表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ごったがえし  作者: やまぐち光緒
5/7

カナリヤ

 昔、カナリヤを飼っていた。正確に言うならば私の父親が飼っていた。父は書斎の隅にこじんまりとした鳥籠を置き、カナリヤはその中でじっと大人しくしていた。


 私は初めてそのカナリヤを見たとき、ほんの少し落胆したことを覚えている。そのカナリヤは私が図鑑で見ていたような美しい色をしていなかった。くすんだ色の翼腕。髪の長さはバラバラで碌に手入れもされていない。粗末な服に身を包み警戒するように丸まってはいつも辺りを睨んでいた。


 父は、彼女は見た目は良いとは言えないがその歌声だけは格別に素晴らしいんだ、と残念そうな私に言った。私は暫く鳥籠の前に立ってカナリヤが鳴くのを待った。しかし、カナリヤは決して鳴こうとはしなかった。ただ、不躾で無邪気な私の視線を静かに受け止めるだけだった。






 最初に彼女と話したのはいつだったか。幼い頃、気弱で体も弱かった僕は近所の子供からいじめられていた。確かその日も僕はいじめられて半泣きになりながら帰宅したはずだ。家に帰った僕は自分の心を慰めようと家の奥の書斎に入った。父が使っていた書斎には難しい書物の他に様々な図鑑が置いてあった。僕は暇さえあればそれらをずっと眺めていることができた。

 子供でも取れる高さの棚に仕舞われたお気に入りの鳥の図鑑を取ると、行儀悪く机の上に座った。そして、いつものように本を開いたその時だった。


「本物が居るっていうのに、そんなものを見るの?」


 よく澄んだ声だった。僕が驚いて声のした方を見ればあのカナリヤがつまらなさそうにこちらを見ていた。今の声はどうやら彼女が発したらしかった。止まり木に座って二本の足をふらふらと遊ばせていた彼女は相変わらずくすんだ色をしていた。


「今のは君がしゃべったの?」

「ええ、そうよ。ここにはあなたと私しか居ないんだから。昨日も一昨日も見ていたでしょう。あなたは私を蔑ろにしてそのよくわからないものを眺めてばかり」


 彼女は僕が持っていた図鑑を一瞥して羽を動かした。僕は図鑑を机の上に開きっぱなしにしたまま鳥籠へ近づいた。鳥籠は高い位置にあったので僕は見上げるしかなかった。カナリヤは白い足を組んで僕のことを見下ろした。


「写真だよ。あれに君や他の鳥が載ってるんだ」

「私はあんなに薄っぺらではないし、ちゃんとここに居るわ。他の鳥のことなんて知らないわ。でも、あなたは私よりそっちの薄っぺらで着飾った方がお好みなのね」


 フン、と鼻を鳴らして彼女はそっぽを向いてしまった。僕は困惑した。今まで一言もしゃべらなかった彼女が何故今更になって僕に話しかけたのか。そして、何故僕が責められているのだろう。


「だって……君は何もしゃべらないじゃないか。とても綺麗な歌声だと聞いたのに」

「あら、私の歌が聴きたいの?」


 先程までの不機嫌さがパッと消えて彼女は僕に向き直った。羽を小さくバタつかせながら得意げな顔で彼女は言った。


「そうでしょう聴きたいでしょう。私の歌はそこらの鳥とは比べ物にならないのよ。ええ、素晴らしいのよ」

「そんなに言うんだったら聴かせてくれよ」

「やあよ。そんなに簡単にお見せできないわ。安くないのよ、私の歌は」


 クスクスと笑う彼女の声は今まで聞いたどの音よりも良く聞こえた。繊細だけれど決して希薄なわけではない。柔らかくともその存在を強く主張していた。


「けれど、そうね。特別に聴かせてあげてもいいわ。とても気分がいいから」


 そう言うと、彼女は目を閉じた。体の動きを止めて小さな唇を震わせたかと思うと、ふっと息を吸い込み美しいメロディを紡ぎはじめた。その旋律は紙の匂いが漂っているこの部屋にゆっくりと流れだした。彼女の歌声は辺りを揺蕩いながらも僕の心臓目掛けて流れ込んできた。胸の奥深くがじんわりとして体の隅々まで暖かくなる。感覚が敏感になって血の巡りさえ分かるようだった。


