はぴねすリ・ユース
あるところに、とても不幸な運命を背負った少女がいました。想いも、努力も、才能も、全てが阻まれ為す術なく空回り、忌み子として迫害を受けながら、泥を啜って生きる毎日でした。
その恵まれた器量も、彼女の身を危険にさらす以上の効果をもたらしませんでした。
そんなある日のことです。
少女の耳に、神様からのお告げがありました。
お前の役目は人々に幸運をもたらすこと。人々の願いを叶え、憂いを除くこと。
お前はこれから人々に尽くし、幸福を夢見る者たちに希望を与え続けなくてはならない。
その命尽きるまで。たとえ辛くとも、裏切られようとも。
それが、お前の生まれもった存在意義。お前の生きる価値なのだから。
翌朝彼女が目を覚ますと、普段とは違う感覚に彼女は驚きました。
彼女は他人の願望を叶えることの出来る、”力”を手に入れたのです。
少女は喜びに震えました。
”こんな私でも、誰かの役にたてるのかもしれない!”
次の日から、少女は旅に出ました。
より多くの人々と出会い、より多くの人々に幸運を与えるためです。
彼女の存在は他人のために。
彼女の力は幸運のために。
彼女の魂は希望のために。
そうして不幸な少女は幸運の女神として、生まれ変わったのでした。
これは、幸福を知らない、幸運の女神様の物語。最初で最後の、少女のための物語。
――幸せってなんですか?
『ハン、興味ないし、胡散臭いガキだ。消えろ』
――欲しい物は何でも手に入る、お金があれば幸せですか?
『これだけ!!? たったのこれだけで、いったい何が出来るって言うんだよ!! 俺の望みは、もっともっとでかいんだ!! なんでも出来る! 何でも叶う! そんな、莫大な……』
――望み通りに生きられる、権力があれば幸せですか?
『あああああ!!! 次から次へと何なんだ!!! どいつもこいつもこの僕に逆らいやがって!!! もういい、皆殺しだ! 全員、この世から消してくれ! さあ、出来るんだろ!? 早く、早く!!!』
――他の誰にも邪魔されない、二人だけの愛があれば幸せですか?
『お願い、電話に出て! お父さんが危ないの……、ねぇ、お願いよ……一度でいいから、顔を見せに帰ってきて……』
『お前今どこにいるんだ!? みんな心配してるんだぞ! どうして勝手に家を出たりしたんだ! 生活費はどうしてるんだ!? 住むところはあるのか!? どうして連絡を寄こさない!? なぁ、おい! 頼むから……』
――幸せってなんですか?
『さァ、こっちにおいで……。怖がらなくていい、服をゆっくりはだけるんだ、そう、怖がらなくていいからねぇ。あぁ、僕はなんて幸せなんだろうなァ』
――もう……。
――もう、私には……、わからない。
ある寒い寒い、雪の降る夜のことだった。
1時間後に迫るクリスマス。街はきらびやかなイルミネーションに彩られ、幻想的な様相を醸していた。街を走る喧騒も、穏やかな笑い声も、来たる神の子のために福音に変わる。そういう時期だった。
「うぅ……。寒いなぁ」
仲睦まじく腕を組んで歩く恋人たちを、避ける様にてくてく歩くのは、まだあどけなさの残る少女だ。
くぅ、と小さな音を響かせ、少女の胃袋は空腹を訴える。冷えたお腹を擦ってみるも、腹の空間が満たされることなどあるはずも無く。
「お腹、空いたなぁ」
一人寂しく歩く彼女の姿を、目に止める人間は誰もいない。見て見ぬ振りをしているのか、はたまた見えていないのか。せめて目が合ってなお、知らぬふりをされることのないよう、下を向いて歩くこと。それが少女に出来る、精一杯の自己防衛だった。
「これが最後の、冬になるのかな……」
彼女の存在はヒトのために。彼女の力は幸福のために。最後の一滴まで、その全てを賭して。そう思って、幾星霜。何度となく繰り返される望まぬ結末に、彼女の心には迷いが生じていた。
「幸せって、なんだろう……」
ごしごしと目を擦り、上を向いてみたものの、滲んだ景色を消し去ることは出来やしない。止め処なく溢れようとする涙を必死に堪え、少女はひたすら黙々歩く。探し物でもあるかの様に、少女の足は止まることを許さない。
幸せって、なんだろう? そんな些細な疑問でさえ。
「私を、呼んでいる声がするの。だから……」
彼女が答えを見つけるのは、もう少しだけ、先のお話。
明るい光に包まれた街路を、二人の男女が寄り添う様に歩いている。
一人はまだ若い男性。薄手のコートにジーパン、ニット帽と、この季節にしては若干簡素な服に身を包み、首を縮め身体を丸めて、白い息を強張る指に吐きかけながら、一歩一歩ゆっくりと足を動かしていた。
