなった。
「だが、駄目だった。あの日の君は、凛とした強さが香りたちしなやかで、でも少し寂しくて………我慢できなくなったんだ」
後悔と切なさと、そして抑えきれない熱を宿し、レオンハルトの瞳が細められた。
「コーデリア、君は優しく強い女性だ。自分の足で立ち、一人でも幸福に向かっていけると知っているが……………そんな君だからこそ共に歩み、二人で生きていきたいと思ったんだ」
「殿下…………」
「始まりは香りだが、君と言葉を交わし笑顔を見るうち、どんどん惹かれ手放せなくなって…………。ただのまたたび扱いじゃ満足できなくなった。一人の人間として、そして女性として……………君を愛してしまったんだ」
あふれる愛おしさをのせ、レオンハルトがこちらを見つめた。
「私は……………」
高鳴る鼓動、早まる呼吸。
頭が顔が、とても熱くて。
香り。匂いのようなもの。またたび。
いくつかの言葉がコーデリアの頭を巡ったが――――――――
(でも、きっと、何も特別なことじゃないわ)
わだかまりが雪解けのように消え、納得が生まれ覚悟が芽吹いた。
レオンハルトが自分に惚れたきっかけ、『匂いのようなもの』。
その感覚は、ただの人間であるコーデリアには体感できないが、レオンハルトの言葉なら信じられた。
『匂いのようなもの』、それは人の心を表し香り立つ何かで。
そして自分の香りが、レオンハルトにとって魅力的だというのならば。
(私は、殿下の思いに応えたい。怯えたまま、心をすくませたくないわ)
レオンハルトの心変わりへの怖れは、依然としてコーデリアの心の内にあった。
だがそれは、誰かを求め恋をしたら不可避の、愛情と裏返しの感情だ。
(なら、私も覚悟を決め、恋心を認めるべきね。だってきっと、この恐れは、何も特別なことではないのだもの)
人の心も、外見も。
少しずつ、でも確実に変わっていくもの。
『匂いのようなもの』だってきっと、良くも悪くも変わっていくものなのだ。
変化を。
そして変化の結果、相手の心を失うことに怯えるばかりでは、誰の手も掴めなくなってしまうのだ。
コーデリアの中では、そんな恐れよりずっと。
彼を欲しいと、共に生きたいと。
互いに良い方向へと変わっていき添い遂げたいと。
そう望む声が大きくなっていたのである。
「……………私も、殿下のことをお慕いしています」
「コーデリア……………」
思いを告げるのはくすぐったくて、恥ずかしさに頬が赤くなるのがわかった。
「私が殿下の婚約者として、王族の妻として満足していただけるかはわかりませんが………。それでも私は、殿下の隣にいたいです」
「…………ありがとう、コーデリア。俺はもう十分、君によって満たされているよ」
「………………殿下は、私に甘すぎると思います」
恋を自覚し認めると、聞きなれたはずのレオンハルトの口説き文句の甘さが、全身に回るようだった。
「…………求婚を、今すぐ受け入れることは出来ません。私には伯爵領や父の再教育など、やり残したことがたくさんあります。だから殿下には、しばらくお待ちいただくことになると思いますが………」
「待つよ。君が俺の元に来てくれると約束してくれたんだから、何年だって待ち続けるさ」
晴れやかな笑顔で言うと、レオンハルトがコーデリアの腕を取った。
「殿下?」
「約束の印だ。受け取ってくれ」
レオンハルトの唇が、手の甲に触れようとしたところで―――――――――
「殿下~~~~~~~‼ どこですか――――――――⁉」
近づいてくる声に、レオンハルトの動きが止まった。
「…………君に夢中になりすぎだな。いつもならもう少し早く、接近に気づいていたはずだからな」
コーデリアの右腕を離すと、レオンハルトが口惜し気に呟いた。
「コーデリア、続きはまた後日だ。名残惜しいが――――――――」
「はい、行ってください。従者の方たちも、心配してらっしゃると思います」
胸の鼓動を押さえながら、コーデリアは平静を装った。
