僕はここにいる
こんなに晴れて気持ちのいい日だというのに。
僕は、リーダーからのお小言の真っ最中だ。
窓からは深い深い青の空へ僕の視線が突き抜けて行き、入れ替わりに、隣のビルに反射した秋分前の太陽の光が遠慮なしに差し込んで僕の頬に窓枠の影を落としている。
僕の勤めている会社は、いくつかのデータ分析ソフトウェアとそれに対応したマシンをセット販売する、という業態で、僕はそこに所属する技術営業だ。
世にデータ分析の需要は尽きせず。
データを制するものは世界を制す。
などなどと社としての売り文句は掲げるものの、結局は最大手のディープラーニングシステムを売っているだけだ。
僕自身は根っからの理系で、情報だのなんだのの基礎教育は受けていてほどほどの素養はあると思うが、件の最大手のシステムを追い落とすようなシステムを開発したいか? と言われれば、即座にノーと答えたい。それで名を成して自分の価値に尾ひれがつくなんて真っ平ごめんだ。
リーダーは相変わらず小うるさいが、別に彼だってリーダーになりたくてなったんじゃないと思う。
このご時勢、誰が好き好んでリーダーなんて役職を背負おうなんて思うものか。
そのくせ、小言だけは欠かさないのだからたちが悪い。彼が仕事に燃える熱血漢ならまだ良かった。僕はそうではないと知っているし彼自身も自覚している。そんな熱意のない上役からの説教ほどの時間の無駄はない。
今日のお小言も、システム規模6(売り上げ換算で三千万円以上)の案件の種をみすみす放置してしまったことだ。
いいじゃないか、別に。
それで傷つくのは僕の成績だけであって、その僕自身は、別に部署内で抜きん出た成績を上げたいと思ってるわけでもないんだから。
会社に貢献? 愛社精神?
言葉の意味は分かるけれども。
会社なんてしょせん、お金を稼ぐ手段でしかない。
――あんただってそんなこと一ミリも信じてないだろ?
心の中で毒づく。
僕も彼も、会社なんぞを心の拠り所にしているわけじゃないってのに。
* * *
僕の自宅は近郊の賃貸マンション、何の変哲もない三階のワンルームだ。
いつものように服を脱ぎ狭いクローゼットに押し込むと、同じ手でそこからHIMを取り出す。
眼鏡とヘッドホンが一体になったような小さな装置、HIM。
食事前にこれを使うのが、僕の習慣だ。
中には、これを起床時に使う人もあるだろうし、通勤中に使っている人を見たこともある。
目と耳を覆うようにに装着して電源を入れ、目を閉じるだけ。
まざまな波長の光の明滅、ノイズとも音楽ともつかない不思議な音が、瞼の奥の視神経と聴覚を通して僕の中枢神経に入ってくる。
――と、はっきり認識していたのは初めて使ってからしばらくの間だけで、今では、そうなのかどうかもあまりよく分からない。客観的に見ればたぶんそうなのだと思う。そうとはっきり考えなければ、そうした刺激はもはや意識にさえ上らない。
僕が生まれるよりずっと前に発明された装置、HIM。
僕にお小言を聞かせるリーダーも含め、ほとんどの人がこれを使っている。頻度の多少はあるものの。
何のために?