 ここには僕と彼女しかいない。僕以外に彼女の歌を聴いていないし、彼女は僕以外に聴かせていない。

 

 歌い終わった後、彼女は暫く余韻に浸っていたようだが、僕が何も言わないのを気にしてか、チラリとこちらを見た。慌てて僕が拍手をすると彼女は満足げに羽をバタつかせた。


「どう? 素晴らしかったでしょう」

「とっても素敵な歌声だった。僕が今まで聞いた中で一番だった!」

「当然だわ」


 そう言いながらも彼女は嬉しそうに笑っていた。いつもの澄ました顔よりもずっとずっと良かった。




 僕はそれから毎日書斎へ行ってカナリヤと話すようになった。彼女は高飛車な物言いでよく僕のことを病人みたいだとか暗い奴だとか罵った。自分のみずぼらしさを棚に上げて、と当時の僕は思っていたが、今になってみるとあれは彼女の一種の愛情表現だったのかもしれない。何せ不器用な鳥だった。彼女は僕のことを貶しこそしたが、僕をいじめていた奴らとは違って言葉に悪意を含んでいなかった。それをわかっていたから僕も彼女と会い続けたのだろう。


 いじめられて帰ってきた僕を見て泣き虫、と彼女は言う。僕は泣いてない、と真っ赤な目で言い返す。嘘、泣いているわよ、本当に泣き虫ね。クスクスと笑う彼女を睨んでも何の効果も無かった。僕のことを散々馬鹿にして楽しんだあと、彼女はきまって歌を歌った。目を閉じて、囁くような優しい声で。普段、頼んだって滅多に歌わない彼女がこうやって歌うのは僕が泣いたときだけだった。


 誰に聴かせるでもなくまるで独り言を言うように彼女は歌を口ずさんだ。それを聴いていると僕の涙は自然と止まり、ぐちゃぐちゃになっていた心もいつの間にか落ち着いているのだった。

 彼女の声には不思議な力があるのかもしれない、と僕が言うと、


「私はただ歌っているだけよ。あなたの気の持ちようだと思うけれど」


 と、素っ気なく返された。


「不思議なものよね。勝手に落ち込んで勝手に立ち直って。それで私に感謝するなんて。私は何もしてないのに」

「そんなことない。僕だけじゃなくてきっとたくさんの人が君の歌を聴いたら癒されるはずだよ」


 僕がそう言ってもカナリヤはフン、と鼻を鳴らすだけだった。時々、彼女はわからない。褒めてもこうやって納得いかなそうな顔をする。


 彼女はポツリと言った。


「あなたたちには翼があるのにね」

「それは、君のほうじゃないか」


 君にはそのくすんだ翼が。僕がそう言うと、ダメ、わかってないわね、と彼女は首を振った。




 十三歳くらいになると勉学によく励むようになった。その頃の僕は医者という職業に漠然とした憧れを抱いていた。医者になるためにはとにかく勉強をしなければならない、と書斎にこもって遅くまで勉強していたものだ。勉強は好きだった。自分の知らないことを知るのはとても楽しく、問題が解けるようになることに小さな喜びを感じていた。家で勉強していれば外で嫌な連中の顔を見なくて済んだことも理由の一つだろう。


 カナリヤはよく僕の勉強を邪魔した。籠の中にいるので大したことはできないが、羽をはためかせたり執拗に声をかけてきたり。特別気にはならなかったが、彼女のそういった行動を無視していると目に見えて機嫌が悪くなり拗ね始めるので、僕は頃合いを見計らってペンを止めて律儀に彼女に応対しなければならなかった。


