それはささくれのようなものですが
(殿下にとって私は、またたびのようなものなのかしら…………)
コーデリアが遠い目になっていると、目の前の獅子―――――もといレオンハルトが、うなだれていた顔を上げた。
やわらかな和毛に包まれた耳が、前後へと小刻みに動かされている。
動きにつられ、ふわふわと揺れるたてがみを見ていると、小さく咳き込む声が聞こえた。
「…………っ、はっ、ごほっ………」
溺れかけ、気絶していた令嬢だ。
顔を見てもまぶたは閉じられたままだが、意識を取り戻したのだろうか?
彼女に今の状況をどう説明するものかと考えていると、視界の端がかすかに明るくなるのを感じた。
反射的にそちらを見ると、レオンハルトが立っていた。
獅子の姿ではなく、れっきとした人間の体だ。
「殿下、よかった。人間に戻れたんですね…………」
先ほどまでの、子猫のように愛らしい獅子の姿に若干の名残惜しさを覚えつつ、コーデリアは安心した。
これからどうすべきか小声で話し合おうと、レオンハルトへと近寄ろうとしたところ――――――
「駄目だ! 来るなコーデリア!」
顔を背けられ、距離をとるよう遠ざかられてしまった。
この上ない拒絶の仕草だ。
「どうしたんです殿下? 何故私から視線をそらし――――――きゃっ⁉」
軽い衝撃とともに、視界が闇に覆われた。
布がかぶさっているようだ。
金糸刺繍の美しい、レオンハルトの着ていた上着だ。
「コーデリア、まずはそれを羽織ってくれ。話はそれからだ!」
「………あ…………」
コーデリアは自身の姿を見下ろした。
ドレスの裾は破れ、胴衣がずれ落ち、胸元がはだけ肌が見えてしまっている。
――――――つまり令嬢として、あるまじき乱れた格好だった。
「っ………………!!」
咄嗟に胸元を隠しつつ、コーデリアは慌てて後ろを向いた。
めまぐるしい事態の推移に失念していたが、令嬢を助けに湖に飛び込むため、ドレスを破っていたのだ。
その後、獅子の姿のレオンハルトにじゃれかかられたせいで着付けが崩れ、今はもう悲惨の一言だった。
(なんて格好で殿下の前にっ…………!!)
数分前の自分を殴りたくなる。
恋にも結婚にも夢を抱いていないコーデリアだが、人並みの羞恥心はあった。
王族であるレオンハルトの前に無残な姿を晒し続けてしまい、貴族としても最悪だ。
(しかもこの脱げかけたドレスの時に思いっきり、殿下に体をこすりつけられていたわよね!?)
埋まりたい。
穴を掘って埋まってしまいたい。
レオンハルトが獅子の姿の時だったとはいえ、あんまりにもあんまりだ。
素早く上着を羽織り、どうにか見苦しくならないよう調節していく。
腕の長さが足りず、袖から指先だけを出す形になってしまったが、ないよりずっとマシだった。
「………ありがとうございます、殿下。お見苦しい姿を晒してしまい、まことに申し訳ありません…………」
「………あやまるのは俺の方だ。もっと早く指摘すべきだったのに出来ず、あげく体をすり寄せてしまって――――」
「あれは事故です」
「コーデリア、だが………」
「不運な接触以外何も無かった。それでいいですよね?」
にっこりと笑いながら圧力をかけると、気まずそうに視線を反らされてしまった。
「殿下?」
「…………君には、本当にすまなかったと思っている」
大きく息を吐き、レオンハルトが語りだした。
「言い訳になるが…………。獅子の姿の時は、理性の抑えが弱くなってしまうんだ」
「精神の在りようが、外見に引っ張られてしまうということですか?」
「あぁ、そうだ。とはいっても生まれつきの獣と違い、しゃべれないだけで人の言葉は理解できるし、いつもはもう少し、知性や理性が残っているものなんだが……………」
「先ほどは違ったと?」
レオンハルトが頷いた。
「令嬢を助けようと湖に飛び込もうとする君を見て、君が溺れてしまったらと焦って………。それで慌てて獅子の姿になったせいで、理性の締め付けが弱くなってしまったようだ」
「そういうことだったんですね…………。すぐに人の姿に戻らなかったのも、そのせいですか?」
「恥ずかしながらな。獅子の姿の俺にみとれていた君に、そのまま触れていたいと思ってしまったんだ」
琥珀の瞳が、揺らぐことなくこちらを見つめた。
獅子の姿の時と同じ優しい。
でも少しだけ違う熱を宿した瞳から、コーデリアは思わず目を反らした。
(…………恥ずかしいわね)
男性に乱れたドレス姿を晒すことも、こんなにも真っすぐな思いを向けられることも初めてだ。
恥ずかしくて気まずくて。
そして何より、彼の好意を不快だとは思わない自身に対して、コーデリアは戸惑いを感じたのだった。
「………殿下、戯れはよしてください。以前にも申し上げましたが、私はただの伯爵令嬢にすぎません。殿下の好意を向けられる理由も、受け取る資格もありません」
「俺の思いが、偽りや見せかけだと思っているのかい?」
「………嘘ではなくとも、勘違いということはありえると思います」
王子であり、こちらを何度も助けてくれた彼に対し、失礼なことを言っている自覚はある。
だが誰より、コーデリア自身が信じられなかったのだ。
レオンハルトと言葉を交わしたのは、この前の舞踏会が初めてだ。
一目ぼれされるような容姿ではないし、内面にしたって、我ながらかわいげのない性格だと自覚している。
「自分の心は、時に自分自身にもわからないものだと聞きます。殿下はお優しい方です。婚約者に棄てられた情けない私への哀れみや同情を、好意だと勘違いしてしまっているのではないでしょうか?」
「哀れみのみで君を何度も助けようとするほど、俺は優しい人間ではないよ」
「ですが………」
「コーデリア」
なおも反論しようとした言葉は、静かに名前を呼ぶ声に遮られてしまった。
「自分を卑下し過小に見積もるのは、君の数少ない悪癖だ」
「そんなことはありません。私などでは殿下とは到底釣り合わないと、そう理解しているだけです」
「いいや違う。違うよコーデリア。君は自分にもっと、自信を抱くべきなんだ」
レオンハルトの瞳が、痛みをこらえるよう細められた。
「今だけじゃない。君は先ほども兄上に対し、自分のことを惨めだと言っていただろう?」
「あの時はそう言わなければ、ザイード殿下の合意を引き出せないと思ったからです」
「あぁわかっているさ。だがな、俺が嫌なんだ」
「殿下が?」
「……本心でなくても口に出し自らを貶めるのは、決して気分のいいことじゃないはずだ。俺は自らを卑下する君の姿を、見ていることが嫌なんだ」
コーデリアは黙り込んだ。
婚約破棄の件で他人から馬鹿にされるのは慣れていたし、今更傷つく自分ではなかったが。
(例え方便であれ、自分で自分を『婚約破棄された哀れな令嬢』と言うことは)
痛みというほどもない、ちょっとした引っ掛かりであれど。
不快さは、怒りは、悲しみは。
確かに少しずつ、心の底に降り積もっていたのかもしれなかった。
(でも殿下も、無茶なことを言うわね)
心の傷とまでもいかない、小さな小さな、ささくれのようなものなのだ。
コーデリア自身、今まで自覚することのなかったそれに気が付き、他人である彼が許せないと言うなんて。
(変わったお方ね………)
そう思いつつ、コーデリアは自然とほほ笑んでいたのだった。