そう問われると、実はあいまいにしか答えられない。
この機械が何をもたらすのかは、理屈としては承知している。
最初から話をしよう。
人間には、いろいろな欲求がある。
摂食、睡眠、排泄、繁殖……そういった生物的な欲求はもちろん、他人より良いものを持ちたい、他人に良く見られたい、という欲求、すなわち、所有欲、独占欲、承認欲求といったものも、どうやら社会的生物としての人間の始原的欲求なのらしい。
この装置、HIMは、こうした欲求を抑圧するもの……ではない。
これをつけているからといってそうしたことごとく満たされて心地よい気分になるというものでさえない。
正直に言うと本当にこの装置の効果があるのかどうかも分からない。
能書きどおりに述べるならば、この光と音の特定のパターンは、さまざまな神経ルート間の相互干渉を引き起こし、視聴覚から大脳辺縁系旧皮質への仮想的なバイパスを作りながら、本能的欲求の働きに影響を与えるのだという。
それが訴えるのは、ごくシンプルな認識。
自分の居場所はここである、ということ。
地位、役割、人との関係――そういったあらゆるポジショニングにおいて、自分の在るべき場所は”ここ”である、と確信させる。
他人から奪ったり他人に認めさせるということを必要とせず、自分自身を心的な拠り所と感じるようになるのだという。
本当にそのとおりなのか、もともと僕の気質がそんなものだったのか、実のところ良く分からない。なんとなく後者じゃないかと思うところもある。あるいは、そういう能書きで広まったものだから、暗示にかかっているだけかもしれない。
これが広く使われているのには理由がある。そのひとつが、いじめや学級崩壊などの子供の非行だ。
子供の非行の多くは、自己顕示欲に根ざすものだといくつかの研究で示された。自己顕示欲の大きなものが小さなものをいじめ、自己顕示のために学級や校外で非行を起こす。考えてみればそのとおりなのだろう。
それに続いた別の研究は、HIMによる自己承認プロセスが、自己顕示欲も同様に満たせることを示した。
非行を防ぎたい教師は家庭に導入を働きかけ、非行で進学に支障がでるのを恐れた保護者は喜んで導入し、政府はその導入に補助金まで出すようになった。世帯収入が一定以下なら全額補助まであるらしい。
さてその結果、本当に非行が減ったのかどうか、残念ながら僕はそういった統計を見たことがない。
結局のところは暗示に過ぎないインチキ商品なのかもしれないが、ほんの数分の装着を習慣付けておくのに、その疑いはいささかの邪魔にもなっていないことだけは、事実だ。
* * *
朝からずっと雨が降っている。
湿った匂い、くぐもった街の交通音。細い細い水の筋が、暗い雲の底ともっと暗い濡れたアスファルトの間をつなぎ続けている。
そのアスファルトよりも一段低い半地下の床を、暖かい電球が照らしている。木製のテーブルとその上に並べられたコーヒーと紅茶も、低い色温度の景色を作るのに参加した。
それらを挟んで僕の向かいに座っているのは、僕がお付き合いしている女性。
平均して三回中二回の週末には、特に計画もなく、彼女とこうしてこの喫茶店で待ち合わせ、一日をどこかで過ごす。
栗色の長い髪とほっそりとしたあごが特徴的な、ひいき目抜きの美人と言えるが、その整った顔立ちが美容整形の結果でない保証は特にないし、実のところ、僕はその点にまったく興味がない。
「……結婚。どうする?」
僕が雨の中のデートを憂鬱に思いながらコーヒーをすすった直後、彼女が口を開いた。
「結婚か」
僕はおうむ返しにその言葉を舌に乗せる。
「そのうちするんだろうな」
「だとしたら子供も生まなくちゃ。税金がうんと高くなっちゃうわ」
彼女がリアリスト過ぎるのではなく、とかく、独り身でいること、結婚しても子供を生まないことは、ひどくコストがかかることなのだ。
「でも、子の父親という立場に興味がないんだよな」
僕が偽らざるところを伝えると、彼女もうなずき、
「私も母だとか妻だとかいう役割に縛られたいとは思わないわ」
と言う。
家庭だとか伴侶だとか子供だとか、そういうものをほしがる気持ちが、正直わからない。そんなものに自己を投影して自己承認しなければ落ち着かない、という焦りを、HIMが消してしまっているのだと言われている。
そういう若者が増えたからこそ、こんな制度ができたのだろうと思う。
独り身や子供のいない者は男女問わず所得控除が極端に少ないばかりか、所得によらない基礎住民税も課される。
一方、そうした男女がコストをかけず伴侶を見つけられるように、公的な『お見合いシステム』が、僕と彼女のような男女を結びつける。
全国でおおよそ二百万人がその対象と言うから、男女半数だとしても僕と彼女が出会った出来事の希少性は百万分の一だ。もちろん実際には居住地、勤務地、雇用状態、家族状態もろもろを加味した最適マッチングが行われているからそんな単純なものではないだろうが、ほどほど価値観の合うこの彼女との希な出会いを無駄にしたくない、という程度の気持ちで彼女との交際は続いている。
「あなたは私のこと、好き?」
その問いに、僕は少しだけ狼狽する。
「うん、好き、だと思う」
それは、彼女自身が? それとも、奇跡的な出会いの確率が?