「集中できないよ。もう少し静かにできないのかな?」


 本当は気になるほどうるさくもなかったが、こうやって『彼女の妨害にほとほと迷惑している』ということを言えば、


「やあよ。そうやって苛々としてればいいわ」


 と、嬉しそうにするのだ。彼女は偉そうなわりに寂しがり屋でもあったことをこのときには何となくわかっていた。


 彼女は僕の細い字が書き連ねられた帳面を首をかしげながら眺めた。


「近頃はそればかりね。何をしているの?」

「勉強だよ」

「それは大切なの?」

「多分ね。不必要だと思うこともあるけれど、やるに越したことはないんだと思うよ。僕の為にもなる」


 カナリヤは羽と同じ色をした瞳を僕に向けた。


「あなたは羽があるのね」


 以前、似たような台詞を聞いた。僕は前と同じようなことを言った。


「それは君だろう。その羽は羽じゃないのかい」

「これのこと? 『これ』が羽に見えるっていうの?」


 彼女は自嘲的に笑いながらそう吐き捨てた。珍しいことだった。プライドの高い彼女は決して自分を貶めることはしない。

 止まり木に座っていた彼女は体を丸めた。不揃いな彼女の髪が華奢な足をくすぐった。


「役目を果たせないものに名で呼ばれる資格はあるのかしら? 私が『カナリヤ』と呼ばれるように。私は私に与えられた役目を果たしているからそう呼ばれているのよ。歌えない私に価値はないわ。だから、この羽は羽ではないの」


 僕は椅子から立ち上がって鳥籠に近づいた。隙間から指を入れると彼女は下に降りてそっと指に寄り添ってきた。


「飛べないから?」

「……そうよ。私は空の色も、風の温度も、季節の匂いも知らないの。ふふ、私は本当に鳥なのかしらね」

 

 目を伏せて呟く彼女は今までで一番小さく、頼りなく、弱々しかった。その姿に僕は何となく腹が立った。いつも偉そうで人をいじめているくせに、らしくない。

 だから、つい言葉が口を突いて出てきてしまった。


「それなら、僕が連れ出してあげるよ」


 彼女は顔を上げた。目を大きく見開いて僕を呆けたように見つめる。自分でも何を言い出しているんだろうと思ったが、止まらない。


「僕がこの家を出ていくとき、君を連れていく。外の景色を見せてあげるし、うんと遠くまで飛べばいい」

「本気で言ってるの」

「勿論。約束する」


 このカナリヤは外に出したら死んでしまうらしい。品種改良を重ねた結果、歌を歌うことのみに特化した。その代償として鳥としての機能はほぼ失った。その残骸は彼女の姿から見て取れる。

 父はカナリヤを決してこの部屋から出そうとしない。僕も籠から出すことは許可されても外に連れ出すことだけは許されなかった。わざわざ死なせるようなことをしたいとも思わなかったのだが、それなら何故僕は今こんなことを言っているのだろう? 彼女は自分がこの部屋でしか生きられないことを知っているのだろうか?


 しばらく彼女は黙っていたが、やがて体を震わせた。


「ふふふ……そう、そうなの。じゃあ、期待しないで待っておこうかしら」


 彼女は淡く微笑むと僕の爪に口づけを一つ落とした。





 十六歳になる頃には僕は自分にある程度の自信を持つようになっていた。いじめられていたのは最早過去であり、誰もが僕のことを優秀な人間だと認めるようになった。周りから持て囃されることに悪い気はしなかった。皆が僕のことを口々に褒めちぎった。しかし、カナリヤだけは僕に悪態をつき続けた。


「ああ、嫌な匂い。耐えられないわ」


 彼女は顔を歪めて僕をしっしっ、と追い払うように羽をパタパタと動かした。僕はペンを止めて彼女の籠を見上げる。


「匂い?」

「これでもかっていうくらいに自己主張の激しい匂いね。ああ、やだやだ。慎みって言葉を知らないのかしら?」


 彼女は不愉快そうな顔を隠そうともしなかった。どうやら彼女が言っているのは僕のシャツに染みついた女性の香水の匂いらしい。自分で言うのも何だが世間一般の目で見て僕は容姿が整っていたので同年代の女子に言い寄られたり、道を歩いていて声を掛けられることが多かった。その日も何人かの女子が話しかけてきた。そういえば距離が近かったから匂いが移ったのかもしれないな、とぼんやり思った。


