冬の匂い
冬の匂いが好きだ。近づいてくる夕焼けの気配の中にどこからか流れてくる煙の名残。それを肺に吸い込むとたちまちに胸が痛くなる。そしてまた、絞り出すように呼吸をする。
今日が終わってしまったことに絶望してみたくもなるけれど、どうせ明日はやってくるから、生きるのに必死な私には泣いている暇もない。せめてもの救いに歌を口ずさむ。何だっただろうか、タイトルは。思い出せないがサビの部分だけを何度も何度も繰り返す。この時期にぴったりの、所謂愛の歌というやつ。聞いたことあるようなメロディーの上に使い古された歌詞をのせて二十歳そこそこの女が歌っている曲。安っぽいとかありきたりだとか批判されてたりもするけれど、案外こういう曲が心の隙間にはちょうどよかったりする。魂がこもった全力の歌なんて胃もたれしてしょうがない。
適当に生きている人間だから真剣なものが辛い。ありとあらゆることに雁字搦めにされてしまって、ひとりが寂しいことも、昨日食べたものも、テレビの録画すら忘れてしまう! それでも何だかんだで生きているから、生きなくてはいけないから、私は私の内側の一欠けらだけを傷だらけで守っている。大分、手垢がついて泥まみれになってしまったが。
空気を切り裂くようなクラクションの音に目が醒める。棒立ちになった私の目の前を白くておっさんくさい地味な車が走っていった。運転手もおっさんだった。
普段なら舌打ちして中指でも立ててやるところだが、何だか今日は心が穏やかで許してやろうという気分になれた。あんなに急いでいたのには訳があるに違いない。きっと帰りを待っている家族がいるんだろう。会社で上司に怒られても、家にいる妻や子供の顔を思い浮かべて馬車馬のように働き、帰る途中にケーキ屋で土産を買って暖かい家族の元へ戻るのだろう。そう思うと許せた…………。
私は足元の小石を蹴っ飛ばした。やっぱり許せなかった。
あんなおっさん独身に決まっている。一人で鍋でもつついてろ。大体あの運転の荒さが元彼を思い出させて不快なんだ。もう顔も朧気にしか思い出せない元彼だが貧乏ゆすりが激しかったことだけは憶えている。今後会うことがあれば三枚おろしにでもしてやりたい。
むしゃくしゃすると同時に頭の片隅には冷静な自分がいた。こんなくだらないことで苛々して情けない。でも、それは私という人間に与えられた数少ない特権でもあるのだ。私は何もかもを振り切るように上を見た。
そのとき、目に飛び込んできたのは鮮やかな橙色だった。
光っては滲む。闇に浸食されている。その支配から逃れようと鳥が飛び去って行く。夕日がまるで生きているかのように輝きながら死んでいく。もう直に夜が訪れる。
どこかで子供が笑った。早くお家に帰りましょ。でないと、悪い人に連れていかれてしまうよ。
何の歌だったっけ?
風がひゅうと吹いて私の髪を撫でていった。私は大袈裟な溜息をついてマフラーを巻き直すと、再び歩き始める。
すん、と鼻をすすれば冬の匂いがした。