懐かしき場所
赤髪の男が桃茶色の髪の女性に叱られた後、ヒヅキは二人が少し落ち着いてから酒場を後にした。
「ふぅ、さすがに夜は涼しいな」
カーディニア王国は人族が治める国の南端に位置するとはいえ、他の種族が治める国も含めた世界のなかでみれば中央より少しだけ南側に位置しているだけで、別段世界の果てという訳ではない。
それだけに、年間を通しておおむね温かいのだが、一応四季というものは存在する。とはいえ、夏が長く冬は短いのだが。
そんなカーディニア王国は現在、薫風感じる夏である。春が過ぎて幾ばくかしか経っていないこの時季は、見渡せばそこかしこにまだ春の名残を残していた。
「それにしても、冒険者は相変わらずよく分からない言葉を使うな」
冒険者が異世界から来たと言われる要因の一つに、冒険者だけにしか通じない言葉を使うというものがあった。例えば先ほどの赤髪の男と桃茶色の髪の女性が使っていた“ゲーム”や“ダンジョン”という言葉である。
「……………いつからかねぇ、その意味が理解できるようになったのは」
ヒヅキはそう呟くも、それがいつ頃からかは覚えていた。そして、漠然とながらもその意味も……。
「はぁ。さてと」
ヒヅキは落ち込みそうな気分を切り換えるように息を吐き出すと、ケンの家へと移動を開始する。
石畳の狭い路地の両脇に建つ石やレンガ造りの家はどれもこれも薄汚れていて、人々の生活というものをヒヅキは肌で感じ、少し落ち着いた気分になった。大通りは行き交う人の数も多く、露店商の呼び掛けも賑やかでとても活気があったのだが、ヒヅキはこういう人が普段生きているという事を感じさせてもらえるような生活空間が性に合っているようであった。
酒場から出て、そんな空間を肌で感じながら歩き続けて五分ほどが経った頃だった、チーカイの町では珍しく石やレンガだけではなく、窓枠や二階の壁、それに屋根にも一部木が使われている、一風変わった二階建て家に到着したのは。
ヒヅキは一度その家を懐かしそうに見上げると、分厚い木の板で出来た扉を―――時間を考慮して―――遠慮がちに二回叩いた。
「はい、どちら様ですか?」
ちょうど扉の近くに居たのか、数秒待っただけで扉越しに少しぐぐもった女性のような声で誰何の声が掛けられる。
「俺です。昔から色々とお世話になっているカイルの村のヒヅキです。ケンさん……ミーコさんに言われて来たんですが」
その声に、ヒヅキは自分が何者なのかを簡単に告げた。すると、ヒヅキの目の高さ辺りにある小窓が少し開いてなかからこちらを確認する視線を向けられる。それがすぐに引っ込み小窓が閉まると、カチャカチャという金属同士が擦れるような音が僅かに聞こえてきてから、こちらを窺うようにして小さく扉が開かれた。
「あら!本当の本当にヒヅキくんじゃない!ささ、中に入って!」
なかから色白の美女が辺りを警戒するようにして現れるも、ヒヅキを確認すると喜色を顔に浮かばせた。
「お邪魔します」
ヒヅキはその美女―――ミーコの旦那であるツグに促されるままに室内へと入っていく。
「急に来るからビックリしたわ!今日はちょうど子どもたちが居ないから余計に、ね。それにしても、せっかくヒヅキくんが来てくれたのに居ないなんて、あの子たちはさぞ残念がるでしょうね」
そう言うと、そのシーンを想像してか、ツグはフフフと上品に笑う。それがまた似合っていて、相変わらず仕草がその辺の女性以上に女性らしいものだと、ヒヅキは内心で呆れたような感心するような笑みを浮かべた。
「もう夜も遅いから、覚えているでしょうけど客室に案内するわね」
そう言って歩き出すツグに続いてヒヅキも歩き出す。
ツグの手には光石と呼ばれる光る鉱物が入れられたランタンが握られていて、それが暗い廊下を淡く照らし出していた。
狭い範囲を淡く照らすだけの光量しかないのだが、それはランタンに入れられている光石が親指程度の大きさしかないからだった。それでも、使い捨ての蝋燭などではなく、庶民にはやや値が張るが半永久的に使える光石を使ったランタンが有るのは、比較的珍しい家庭だった。
そこまで広い家ではなかったため、目的の客室にはすぐに辿り着いた。
「御手洗いなんかの場所は覚えているかしら?」
客室の中に入って机の上に置かれていた燭台に火を灯すと、ツグはヒヅキに確認するようにそう問い掛けた。それにヒヅキは「覚えてます」と、しっかりと頷きを返した。
「そう、なら良かったわ。色々と話したいことはあるけれど、今日はここで私は寝室に戻るわね。おやすみなさい、ヒヅキくん」
ツグはふわりとした笑顔をヒヅキに向けると、軽くお辞儀をしてから客室を出ていった。
「おやすみなさい」
ヒヅキはその背中にそう返してから、室内を見渡してみる。しかし、燭台に灯る小さな灯りだけが頼りな現状では、それほど広い訳ではない室内ですら満足に見渡すことが出来ず、ヒヅキは小さく息を吐くと、早々に諦めてベッドに入った。その際、机の上から持ってきた燭台は火を吹き消してからベッド脇の棚の上に置くと、火がしっかりと消えたことを確認してから、ヒヅキは眠りに就いたのだった。