漆
お園は堂々巡りの思考に囚われていた。
なぜこんなに気になるのだろう。
愛し子は幸せになったはずではないか。
声が一時出なくなる奇病に陥ったものの、一昨日の晩、相愛の相手とめでたく祝言をあげた。
それなのに、縋るように自分を見た彼女の眼差しが目交いから離れない。
それにもう一つ気になることがある。
いくら町人との縁組が不承知だとしても、彼女の親族からひとりの出席者もないとは。姉妹同然に育った仲良しの従姉ならどんな相手であっても顔を出すのではないか。
お園はそれを問いただしたいがため、ひとり大川を渡っていた。
日本橋で今評判の呉服問屋井筒屋が桔乃の従姉、美代の嫁ぎ先である。
お園が思い切って暖簾をくぐると、数人の客が上がり框に座って着物を選んでいた。
ふいに暖簾が上がり、愛くるしい笑顔を浮かべた若い女が店内に顔を出す。
その若い女はくるくると客の間を回り、ひとりひとりに丁寧に挨拶してから、店の入り口に立ったままのお園に声をかけてきた。
「お久しぶりですわ、お園さん。
今日はどうなさいましたの?」
(えっ!?)
お園はすぐ言葉を返せないほど困惑していた。
機嫌良く客に挨拶をして回っていた女こそ桔乃の従姉、美代。けれど彼女はまったくいつもと変わらない。まるで桔乃の祝言などなかったように。
もし何らかの理由で顔を出せなかったとしても、祝言の様子なりと訊ねるのが普通ではないか。そこまで庭橋の家は町人との縁談を厭うというのか。いくら三河以来の御家人とはいえ権高に過ぎはしないか。
お園はもはや内心の不満を隠せなかった。
「今日はお聞きしたいことがあって来たんです。
美代様はなぜ桔乃ちゃんの祝言にいらっしゃらなかったんですか!?」
「えっ、わたしの桔乃ちゃんが祝言をあげたですって!?」
「まさかご存じなかったんですか?」
「ええ、というか桔乃ちゃんが誰と祝言を上げたといいますの?
まさかあの一太郎とかいう男ではありませんよね!?」
違うと言え!と言わんばかりに美代がお園の襟を掴み、がくがくと揺さぶってくる。
その力はどこから?と訊きたくなるほどものすごい力で揺すぶられ、お園は首がもげそうになる。
けれど、お園だとてそれどころではなかった。
なぜ一太郎は従姉の祝言を美代に知らせなかったのか?この分では庭橋のものは誰ひとり知らないだろう。
そして、美代が“あの一太郎とかいう男”と言った時の尋常ではない表情の由縁は?彼女は全身にナメクジが這ったような嫌悪で顔を歪ませた。
「もちろん一太郎さんです。
他に誰がいると言うんですか?」
「他に誰がいるとかじゃありませんの。
桔乃ちゃんはあの男と祝言を挙げさせられるのが嫌で江戸を逃げ出したのですわ!」
「祝言が嫌で逃げ出した?
そんな馬鹿な……。
桔乃ちゃんは急に口が聞けなくなって。それで、そんな自分じゃ一太郎さんに迷惑がかかるからって身を隠したんですよ!」
「は? 口が聞けなくなったですって?
桔乃ちゃん、出奔する前にうちに来ましたけど、ぴんぴんしてましたわ。
もちろん普通に話してましたし……ただあの男にひどく怯えていましたわ」
どこかが何かが変だった。
それがお園なのか、それとも ―――――― 美代のひどい誤解によるものなのか。
「えっ、桔乃ちゃんが一太郎さんに怯えて?
そんなことあるわけ……だってあの二人は好いた同士で……」
お園の言葉尻がだんだん怪しくなる。
本当はわかってきているのだ、おかしいのは美代ではない自分たちなのだと。
美代が嘘を吐く理由などこれっぽっちもないから。
けれど……。
「お園さんは桔乃ちゃんがあの男を好いていると言ったのを訊いたことがありまして?