もう一人は妙齢の女性。腰を折り、手を振るわせながら息も絶え絶えに歩く姿は、その若く瑞々しい外見からは想像がつかない程に、弱々しい空気に包まれていた。
姉弟だろうか。姉弟であろう。青年の女性を見つめる瞳には、一遍の曇りも無く。慈愛と尊敬に満ちた眼差しだった。
「姉さん。辛かったらすぐに病院に戻ろう」
「うん。大丈夫、心配しないで。後少しだけだから」
冷たい外気が身体に障るのではないか? 雪の路で足を滑らせたりはしないか? 外を出歩くことが辛くはないか? 青年の心配を余所に、姉は緩やかな歩みでどんどんと進む。
まるで子供の様に街の明かりに夢中にはしゃぐ姉を見て、青年はふと考える。姉の存在というのは、自分にとってどのようなものだったろうか。
「うわぁ。すごい。見て見て、こんなに大きな、クリスマスツリー」
「あぁ。真っ白だ。壮観だなぁ」
近所の悪ガキから守ってくれた姉。理不尽な教師に反論してくれた姉。飲んだくれの父親の暴力から守ってくれた姉。夜遊びばかりしていた母親の代わりにご飯を作ってくれた姉。そして。
「ごめんね。こんなにきれいで素敵な景色、私なんかと見ることになって」
「いいや」
「私がいたら、恋人もできないよね。……ダメなお姉ちゃんだなぁ、私」
今は自分が守らなくてはいけない姉。病魔に侵され、誰かの支えなくては歩くことすらままならない姉。そして、そんな自分の境遇より、弟の負担を気にして嘆く姉。
「そんなこと気にしないでくれよ。僕は好きで姉さんの側にいるんだから」
自分がいることで少しでも姉が楽になるのなら。少しでも笑顔に戻れるのなら。そう思うことは、おかしいことなのだろうか。
「……そんな顔もしないでくれよ。姉さんには笑っていて欲しいんだ」
短い命の期限まで、青年の思いはただ純粋に。だがその思いは、命の壁に容易く阻まれて、到底届くことは無い。
「私、もう笑うことなんてできないよ」
「姉さん……?」
弱弱しくもしっかりとした足取りで歩んできた彼女の足が止まった。苦しげに天を仰ぎ、大きく、大きく白い息を吐く。彼女の生きる力を吸い取った白い霧は、上空へと戻ることなく霧散した。
次の瞬間、彼女は糸が切れた操り人形のように、雪の絨毯へと倒れこんだ。
「……姉さん!? 姉さん!!」
”ごめんね”倒れこむ寸前、僅かな息を振り絞り、そう呟いた別れの声は、聖夜の喧騒に阻まれて、青年に届くことは無かった。
メリークリスマス! 白き聖夜に響き渡る、歓声たち。声の波に飲まれた二人を、ただ白い雪だけが優しく包み込んでいた。
少女はただただ見ていた。大きく聳え、黒くて鋭い空を割る、クリスマスツリーの傍らで、精一杯の悲しみを唄う、青年の姿を。
彼の慟哭はひたすらに真摯で、全力で、そしてそれは少女の胸に深く突き刺さる。
怒り、悲しみ、やるせなさ、後悔……。
知っている感情のはずだった。いつも傍に寄り添って、自分が一番よく知っている感情のはずだった。だが、あの青年のそれは……。
なんであの人は、あんなに悲しそうに泣いているのだろう。
なんで私は、こんなにも悲しい気持ちになっているのだろう。
なんで私は、目から涙を零しているのだろう。
私の存在は他人のために。
私の力は幸運のために。
私の魂は希望のために。
だけどあの青年に、私は幸福をもたらすことができるのだろうか。
あの青年が、再び笑顔になれるように、私の力で何かを変えることができるのだろうか。
そして、あの青年を救うことができれば、私は本当の幸福を知ることができるのだろうか。
「力の期限は……」
それまでに、私は。
「あぁ……、寒いなぁ……」
冬の闇が、少女を包む。冷たく鋭い空気が、少女を強く抱擁した。
目が覚めると、それは見慣れた自室の天井であった。メールの着信を知らせる振動が胸に響く。
最愛の姉の葬儀が終わってから、記憶の欠落が著しい。昨日の夜に何をしていたのか、頭に靄がかかったように薄ぼんやりとして思い出せなかった。
葬儀の手配は親戚の叔父が取り仕切ってくれたらしく、たびたび様子見の連絡を寄越してくる。
『調子はどうだ?』
当たり障りの無い文面をなぞるように一読すると、青年は携帯を枕元に投げ捨てた。
ひどく身体が重かった。そして頭も。
ただ、寒い。風邪でもひいてしまったのか、どうやら熱があるようだ。
服は着ているはずなのに、肌を撫でるような冷気が、神経に障った。心臓の鼓動にあわせ、脳が鈍く痛む。
ガタガタと窓が揺れる。今日は珍しく、雨が降っているようだ。外の景色に意識を向けると、風に揺られてふらふらと彷徨う、シャツが目に入った。
「あ、洗濯物……」
いつ干したんだっけ? 自分はいつからこうしているんだっけ? いつまでこうしていればいいんだっけ?