「確かに君は嫌いそうな匂いだ」

「あなた、そんなのが好みなの? センスを疑うわね。どうせ女の子と楽しんできたんでしょう」

「僕は大体その手の誘いは断るよ」

「ふん、『大体』ねぇ」


 ジロリ、と睨みつけられて肩を竦めることしかできなかった。赤の他人が相手ならばこのくらいの嫌味は簡単に躱すことができるが、僕はどうも彼女相手には弱かった。


「まぁ、私には関係のないことだわ。さぞや可愛らしいんでしょうね。私と違って」

「僕は君の方が綺麗だと思うよ」


 これは事実だ。僕は自分に話しかけてくる女性よりも彼女の方が美しいと思う。僕の名前を呼ぶ見ず知らずの彼女たちの可愛らしい甘えた声よりも、一切僕の名前を呼ぼうとしないカナリヤの声の方が比べるまでもなく美しかった。それにこのカナリヤだってそれなりに綺麗になるはずなのだ。僕がどれだけ彼女に身綺麗にするように言っても、断固としてそれを拒否したのは彼女の方だ。


「お世辞が上手ね」


 彼女は依然として態度を変えない。僕は彼女のご機嫌取りは諦めて勉強に集中することにした。


 僕のペンを走らせる音だけが部屋に響く。しばらくの間無言で手を動かし、やっと一段落ついたところで籠を見上げた。目に映った彼女の姿に僕は大きく驚いた。


「君……泣いているの?」


 カナリヤは止まり木の上で体を丸めて震えていた。嗚咽のようなものは聞こえないが、まるで寒さに耐えるように、理不尽な暴力に耐えるかのようにその身を小さくさせていた。


「どうしたんだ? 体調が――」

「平気よ。放っておいて」


 彼女は顔を上げないまま素っ気なく言った。それでもやはり心配になり籠の扉を開けようとした瞬間、彼女がバッと顔を上げた。


「触らないで!」


 突き刺すような鋭さだった。彼女の顔は涙に濡れてなどおらず、寧ろその瞳は燃え上がるような激しさを訴えていた。

 彼女の普段と異なる様子に僕は動揺して籠から手を離す。一体、どうしたというのだろう?


「何で、何を怒っているんだい? 僕が何か――」

「違う、違うの。怒っているわけではないの。ただ、ただ、ただ――」


 彼女は頭を振り、項垂れた。


「自分が許せなくて」


 僕はその言葉の真意が分からなかった。何を許せないと言うのだろう。彼女に何があったのだろうか。


 僕が戸惑っていると、カナリヤは小さな声で言った。


「出てって。この部屋から」

「急に何故? どうしたっていうんだい」

「あなたは何も悪くないわ。でも、今はあなたの顔を見たくないの。お願いだから」


 それっきり彼女は黙ってしまった。


 僕は掛ける言葉も見つからず、言われた通り部屋を出るしかなかった。翌日も何となく気まずくて書斎を訪れることができなかった。

 この日以来、僕が書斎を訪れることは段々と少なくなっていった。




 僕はたくさんの荷物を持って書斎を訪れた。相変わらず本の匂いが部屋に充満している。そして、相変わらずカナリヤは籠の中に居た。

 

 彼女がこの家に来てから幾年も過ぎたが、彼女の容貌に一切の変化は無かった。少なくとも僕の目には変化があるようには思えなかった。くすんだ髪と羽の色。みずぼらしい服。


 僕は彼女に近づいた。彼女は黙って僕を見つめるだけだった。


「今日、この家を出るんだ」


 そう告げると、良かったわね、とありきたりな言葉が返ってきた。


 僕は彼女の籠の扉を開けていつもの椅子に座る。この椅子ともおさらばだ。ずっとこの椅子に座り、机に向かって勉強していた。そして、いつも彼女が邪魔をした。


「君を迎えに来たんだ」


 約束しただろう、と僕が言えば、彼女は目を丸くさせた。


「あんな約束、よく覚えていたわね」

「君だって覚えているじゃないか。約束通り、ここから君を連れ出すよ。僕と一緒に行こう」


 最近になってカナリヤを外に連れ出せる装置が出来た。あまり世に出回っている代物では無いが、運良く僕は手にすることができたのだ。その装置を使っても外に出していられるのは数十分だけだが、それで十分だと思った。


 彼女は返事をしなかった。ただ、止まり木に座って足をふらふらさせて俯いている。やがて、その小さな口を開いた。


「……きっと忘れているだろうと思った。冗談だと思っていたわ」


 カナリヤは微笑んだ。少し寂しげに、けれど幸せそうに。


「ありがとう。本当に嬉しい。でも、行けないわ」

「どうして」


 僕が間髪入れずに尋ねると、彼女は思い出に浸るかのように目を瞑った。


「今更、外に出たところでどうしようもないのよ。私はね、本当に外の世界へ行きたかったわけではなかったの。私はこの籠の中しか知らない。この籠の中が私の世界なの。あなたと私じゃ違うのよ。居るべき場所が。あなたはこの部屋に居るべきではない。そして、あなたが居る場所に私が居るべきではない」