わたくしはないですわ。正反対の大嫌いという言葉なら何度も訊きましたけれど」
「えっ、大嫌い……?」
お園はそう訊き返して今までの桔乃との会話を振り返っていた。
美代が言ったように桔乃は一太郎を『好いている』と言ったことは一度もない。それどころか『一太郎と所帯を持つ気はない』と幾度も言っていた。
けれど、自分たちはそれを“照れているのだ”と勝手に決め付けた。
そのせいで、自分たちが強く望んだせいで、桔乃は大嫌いな男と祝言を挙げてしまった。なんということだ。お園はぎりぎりと口唇を噛んだ。
「ええ、桔乃ちゃんは何らかの理由から大嫌いな男と祝言を挙げたんですわ。
でもだからと言って今さらお園さんを責める気はありませんのよ。
だってわたくしたちはお互いの知っていることを明かしあって対策を練らなくちゃいけないのですもの。
そうですわ、一刻も早くあの人外からわたくしの大事な桔乃ちゃんを取り返さないと桔乃ちゃんが死んでしまいますわ!」
「死ぬなんてそんな大げさな……!」
「おおげさではありませんことよ。
少し触れられただけで千匹の百足が這うほど避けたい男だったから桔乃ちゃんは江戸から逃げ出したんですわ!」
そう言い放って美代は指先でとんとんと膝を叩き始める。
「それほどに……」
それほどに嫌悪感を持っていたのに祝言を挙げさせてしまった。
お園の口唇がわなわなと震え、にわかに涙が零れ落ちそうになる。
けれど、泣く資格すらない自分は。
ならば今、自分の出来ることをしよう。
お園は乱暴に涙を拭ってから目前の美代を声もなく見つめた。
昔から桔乃を格別に思っていた美代。
その理由は従妹だからではない。桔乃が桔乃であるゆえに。
美代の様子から一刻も早く桔乃の元に駆け付けたいのが見て取れる。
けれど、それを必死で押さえているのはお園から出来る限りの情報を引き出し、首尾よく桔乃を助け出すためだ。
それを察したお園は数日前、一太郎が桔乃を連れ帰ってから、一昨日の祝言に至るまでのことを要領よく話して聞かせてやった。
美代は時折、「あいつ、殺してやりますわ」と世にも恐ろしい合いの手を打っていたけれど。
お園からすべてを訊き終えた美代は、「駕籠をふたつお願いしますわ!」と外に呼ばわると深々とお園に頭を下げた。
「散々失礼なことを言って申し訳ありませんでした。
お園さんが桔乃ちゃんの異常に気付いてくださったおかげで最悪の事態だけは避けられそうですわ。本当にありがとうございます」
そんな美代にお園はぶんぶんと頭を振った。
自分は、自分たちは江戸から逃げねばならないほど桔乃を追いつめた。白無垢など贈った自分はなおさら桔乃を追いつめただろう。
だからお礼を言われる理由などかけらもないのだ。
「いいえ、いいえ。こんなこと、償いのひとつにもなりません。
でも、ひとつ訊いてもいいですか?
一太郎さんはなぜそこまでして桔乃ちゃんと祝言を挙げたかったんでしょうか?」
「それはわたくしにもわかりませんわ。
想像がつくことはありますけれど、あくまでも想像にしか過ぎませんし、こればかりは本人に訊きませんとね」
美代がその言葉を言い終えた時、下女が駕篭屋の到着を知らせてきた。
すると美代は目にもとまらぬ速さで襷をかけ、茶の間正面にかけてあった和弓を手に取った。朱塗りのそれは長さ七尺三寸ほど。
お園は、「何故弓を?」と訊こうとして言葉を止めた。
弓を持った美代の顔があまりにも張りつめていたせいで。
*****
「よいさ」
「ほいさ」
という掛け声とともに二人を乗せた駕籠は本所深川へ向かって走り出した。
「あぶねぇな!」
「天下の往来を塞ぐとはどんな了見でえ!」
後方へつんのめるような衝撃とともに聞こえてきたのは駕籠かきの怒声。
お園は地廻りにでも絡まれたのかと駕籠の前だれから外の様子を伺った。後ろで美代も同じように外の様子を見ている。
「急用故、申し訳ない。
駕籠のお方は庭橋美代殿ではありませんか?」
二人の行く手を遮ったのは美代に用事があるという若い男。
しかも、彼は恐ろしいほどの美貌の持ち主だった。もし桔乃の父という免疫がなければ駕籠から転がり落ちてしまうほどの。
けれど、前棒が揃えた草履を履き、駕籠から出てきた美代は不機嫌そうな様子を少しも隠さない。
「わたくし、大層急いでいるのですけれど、あなたはどちら様ですの?」
「わたしはあなた様の叔父上から妖怪退治を請け負った鬼道院と申します」
青年は美代の不機嫌などどこ吹く風と、至極冷静に頭を下げた。
「ええっと、わたくしの叔父と言いますと、あの顔と医者の腕しか取り柄のない甲斐性なしの亮衛叔父のことですかしら?」
「えっ?」
ついそう声に出してしまったお園は、『それだけ取り柄があれば甲斐性なしと言いませんから!』と心の中で激しく突っ込んだ。
それに論点が凄まじくずれている。
注目すべきは“妖怪退治の”一語ではなかろうか?