疑問が次々頭に浮かび、そして明確な答えも思いつかないままに、消えていく。
ただ、空虚だった。目に映る全てが、耳に聞こえる全てが、心に感じる全てが、ただ、空っぽだった。
青年は再び目を閉じた。ずぶずぶと、ベッドに身体が飲み込まれていく。
身体が、重い。
夢でも見よう。そうだ、楽しい夢でも、見よう。
そう、思った。
「覚めない夢はないんです」
まどろむ青年の耳に、聞きなれない声が響いた。そして、心なしか、身体が軽くなっていく。頭痛が和らいでいく。澄んだ声だ。
「起きてください」
その声はとてもか細く、そして幼く聞こえた。
「現実と向き合う必要はありません。でも、夢は覚めます」
青年はうっすらとした意識の中で、目をあけた。呼吸が出来る。身体に溜まった熱が、ゆるゆると吸い出されていくかのようだ。
その声は、確かに青年のそばで発せられていた。
「生きるって、たまにすごく辛いです。苦しいです。死んでしまいたくなることだってあります」
いまだ定まらない焦点を無理やり合わせ、部屋を見渡す。
「でも、私はあなたに生きていて欲しい。幸せになって欲しい。夢じゃない、覚めない幸福を受け取って欲しい」
薄暗い部屋の片隅に、少女は佇んでいた。見知らぬ少女はただ青年を眺めているだけだった。
どうやって入ってきた? 君はいったい誰だ? 何をしているんだ?
頭に浮かんだ疑問は、不思議と一瞬で立ち消えた。何故だか理由はわからなかったが、空っぽだった心に、僅かに明かりが灯るのを、ぼんやりと感じていた。
「君は……」
少女は青年と目が合うと、その瞬間に消えてしまいそうなほど僅かに微笑み、言った。
「初めまして。どうか、あなたを幸せにさせてください」
少女は名を名乗らなかった。そして、青年にもそれを尋ねる気はなかった。彼女が何者なのか、何故ここにいるのかはわからなかったが、悪意がないことだけは疑う余地もなく、だから青年は彼女を受け入れた。
少女は言った。
「私には、あなたの願いを叶える義務があります。どんな些細なことでも構いません。私を、あなたのお役に立たせてください」
だが青年は願いを言わなかった。言えなかった。言おうと思ったのだ。だが、その願いは到底叶うことなどありはしないと、誰よりも青年が理解していた。そしてその願いに変わるものなど、今の青年には存在しないことに、ありありと気がつかされてしまった。
ありえなかった。想像し得なかった。存在し得なかった。青年は、自らの幸福を見失っていた。
そうして青年が申し訳ないんだが。と、ようやく絞り出したその声は、何故だか本当に申し訳なさそうで、少女はそんな青年をいじらしく思い、また悲しくも思っていた。
「なんでも構わないんですよ。例えば、お金が欲しければ、上限はあれど差し上げます。貴方の欲しいもの全て、望んだ時に手に入る。お金、入りませんか? 権力はどうですか? 貴方の思うがままに、貴方の生き易いように、周りの人間が取り仕切ってくれる、そんな力は欲しくありませんか? あ、それなら、永遠の愛はどうですか? お互いの存在以外に何もいらない、そんな関係を持ちたくはありませんか? 貴方の望む容姿の、性格の、声の、貴方以外求めない、そんな恋人は、欲しくはないですか?」
青年は力なく項垂れ、ただ目だけを動かし、少女の顔を見つめていた。そこには来たる幸福も、少女への願望も、あるいは欲望も、生気すらも映し出されてはいなかった。その目は、ただ脳に風景を映しているに過ぎなかった。
可笑しな話だ。少女は思った。
何故こんなにも実直で誠実な人間が、幸福になれないのだろう。何故こんな人間が、悲しい目にばかりあうのだろう。何故本当に助けたい人間が、私を頼ってくれないのだろう。
少女の脳裏に、暗い記憶が木霊した。良かれと思った手助けは、少女がその存在を賭して作り上げてきた幸福は、果たしてその人間を本当に幸せにしてきたのだろうか。そんな力で、本当に青年を救うことが出来るのだろうか。
「あぁ……そうか」
唐突に青年が呟いた。その目は、少女から遠く離れ、彼方へと向けれられていた。
「あ、あの……待って、待ってください!」
青年の関心が自分から離れたことに少女は驚いた。怒らせてしまったのだろうか? 警戒させてしまったのだろうか? 呆れられてしまったのだろうか? 見限られてしまったのだろうか? 少女には、青年を助ける力がないと、そう思われてしまったのだろうか? そしてそんな思いは焦りにも似た感情を生み、彼女の身体を支配し、少女の口をとっさに開かせていた。だが、青年はそんな少女には目もくれず、部屋から出て行ってしまった。
「待って! お願い、お願いだから……っ!」
扉が閉められ、少女の嘆願も消え失せた空間で、そこには静寂だけが息をしていた。木製の、何の変哲もない扉は、今や青年と少女を隔てる高い障壁となって立ちふさがっていた。
ーーやはり私には、無理だったんだ。
少女は気がつくと泣いていた。それはただ溢れるように目からこぼれ落ち、頬を伝った。
悲しかった。悔しかった。辛かった。胸が何かに押し潰されているかのように息苦しかった。
何故だろう。そう思う間もなく、潰えた希望の残骸が、気道を圧迫した。
