陸
ここはどこだ?
頭がぼーっとする。
身体は自分のものではないかのように指一本動かない。
ようよう開いた目であたりを伺うと、ここはどこかの店の大部屋らしかった。けれどまったく見覚えがない。
その部屋で町内のおかみさんたちがやんやとさざめき、中心ではお調子者の大家が高砂を謡っていた。
「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、
月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉に着きにけり、はや住吉に着きにけり」
まさか!?
己が身体に目を落とせば、纏っているのはなんと白無垢ではないか。金物屋のお園が是非にと寄越した鶴の描かれた ―――――― 。
これはわたしの祝言なのか?
双眸以外動かすことが出来ないから花婿を見定めることは出来ないが、隣で馬鹿笑いしている男は間違いなく一太郎だろう。
今すぐ叫びたい。
わたしに祝言を上げる意思などないと。
いいや、桔乃は叫ぼうとしたのだ。
しかし、喉は膠で貼りつけたようにほんの少しも声を紡がなかった。
それでも全身全霊で声を出そうとした。
喉など張り裂けてもよかった、たった一言叫べるなら。
『イヤだ!』と。
けれど無理を続けたせいか、頭痛は耐えられないほどとなり、生理的な涙がぼろぼろと零れていった。
ああ、誰か、美代ちゃん、伯父上。
誰でもいいから。わたしをここから助けてくれ。
このままではこの男のものになってしまう。
そうしたら佐久夜に二度と会えない。
彼の名さえも二度と呼べなくなるから。
佐久夜、佐久夜、佐久夜……。
お願いだ、わたしをこの場から救ってくれ!
桔乃は心中で愛しい男の名を千度も万度も呼びながら滂沱と涙を流した。
祝言の間中、涙を流し続ける桔乃をさすがにいぶかしく思ったのか、
「どうしたの、桔乃ちゃん?」と、お園が声をかけてくる。
桔乃は渡りに船とばかりお園に強く目で訴えた。
(お願い、わかってくれ!
わたしはこの祝言を少しも望んでいないんだ!)
「うれし泣きですよ」
隣で一太郎がそう返事をする。
「そうよね。
声が出なくなった自分は一太郎さんに相応しくないからと出奔するくらい桔乃ちゃんはあなたを想っているんですものね。
そしてそんな桔乃ちゃんを探しだしてくる一太郎さん。本当に相思相愛のお似合いの二人だわ」
「まるで物語のようね」
と、付け加え、お園はうっとりする。
もう駄目だ。ここには美代ちゃんも伯父上もいない。一太郎の味方ばかりだ。
ああ、佐久夜。わたしはあなたをもう探しには行かれない。
ここに縛り付けられてしまった。
すまない ―――――― 。
そうして再び、桔乃の意識は闇に呑まれた。
*****
生温かい風が吹く初夏の晩。
花嫁が途中で意識を失うという変事があったものの、祝言は滞りなく行われた。新婦は病み上がりと説明を受けていたためか、招待客には何の動揺もない。
新郎は己が棲み家に愛しい新妻を連れ帰り、甘い蜜月を過ごすのだろうと招待客の誰もが疑わなかった。
けれど、事実は大きく異なり。
翌朝、目を覚ました花嫁の双眸は怒りに燃えていた。
(許さない。わたしの意思を無視して祝言を上げたお前を一生。
ほんのひとかけらも好いてやるもんか。
わたしの命の火が消えるその瞬間までお前を憎み続けてやる!)
怨嗟と殺気を込め、桔乃は射殺すような視線で夫となった男を睨み続けた。
けれど、さすがは妖怪。
いかに桔乃が憎悪の感情を向けようとどこ吹く風といなしてしまう。
それどころか、桔乃を妻としたのが余程うれしいのか手ずから食事まで拵えて来る始末。
「目が覚めたのか?
