第二話:吐瀉物
「美人なら放っといてもらえるから」という理由で悪魔と契約して美人になった良子。十数年後、悪魔は契約の代償を回収するために戻ってきた――。
三日前の夕刻、酒瓶とグラス二つを入れたビニール袋を持って良子の家の玄関に現れて、「ひっさしぶりぃ」と言うが早いが、リビングまで上がり込み、酒盛りを始めた。良子も酒は嫌いではなかったので、キッチンに行って適当につまみを作り、隣に座ってこの悪魔の酌を受けた。注ぎ返すまでの配慮は備えていなかったので、翼は手酌となった。
それから一睡もせず、翼は酒を煽り続けている。良子の方は生身の人間なので、不規則に睡眠は取っていたが、起きている間はほとんど、呑み続けていた。土日は学生のバイトが来るので、良子は休みなのである。二日分の二日酔い明けの出勤が今朝だった。良子は嘔吐の感覚を思い出して、まだ中身が半分ほど残った自分のグラスを空になった皿と一緒に流しまで運んで、逆さにした。
悪魔の翼は、姿かたちこそ良子と同い年くらしの人間に見えるが、その口の中には光一つ通さないボイドが広がっているばかりで、傷める肝臓がない。常人には分解不能なアルコールどころか、コンクリートの塊だって呑み込んでしまう。翼の体は地上のブラックホールだ。
これに合わせていては、駄目だ。体が持たない。
良子は口に出さないまま、静かに断酒を決意した。翼は日本酒を呑んでいた。持参したボトルがすぐに終わってしまったことは言うまでもなく、良子がときどき映画のDVDを観ながら楽しむハイボール用のウイスキーや焼酎まで飲み尽くしてしまって、取って置いたちょっといいボトルにまで翼が手を出そうとしたので、「あなたは何呑んでも同じでしょう」と料理酒代わりにしている安い醸造酒の紙パックを突きだしたのだ。それももう底をつきかけている。
一日目、人といるときはいつもそうしているように良子が黙っていると、静かなのが落ち着かないと翼が言うので、家で一人呑むときはいつもそうしているように、ゾンビ映画を流そうとしたが、食事中だぞと嫌がられた。そこで二人は昔話をすることにした。二人でいた頃の話をしても、互いに知っていることばかりでつまらないので、離れてからの良子の人生の話が主になった。
中学を卒業して、高校を卒業して、大学に入って、就職して、辞めて、などなど。そのようなことをつらつらと語っている内に週末は終わった。
「高校編はそれなりに詳細だったのに、一年多いはずの大学編は意外とあっさりしてるんだな」
「昨日私、どういう風に言っていたっけ」
「この四年は特に何もなく、四年で卒業した」
「ああそれ、嘘よ」
「嘘?」
「見栄を張ったのね」
「なぜ」
「ほら私って朝が弱いから、専攻の単位をかき集めるのに結構苦労したし、卒業論文もテーマを一つに絞らないといけないとなると、結局何を書いていいかわからないでね、締め切りギリギリまで粘る羽目になったわ。あと国立じゃなくて県立大だったし。前期は二次試験の点数が足りなかったの」
「いや、そんなありがちなエピソードは求めてねーよ。なんでそんな嘘ついたって訊いてんだ」
「あなたに見栄張ったんだって。久しぶりに会ったから」
悪魔は奥に虚空を抱えた目で良子の顔をじろりと見る。その無表情なところは中学生のときから全く変わっていなかった。その顔の造りが変わった後でも、浮かぶ表情が変わらなければこうも同じ印象を与えられ続けるものなのか。
良子の鼻の高さや目元のつくり、肌質が劇的に変化したにも関わらず、当時の同級生たちは良子の整形を疑わなかった。
せっかく整えてやったのに、それじゃ俺のセンスが疑われると、翼が髪の毛を切って、眉を整え、肌の保湿剤とリップクリームを塗ってやったのもあって、良子が突然に美しくなったのは努力の結果だと思われた。
「早峰さんって、お洒落したら絶対かわいいと思っていたのよ」と言い出す者までいた。
そして良子を買い物やゲームセンターで遊ぶのに誘ったが、彼女はじっと黙っているだけで、何か話を振られても「うん」や「そうね」としか返さなかったので、困った彼らは「迷惑だったかな」と、二度と良子に声をかけてくることはなかった。見た目を整えて、きっと仲間に入りたいのだろうと善意で手を差し伸べたつもりが、何か悪いことをしたような気持ちにさせられて手を引いたのである。
翼には良子の人間性が理解できなかった。
自分が悪魔だから人間のことがわからないというのが全ての理由ではないと思う。同情や感傷がない分、悪魔は人間に対して鋭い観察眼を持っている。
家族や友人には成り得ない、しかし、客にも商品にも成り得る重要な存在のことは、野心のある悪魔なら知り尽くしていて当然だ。
目下、人間の欲望に寄生することでしか力を発揮できない契約の悪魔である翼は、今の身分に満足せず、下級からの脱却を画策していた。
そのためには、かつて契約を結んだ良子からどれだけの代償を巻き上げるかということが重要になる。
「美しくなりたい」だとか、「金持ちになりたい」だとか、「邪魔な奴に死んでもらいたい」だとか。
悪魔は人間の願いを叶える。それがどんな願いでも、相応しい対価を払うのならば。
故に、悪魔との再会を喜ぶ者はいない。一度願いを叶えたものの前に彼らが再び現れる理由は一つ。「ツケの回収」だ。
玄関のチャイムが鳴った。翼は他人の家なのでじっとしている。宅急便が来る予定はなかったはずだけれど、果て、と疑問に思いつつも良子は立ち上がり、インターホンの通話ボタンを押した。
「はい」
「山口さんのお宅ですか」
「そうです。けど、圭人さんならいませんよ」
「同居人の早峰良子さんですね」
「そうです」
その後二、三言葉を交わした後、良子がリビングを出て行ったので、翼はおや、セールスや勧誘の類ではなかったのかと、軽く空いたままの廊下の扉の隙間から玄関の様子を窺った。
相手は刑事だった。本当に警察バッジを提示するし、二人組で行動するんだなあと良子は感心していた。
彼女はこの週末の記憶をほとんど失っているようだ。考えていた通りだな、と翼は思う。
人間の記憶を保存するのは側頭葉と海馬のみではない。
臓器移植手術を施された患者が、臓器提供者の生前住んでいた住宅に行くと、「懐かしい」と感じたり、味覚の好みが似てきたりすることがあるという報告は、あれは強ち適当な人間のでっちあげでもなかったのだなと翼は納得する。
悪魔を知覚しているのは人間の脳ではない。
記憶にはないが触った感触を体が覚えている、だとか、理由はわからないけれど悪寒がする、だとか、そういうあやふやな、理性の支配から解き放たれた領域にこそ悪魔は顕在する。
こういった感覚は前頭葉に外界からの正常な刺激として認識されず、側頭葉に送られる際の記憶分類から漏れてしまう。
この分類不能の記憶はしばらく海馬を漂った後、どこにも定着することができず、しかし吐き出されてしまうこともなく、全身に散らばる。
例えば肌、例えば髪、例えば臓器。
「髪を切る」という行為が「過去を切り捨てる」ための儀式と見られているのはこのためだろう。
良子が週末の記憶を失っているのは、今朝方、口から臓器をいくつか吐き出してしまったからだ。そこに保存されていた分の悪魔の記憶を失ったのだ。