ーー幸せって、何だろう? そんな些細な疑問でさえ。
少女は知らずに、嗚咽を漏らした。なくした未来は遠かった。それに気がつく間もなく、失っていた。
少女はただ泣いた。泣くことが何になろうと、泣くことしか出来なかった。
どのくらい時間が経っただろうか。
少女は自分でも気がつかない内に寝てしまっていたようだった。瞼が重く、お腹は軽かった。
ふと、何やら階下より音が聞こえた。そして同時に食欲をそそる匂いが鼻腔をついた。匂いを嗅いだことで、空腹を悟った少女は、匂いの元に自然と目を向けた。
そこには、一膳のお椀があった。まだ温かく、湯気が立ち上る、白いお粥だった。
「あぁ、目が覚めたか」
扉を開けて部屋に入ってきたのは、青年だった。硬く重たい木の扉は、あっさりと口を開けていた。
「すまないな、そんなものしか残っていなかった。まぁないよりマシだろう。食べてやってくれないか?」
そう言って青年は少女の脇に腰掛けた。その手には小ぶりのスプーンが握られていた。
差し出されたその手を前に、少女は困惑していた。
「あ、あの。これは……」
不安げに青年を見上げる少女に、彼は優しく言った。
「お腹、減ってたんだろう?」
何故だろう。何故この人は私なんかに気を遣っているのだろう。
それは、ただのお粥であったが、甘いお米の香りに、ついついお腹の虫がぐーとなった。
「はは、ほら、やっぱりお腹すいてたんじゃないか」
青年は笑った。
「どうして、ですか……?」
「さぁ、食べよう。何故だか君と話していると、僕も久しぶりに食欲が沸いてきたんだ。不思議なものだ。さっきまで、あんなにどうでもよかったのに」
「どうして……ですか……」
青年の作ったお粥は、少し塩気が多く、お世辞にも褒められた出来ではなかったが、少女が今まで食べたことがないほどに、ただただ、暖かかった。
その日から、少女は熱を出した。
高熱に浮かされ、会話もままならないほどに衰弱した少女は、うわ言のように青年の名を呼んだ。
ただ彼女の手を握り、快復を祈ることしか出来なかった青年は、彼女の不調の原因が、自分にあることを理解していた。
少女が青年の前に現れたあの日。少女は、彼女の言う”力”を使ったのだろう。
あの時、青年は立って歩けないほどに弱っていた。それが、彼女の声を聴いた瞬間から、不思議と体調が快復した。まるで彼女の声に、身体の毒が吸い取られていくかのように。
そして吸い取られた毒は、恐らく彼女の元にあるのだろう。
青年は、いまだに彼女の力を理解することが出来ずにいたが、少なくともそれが何一つ憂うことのない、万能の能力であるというわけではない事には、薄々と気がついていた。
「どうして、僕なんかのために」
苦しそうに寝息を立てる、あどけない少女の寝顔。彼女が何故自分のために自らを犠牲にするようなマネをするのか。そこに何の意味があるのか。
「僕は、こんなこと望んでいないからな……」
青年の心には、今や何も残っていない。最愛の姉を亡くし、自棄になって全てを投げ出そうとした青年に、もはや望みや希望なんて欠片も残されていない。
だが、彼女は言う。
『私はあなたに生きていて欲しい。幸せになって欲しい。夢じゃない、覚めない幸福を受け取って欲しい』
「僕に、どうしろと言うんだ……」
少女が苦しげに呻き、熱い、熱い息を吐く。
微かに灯る命の灯火に、青年の心が照らされる。
あの時、少女の声を初めて聞いたとき、確かに青年の心には、僅かな希望が芽を出していた。
それは、いったい何であったか。
『生きていて欲しい』
少女の声がリフレインする。
「どうして……僕を……」
少女の鼓動は、弱弱しくも、規則正しく青年の手のひらを打ち続ける。ただひたすらに。
少女が目を覚ましたのは、それから3日後のことだった。
「これが、私の存在意義ですから」
そういって微笑む少女に、青年は言葉を持つことが出来なかった。
そうしてその日から、少女は青年と一緒に暮らすようになった。
少女は青年にささやかな幸福を与え続けた。
ある日、青年のもとにハガキの懸賞が送られた。出した覚えのないものだったが、その応募者名には、紛れもなく青年の名前が刻まれていた。そして次の日、少女は熱を出した。
またある日、たまたま立ち寄ったコンビニで、くじ引きに当選した。当たったものはただの映画券だったが、上映作品は近いうちに見に行こうと心に決めていた、そんな映画だった。そのすぐ後に、少女は激しく嘔吐し、丸一日を布団の中で過ごした。
また別の日、青年はある女性から片思いを告げられた。彼女は同じ会社の同僚で、器量良く、性格も良く、交流のある社員は皆そろって青年を羨んだ。その日、帰宅した青年が見たものは、青白い顔で布団に横たわる少女の姿だった。
少女は青年に穏やかな幸福を捧げ続けた。最初は少しの幸運から。段々とその規模は大きくなった。そして少女の努力に呼応するかのように、代償は日に日に重く、深く、少女を蝕んでいった。しかし、それが少女にとっての幸福であった。そう信じていた。青年に幸福を捧げることこそが、彼女自身の救済に繋がると、そう深く信仰していた。
だがそんな毎日に変化が訪れた。
青年は言った。
「なぁ、もうやめにしないか」
