第一話:悪魔との再会
良子は一年と少し前にある男と同棲を始めた。良子とその男は小学校の同級生だった。二人は中学、高校は違うところに通って、大学時代にも一度も会わなかった。二十五のときに、男の働くガソリンスタンドでポイントカードを作るために、名前を書いたとき、「早峰って、あの早峰良子か?」と尋ねられ、「うん」と答えた。
良子の方は、男の顔をはっきりと覚えていた。一年生と三年生と六年生のときに同じクラスだった。三年生のとき、彼はクラスで一番、女子に人気があった。スポーツができたからだ。牧野ひまりという、目立つタイプの女子がいて、彼女の頭の中では、クラス中皆が彼に惚れているということになっていた。「私の好きなあの人を、みんな狙っている」という類の妄想に浸りたかったようだ。
顔が不細工な上に、「好きな子いないの?」と尋ねられたら「生きている男の子には興味がない」と大真面目に答えるような変わり者の同級生さえも恋をする、完璧超人なヒーローは、私には不相応な存在だけれど、いつか内側に秘められていた私自身でも知らなかったような魅力に気付いて、愛を告白してくれる日が来るの。それが彼女の専らお気に入りとしていた筋書だった。
良子は巻き込まれたのだ。ただ「つん」としている分には一人が好きな大人しい子なのだということで、ただ孤立するだけで済んだが、普通の子が必死になるようなことには興味がないの、という顔をして、密かにクラスの人気者に想いを寄せているとなれば、からかいの的になるのはすぐだった。
不運なことに、良子は顔の細工が悪かった。鼻はぺしゃんこで、ニキビが多く、夜更かしをするので、痘痕に覆われていない部分も肌は茶色くかさついていて、掻くとポロポロと皮質が落ちた。眉は勿論鋏を入れられたことがなく、年齢を考えればそれ自体は自然なことであったが、良子のそれは聊か形が悪く、量も不必要に多く、悪目立ちして、まるで毛根さえ美への無関心を主張しているようだった。
唇は薄く、いつも乾燥して、破れたところから出た血が赤黒く固まり、人に指摘されてそれを舐めとろうとする姿はガラガラ蛇そのもので、目つきの悪さも相まって、益々不気味だった。
それでも母親にとっては、他の二人の兄弟と同じように、愛しい子供であったようで、真夜中にいつも突然、思い出したように良子が風呂に入ろうとする刻まで、湯の栓を抜かずにおいてくれたので、辛うじて良子は清潔だった。服も毎日洗濯された物を着ていて、同級生たちがモデルや女優に憧れ、半端に手を出す安物の香水よりはずっと良い匂いがした。
そこに挽回の兆しがあるようにも見られたが、良子自身に全く、まともに振舞おうとする意志がなかったので、言動も行動も奇矯で、一向に周囲に溶け込むことをせず、見た目通りの薄気味悪い女ということで、忌み嫌われていた。
良子がもう少し、周囲に関心のある女だったら、それだけの材料で既にいじめの対象になっていてもおかしくないが、多数に迎合できなかった者が、自尊心の自衛のために、別に話も合わないが集まる、所謂はみ出し者、日陰者の集まりにさえ加わろうとせず、二人組を組め、と言われて、偶数人の生徒の中で余って、先生が三人で組んだ者たちを叱るのにも、屈辱を感じることなく、ただ何らかの決着が付くのを待っているこの同級生には、からかいがいすらないので、やはりただ、孤立するのみであった。
幾人かの教師は、そんな良子の態度に痺れを切らして、「まわりと仲良くしようとしないと駄目よ」「あなたはどうしたいの。こうしたいというのはないの」と尋ねたが、良子は「別に何でもいいです」と繰り返すばかりだった。
本当は「どうでもいいです」と答えてしまいたいのだろうと、彼らは良子の歳に合わない、初めから何もかも諦めているような態度を憎んだ。
本人にそのつもりがなくても、熱心な教師ほど、良子のその冷えた目で見つめ返されると、人の心が柔らかな時期に教えを説くことで、誰かの人生を変えることに快感を覚えているのを見ぬかれ、ふふんとせせら笑われているような気持ちになるのだった。