腹が減ってるだろう、飯を食うといい」
一太郎が施した術だか薬だかの作用は未だ消えず。
昨晩と同じように声も出せず、身体もまったく動かない。けれど、一太郎の言葉には反応するようで身体は勝手に動き、膳の上の粥をすべて平らげていく。
もちろん食事をするのに否やはない。
たとえ、薬が盛られていようとも桔乃は生きるために食する。
ほんの少しでも生きる道が残されている限り。
ちりとてしゃん……。
ふいに隣から聞こえたのはいまだ拙い三味線の音。
ならばここは一太郎の棲み家だろう。
ということは自分がいるのは本所深川だ。
一太郎は己を“猩々の王”と言ったから、近いうちに桔乃を根城に連れ帰るつもりだと思われる。
けれど、どうやらそれは今日ではないようだ。
ならば、自分の身体が動くか、誰かが助け出してくれるまで待とうではないか。
桔乃は煎茶の最後の一滴まで飲み干すと、三味線が聞こえてきた方角に引かれるように目をやった。
「お前は俺のものになったんだ。あきらめろよ!」
そんな桔乃を目で追っていたのか、苛立つ声がごく近くからする。
そしてその声の主は後ろからすっぽり桔乃を抱きしめてくる。
けれど、抱きしめられた途端、己の意思で動かないはずの身体がぶるぶると震えだしていた。
*****
「どうした?」
一太郎がまさかという思いで袖を捲れば、桔乃の腕にびっしりと鳥肌が立っていた。
桔乃が『一太郎と夫婦事をすれば、自分はひどい生理的嫌悪感で死に至る』と言ったのは自分との縁談を断るための口実ではなかったのか。
なんということだ、これでは故郷に連れて帰れぬではないか。
もし手もつけずに花嫁を連れ帰ったとなれば、自分の王として権威はたちまち失墜する。
ちっ。
一太郎は盛大に舌打ちをした。
けれど、桔乃ほどいい女はこの日の本にはいるはずもない。
さすが名高き揚羽御前の孫娘、祖母より霊力は劣るものの、我が猩々一族に素晴らしい後継者を授けてくれるだろう。
いいや、そればかりではない。
かつて一太郎は人の雌など皆同じと思っていた。
見てくれの良さを頼みに持てる者の傲慢さで少しばかり強引に押せば、女など簡単に堕ちる。商売女はいうにも及ばず堅気の女さえも。
いくら精気を食らうためとはいえ、そんな女どもと床を共にするのに辟易していた。そんな頃だった、桔乃を見かけたのは。
かの揚羽御前の孫だから気まぐれに見に行った。
けれど、本所深川一の色男との評判の自分を一瞥すらしない。懸想するどころか蛇蝎のごとくに嫌っている様が見えた時、一太郎は激しく興味をかき立てられていた。
このまま、自分を厭悪しているまま、桔乃を我が物にしたい。
一太郎は新しい遊びにすぐ夢中になった。
母親はすでに他界。父親は他人以上に遠々しく幼い頃より近所の者どもに育てられた桔乃。
もし、そんな彼らが桔乃の意に添わない一太郎との縁談を押し付けてきたら?
その時、桔乃はどうするのだろう。
彼女は武家の出、常なら自分との縁談など一顧だにする価値もない。
けれど、近所の者どもから一太郎との縁談を強引に勧められれば、彼らに恩のある彼女はこの縁談を受けざるを得なくなる。
大妖の自分でも人の感情のすべてを変えることは難しい。だが、表層の意識なら存外容易いのだ。
彼らはひとり身を通そうとする桔乃をひどく心配して、彼女を守る存在が現れればいいと希っていたからその辺をうまく操ってやった。
(一太郎は様子のいい前途有望な若者だ。
なによりも桔乃にぞっこんである。
そして照れ屋なせいではっきり言わないが、桔乃も一太郎を憎からず思っている)
彼らがそう思い込むよう念入りに方術を組み立てた。
もとより喉から手が出るほど欲しかった存在なせいか、彼らはあっけなく術にかかった。
けれど、なぜか桔乃の父・亮衛だけは暗示にかからない。
なんとめざわりな。
もはや、罠にかかった獲物をおいしく頂くだけだというのに。
しかも、憎い娘の縁談など気にしてないのかと思いきや、亮衛は周りがどんなに縁談を勧めてもするりするりと交わし続けるのだ。
なんという誤算。
実父が不承知のまま、縁談など進められるはずもない。
一太郎は亮衛という障害物をさっさと取り除くことにした。
思い立ったが吉日、翌丑三つ時、亮衛の枕辺に立った一太郎は毒を吹きこもうと鼻先に手をかざした。
その瞬間、亮衛がぽかりと目蓋を開いた。
「そろそろ来る頃かと思っていたよ。
わたしはこの世に何の未練もない。さっさと殺すがいいさ。
でもね、一太郎くん。わたしを殺したら桔乃の心は永遠に手に入らないよ、それでもいいかな?」
そう言って亮衛はさも愉快そうににんまり笑う。
五十路近いだろうに妻が死んで以来、ぴたりと老いるのをやめた男は十八年前、妻が死んだ時に鬼となったのか、人では到底作れない妖艶な微笑を浮かべている。
刹那、背筋が凍りつく。
ありえない……。
まさかこの男は生きたまま鬼籍に入ったというのか?
女なら「抱いて!」と縋らないではいられないほどの色香を漂わせながら、その心は五千尺ほどの大穴が穿たれているよう。
妖怪である一太郎までその虚ろに呑みこまれそうになる。
猩々の王となるべく生まれつき、恐怖など絶えて知らなかった自分までを。
今、一太郎は恐怖から逃れるためだけに目前の男を殺めようとしていた。
震える手をようよう伸ばし、亮衛の鼻先にかざす。
すると、毒を吸った亮衛はあっけなく息絶えていった。
なんだ、やっぱりただの人間じゃないか。
一太郎は額から滴り落ちる汗を拭うと、ふうと大きく安堵の息を吐いたのだった。