きっとこんな問いが続くのではないか、と身構える、しかし、彼女は別の言葉を口にした。
「あなた自身と同程度に?」
……どうだろう。
いや、考えるふりはよそう。
この問題には、ずいぶん前から答えが出ている。
「いいや」
「そう」
僕が答えると、彼女はそっけなくうなずき、紅茶を口に運ぶ。彼女の吐息がこの店自慢のオータムナルの香りを僕の鼻元まで運ぶ。
君は、と訊こうと思って、やめた。
彼女の口元に、ほのかな笑みがあるのに気づいたからだ。
――おそらく彼女も同じ。
その微笑は、きっとそんな意味だから。
「見たい映画があるの」
彼女は、唐突に話題を打ち切った。
「奇遇だね、僕もだ」
雨天のデートスポットに思いを巡らせていた僕は、知らぬうちに、彼女と同じ結論を出していたらしい。
僕は立ち上がり、彼女が手荷物をまとめるのを見届けてから伝票を掴む。
きっと違うスクリーンなのだろうな、と思いながら、喫茶店の出口に向かう。
* * *
先日から放置していた大規模案件、リーダーの指示でしぶしぶ提案書を出すことになってしまい、何度かの打ち合わせの後、あちらの役員さんという人まで出てきた中、僕は提案の説明をすることになった。
大体こういう商談では、役員が出てきたときにはほぼ決まっているものだ。単なる興味や酔狂で出張るほど役員というものは暇ではない。
その上、帰り際には当の役員に、若いのに自信にあふれてたいしたものだ、とまで声をかけてもらえたのだから、本決まりだろう。
別の商談の立ち会いに向かうリーダーとはビルを出たところで別れた。
いくつか持ち帰った質問を今日のうちに始末してしまおう、と会社に足を向けたときに、異変に気づいた。
街路樹が、かすかに揺れている。
それはだんだん大きくなり、やがて、僕自身の足の下が揺れていることにも気づく。
地震だ。
歩いていて気づくほどの地震だから、結構な揺れだ。
僕は立ち止まり、足元と周囲に意識を注ぐ。
揺れの程度は、震度4、くらいだろうか。
と、思っているうちに揺れはゆっくりとしたテンポを保ったままさらに強くなる。
知っている。
長周期振動とかいうやつだ。
遠くで大きな地震があったときの特徴的な揺れだ。
いずれ来ると言われるあの大連動地震のことが脳裏をめぐる。
ついに来たのか。
二分ほども揺れただろうか、揺れはほぼ感じないほどに収まってきた。
防災無線が地震情報をがなりたて始める。
巨大地震発生、津波の恐れあり、沿岸部の人はすぐに高台へ。
この街もほぼ海抜数メートルに広がる街だから、すぐに避難したほうがいいだろうな。
と言って、いったいどっちにいけば安全なのやら。
あせっても仕方がない。
まずはむやみに動かず、情報を集めるべきだ。
と思ったとき、突然、衝動を感じる。
――あっちだ。
右手の路地。
そこが正しいところだと。
僕の向かうべき方向だと。
確信する。
何かに突き動かされるように僕は走り出した。
路地を抜けて通りに出ると、今度は左側に、確信を覚える。
再び駆ける。
通り。
路地。
入ったことも無い地下道を抜け、再び何度か道を曲がったところで、無意識に目の前のビルに駆け込む。
地方都市にはちょっと珍しい、三階までの高さの広大なホールを持つ十五階建のビルだ。
エレベーターは当然止まっている。非常階段を駆け上がる。
ふと周囲に目をやると、僕と同じように一心不乱に駆け上がる人々が目に入る。
どこかを見つめているような、何も見ていないような、不思議な瞳の色。