というか、その前にお園は訊きたかった。
『妖怪って誰のことですか?』と。
けれど、お園だとて伊達に四十年近く生きてきたわけではない。場の雰囲気くらいは読む。だからこの話に加わるつもりなど毛頭なかった。
「はい、その甲斐性なしの叔父上です」
「そう。それならそうと早くお言いなさいな!」
うっ、なんという言い様。
この二人はおそらく同類だ。
驚天動地の腹黒さを持ち前の見目で覆い隠しているところが。
お園は『あなたたち、急いでいるんではなかったの!?』と叫びたいのをぐっと堪えて美貌の陰陽師に訊ねた。
「それで鬼道院様はなぜ美代様を呼びとめられたんですか?」
「もちろん桔乃殿を妖怪から救い出すためです!」
「はぁ? あなた、めちゃくちゃ登場が遅くってよ!
桔乃ちゃんはすでにあの妖怪の嫁ですわ!」
美代は『あなた、馬鹿なんじゃありませんの?』と続けようとしたらしいのだが、卒倒しそうなほど血の気が失せた青年を見て、しぶしぶ言葉を飲み込んだ。
お園が『妖怪って一太郎さんのことですか?』と訊く機会をまたまた逸してしまったのは言うまでもない。
青年はしばらく魂が抜けたように突っ立っていたが、さすが陰陽師。より急がなくてはならなくなったことに気付いたのだろう、お園にぺこりと頭を下げた。
「それならなおさら急がないといけませんね。
わたしはあなた方の後を付いていきますから、桔乃殿のところまで道案内をお願いします」
「はい、わかりました」
「んじゃ行きますわよ!
駕籠屋さん、全力でお願いしますわ!」
美代が駕籠の前棒に過分な酒手を渡すと、駕籠かきたちは意気揚々と飛ぶがごとき勢いで走り出した。
お園は気合いの入った彼らのおかげであちこち身体をぶつけ、胃がでんぐり返りそうな有様だったが、頭の中は久しぶりに澄んでいた。
美代も鬼道院とかいう陰陽師も一太郎を妖怪と断定していた。
お園はいまだあの優しく誠実な一太郎が妖怪とは思えない。けれど彼の行動は何故ああも奇妙なことが多いのだろう?彼女はそこが気になっていた。
*****
よほど酒手をはずまれたのだろう。駕籠かきたちは一年に一度あるかないかの本気を出し、韋駄天のごとく走り続けていた。
甲斐国から時を置かぬトンボ帰り。
疲れきってはいても、駕籠かきについていけぬほどではない。
それどころか目的地さえ知っていたら追い抜かしてしまいたかった。
もしかしたら、自分は間に合わなかったのではないか?
桔乃はすでに妖怪に連れ出されてしまったのではないか?