少女はぽかんと口を開けていた。青年の言葉の意味がわからなかったのだ。
「もう、やめよう、こんなことは」
なおも諭すような口調で青年は言った。はっきりとした拒絶の言葉だった。
「その力を使うのは、金輪際やめにしてくれ」
それは残酷な願いだった。少なくとも少女にとっては。自分を犠牲にするしかない。そうして他人を救うことが、少女が掴んだ救済であった筈なのだ。
それが否定された。最も少女が救いたいと願っていた青年に、少女の存在意義は否定された。
「君は君だ。僕の奴隷じゃない。君の犠牲は僕の願いじゃない。君の不幸は僕の幸福じゃない。だから、もうやめよう、こんなことは」
「なんで、そんなこと言うんですか」
それは、すがるような声だった。
「私の存在は他人のために。私の力は幸運のために。私の魂は希望のために。私はそうして生まれてきたんです。そうして生きてきたんです。私なんかの犠牲で誰かが救われるのなら、ーーあなたが救われるのなら、私は辛くなんてないんです。私の命を使うことで、あなたが幸せになれるなら、私は……」
「ねえ、幸せって何だろう」
青年は呟くように言った。
「僕には、僕の幸せが何なのか、よく分からない。だからあるいは、君の言うように、君の犠牲が僕の幸せになるようなこともあるのかもしれない。でも、それじゃあ、君はどうなんだ? 僕のために苦しい思いをしてくれる、君の幸せって何なんだ?」
青年は少女の頭に手を乗せた。続いて肩、腕、手のひらと、指を這わせていった。
「君だって生きているんじゃないのか? 辛いと思うことや消えてしまいたいと思うことだってあるんじゃないのか? 君だって、幸せを見つけたいと思うこともあるんじゃないのか?」
青年は少女の手を握りしめた。薄く、だが確実に小さな鼓動が青年の手を打った。
「僕の願いは、君の幸せだ。僕のために、君が幸せになって欲しい」
それが青年の想いだった。命と心を救われた青年の、純粋な祈りだった。何を思っても心の隙間を埋められなかった青年が、ようやく見つけ出した希望の萌芽。ただそれを守りたかった。少女のためではない。誰のためでもない。それは紛れもなく、自分のための願いだった。
「……それが、あなたの望みなら」
そうして少女は力を使うのをやめた。
「ただいま……って、何だこれは」
「あ、お、おかえりなさいっ! これは、えーと、お腹が空いちゃって、おせんべい食べようと思ったら袋が開かなくて、それで……」
力を使わなくなってから、彼女はまるで普通の女の子のように振る舞った。時たま無意識のうちに力を使おうとすることもあったが、その度青年の顔を思い浮かべ、なんとか抑制していた。
「でも、これすごいです! おせんべい! こんなに美味しいものがあるなんて!」
「えぇ、大げさな」
「そんなことないですよ! 特にこの堅焼きせんべいなんて、香ばしいお醤油の匂いがもう……!」
「わかったわかった、今度まとめて買ってきてあげるから」
青年にとっては、同居人が増えたようなものだったが、経済的な問題よりも、誰かのために生きているという実感が、何より青年を勇気づけた。少女のためなら、多少の無茶も厭わない。そう思える度に、心の底から力が湧いてきた。
「あの、今晩の食事は私に作らせてもらえませんか?」
「それは構わないが、どうしたんだ?」
「力は使えずとも、あなたのために出来ることはありますから」
「そうか、なら頼もうかな」
少女は青年が考えるよりも前向きに日々を過ごしていた。『力は使えなくとも、出来ることはある』そう言っては何かと青年を手伝った。しばらくする頃には家事などは一通りこなせるようになったりもした。
使命や運命ではなく、与えられた力でもなく、少女は自らの意思で青年に尽くした。そんな些細なことが青年を喜ばせるという事実が嬉しかったし、力に頼らずとも誰かの役に立てているという実感が少女の心に希望を灯した。
ーー私なんかでも、誰かの役に立てたんだ。
初めて感じる、確固たる安心感だった。
常に誰かに存在を承認されて生きてきた少女にとって、ただ存在することに意義はなかった。借り物の力で、創られた使命で、自分ではない誰かのために生きてこそ、少女の生は確約された。
誰かに負わされ、消耗するだけだった日々の中で、少女はそれでも自らの存在そのものに意義を求めた。幸せとは何なのか、考え続けた。存在しない答えを探し続けた。
そして今。少女は初めて、自身の存在を自認した。生きているという実感を得た。
少女は今、ずっと知りたかった幸せという感情を、その手に掴みかかっていた。
それからまた、幾分かの月日が経った。季節は冬。再び訪れた、白き聖夜だ。
「今夜はクリスマスですね」
少女と青年は、薄暗く寒い部屋の真ん中で、寄り添うように座り込んでいた。姉の一周忌を終え、寒空の下帰宅した青年を、少女は暖かな微笑みで出迎えた。
「ーーおかえりなさい」
一年という年月を、青年と共に過ごした。
春には花見をし、夏には海に、秋は山へ紅葉を。青年は、可能な限り少女を外へ連れ出した。
「見せたいものがあるんだ」
そう笑いながら、いつでも少女のために何かを用意してくれた。
花見の喧騒と舞い散る花びらに圧倒され、潮の匂いと水の冷たさに感激し、紅く染まった山の美しさに嘆息した。