従者が来てくれて、ある意味助かったかもしれない。
あのまま彼の口づけを受け、甘い言葉を囁かれていたら、全身赤くなっていたかもしれなかった。
(……………これから、忙しくなりそうね。道はきっと、険しいものになるはずだもの)
従者の元へ向かっていくレオンハルトを見送りながら、コーデリアは空を見上げた。
伯爵令嬢が王家に嫁入りした前例はあるが、令嬢が絶世の美貌の持ち主であったり、令嬢の母方がやんごとなき血筋であるといった例がほとんどだ。
(私にはどちらも無いわね………)
それどころか、四度も婚約破棄されたという悪名と、頭にお花畑が咲き誇っているプリシラがついてくる有様だ。
当然、王族貴族たちの多くは手放しでコーデリアを受け入れることはないはずだ。
周囲の人間の反対で、レオンハルトが揺らぐ人間だとは思わないが、
(だからこそ殿下のためにも、胸を張って婚約者を名乗れるよう努力しないといけないわ)
伯爵領の後継者選び、伯爵領の繁栄、父親の再教育、妹への対処………。
全てを成し遂げ、貴族として為政者としての力量を、周囲に認めさせる必要があった。
特に、コーデリアがレオンハルトに嫁ぐ以上、伯爵領の後継者選びは重要だ。
(……………殿下に婿入りしてもらうのは、やはり難しいものね………)
王族である彼の婿入り先が伯爵家では微妙というのもあるが、それ以上に問題だったのが、
(ザイード殿下……………)
レオンハルトが臣籍に降れば国政への影響力が弱まり、いざという時ザイードを止めることも不可能になるはずだ。
(それはこの国にとって、とても良くない気がするわ………)
傲慢で感情的な、他人への尊大さを隠す気も無いザイード。
今のところ公人として大きな失策は無かったが、その人を人とも思わない性格のせいか、他国の使節などと、何度かもめ事を起こしていると聞いている。
王太子の時点でその有様では、最高権力者である王となった時、どうなることか末恐ろしいことだった。
(それに国内でだって、王都の新運河と水道橋の建設を強引に進めたせいで軋轢を生んでいるものね……)
新運河の開通により、王都への物流経路は大きく変わる予定だ。
コーデリアの伯爵領に顕著な影響は無さそうだが、新運河に人と物の流れを吸われ、苦心するだろう貴族も数多かった。
反対に、新運河により恩恵を受けるのが、五大公爵家のうちの二家だ。
一つは、ザイードの母方であり、カトリシアの家であるアーバード公爵家。
そしてもう一つの公爵家、ブランデッド公爵家の支持を得るためにこそ、ザイードは性急に運河の建設を推し進めていたのだ。
(ザイード殿下は、レオンハルト殿下を恐れているのでしょうね………)
レオンハルトの母方は、五大公爵家の一つだ。
そして五大公爵家のうちもう一家も、近頃レオンハルト寄りの姿勢を取っている。
いくらザイードが王太子であれ、五大公爵家のうち二家がレオンハルトに従う状態は、好ましくないはずだ。
だからこそ、ブランデッド公爵家を自陣に取り込みたいという思いは理解できるが――――――
(やり方が強引すぎるわ………)
本当にザイードが王太子でいいのかと、コーデリアは甚だしく不安だった。
もし自分の手で、次代の王を選べるとしたら。
(…………レオンハルト殿下)
彼とて完璧な人間ではないかもしれないが、それでもザイードよりずっと、良い王になると信じられた。
血筋や、五大公爵家の動向、その他諸々を鑑みても、夢物語では無い話である。
コーデリアにだって一つ、レオンハルトを王太子へと押し上げるための考えがあったが―――――――
(でもこれは型破りで、実行したらどうなるか未知数なやり方。それにレオンハルト殿下自体が、ザイード殿下を押しのけてまで、玉座に手を伸ばそうとは思っていないものね………)
色々と思うところはあるが、これ以上は自分の領分を超える行いだ。
思い付いた策が実行される日がこないことを祈りつつ、コーデリアは自邸への帰路についたのだった。