あまりの不安に佐久夜の胃はしくしくと痛みだしていた。
佐久夜は平安の頃より脈々と続く鬼道院家の傍系に生まれた。
此の春、佐久夜は桔乃の父・庭橋亮衛から娘を狙う妖怪調伏の依頼を受けたのだが、時を同じくして本家の方にも若い女人が頻繁に攫われる変事解決の依頼があった。
どうやらこの二つの事件の下手人は同一で、甲斐国は西地蔵岳を根城とする妖怪、猩々。
猩々と言う妖怪には雌がいないため、十年に一度、人の娘を攫って嫁にする。今年はちょうどその年だった。
うまいこと美男に化けた猩々は娘をたぶらかし、子を生ませるのだが、生まれた子は全員雄の猩々で雌が生まれることはないのだという。
けれど、妖怪との交わりは人の身には毒である。猩々と数年も床を共にすれば、女人のほとんどは命の炎を散らしていってしまう。
いくら妖怪とはいえ、娶った妻が早世すれば悲しいのか、それとも費用対効果が低いのが嫌なのかは知らないが、彼らは自分たちと長く時を過ごせる女人を探しまわった。
数百年、猩々一族は様々な女人を攫い、交わり続けた結果、霊力が強い女人ならば早世することがないと気付いた。
それ故、猩々の王である一太郎は日の本一霊力が高いとされた揚羽御前の孫である桔乃を選んだのだろう。
当然、揚羽御前本人や美代にも白羽の矢が立ちそうなものだが、既婚の女には手を出さないというのが奴らの不文律らしい。
今回、甲斐国で猩々に攫われた女たちの中に城代家老のひとり娘がいた。
妾の子だった娘は城下で暮らしていたから、猩々達は彼女の出自に気付かなかったようだが、家老は溺愛していた娘の失踪を訝しみ、鬼道院本家にその行方を探すよう依頼した。
自分の家来にでなく、陰陽師に依頼したところを見ると、娘の失踪に猩々が関わっていると早々に気付いたのだろう。
すぐに鬼道院本家から猩々討伐隊が派遣される。
ひそかに桔乃の護衛に回っていた佐久夜も強制参加となる。
傍系の出とはいえ、佐久夜の呪術、特に式神使役は評価が高く、高いと言うより古えの蘆屋道満のごとき容赦のなさに定評があると言った方がいいかもしれない。
元来、鬼道院家の名の由来となった鬼道とは陰陽道とはまったく異なる系統。邪馬台国の女王卑弥呼に端を発する呪術である。
だが、鬼道院家の扱う鬼道は巫女や巫覡のように八百万の神のお力を借りて顕現するもの。どうしても攻撃力に欠けてしまうのだ。
それ故、佐久夜のように陰陽術と鬼道との両方を使いこなすものが重宝される。
だから依頼の途中にも関わらず甲斐国まで遣られたのだ。
佐久夜だとて桔乃を一人置いていくのは心配だった。けれど、あの小屋は彼女が偶然に行きついた場所、自分のように占術の腕がない限り簡単に見つけることは出来ない。
だが、その考えは甘すぎた。
いくら悔やんでも悔やみ足りないほどに。
一刻も早く桔乃の元へ戻りたい一心で、猩々一族をほとんど一人で殲滅して、意気揚々と小屋に戻った佐久夜を待っていたのは汚らしい妖怪の残滓。もちろん桔乃の姿はない。
佐久夜は吹きすさぶ吹雪のごとく荒れ狂った。
うっかり日の本中の妖怪を滅してしまおうとしたくらいに。
もし、穏やかな佐久夜しか知らない桔乃が見たら、『お前は誰だ?』と真顔で問うに違いないほどに。
だが、これは間違いなく自分の失態だ。
桔乃と出会ったのを幸い、佐久夜はこき使われるだけの鬼道院本家からとんずらしようとした。彼女の家に婿入りし、庭橋を名乗れば、いかに本家が外道でも佐久夜に対する強制力を失くすから。
それ故、本家にたっぷり恩を売ろうと最後のお勤めに出たのだが、その隙にまんまと虎の子を持っていかれてしまった。
「一太郎とやら。生きて朝日を拝めると思わないことですね」
佐久夜は美代の駕籠と並走しながら大方の人間が平謝りせずにいられないほど真っ黒い笑顔で笑った。