楽しかった。そんな感情があることなど、すっかり忘れていた。
そして側にはいつも青年がいた。自分のために行動し、自分を想い、愛してくれる存在がいた。その事実に酔いしれた。使命などとうの昔に忘れてしまった。そんなことすら、気にならなくなった。
今の少女には、青年の存在が全てだった。少女もそれを望んでいた。
「あの、食事用意してますから、一緒にどうですか? 頑張って色々作りましたから」
今日はトクベツな日。お互いにとって、忘れることは出来ない日だ。素直に祝えるわけではないが、大切な一日であることに変わりはない。
「どうですか? 美味しいですか?」
「うん、美味しい」
一緒に食事をとり、同じ空間で、共に過ごす。そんなことが何より嬉しかった。
窓の外では白い細雪がしんしんと舞い降りる。闇が倒れこんでくるかのような深い夜の中で、月明かりと外灯に照らされた雪だけが、淡い光を放っている。
這い寄るような寒さに身を寄せ合い、お互いの体温を肌身で感じると、まるで心まで繋がったように感じられた。雪と闇に閉ざされた二人だけの小さな世界を、静寂だけが祝福していた。
少女は存在しない答えを探し続けた。求め、考え、追いかけ続けた。そしてある時、気がついた。それが自身の中には存在しないことに。そして答えを失うと同時に、与えられた。
探し求めていた答えは存外に単純なものだった。
少女は愛されたかった。
誰かから、あるいは全てから。
少女は愛した。愛されるために。与えられた力と使命をもって。
だが少女は満たされなかった。皆が愛したものは少女ではなかった。皆は少女の力と使命を信仰した。
しかしそれでも少女は愛し続けた。いつか愛されるその日まで、そう願いながら。
そして少女は青年と出会った。
青年は少女を拒んだ。少女の作り物の愛を拒絶した。
そしてその代わりに、愛を与えた。かつて最愛の人から与えられた慈しみを、少女に分け与えた。
そうして少女は、力と使命を捨てた。
「あの、私、あなたに伝えたいことがあります」
青年は微笑み、頷いた。少女の頭に手を伸ばすと、その大きな手で少女の髪を梳った。
「言いたいこと、伝えたいこと、たくさんあるんです。でもきっと、どんな言葉を使っても、私の気持ちはあなたには伝わらないから。だから一言だけ、言わせてください」
夜の静寂は永く、そして優しかった。
「ーーメリー、クリスマス」
小さく狭い世界の中心で、白き聖夜に囁かれた、小さな小さな想いの結晶。
夜が更け、二人が眠りに落ちてもなお、闇は優しく世界を覆い続けた。
目が覚めると、一人だった。
寄り添って寝ていたはずの青年の姿はなく、冷たく鋭い冷気が肌を刺した。
窓の外は相変わらず真っ暗で、今は雪も降り止み、漆黒に塗りつぶされた街並みが窓枠から浮き出て見えた。まるで黒い絵の具をぶちまけたかのように、不吉な悪意を滾らせた漆黒の絵画は少女を捉えて離さず、その小さな世界を侵食せんと不気味な足を伸ばしているかのようだった。
静かだった。静寂が、一人になった少女を襲った。
「……誰もいないの?」
返事は返ってこなかった。少女は一通り部屋を見て回った。だが、青年の姿はどこにもなかった。外出したのだろうか。
少女はベッドへ戻ると、今一度窓の外を見やった。青年の姿はなかった。
ため息を一つ吐き、テーブルの上に乗せられた食べかけのケーキを眺めた。スポンジの一部が乾燥し、レンガのように硬く見えた。あんなにつやつやとしていたイチゴはハリを失い、まるでおとぎ話に出てくる毒入りの果物だ。
少女の心は不安に駆られていった。
青年は、飲み物を買いに行っているだけ。だから心配することなんてないんだ。
そう自分に言い聞かせ、心を落ち着けようとした。
目を瞑り、深呼吸をして、騒めく心臓を抑えようとした、その時。どん、と音がした。
それは、大きな荷物を床に落とした時のような、鈍く、嫌な重みのある音だった。音は、家の外から響いてきたようだった。
そのことを理解した瞬間、少女は弾かれたようにベッドから飛び降りると、着替えることもせずに外扉を押し開けた。
杞憂だ。悪い妄想に違いない。そう呟き、願い、飛び出した少女は、目に飛び込んできた景色に息を飲んだ。
白だ。真っ白い雪の絨毯が、玄関から道路まで一寸の隙間もなく埋め尽くしていた。
そしてそこから一つの足跡が伸びていた。その足跡は道路まで規則正しく進み、そして消えていた。
真っ赤に染まった雪によって。
「あぁっ!」
少女は悲鳴をあげて道路へと飛び出した。赤く染まった絨毯は、まるで怪物が暴れまわったかのようにめちゃくちゃに荒らされていた。そこから逃げるようにタイヤの跡が伸び、置いてけぼりにされた暴力の痕跡を嘲笑するかのように闇夜へ向けて消えていた。
そしてその暴力の中心で血に濡れて横たわるのは、紛う事なく青年であった。
「そんな、いや、ああ」
少女は半狂乱になりながら青年に駆け寄った。ムンとした生臭い血の臭いが鼻をついた。
「いや、お願い、嘘だよこんなの」
少女が触れると、その身体は雪のように冷たかった。とっさに心臓手を当てると、弱々しい鼓動が手を打った。
「あぁ……」