「何が居るべき場所だ。そんなの誰が決めたって言うんだ?」


 僕は納得できずに口調を荒げると彼女はクスクスと笑った。何がおかしい? 思わず彼女を睨みつけたが、それでも彼女は笑うことを止めなかった。


「ふふふ、何だか懐かしくて。最近のあなたは私に突っかかることもなかったから」


 彼女は立ち上がって僕に向かって両手を広げた。


「ねえ、私を机の上に乗せてよ。一緒に行くことは出来ないけれどあなたの見送りくらいはしてあげるわ」


 はやく、と催促されて僕は渋々彼女を手のひらに乗せた。彼女は僕の手の上でしゃがみこんで羽を震わせた。確かに、彼女からは生き物の温もりを感じた。

 僕が手を机の上に置くと、彼女はそうっと手のひらから降りて足場を確認するようにぺたぺたと足踏みした。


「変な感じ」


 そう言いながらもその顔は楽し気だった。足踏みを止め、くるっと体の向きを変えて窓へ向かう。そのままガラスに手をついて外の景色を眺め始めた。


「広いわね」

「だから連れてってあげるって言ってるじゃないか」

「いいの。もう十分だから」

 

 彼女は僕を振り向いた。お世辞にも美しい色とは言えない彼女の瞳が輝いているように見えた。


「十分だわ。あなたとしゃべっていた時間は嫌いじゃなかった。退屈しのぎにはなったわ。だから、気にかけてもらわなくても結構よ」


 あなたが気にすることなんて何一つ無いわ。


 彼女に対し何か言い返そうとした時、父親が僕のことを呼ぶ声がした。慌てて時間を確認するともう出発時刻が迫っていた。僕は荷物を引っ掴み、扉へ駆け寄った。


「――あ」


 とても小さい声で、もしかしたら勘違いかもしれない。けれど、引き留めるような声が聞こえた気がして僕は振り向いた。


「――呼んだ?」

「あ、え、ええ。窓、窓を開けてほしくって」


 彼女は自分の翼で窓を指した。僕は彼女の望みどおりに窓を開けてやった。外の新鮮な匂いが中へ入ってくる。髪を揺らしながら目を眩しそうに細めて、


「これが、風の匂い、音ね」


 彼女は呟いた。


 今度こそ、僕は荷物を持って部屋を出た。互いにさよならは言わなかった。





 それからすぐにカナリヤは死んだ。私は彼女の死に目には会えなかった。死体は家政婦が庭に埋めたらしかった。あの種にしては長く生きたものだ、と当時父が言っていた。


 私はあれ以来カナリヤを飼っていない。一度、販売店へ赴いたこともあったがどのカナリヤも彼女ほどだとは思えなかった。どれだけ見た目が美しく歌が素晴らしくとも、あの高飛車で気が強くて寂しがり屋な彼女ほどの魅力は無かった。


 あの日、私が家を出た日、家の前で車に荷物を詰め込んでいると、美しい旋律が私の鼓膜を揺さぶった。それは紛れもなく彼女の歌声だった。私が驚いて二階を見上げても彼女の姿は見つからず、開きっぱなしの窓があるだけだった。

 ひたすらに優しかったその歌声は途切れることは無かった。私は車が出発してからも窓を開けて身を乗り出して、聞こえなくなる限界まで彼女の歌を聞こうとしていた。


 あれは彼女の餞別だったのか。それとも他のことを訴えていたのか。いずれにせよ、あれが私が聴いた最後の彼女の歌になってしまった。


 だが、時折聴こえるときがある。夜中に一人で机に向かっているとき、ふと耳を擽るような声がする。幻聴なのかもしれない。しかし、彼女の仕業に違いないと私は思っている。きっと彼女が私の傍で、私を小馬鹿にして詰って、たまに歌っているのだろう。


 そんなことをしなくたって彼女のことを忘れたりなどしないのに。だが、そんな私の胸の内は絶対に語ってはやらないのだ。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