バラ園にて
――久しぶりに入ったわ、この薔薇園。最近めっきりだったもの。でも、きちんとお手入れされているのね。前に見た時と同じくらい、いいえ、それ以上に綺麗だわ。
そう声を弾ませて、薔薇が咲き誇る庭園に足を踏み入れる彼女の、その少し後ろを私は歩いている。彼女の長い髪がよく見えるからだ。彼女の滑らかで美しい茶髪は柔らかな日差しに当てられて、より優しい色をしていた。一歩跳ねる度に、ゆるく曲線を描く。彼女の美しさを緻密に組み上げている大切な要素の一つ。
彼女は薔薇の一つに近づいてそっと指先を花弁に滑らせた。棘が刺さったら危ない。慌てて彼女に駆け寄るとクスクスと笑われる。
――そんな顔しなくたって平気よ。花びらに触れてるだけだもの。
私の焦りは表に出てしまっていたのだろう。彼女は私の不安など何でもないように笑う。だが、私は本気だ。彼女の汚れなく雪のように白い指先に棘が刺さるのを想像するだけで沸々と怒りが湧いてくる。たかが薔薇の一本が彼女を傷つけるなどあってはならない。
だが、その傷口から流れる彼女の血は真っ赤なのだろう。彼女の肌の上を一筋の赤が彩る様は一際艶めかしいに違いない。そう、彼女には赤が似合う。夕日でもなく兎の目でもなく、血のような深紅が。
私が密かに想像している間、彼女は少し目を伏せて慈しむように薔薇に触れていた。
――薔薇はいらない蕾を取ってしまうことがあるらしいわ。より綺麗な花を咲かせるために他の幾つかの蕾をハサミでぱちんとしてしまうの。可哀想だけど、それもまた愛情、なのかしら。
彼女は薔薇から離れると庭の奥へと進み始めた。私もその後を追う。植物の蔦や葉で作られたアーチの中を彼女は軽い足取りで進んでいく。光が僅かに入り込む緑色の世界を楽しそうに眺めながら。
――私とあなたが出会ったのもこの庭でよね。覚えている?
勿論、忘れるわけがない。あの時、私の世界は一瞬にして変えられた。彼女との会話の一言一句を思い出せる。彼女をこの目に映した瞬間から私は彼女の虜となった。
あの頃の彼女はまだ幼かった。けれど、淀みない瞳も、薄桃色の頬も、真っ赤な唇も今と変わらない。彼女の美しさは衰えるどころか、気品と優雅さを日に日に増していった。彼女より美しいものを私は知らない。知ろうとも思わない。
――でも、それ以来あなたとここに二人で来たことは無いわ。あなたがいつもここに来るのを嫌がるから。
それに関しては申し訳ないと思っている。でもどうしたって私はこの薔薇園を好きになれない。私に植物を愛でる趣味はないし、この薔薇という花は開いた途端にゴテゴテに着飾っているように見えてどうにも好きになれない。それだったら蕾のほうがいい。そして何よりも、薔薇の香りだ。鉄臭い臭いがするのだ。その独特の臭いが私は嫌いだ。
そう言うと、彼女は立ち止まり振り返って微笑む。
――わかってるわ。だから、今日こうして来てくれたことに感謝してるのよ。
彼女の言葉は甘美な響きを持つ。私はその誘惑に惑わされることを、とても嬉しく思う。
彼女はまた前を向いて歩き始めた。同時に私に質問を投げかける。
――そうそう、知ってる? 薔薇の色は血の色なんですって。この庭園の薔薇が全て赤いのはどこかに死体が埋められていてその血を吸っているから、なんて噂があるの。だから、鉄の臭いがするのかもしれないわ。
彼女はまたクスクスと笑う。そんな噂があるとは知らなかった。内緒話の好きな少女たちの間で流行りそうな話である。彼女もまた誰かから聞いたのだろうか。
いつの間にか緑のアーチを抜けて、広い場所に出ていた。見渡す限りの赤い薔薇。やはり噎せ返るような鉄の臭いがして少し頭が揺れる。
彼女は私のいるところの少し先で立ち止まった。
――今日は、来てくれて本当にありがとう。
彼女は微笑む。いつもと変わらない様子で。私は強い臭いに気持ち悪くなりながらも彼女の言葉だけは一つも聞き逃さないように耳を傾ける。
――もう一度だけあなたとここに来たかったから。会えなくなる、その前に。
――私、遠くへ嫁ぐの。
知っていた。私は彼女のことなら何でも知っている。けれど、彼女自身から打ち明けられるのを待っていた。
――相手の人は私よりも年上でね。礼儀正しくてとても素敵な人なの。不満は何もないけれど、でも、ね。
彼女の笑みはどこか寂し気なものへと変わる。呼吸をする度に肺の中が鉄の重みを増していく。臭いによる不快感でぼうっとなりだした頭の中で、私はひたすら彼女を称賛する。美しい。彼女はどこまでも美しい。満天の星空よりも、咲き誇る薔薇よりも。その哀愁に満ちた表情、仕草、全てが。
――あなたとはきっと会えなくなる。それが、それだけが唯一の心残り。ねえ、あなたは私のことを忘れない?
当たり前だ。私は彼女に近づく。近づくほどに薔薇の香りが強くなる。
――本当に? ずっと友達でいてくれる? ここで私と会ったこと、今までのこと、全部覚えていてくれる?
私は頷いて更に近寄る。もう彼女の頬に触れる距離まで来ていた。彼女の顔がはっきりと分かる。彼女は長い睫を震わせて真っ赤な唇で言葉を紡いだ。
――私、あなたのこと大好きよ。
「――ええ、私もよ」
愛しているわ。
私はそう言って袖に隠し持っていた愛情を彼女の首へと突き立てた。
どうか、どうか誤解しないでほしいの。私はあなたのことを本当に本当にどこまでも骨の髄まで愛しているのよ。ただ、私は花が必ずしも咲くべきであるとは思わないから。散ってしまうのなら尚更ね。
ああ、この庭にいつか綺麗な赤い薔薇が咲くといいのだけれど。