伍
嵐の夜から一週間が経ち、佐久夜のひどい風邪もすっかり癒えた。
「散歩にでもいかないか?」
昼下がり、桔乃の誘いに頷いて小川を上流へとぶらぶら歩いた。
近在の村から戻ってから。
二人はお互いを意識しないではいられなかった。
桔乃は自分自身に関することにのみ鈍いだけ、向けられる感情にはひどく敏感だったから、佐久夜が自分を追って来た理由にすぐ気付いてしまったらしい。
誰もいない場所に二人っきり、しかも片方が片方を看護する状況で、互いの想いに気づかぬわけなどないのだ。
一日、幾度も目が合った。
薬を煎じる手を止めて、佐久夜を見つめる桔乃の瞳が「あなたが愛しい」と語っていた。
その刹那の身内が震えるような歓喜は言葉では言い表しようもない。この先、これ以上の幸せなど自分の人生に絶対に訪れない、そう思えるほどの至福。
もし、出来るなら、
想いを告げあって、抱きしめあって、深く契ってしまいたい。
けれど、相思相愛と知れた途端、桔乃はその表情を一変させてしまった。
何かに脅えるような、何かに追いつめられるようなそんな顔に ―――――― 。
そして、自分も今は女人と通じるわけにはいかなかった。
だから、彼女に散歩に誘われた時、来るべき時が来たのだと思った。
ふたり並んで歩いているのにどこかぎこちなくて。
お互いの気持ちは手に取れるほどなのに、それはけして口に上ることはない。
ふいにふたりの歩みが止まった。
目的地に、小川の源泉に着いてしまったのだ。
ゆらゆらと水草を揺らし、とめどなく清水を湧きだす泉。
水はどこまでも澄んで、空を流れる雲の隙間から降りた陽光がギヤマン細工のようにきらりと煌めいた。
常なら『夢のようだ』と評すだろうに強く口唇を噛んだ桔乃は俯向き加減、これではどんな美しい景色が目前にあっても気付くまい。
「もう大分いいようだな。
明日あたり出発するといい」
そう桔乃が顔をそらし、ぽつりと言った途端、雲雀たちが一斉に泣きだした。ピーチクパーチクと。
どこで鳴いているとも知れないその高い鳴き声は絶え間なく、まるで佐久夜の「なぜ?」を封じ込めたいかのよう。
草の匂いを含んだ風が渡り、桔乃の前髪をわずか揺らした。
ふいに閉じられた目蓋。
そこからはらはら零れ落ちて来るものがあるような気がして佐久夜は息を詰めてしまった。
そのくらい、桔乃の言は投げつけるようでいてやるせない。
彼女は何が何でも佐久夜を遠ざけたいのだ。
その理由も、その気持ちの如何も佐久夜は知っている。
だから今は願いどおり消えてやろう。
それでも、いとも簡単に消えるつもりも手放すつもりもない。
佐久夜は白く長い指先を伸ばして、桔乃の髪を結んでいる結い紐をするりと解いた。
たちまち背を覆う緑の黒髪。そのつやつやとした固まりを引き寄せ、己が口唇で彼女の口唇を覆った。
いつも男言葉しか紡がないそこは花の蜜のごとく甘く、貪れば貪るほどもっと欲しくなる。興に乗った佐久夜はちゅと音を立て幾度もついばんだ。
桔乃が抗おうと開いた口唇から躊躇なく舌を差し込んで、腔内に溢れる甘露を啜り取る。
欲しいと思う心のまま、彼女の腰をぴたりと引き寄せ、右手で頤を掴めば、動けくなった彼女は佐久夜の思うがままになる。
逃げようとあがく桔乃を追って追いつめて舌を絡ませれば、鼻から紡ぎ出される甘やかな反抗。
「あ、ううん……」
お願いだからもっとさえずって。
雲雀に負けないくらい高く高くさえずって。
そうしたら少しだけ空に放してあげるから。
幾度も深い口づけを繰り返す佐久夜の胸がふいに叩かれる。
口づけの作法を知らない彼女は息苦しくなったらしい。
それでも放したくない。
それくらいならいっそ意識を失ってしまって。
そしてそれを全部わたしのせいだと罵って。
けれど、ほんのわずかの瑕疵も与えたくなくて彼女の頤から手を離してしまう。
佐久夜は繋がる銀の糸を名残惜しそうに指先で払うと、桔乃が一生忘れられなくなるような艶冶な笑顔を浮かべた。
「このぐらいもらっても罰は当たらないでしょう?」
「な、な……!」
あわあわと口ごもり、朱に染まる頬に再び口づける。
「仕事が途中でしたので明日ここを出ます」
「ど、どこ……」
「どこに行くんだ?」と訊ねたいのを途中でやめて縋るように自分を見つめてくる。
そんな彼女の肩を抱いて小屋に戻ろうとしたのだが、初めての口づけに足の萎えた彼女はよろよろとよろけてしまう。
なんと愛しいのだろう。
佐久夜は慌てて彼女を捕まえて、再び貪りたくなる己が獣を宥めすかすのにかなりの苦労をさせられた。
夕まぐれ、濃紫に染まる空にふと目をやれば、細い月に寄り添う天狼の星。
あの天に住む狼のごとくあなたを頭から食べてしまいたいのだと言ったら彼女は何と答えるだろう?