まだ生きていた。そのことが少女を少しだけ冷静にさせた。
とにかく人を呼ばなくては。そう思い、携帯電話を探した。半分はだけたコートのポケット、ズボン、血にまみれた小さなカバン……。
と、手にヌルリとした感触があった。そこはちょうど青年の腹部に当たる部分だった。はだけた服の隙間から、白みがかったピンク色のモノが見えた。
少女は悲鳴をあげることも出来ずに固まった。
少女の手に触れたモノ、それは、青年の腸だった。
事故の衝撃で破れた腹から、圧に耐えきれずに飛び出した、臓物だった。
「あ、あぁ……、なんで、なんで、こんな……」
絶望感で倒れそうだった。まだ生きてはいたが、それも時間の問題だった。
少女の胃袋は吐き気を訴えた。人としての均衡を崩された青年に、心よりもまず身体が先に反応した。
そして、そんな感情を抑えることが出来ない自分に、酷く失望した。打ちのめされた少女の心身は、もはやボロボロだった。
少女は立ち上がり、青年の姿を見た。砕かれたその身体は、懸命に生きていた。助けを求める事なく、ただ生きていた。少女は青年の顔に手を当てた。そして、大きく深呼吸を一つした。
少女には選択肢が残されていた。人を呼ぶよりも確実な方法が。
そして少女はそれを理解していた。
選択することへの恐怖は大きかった。だが、青年の命は今や他の何においても代替は効かないものだった。
「……うん、大丈夫だから、もう少し、頑張ってください」
少女は決断した。たとえそれが、己の命と引き換えだとしても。
少女はいつぶりになるかもわからない、その感覚に身を委ねた。少女の身体を、青年の身体を、白い光のようなものが包み込んでいった。
『使命を忘れるな』
少女の脳裏に突然声が響いた。
『お前の役目は人々に幸運をもたらすこと。人々の願いを叶え、憂いを除くこと。それを忘れるな』
その声は諭すように言った。
『お前がしようとしていることは、誰のためのものだ? その男か? 単なる人助けか? いや違う。その行為はお前自身のためのものだ。その力は決してお前自身のために使ってはならない。お前の使命を、決して忘れてはならない』
幻聴か、現実か。少女には判断は出来なかった。だが、少女はその力を緩めようとはしなかった。
『何故その男に入れ込むのだ。その男は姉を亡くした喪失感を、たまたま居合わせたお前で晴らそうとしたにすぎない。願いはないと言いつつ、お前を手元に置くために行動を起こしていたではないか。これまでお前を利用してきた他の人間と何が違う? 皆利己的に己の欲望を満たしているに過ぎない』
「ねえ、神様。幸せって何ですか?」
少女は青年に手を伸ばした。
「ねえ、神様。幸せって何だとお思いですか? 私にはわからない。わからないけど、私は幸せになりたかった。だからあなたを受け入れ、他の誰かを幸せにするため生きてきました。でも私は幸せにはなれなかった。皆私を見てはくれなかった。ねえ、神様。ご存知でしたか? 私、幸せが何か知らないんです。そんな私が、一体誰を幸福にできるのですか? 私は私自身さえ、幸福にできないのに。それなのに、この人は。私に幸せを与えてくれました。私自身に、生きる意義をくれました。こんな力なんて使わずとも、自分勝手な理由であろうとも、私を愛してくれました。……だから私はこの人を助けたい。この人が利己的な理由で私を助けたのなら、私にだってこの人を助ける理由があります。私は、この人に生きていて欲しい。幸せになって欲しい。夢じゃない、覚めない幸福を掴みとって欲しい。そのために私の命がどうなろうと構わない」
『この男がそれを望まないとしてもか?』
「それが、私の望みです」
少女はまっすぐと青年を見据え、言った。それが神への返答だった。
「神様、どうかお願いです。私に、この人を救わせてください。最初で最期のわがままです。どうか、私のために、この力を使うことをお許しください……」
少女は祈り、天を仰いだ。神の声は聞こえなくなっていた。あるいは本当に幻聴だったのかもしれない。少女は目を伏せ、自らを抱きしめた。
人の命を助けた事はなかった。成功する保証もなかった。だが、それが出来る確証はあった。
力が高まっていく。少女の身体が軋んだ。青年の頭の傷が消えていった。と同時に、少女の頭に激痛が走った。触ってみると、頭が裂けて血が噴き出していた。
身体から直接的な信号が走った。生命の危機を知らせる、ひどく単純な痛みという信号だ。
だが少女はひるまなかった。
さらに力を込めると、裂けた青年の腹がゆっくりと塞がっていった。それと同時に、嫌な音が少女の耳に響いた。
少女の白く透き通るような腹の皮が、みちみちと左右に引き絞られるように突っ張ったかと思うと、次の瞬間に大きく縦に裂けた。
「う、あ、ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
少女は今度こそ大きく叫んだ。未知の痛みと死の恐怖に頭がどうにかなりそうだった。少女はうずくまり、腹を押さえた。止め処なく流れる赤い液体が少女の服を濡らした。裂けた腹から外気が入り込み、内臓を抉った。吐き気と共に気が遠くなるような感覚に襲われ、のたうった。
ーー痛い、痛い、痛い!