そして、僕も彼らと同じ目をしていることに気づいた。
それと同時に、今まで気づかなかったものが、突如、識域上にのる。
音楽ともノイズとも分からない音と、虹色の光の明滅。
知っている。僕はこれを知っている。これは――僕だ。
階上から僕が僕を誘っている。
その先が、僕の居場所だ、と僕に確信させる。
息切れがひどく立ち止まりたい。
けれど、立ち止まれない。
僕の居場所に行かなければ。
僕が僕でなくなってしまう。
今まで感じたことのない焦燥感が、僕を突き動かし続けた。
息も絶え絶えとなってたどり着いた先は、屋上だった。
ひとつ下の最上階にとどまったものもいるようだが、彼らはそこで安堵しているようだ。
あの光と音による焦燥感はすっかり消えた。
外の様子が気になって屋上の端に歩み寄ってみる。僕と同じように地上を眺める人々がひしめいているが、何とか隙間をこじ開けた。
街を見下ろすと、なぜ気付かなかったのか、街のあちこちの街灯が、あの明滅を発している。
HIMの光だ。近づけばあの音も流していることが分かるだろう。
まんまと僕は僕の居場所に導かれたのだった。
そんなことを考えているうちに、左方の一角から悲鳴が上がる。
驚いてそちらに目を向けると、恐ろしいものが目に入った。
広い通りをすさまじい勢いで走ってくる黒い壁。
先端は白く泡立ち、ザザザザ、という轟音をたてている。
壁はあっという間にビルの下に到達し、その辺に停まっていた乗用車をひっくり返し押し流しながら、通りの先へと駆け抜けていく。
津波だ。
なんという速さ。
流れは収まらず、水位もすさまじい勢いで上がっていく。
次に悲鳴が上がった方向では、四階建ての雑居ビルが、黒いじゅうたんにへし折られていた。
倒れたビルは水に飲み込まれ、ゆっくりと押し流されながら、バラバラに砕けていく。鉄筋が無残にむき出し、助けを求めるように水面でバタバタと暴れている。
遠くから青と白に彩られた巨大な影が近づいてくるのが見える。
近くの港に停泊していた鉄鉱石のばら積み貨物船だった。
その巨体が街を駆け抜けていき、あらゆる構造物を瓦礫に変えていく。
ドンッ、という鈍い響き。同時に悲鳴。
聞こえてくる声は、漁船か何かがこのビルにぶつかった、と叫んでいる。
幸い、この近辺でももっとも大きなこのビルが、その程度の衝撃で崩れ落ちることはなかった。
波の轟音と悲鳴の協奏はそれから四十分も続いた。
あとには、水深二メートルほどの街と同じ広さの湖と、その水面に、かろうじて倒壊を免れたビルが点々と浮かぶ風景だけが残った。
* * *
「大変だったねえ」
テレビを見ながら母が言う。あの震災で僕のマンションも被災して住めなくなり、車で一時間ほどの山あいの生家に、僕は帰っていた。
「家も仕事もなくなったよ」
僕がため息交じりに言うと、
「あんたがこうしてここにいるだけで良いんだよ」
母は再び涙ぐんだ。
テレビは、まだ災害の特集番組一色だ。
この地震に向けた防災対策の効果と不備、そして今後の対策。そうしたものを一つ一つ検証する番組が流れている。
アナウンサーの淡々とした声が告げる。
『九州沿岸部を襲った予想を超える大津波では、少数の犠牲こそ出ましたが、幸い、多くの平野部在住、平野部勤務の住民は政府のHIM緊急避難プログラムに誘導され難を逃れました。なお、今回の実績を受け、政府はHIM普及率のさらなる向上のための税制プログラムを実施する方針で野党と交渉に入る模様で――』
――だから、僕はここにいる(Here I aM)。