12
ハイルドが知らないレーライトがいた。
レーライトが笑っていた。
その視線の先にいるのは、レーライトの隣を歩く赤褐色の髪を持つまだ少女の面影を残す女性。″守人″アリミアだ。
アリミアが、地面に張り出した木の根に躓いて転びそうになる。
レーライトが慌てて、手を差し出して、バランスを崩したアリミアの体を受け止めている。
ホッとしているレーライトの目は、優しくて甘い。その腕の中にいる者を大切しているのがわかる。
アリミアは、顔を真っ赤にしながら、レーライトの腕にすがり付いていた。申し訳なさそうに上目遣いでアリミアが顔を上げた時、レーライトは、目を見張っていた。レーライトの喉がゴクリと動く。
アリミアが弾かれたように後ろを見る。誰かに呼ばれたようだ。
アリミアは、レーライトに何度も頭を下げながら、去っていく。
レーライトは、アリミアが消えた方向を切なそうに見つめ、さっきまで彼女を支えていた手に視線を移す。
苦しげに顔を歪ませながら、手に残る温もりをまるで逃さないようにギュッと握りこんでいた。
知らない、こんな切なそうなレーライトは。
机の上にザッと取り出されたのは、子供用のオモチャ。この国で使われている文字が小さな積み木に一文字ずつ書かれている。小さな子供は、この積み木を並べて、言葉を覚えていく。
レーライトが、積み木を並べている。
『レーライト』
「これで、レーライトと読む。僕の名だよ。」
少しはにかみながら、レーライトは、出来た単語を横にいるアリミアに見せた。
アリミアが、その単語を一文字ずつ指でなぞっている。
その指の動きを目尻を赤くしながらもレーライトは、愛しそうに見つめている。
赤褐色のアリミアも積み木を並べる。
『アリミア』
「君は、アリミアという名前なのだね。」
レーライトもアリミアと同じように指で文字をなぞっていく。ゆっくりと味わうように。
「アリミア、うん、素敵な名前だ。」
そう言って、もう一度その名前をゆっくりなぞる。
真っ赤になったアリミアの顔を見て、満足そうにレーライトは、笑っていた。
こんな風に笑うレーライトを見たことがない。
木漏れ日が溢れるベンチに並んで座り、二人で本を読んでいたレーライト。
レーライトがふと隣を見ると、アリミアはスヤスヤと眠っていた。
その寝顔を愛しそうに見つめ、アリミアの体を起こさないようにそっとレーライトに凭れかかるように引き寄せる。
アリミアの頭がコトンとレーライトの肩に乗ると嬉しそうに笑い、その手は、赤褐色の髪を一房取り、そっと唇を寄せていた。
こんな幸せそうなレーライトを知らない。
「タアラマ侯爵、なんと言った?」
レーライトの声が震えていた。
レーライトの前に立つのは、白髪の老人だ。
「殿下と我が孫ミューミアの婚姻を陛下にお許しいただけました。」
レーライトがその手を白くなるまで握りしめている。
「殿下があの魔物で父親を失った女性に憐愍の情を持たれるのは、仕方がないことです。しかし、あの者を妃には・・・。」
「言うな。」
レーライトにしては、珍しく強い口調で話を遮る。
「孫のミューミアも殿下をお助けした際に左手に魔物の痕が。お慈悲をいただけますようお願い申し上げます。」
それにあの娘が、ミューミアによく似ているのです。
白髪の老人は、頭を深々と下げて、部屋を出ていった。
ドサッと椅子に座り込み、頭を抱えるレーライトの姿があった。
こんな弱々しいレーライト、知らない。
「アリミア、聞いたのだね。」
寂しそうに笑うアリミアがレーライトの前に立っていた。
「アリミア、左手を出して。」
おずおずと出された左手を持つと、レーライトは跪いた。
うやうやしくその中指に指輪をはめる。あの指輪だ。
「我、レーライトは、″守人″アリミアに永遠の忠誠を誓う。」
レーライトは、その指輪にそっと口づけし、アリミアの顔を見上げた。
ハイルドは、目を反らした。二人がどんな表情をしているか見ることが出来なかった。
色々な場面が現れては、消えていく。
ハイルドは、ただ見ているだけだ。
『お幸せに』の積み木を乱暴に壊し、肩を震わせるレーライト。
ハイルドが知っている笑顔でミューミアと結婚式を挙げたレーライト。
今まで以上に公務に取り組むレーライト。
私室で思い出したように積み木を並べようとし、手を止めるレーライト。
ハイルドの結婚を聞いて、顔を歪めたのは気のせいではなかった。『アリミアは、誰が幸せにするのだ?』レーライトの私室で呟かれた言葉。
魔物の話が出る度に苦しそうな顔をするレーライト。
どんな想いだったのだろう。
愛する人を諦めなければならなかったのは?
ああ、やっとわかった。レーライトもあの時絶望したのだ。
″守人″アリミアの死を確信した時に。
愛する人を幸せに出来なかった、守れなかった自分に。
だから、あのウマを生み出した。
レーライトが本当に魔物の祝福を受けたかったのは、レーライト自身だった。
「・・ドさま、ハイルドさま。」
ハイルドが目を開けると、見覚えのない天井が目に入る。
ここは、何処だ?
「ハイルドさま、気が付かれたしたか?」
テナヤの声だ。テナヤは、無事だったのか?