それまでそんな後ろ暗いことを一度も考えたことのない者でさえ、良子の前に立たされると、どこか後ろめたい気持ちになった。私はもうこの生徒に対して打つ手がないように感じているが、本当にそうだろうか。彼女の顔が醜いので、この一人を軽んじて、見捨てようとしているのではないだろうかと、自分の心の中を探った。
そして中には、早峰良子を諦めまいと踏ん張る者もいたのだが、どんな北風も太陽も、良子の冷たい瞳に瞬き一つさせることすらできなかったのである。失敗した内の何人かは、悔しい気持ちから、理不尽に良子を嫌った。どうしようもなく頑固で鼻持ちならない子供だというレッテルを貼った。
しかしながら、素行も成績もけして「悪い」とは言えず、問題は「友達がいない」のただ一点に尽きたので、親を呼び出して責めるわけにもいかず、「あの子はそういう子なのだ」という諦めを手に入れて、良子はそこそこ平穏に暮らしていた。
ひまりの空想がその日常を破壊した。
三年生の終わりごろから、本格的ないじめが始まった。これまでも孤立していたので、教師は気付かなかったが、良子を見る、同い年の子らの目に、単純な奇異ではなく、侮蔑と嘲笑の色が次々に宿っていった。ぽっ、ぽっ、と、ろうそくからろうそくに火が移されるように、気づけば、良子は教室の中で一等明るいステージの上に引っ張り出されていた。良子は名前も覚えていない生徒たち一人一人が、その手に持ったろうそくの灯りで良子の顔を照らすのだ。醜い、醜いと笑うのだ。
憎しみというには弱く、ただし尊敬や親しみの温もりは全く感じられない、注目のスポット、好奇心の脚光。
嫌われるのは全然構わないのだが、これは流石に良子にとっても煩わしく感じられて、それから数年後、中学生になり、何でも願い事が一つだけ叶う機会がやってきたとき、彼女は美人になることを選択した。
良子が住んでいるアパートの二階に着き、ジャンパーから鍵を取り出して扉を開けると、玄関には良子の趣味ではない、踵に車のナンバープレートみたいに、のっぺりとした銀の飾りが張り付いた、黒い本革のショートブーツが転がっているが、同棲相手の男のものではない。彼は三カ月前にこの部屋を出て行ったきり、戻らない。
良子の人生に、再会は珍しかった。卒業や転職などでそれまでいた場を去るような機会があれば、彼女はその場にもう二度と戻ることはなく、わざわざ連絡をとるような友達ができることもない。全くの偶然で、約二十年ぶりに再会した男と一緒に暮らすまでの仲になったが、彼と二度目の再会はないだろうと良子は直感していた。少なくとも彼女からは一度もその行方を探したことはなく、また、これからも探す気もなかった。
三カ月はただ、過ぎていった。このまま残りの人生全て過ぎていっても、自分にとっては全く不自然なことではないように良子は感じていたが、どうやらそうでもないようだ、と思わせることが、つい三日前に起こった。今度は中学時代の同級生が、良子の元を訪ねてきて、二人は再会したのだ。
中学校を卒業したら、はい次は高校に入学です、というような、一度社会に放り出されたら無縁になるはずの、あの逆らいようのない流れが、何故か今再び、二十六になった自分に押し寄せてきているのを良子は感じていた。
「それで、どこまで話したかしら」
「俺と契約して、顔が綺麗になったはいいものの、結局まわりと合わせるつもりが全然ないんで、友達どころかろくに会話ができる相手もできないまま中学は卒業して、高校入って数週間経った頃に告白してきた男と初めて付き合ってみたものの、向こうは奥手、良子は努力する気もなしで、まともなデートを数回もしないで自然消滅、僅かに残っていた人間関係への興味をついに全部喪失して、受験勉強に打ち込み始めたところまで聞いたよ」
「そうそう、家も学校も卒業まではバイト禁止だったので、先立つものがなくては他にできることもなくて、仕方なく勉強したのよ。国立大学なら学費が安いから、家賃も生活費も出してくれると言われてね。一人暮らしには多少、希望が持てたわ」
早朝のアラームで目覚めて家を出る良子の背中を見送ったままの姿勢で座椅子に身を預け、酒を煽り続けているその悪魔は、名前を進道翼という。