第三話:ブラジャー
月曜日の朝に吐いたのは、二日酔いのせいだけではないらしい。週末の記憶が曖昧なのは、酔いつぶれていたせいだけではないらしい。
側頭葉や海馬に保存された記憶と違って、全身に散らばった悪魔や所謂超常的なものに関する記憶は、脳の前頭葉の働きによっては取り出すことができない。つまり、人間は悪魔を認識することができるが、自覚的に悪魔のことを思い出すことはできないということになる。
一方、悪魔と契約を結んだものは、その体に契約の印を残されるので、悪魔が取り立てを急かす意味で、悪夢を見せるなどの手段で思い出すことを強制されることがある。しかし朝になってその夢のことを人に話そうとすると思い出せない。
こうした手段で悪魔は何世紀もの間、悪魔祓いを行うエクソシストや陰陽師の目を逃れ、存在を保ち続けてきた。
良子がまだ翼のことを悪魔として認識し続けているのは、翼自身が選択して良子の前に姿を現しているからに過ぎない。今この瞬間にも翼が良子の元を去れば、良子は自分を忘れる。実際、再会するまでの約十年間、良子は中学時代の同級生が悪魔だったこと、その悪魔と結んだ契約のことを思い出せなかった。
誰よりもまず良子自身が、何故私はこうも顔だけが美しいのだろうかと疑問に思って十数年間生きてきたのだ。
彼女がその理由を思い出したのは、金曜日の夕刻、中学時代の同級生の訪問を受け、「酒が足りない」と買い出しを頼まれて一人、外に出たときに、外階段を降りたところに懐かしい進道翼の姿を認めた。最後に見たときと全く変わらない、十四歳のままの姿でそこに立っていた。
翼は「俺」と男の一人称を使うが、その見た目は女だ。髪型こそボーイッシュなショートカットで、足元もパンクなブーツを着用しているが、顔立ちは中高の玉顔である良子に比べ全体的に小ぶりで主張の少ないつくりをしていて、その中に二つの丸く大きな瞳だけが目立つ。
寒さ厳しい冬の風に、セーラーの襟とスカートのプリーツが揺れていた。
「そうか。悪魔、だから変わらないのよね。歳。見た目も。さっきは服が違っていたから思い出せなかった。あなたが、悪魔だってこと。あれ、さっき、あなた、部屋の中に、あれ?」
「やっぱり先に来てたか」
混乱する良子を他所に、翼は淡々と言葉を放つ。
「近頃俺のシノギを掠めとってる奴がいてさ。まあそんなケチな真似する奴は低級だろうけど、最近二層に上がったやつだろうな。新しい面を俺そっくりに仕上げて、働かず稼ぎを盗もうだなんて、流石は悪魔のやることだよなあ」
「二層?」
「うーん、何て言ったらいいかな。この説明、前に会ったときにはしなかったけか? したとしても、十年空いてるからなあ。まだ思い出すのに時間かかるか。もう少し前頭葉に刺激を送り続けないとな。悪魔にとって、一層だとか二層っていうのは、そうだな。デスクトップに開けるウインドウの数を想像するとわかりやすいかもしれない。俺は低級の契約の悪魔の中でも最下級、一層――つまりあんたに今見せてるこの中学生女子の姿しかない。本当の姿は大蛇だとか、ツキノワグマだとか、そんなのないない。ふつーにこれが真の姿だ。この姿を祓われたら、俺という現象は、お終い」
「人間で言うところの死みたいなものね」
「相変わらず察しがいいな。まあ人間と悪魔にとってじゃ死の価値は全然違うと思うが、多分感覚的には同じだ。二層の悪魔は、一つの姿を滅ぼしてももう一つの姿が残存する」
「ええと、悪魔には死の概念はないけれど、現世から祓われて、冥界を構成する巨大な虚空――ボイドの一部に戻されてしまうと、個体としての連続性を失う」
良子はこめかみを押さえて、中学校から自転車で四十分ほど行ったところにあった大型イオン内のフードコートでロッテリアを食べながら放課後、翼とした話を思い出そうとした。
翼は「関心した」とでもいうように腕を組み、「他に覚えていることは?」と続きを促す。
「悪魔には中世でいうところの『領主』のような存在がいて、低級の悪魔は彼らによって形を与えられて虚空から造り出される。地上で働かせて、人間から巻き上げたものを自分に貢がせて回収するため。回収したものを材料にまた新しい子分の悪魔を作り出し、そうやって自分の軍団を拡張して、爵位を高めていく」
「流石一高志望」
「馬鹿にしてるの」
「なんでだよ。ここら辺じゃ一番なんだろ」
「落ちたわよ。美人なら、成績悪くても許されると思って。サボりすぎた」
それ以上はあまり詳しく語りたくもない話題なのか、「とにかく」と良子は切り上げて言った。
「手柄を上げて、ご褒美に元の姿にプラスして、もう一層もらえることになったときに、その面をあなたそっくりにして、昔あなたが契約を結んで、願いを叶えた人間のところに現れて、手っ取り早く代償だけ回収してしまおうって考えの奴が今、私のアパートのリビングにいるのね?」
「そう、そういうことだ」
「あなたの方が偽物じゃないってどうして言えるのかしら。そうやって騙して私から代償を巻き上げようとしているのはあなたの方かも?」
「おお、まともな警戒ができるようになったんだな」
翼は取引の対価も大して確認せずに、「願い事は何にする? まあ大抵のやつは金がほしいとか美人になりたいとかだな」と尋ねたら、「じゃあ、美人になる、で」と即答してきた中学生の姿を思い返していた。
「訊いただけよ」
良子の表情は変わらない。外の空気が寒いのか、部屋着の上にそのまま羽織ったコートのポケットに両手を入れて、軽く体を揺らした。
あまり時間もない。コンビニは徒歩で十分もかからない距離だ。様子を見に来た二層の悪魔と鉢合わせ、口論になったら、利があったところで割を食うのは翼の方だ。地獄の領主に公平性などあるわけがない。面倒事が起これば単純計算で作るのに多くの材料を要した方が残され、程度の低い方が消される。良子への自己同一性の証明は手短に済ませた方が吉だ。
「初めて買ったブラジャーはピーチ・ジョンで、色は薄オレンジ、サイズはC70だった」
「私の知ってる翼ね」
「まだ持ってる?」
「まさか。下着が十年ももつわけがないし、ピーチジョンなんてもう何年も買ってないわ」
「自分でちゃんと下着買うようになったかい?」
「そうでなきゃ生きていけない」
「よかったよかった」
翼は必要以上に口を大きく開けて笑いつつ、制服の胸ポケットから、小さく撒いたメモ用紙を取り出し、良子に渡した。
「何故、巻くのよ。折ればいいのに」
「いいんだ。こっちの方が俺は慣れてるから」
良子はその、仰々しく巻いて茶の紐で結んだただのブロックメモの紙片を受け取り、そこに書かれていた文字を読み上げようとした。
「おい、やめろ。ここじゃ駄目だ」
「なあに、これ」
「悪魔祓いの呪文だ。部屋に戻ったら、そのこそ泥相手に読み上げろ」
「ああ、今これ読み上げちゃうとあなたが祓われちゃうのね」
ははは、と良子は何が面白いのか、大きな声を上げて笑う。先ほどの翼とそっくりな笑い方だった。良子は、人生で誰かと笑いあうという経験がほとんどなかった。彼女は数少ない人間的な表情を、この悪魔から学んだのだった。