その間にも力はその威力を強め、青年の身体を癒し、少女の身体を侵し続けた。
腕が折れた。足の指がちぎれた。歯は欠け、視界は衝撃で色を失った。腹は裂け続け、ついには臓器を手で押さえることも出来なくなった。胃袋が外気にあてられ痙攣し、激しい吐き気に身体を仰け反らせた。
ーー死にたくない……。
かろうじて意識が残る中、少女は呟いた。自然と口から出たその言葉に、少女は驚いた。
死にたくない。そんなこと、思ったこともなかった。常に誰かのために命を使っていた少女にとって、彼女の命は別の誰かのものだった。死ぬも死なぬも、彼女の意思の範囲外のことだった。
だが今、その命は少女に委ねられた。最後の最後で、少女に戻された。今まさに消えゆく、その瞬間に。
ーー死にたくない、忘れたくない。
少し前なら、こんなにも苦しい思いをしないで済んだかもしれない。幸福を知らないあの頃のままなら、何も感じずに誰かのために死ねたかもしれない。だが今は。
ーー忘れたくない、失いたくない。
記憶の奔流が少女の意識を攫った。失いたくない記憶と、忘れたくない想いとが交錯し、少女の命に絡みついた。
ーー失いたくない、失いたくない、失いたくない。この想いは、この感情は、絶対に、絶対に……。
青年を包む光が、消えた。青年の身体は綺麗に修復されていた。だが心臓だけが相変わらず弱々しかった。まだ、青年は目を覚まさない。
少女は動かない身体を無理に引きずり、青年と身体を重ねた。少女の濡れた身体が、青年の服を濡らした。
もはや痛みはなかった。あるのは死への確信と、強く残った想いだけだった。
ーー絶対に、失いたくない。
少女は弱く息をする青年に頬を寄せた。何かを伝えようと口を開いてみても、漏れてくるのは血液まじりの吐息だけだ。
ーーこの人だけは、絶対に。
少女の唇が、青年のそれと重なった。瞬間、一際大きな光が青年と少女を包み込んだ。太陽を思わせるその光球は、冬の闇に大きく瞬き、弾けるように空へと広がった。
キラキラと瞬く光の欠片が雪のように青年の身体へと降り注いだ。
少女は深き闇夜に燦然と輝く自らの命の結晶を眺めていた。命を吹き返した青年の腕に抱かれ、その顔には安堵の表情が浮かんでいた。
少女の身体が淡い光に包まれた。尽きた命の、最期の輝きだった。
「ありがとう……」
少女はそう呟き、満足そうに笑った。
そうして少女は消えた。夜の闇に溶けるように、だが幸せそうに、微笑みながら消えていったーー。
あるところに幸福を知らない幸運の女神様がおりました。
彼女は使命のためにたくさんの人々に幸せを与えておりましたが、決して自らが幸せになることはありませんでした。
そんなある日、彼女は一人の青年と出会いました。
彼女は青年を幸福にするべく祈り続け、また青年も彼女のために奔走しました。
やがて彼女は青年に心を寄せ始めました。
青年もまた、彼女を憎からず想っておりました。
青年と過ごす日々は、彼女にとってかけがえのないものでした。
そうして幸福を知らない幸運の女神様は、ついに幸せを手に入れたのです。
しかし、そんな日々は長くは続きませんでした。
青年は不慮の事故で命を落とす運命にあったからです。
事故に遭い、消え掛かった青年の命を目の前にして、彼女は思いました。
ーー私の力を使えば、彼を助けることが出来るかもしれない。
彼女は必死に祈りました。
青年の命が助かるように、祈り続けました。
例えそれが、どんな痛みを伴おうとも。
例えそれが、神の意志に逆らおうとも。
例えそれが、彼女の命を奪うことになろうとも。
彼女は初めて、自らのためにその力を振るったのです。
そして青年は息を吹き返しました。彼女の命と引き換えに。
最後の願いが叶った女神様は、とても幸せそうに、満足そうに、微笑みながら消えていきました。
これは、幸福を知った、幸運の女神様の物語。最初で最後の、少女のための物語ーー。