きっと「馬鹿を言うな!」と顔を赤らめる。
そんな愛しい彼女と今は ―――――― 。
しばし別れて旅立とう。
*****
「水に降る雪 白うは言はじ 消え消ゆるとも」
訳:私の思いは水に降る雪のようにはっきりとは言いますまい。たとえこの身が雪のようにはかなく消えてしまっても。
今まで相聞歌など聞き知っていてもそれを我が身に置き換えたことなどなかった。
過ぎた執着は人を不幸にするだけだし、押し付けられる想いはことのほか腹立たしい。
けれど、今のこの惨状は ―――――― 。
ほんのわずかの間も佐久夜のことが頭から離れない。それこそ寝ても覚めても。
それに、佐久夜の影が、小屋のあちこちに残り過ぎていた。
いつか彼を忘れられるのだろうか。
それとも水に降る雪のように儚くなってもこの想いを抱きしめ続けるのだろうか。
わかっている、向けられた想いを遮断したのは自分だと。
どうしても佐久夜に自分の重荷を背負わせたくなかった。彼が神に仕える身であるならばなおさら。
自分はおそらく人外の生き物に花嫁と定められた。
その定めから抜け出せぬ限り、佐久夜の手を取ってはいけない。
別れの、というには執拗な口づけをもらった翌朝、すでに隣は空。
せめて別れぐらい言いたかったのに。
そう思ったら泣けてきた。
ぼろぼろ次から次へとこぼれ落ちて来て、着物の色が変わるくらい濡らしていった。
泣いたのはいつ以来だろう?
たぶん父に初めて会った八歳の頃、それ以来。
けれど、二日も泣き続ければ、いい加減嫌になってくる。
どんなに泣いても愛しい男は返らないのだから。
佐久夜が欲しいなら、あの色素の薄い瞳に見つめて欲しいなら、桔乃はやるべきことを為さねばならない。
明日、江戸へ戻ろう。
戻って一太郎ときっぱり決別しよう。
桔乃は冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗うと、脇差を鞘から抜き放ち、剣の稽古を始めた。
ここ二日ばかりさぼっていたせいでなかなか温まらない身体に難儀したが、小半時ほど無心に素振りをしていたら元の勘を取り戻すことが出来た。
北辰一刀流の基本は青眼にあり。
青眼から六拾八手あるとされる技を次々と操っていくのだ。
「はぁ――――ッ!」
裂ぱくの気合いとともに一つ一つの技を丹念に復習っていた背中がふいに粟立った。
桔乃は人の気配に敏感である。
今まではそれを剣術を学んだせいと思っていたが、祖母の霊力を継いだせいもあったのだろう。後ろを振り返らずとも気だけで人が判別できるのは。
「絶対に逃がさないと言わなかったか?」
「だが、逃げてはいけないとは言わなかったろう?」
ひゅうと一陣の風野原を吹き抜けていく。
突風に背中を押されるように後ろを振り返ると、やはり思った通りの人物がそこにいた。
一瞬で全身に鳥肌が立ち、ドクドクと心臓が限界を告げるように踊り出す。足は臨界値を超える生理的嫌悪感で後ずさろうとする。
それでも逃げるわけにはいかない。
脇差を剣帯に収め、ぶるぶると震える足で地面を踏ん張ると、身勝手な求婚者の顔を真正面からねめつけた。
一太郎がたちまち『おやっ?』という顔をする。
そう言えばこの男と正面から目を合わせたことはなかった。