ハイルドは、声のするほうに首を動かした。
見慣れた茶色の髪が目に入る。
ハイルドは、目を見張った。
テナヤの顔には、剣で切りつけられた痕が残っていた。額から、左頬にかけて。左目は、塞がれており、もう見えないのだろう。
「テナヤ、その怪我は?」
テナヤは、左手で顔を隠しながらも嬉しそうに笑った。
「やっとお気付きになられた。奥様と医師を呼んで参ります。」
待て!とハイルドが声をかける間もなく、テナヤはベッドから離れ、部屋を出ていく。
ハイルドは、小さくため息をついて、部屋を見回した。
見慣れない物ばかりだ。いや、妻の部屋で見たような物がある。
エルシア、妻ファーの国に来れたのか?
ゆっくりと体を起こした時、ドアが開いた。
数人の者が入ってくる。ハイルドが知っている者、知らない者。
「ハイルドさま。」
水色の髪を揺らし、髪と同じ瞳に涙を溜めながら、ハイルドに走り寄る女性。その腹部は、大きくせり出している。
「ファー、走るんじゃない。」
ハイルドは、慌てた。転けて腹を強打したら、目も当てられない。
「ハイルドさま。」
ベッドの側に来た妻に手を伸ばしながら、ハイルドは幸せを噛み締めていた。それと同時に深い罪悪感も。
「君と子に何かあったら、俺は目覚めたことを後悔する。」
ハイルドは、妻の背に手を回しながら、その大きな丸いお腹に顔を寄せる。
送り出した時は、ほとんど目立たなかったお腹が、これほどまで大きくなっている。
頬を寄せ感慨に耽っていると、ボコとハイルドの顔に何かが当たる。ハイルドは、何事かと妻のお腹から、顔を離した。
「あら、やっと会えたお父さまにお足でご挨拶なの?」
ハイルドの妻、ファーは、クスクス笑い、小さな足の形になっている場所を優しく撫でている。
ハイルドは、涙を流していた。
妻のお腹で、新しい命が育っていることに感謝して。
″守人″とよく似たミューミアのせり出したお腹に手を当てていたレーライトを思い出して。
「ファー、聞いてほしいことがある。」
もう母親の顔をしていたファーは、微笑んで頷いた。
「お元気になられましたなら。」
医師の診断では、何処も問題はないが、念のため二・三日安静にするようにだった。
翌日、ハイルドは、まだベッドの上だった。
ハイルドのベッドの横には、テナヤがいた。部屋には、他に誰もいないが、隠れて聞き耳をたてられているのはわかっている。
「ハイルドさま、一ヶ月も何処にいらっしゃったのですか。」
ハイルドに水を渡しながら、テナヤが聞いてきた。
「一ヶ月?そんなにも経っているのか?」
ハイルドには、そんなに時間が経っているようには、思えなかった。テナヤとはぐれて長くて半日くらいの感覚しかない。
ハイルドは、三日前、この屋敷の庭に急に現れたらしい。
「門に入ってから、もう二ヶ月近く経っています。私もあの場所に居たのは、半日くらいと思っていましたが、ここに辿り着いたら、半月経っていました。」
空になったグラスをテナヤに返しながら、やはり彼処は時間の流れが違ったのだと思った。
「私は、あの場所に一日も居たように感じなかった。ただ、おかしなコトは、多かったが。」
ハイルドの呟きにテナヤも頷いている。
国王は、門に入ってすぐに出てきて死んだ。だが、ハイルドは、門の中、あの白い空間で国王に会っている。
「テナヤ、お前は、あそこで誰かに会ったのか?その傷は?」
ハイルドは、テナヤの顔にある見慣れない傷を見た。
テナヤも剣の腕は立つ。そのテナヤに傷をおわすほどの腕をもつ者。
「ローヒカ伯か?」
片手それも左手だけで、ハイルドを防衛のみにさせた者。しかもローヒカ伯は、右利きだったはずだ。あの場の不思議な力が、ローヒカ伯に味方をしていたとしても、左で剣を振ることに慣れていなければあれほど見事に剣を使うことは出来まい。
「何故おわかりに?」
傷を手で隠すように押さえ、テナヤは頷いた。
「私も剣を合わせた。あいつ、ローヒカ伯は、相当な手練れだ。」
ハイルドは、剣を合わせて感じた。ローヒカ伯の右手があったのなら、負けていただろう、と。
テナヤは、語った。
「マハタナ男爵さまと兵たちを襲っていたので止めに入り、避け損ねました。」
逃げたマハタナ男爵を追おうとしたローヒカ伯に立ち向かったら、「邪魔だ!」と腹を蹴られ、気が付いたらこの国に来ていたと。
「仲間割れか?」
テナヤは、首を横に振った。ほとんどの者が口をきける状態ではなく、テナヤがローヒカ伯の剣を受け止めている間に、唯一無傷だったマハタナ男爵が逃げ出した。そのため、どういう経緯で斬り合いになったのかが、わからないと。
「私は、陛下と陛下の次に門に入った者に会った。」
その後、ローヒカ伯から逃げてきたマハタナ男爵に会い、ローヒカ伯に会い、一代目勇者で二代目魔王に会った。
「陛下は、すぐにお隠れになられましたよね?」
テナヤは、首を傾げている。時間的に有り得ないからだ。
「兵も門に入ったばかりで何もわからないと行っていた。」
不浄の沼になる空間だ。不思議なコトが起こっても仕方がないのかもしれない。
ハイルドが、ローヒカ伯から聞いたこと、一代目勇者で二代目魔王の話しをテナヤにするか迷っていると、扉を叩く音が聞こえた。