狂乱
ヒヅキを斬ろうとした男は、目の前の存在に久しく忘れていた恐怖という名の感情を思い出していた。
先ほどまで横に立って自分を白けた声で馬鹿にしていた男は、今は物言わぬ屍となって目の前に横たわっている。
(そんなはずは!そんなはずは!)
ガタガタと身体が震える事で鎧がガチャガチャと耳障りな音を立てるが、そんな事を気にしている余裕は今の男には全くと言っていいほどになかった。
(俺達は一体何を目覚めさせてしまったんだ!)
恐怖で腰が抜けて足腰に力が入らず、腕にも満足に力が入らない男は、ただその場で震えるしか出来なかった。
(ただでさえ立ち上がるにしても鎧が重すぎて一人じゃ時間が掛かり過ぎるってのに!!)
男は僅かに残っていた心の冷静な部分でそう毒づくが、それも目の前の少年がゆらりと動いて男の方に身体の向きを変えるまでだった。
「ヒッ!!!」
男は情けなくもしゃっくりのような短い悲鳴を上げるも、直ぐに全身から力が抜けていくのを感じた。
男が最後に見た光景は、ジッと男を見詰める魂を吸いとられそうなまでに妖しい光を湛えた瞳と、自分の喉に突き刺さる小さな手だった。
◆
首があり得ない角度に曲がっている男と、喉から血の海を作り出している男を見下ろしても、ヒヅキの心に生まれた感情は一向に収まる気配をみせなっかった。
「………………」
先ほど男が倒れた時に落としたのか、ヒヅキは足下に落ちている短刀を何気なく拾い上げると、そのまま顔を上げる。すると、少し離れた場所に足下に転がる二人と同じ見た目の重装備の兵士二人の姿が目に映った。
それを認識した瞬間、今までのヒヅキでは考えられないほどの速度で二人との距離を一気に詰めると、鮮やかなまでに兜と鎧の隙間に短刀の刃を差し入れて、二人が完全にヒヅキに気がつく前に首を拾った短刀で掻っ切っていた。
「まだ、まだ、まだ、まだ……これだけじゃない、害虫はまだまだ侵入している!!!」
ヒヅキは荒れ狂う激情に突き動かされるままに村中を駆け回ると、村のあちらこちらで破壊と殺戮の限りを尽くしていた兵士たちを一瞬のうちに屠っていった。
「害虫どもはまだまだ外にも蠢いている!分からせなければ、自分たちがなにをしたのかを!己らの立場というものを………!」
ヒヅキは駆けた。ただ悲しみのままに、ただ憎しみのままに、全ての報いを受けさせるために、激情に突き動かされて。そして、心の奥底から沸き上がる感情に任せてただひたすらに駆けたヒヅキは、村の中で暴れていた兵士だけではなく、村の外に展開していた残りの兵士にも自分の村を襲い、自分から全てを奪った報いを受けさせた。
「これで終わり……か?」
自分で築いた屍の山を見渡してヒヅキはそう小さく呟くと、
「…………は、はは、ははは……ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!!!!」
狂ったように笑い続けた。
そうして暫くの間壊れた様に笑い続けたヒヅキは、突然全身の力を抜いて顔を伏せると、だらりと肩を落とす。
「………………はは、虚しいな、いくら命を刈り取ろうとも、失われたモノが還ってくる訳じゃないのに……本当に、虚しいな」
そう言って力なく笑ったヒヅキは、糸が切れたかのようにその場に座り込んだ。
◆
それから幾ばくの時間が過ぎただろうか、数時間だったか、数日だったのか、もしくはもっと短かったのか、それとももっと長かったのかまでは、虚ろな心のヒヅキには分からなかったが、少なくとも十日以上は過ぎてなかったような気がすると、曖昧ながら記憶している。
そうして、ヒヅキが村を攻めた謎の一団を刈り尽くしてからそれだけの時間が経った頃になってやっと、最も近くに在る砦に駐屯していたカーディニア王国の国境警備軍が異変に気がつき、救援にやってきたのだった。