「一太郎殿にお願いがある」
「なんだ?」
「頼む。わたしのことはあきらめてくれ!」
桔乃はその場に正座すると地面に深々と額づいた。
今までの桔乃ならいかなる理由があっても土下座などしなかった。
けれど、佐久夜のためなら武家に生まれた矜持などかなぐり捨ててやる。やれ、と言われるなら犬にだって頭を下げてやる。
けれど、痛いほど視線を寄越すだけで一太郎から返事は返らず、桔乃は恐る恐る頭を上げた。
「……!?」
桔乃は先ほどまで泰然としていた男の変わりように目を疑ってしまった。
その様子はたとえて言うなら阿修羅が近いだろうか。
常の真白き顔が憤怒により赤黒く染まり、血眼になった双眸はまるで狼のごとく。周囲にゆらゆら陽炎のごとく纏わせているのは瘴気だろうか?
桔乃はわれ知らず後方へ飛び退り、破邪の鍔鳴りをした。
鍔が鯉口と打ち合って発する音は聖らで邪なるものを退けるという。風が止み、無音になった野原に涼やかな音が響き渡っていった。
するとたちどころに収束していく瘴気。
一太郎がようよう口を開いた。
「好いた男が出来たのか?」
「ああ……」
「だから土下座してまで俺を捨てようとてか?」
「もともとお前なんぞ拾ってないだろ!」
「俺を犬みたいに言うな!」
「犬の方が千倍ましだ!」
どこまでもすれ違う問答を打ち切ったのは一太郎だった。
「問答無用! お前はこの俺が選んだたったひとりの女だ。
今すぐ俺のものにする!」
一太郎は桔乃を捕まえよう恐ろしい速さで追ってくる。そんな一太郎から必死で逃げながら桔乃は叫んだ。
「お前はわたしの屍を嫁にするのか?」
桔乃を追いかける足を一太郎はぴたりと止めた。
「まさか自死するというのか?
そこまで俺を嫌いか?」
「いいや、自死するわけではない。
もちろんわたしの意思を無視し、卑怯な手段で我が物にしようとするお前は大嫌いだ。
だが、逃げた理由はそればかりではない。
わたしは……お前がどうしても駄目なのだ。見られることも触れられることもすべてな。
もし、お前が無理やりことに及んだら、わたしはひどい生理的嫌悪で時をおかずに死ぬだろう。それでもお前はわたしを妻にするか?」
言い終えた桔乃の口の中はひどく苦かった。
これまで一太郎から好意など一欠けらも感じなかった。ただ自分を利用したいだけに思えた。
それなのに今、の男が見せた己にたいする執着は?
恋着以外考えられない。
いつから?と訊きたいが、ここまで拒絶した相手に聞くことではなかろう。
「いつから知っていた?」
「お前が人ではないということか?
それなら最初からだな。確信したのはここに来る前だが」
「そうか……なら仕方ない」
ぽつりと言った一太郎の横顔はひどく淋しげだった。
ああ、やっと諦めてくれたのだ。
大層傷つけてしまったようだが、これでようやく終わる。
よかった、もうこの男に二度と付き纏われることはないと、ふうと息を吐き出した瞬間だった。いきなり伸びた手にみぞおちを強打されたのは。
薄れゆく意識の中、聞こえてきたのは一太郎が忍び笑う声。
「だからといって俺がお前を諦めるとでも? 猩々(しょうじょう)(*1)の王たる俺が?
人の男をすべて嬲り殺してもお前を手に入れるさ、絶対にな」
猩々(*1)猿の妖怪。